志末与志著『怪獣宇宙MONSTER SPACE』

怪獣monsterのコンテンツを中心に興味の赴くままに色々と綴っていくブログです。

ウルトラマンフェスティバル2019の感想

 令和元年(2019)8月21日に池袋サンシャインシティで開催されたウルトラマンフェスティバル2019に行って来たので、いつもの感想記事です。

  • 展示

 ウルフェスと言えば精緻なジオラマウルトラマンと怪獣の展示!といったのがもはや定着していますね。今回は参加者を一緒に撮るようなスポットもあり、観客参加型の趣きを取り入れようかという試みなんでしょうか。
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 怪獣で目を引いたのはやはりこの邪神ガタノゾーア!対比上全身が製作されているわけではありませんが、それでもクオリティは逸品でしょう。今後も展示で使われるのかな?これだけのものがあるなら一瞬レベルでもいいから映像作品でも…と欲をかいてしまいます。
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 グランドームやフェニックスネストが置いてあったのも平成ウルトラで生きてきた者にとってはうれしかったです。こういうのはちゃんと保管されている平成ウルトラがお得な部分ですね。

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デジタルモンスターXの感想と今後の展望について

 以前、と言うかもう1年近く前にデジタルモンスターXの参戦デジモン考 - 志末与志著『怪獣宇宙MONSTER SPACE』という記事を上げ、デジタルモンスターXについての不満・不安を吐露したことがあった。この記事について述べたことが間違いだったとは全く思っていないが、それはそれとして実際はどうなのかをちゃんと語らないとフェアではないと言うか、思いが完結しないという感情もあった。そういうわけで、デジモンXを実際にプレイした感想はちゃんとまとめるつもりだったのだが…何やかんやで不精をして遅きに遅くなってしまった。
p-bandai.jp

 もうとっくに第2弾の受注受付も終わってるし!

 本題に入る前に前提としてデジモンXのプレイ歴をざっと見てほしい(プットモンとトコモンXは共通幼年期なので省略)。

  • ガブモンXトブキャットモン→ヤタガラモン→ベリアルヴァンデモン

 最初なので自由にやってみた。ガブモンXトブキャットモンは「おお!X抗体を育成してるんだ!」と仄かな感動があったぶん、逆にヤタガラモンでテンションは落ちてしまった。そのせいか、ベリアルヴァンデモンも「何で…?」感は払拭できなかった。

  • シスタモンブラン→シスタモンシエル→リリモンX→ヴァロドゥルモン

 これも自由にやってみた。女性型進化を密かに志したが、結果ヴァロドゥルモン。

 そろそろメタルガルルモンX行きたいなあと思いつつ、2度目のベリアルヴァンデモンにゲンナリ。めげずにディアボロモンXを目指した。

  • ドラコモンX→ダメモン→リリモンX→ラフレシモン

 ここらへんから攻略情報を見るようになる。それに従ってドラコモンXに進化させたまでは良かったは、そこで世話をサボりダメモンになった。ラフレシモンもある日お世話をサボって死なせており、関心が低くなってきたことが窺える。

  • ドラコモンXグラウモンX

 次こそメタルガルルモンXだ!と意気込みながら育成開始するも、本当に電池が切れてしまい、それ以来放置して今に至る。X2が届いたら再開する(予定)

 全然育ててないな!と愕然としてしまうが、後述するようにデジモンXは電池切れ表示が起こりやすく、そのたびに電池を入れ直したりするのに数時間~数日の時差があるため、実際には2ヶ月遊んでいても、こんなもんなのである。

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なぜ松永久秀は誤解されていたのか―三悪説話に反駁する

 松永久秀三好政権関係の人脈の中ではダントツの知名度を持つ戦国武将である。久秀のみがメジャー武将と言っても過言ではないほどである。これはやはり戦国時代の超メジャー人・織田信長と関係を構築したため、その関係性がフィーチャーされる機会が多いためであろう。しかし、何よりも著名およびキャラ付けとして重要なのは三悪説話である。すなわち、松永久秀には以下3つの逸話がある。

  • 主家である三好氏の要人を殺害し乗っ取った
  • 将軍足利義輝を殺害した
  • 東大寺大仏殿を燃やした

 私も多くの人の例に漏れず、これらの逸話を信用し、松永久秀下剋上の極致を尽くした悪人、「梟雄」と解してきた。その一方、ここ10年ほどで「久秀はどうやら梟雄ではないらしい」という話も広まってきた。その時はそこまでそのような説を信用していたわけではなく、半信半疑な思いもあった。ようやく自分の久秀像が変わってきたのはここ数年くらいの話であるが、それなりに確固たるものが出来たし、今なら色々な久秀伝説の当否を判断することもできよう。
 そして、一つのポイントは「逸話がデタラメなのならなぜその逸話が信じられたのか」という問題が今なお未解明ということである。ネット上では「久秀と対立した三人衆側のプロパガンダ」のような意見もあるが、そのような形跡はあるのだろうか。三悪説話に反論しつつ、その点についても確かめていきたい。

 ちなみに、一言で上記の三悪逸話に反論してしまうと次のようになる。

  • 主家である三好氏を乗っ取った→そのような形跡は認められない
  • 将軍足利義輝を殺害した→久秀は義輝が殺害された現場にいない
  • 東大寺大仏殿を燃やした→大仏殿炎上は戦争中の事故のようなもので意図して焼いたわけではない

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松浦光(孫八郎)―和泉国の戦国大名

 唐突だが、和泉国の戦国時代を説明せよと言われて、すらすらと答えられるだろうか。そもそも和泉国戦国大名はいたのか、それさえも意識にない人が多いと思われる。そうした中、松浦氏は和泉戦国史の鍵を握る氏族である。ところが、松浦氏の情報は未だ研究史においても断片的なものしか示されておらず、共通の前提すら存在していないという状況にある。そういうわけで頭の整理がてらと松浦氏の知名度アップのために松浦光についてまとめてみることにした。和泉国にそのような人物がいたのかと思ってもらえれば本望であるし、松浦氏の存在を意識することでこれまでの歴史の見方が変わってくるかもしれない。ただこの記事はかなり冗長なので思い通りに書けたのかはだいぶ悩ましいのだが…

※本記事は松浦光および和泉松浦氏に関する情報を募集しています。また事実の誤謬などありましたら遠慮なくご指摘くださいますようお願いします。

  • 和泉国守護代松浦守の下剋上
  • 三好政権下における松浦氏と和泉国支配体制
  • 和泉国をめぐる所有関係と抗争
  • 松浦虎(孫五郎)との闘争
  • 自立する松浦光
  • 織田政権における松浦氏権力の継承と終焉
  • 松浦光の評価
  • 史料紹介
    • 参考文献
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永禄13年(元亀元年・1570)織田信長が上洛を求めた諸大名勢力について

 元亀元年(1570)に行われた織田信長朝倉義景攻めは信長の人生を語る上で外せないイベントの一つである。と言っても、朝倉攻めそのものが画期と言うよりも、この最中に織田信長の同盟者であった浅井長政が信長より離反し、以降織田信長は長期にわたって、いわゆる「信長包囲網」との戦いに突入した、この契機としての位置付けが大きい。さらには、朝倉と浅井の挟み撃ちにされた信長が命からがら逃げだし、木下秀吉が殿を務めたというエピソードはもはや「神話」となっているきらいさえある。
 では、なぜ織田信長は朝倉攻めを行ったのか?通説では、織田信長は傀儡将軍足利義昭を利用して、諸大名に上洛を呼びかけた。しかし、義景はこの上洛の本質が義昭ではなく信長への臣従にあると考えたため、上洛要請を黙殺した。信長はこれをいい口実として、義景を義昭への反逆者に認定、討伐することにしたというものである。さらには、そもそも足利義昭は傀儡としての地位に不満であり、朝倉を後援し浅井を裏切らせた「黒幕」であったとも言われている。
 ところが、上記のような理解はもはや成り立たないことが新しい研究によって指摘されつつある。足利義昭の幕府は傀儡政権どころか、信長抜きに自律的に機能しており、織田信長との関係も基本的に良好だった。足利義昭織田信長が決裂に至るのは元亀4年(1573)以降で、それまでの「信長包囲網」は義昭包囲網でもあった。元亀元年(1570)の「朝倉攻め」もあくまで信長を軍事指揮官とする「幕府軍」の軍事行動であり、従来は朝倉攻めのカモフラージュとされてきた武藤友益の討伐が本命だった。金ヶ崎の退き口も金ヶ崎城に籠った最大兵力は池田勝正の軍勢であり、木下秀吉の活躍は過大評価できない。
 全然これまでの理解と違うじゃねーか!と言われそうだが、はい。本記事で上記の事象をいちいち論証するのは手間なので、以下の本を読んでください。

足利義昭と織田信長 (中世武士選書40)

足利義昭と織田信長 (中世武士選書40)

 さて、ここからが本題。ここまでの流れでおわかりかと思いますが、織田信長朝倉義景に上洛要請をしていません。
 織田信長がこの頃に諸大名に上洛要請をしてたのは本当です。しかし、それでは信長は誰に上洛を要請していたのか?簡単にガッチと検索をしてみたのですが、どうもネットの海にはリストが転がっていないようです。だったら、紹介する価値はあるはずだ、というのがこの記事となります。

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『ウルトラマンゼロ10周年記念 ウルトラマンゼロ ビジュアルブック』の感想

 今年は『大怪獣バトル ウルトラ銀河伝説 THE MOVIE』ウルトラマンゼロが登場してからちょうど10年となります。実際にはこの映画は年末公開だったので実質10周年は来年な気もしますが、それでもまあ10周年で間違いないです。公式ももう結構この流れに乗っかっておりまして、何だかんだとイベントやら記念商品やら大わらわです。ウルトラマンゼロがこうしてファンにも公式にも人気ぶりを見せているのは、(今更言うことでもないですが)とても感慨深いものがあります。



 でもやっぱり私としては書籍も何か欲しいな…と思っていたら!緊急告知です。


 昨年の『ウルトラマンゼロ&ニュージェネレーションヒーローズ大全科』をビジュアルブックとしてはいいのではと評しました(『ウルトラマンゼロ&ニュージェネレーションヒーローズ大全科』レビューと感想 - 志末与志著『怪獣宇宙MONSTER SPACE』)が…満を持して本当にビジュアルブックで出して来た!

www.ulfes.com

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松永久秀と若江三人衆の血縁関係

 以前から、松永久秀若江三人衆の血縁関係については触れているが、そろそろ「なぜそうなのか?」と思われる方もいるかもしれず、考えをまとめてみることにした。
 まず、前提として松永久秀と若江三人衆のプロフィールをまとめておく。若江三人衆については個別に記事を書きたい欲もあるのだが、いつになるのかわからないので…。いやそもそも若江三人衆って?と思う人もいるかもしれない。若江三人衆とは、天正元年(1573)三好義継が滅亡する際に義継から離反した3人の三好家臣で、織田信長はその3人に義継遺領の河内北半国の統治を任せたものである。彼らは若江城に居住していたが、天正8年(1580)に若江城が廃城となり、八尾城に移った後も若江三人衆と他称された。恐らく「若江」は若江城だけではなく、三好権力を象徴する言葉でもあったと考えられる。

 三好長慶によって取り立てられた摂津国人。高槻五百住出身説が近年では有力視されている。主家三好氏に自発的に離反したことはないし、将軍殺害に直接的加担もしていないし、東大寺大仏殿も意図して焼いたことはないし、爆死もしていないのだが、これらの正反対のことをしたとして有名な人物。そのうち久秀の虚名については記事にしたいと思っている。

  • 多羅尾綱知 大永・享禄年間?(1520s)~天正15年(1587)前後?

 左近大夫→常陸介。近江多羅尾氏の系譜と見られるが、出自には謎が多い。多羅尾孫十郎として細川氏綱の家臣に登場を果たすが、どのようにして氏綱に仕えたのかもわからない。ただし、綱知の「綱」は氏綱からの偏諱と見られ、天文末年から永禄初期にかけて氏綱家臣の筆頭に成り上がった。氏綱の死後はその居城であった淀城を引き継いだようで、「守護代」とも呼ばれていた。永禄三好の乱においては松永久秀方として淀城に籠ったが、三好三人衆に敗れ退去した。その後、三好義継が三人衆から離反して松永久秀を支持するようになると、義継の重臣として再登場を果たす。しかし、天正元年(1573)には義継の敵である織田信長に通じ、主君滅亡に一役買っている。綱知の妻は義継の妹ともされ、その間の子三好生勝が三好本宗家の家督を継いでいる。織田政権下では綱知が若江三人衆の筆頭であったが、天正10年(1582)前後より子の光信に家督を譲りつつあったようで、綱知は「常陸入道」と呼ばれるように出家したようである。宣教師の記録では反キリシタンとして名前が見える。

  • 池田教正 ?~文禄4年(1595)以降

 丹後守。名前に「正」を含むことから摂津池田氏の一族だろうが、系譜は不明である。「教」の字は遊佐長教からの偏諱とも言うが、遊佐氏に仕えていたことは確かめられない。管見の限り、教正の初見は永禄4年の足利義輝の三好邸御成に三好家臣として出仕が見えることである。越水衆としての活動が見られるのは、永禄三好の乱からだが、恐らく天文年間までに三好長慶松永久秀によって越水衆に編成されたのだろう。三好三人衆に敗れた後は三好義継の重臣に収まり活動するも、天正元年に義継から離反し織田政権下で若江三人衆となった。豊臣政権下では若江三人衆の筆頭として遇され、豊臣秀次の家臣となって清州町奉行を務めた。秀次事件後は秀次に殉死したとも追放されたともいう。教正はキリシタンであり(洗礼名はシメアン)、キリシタンの保護者として宣教師の記録にも登場することが多い。

  • 野間康久(長前) 天文前期?(1530s)~天正12年(1584)以降

 左橘兵衛、転じて左吉とも呼ばれる。父野間長久(官途は「右兵衛尉」)は能勢氏の庶流国人であったが、細川晴元権力下で摂津国下郡守護代的地位にあった三好長慶と関係を深めることで立身した。越水衆への編成も長慶との関係によるものであろう。永禄9年(1566)頃から父長久の活動が見えなくなり、子康久への世代交代がなされたようだ。康久は三好義継の重臣であったが、天正元年(1573)義継を裏切り織田政権下に若江三人衆となった。豊臣政権下における活動は不詳。なお、実名を長前から康久に変えているが、長前の終見は永禄12年(1568)(『戦三』一四四〇など)、康久の初見は元亀以降(『戦三』一三二四*1)である。本記事では基本的に康久の名前で呼ぶ。

*1:『戦国遺文』では永禄10年に比定するが、誤りだろう

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