志末与志著『怪獣宇宙MONSTER SPACE』

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永禄13年(元亀元年・1570)織田信長が上洛を求めた諸大名勢力について

 元亀元年(1570)に行われた織田信長朝倉義景攻めは信長の人生を語る上で外せないイベントの一つである。と言っても、朝倉攻めそのものが画期と言うよりも、この最中に織田信長の同盟者であった浅井長政が信長より離反し、以降織田信長は長期にわたって、いわゆる「信長包囲網」との戦いに突入した、この契機としての位置付けが大きい。さらには、朝倉と浅井の挟み撃ちにされた信長が命からがら逃げだし、木下秀吉が殿を務めたというエピソードはもはや「神話」となっているきらいさえある。
 では、なぜ織田信長は朝倉攻めを行ったのか?通説では、織田信長は傀儡将軍足利義昭を利用して、諸大名に上洛を呼びかけた。しかし、義景はこの上洛の本質が義昭ではなく信長への臣従にあると考えたため、上洛要請を黙殺した。信長はこれをいい口実として、義景を義昭への反逆者に認定、討伐することにしたというものである。さらには、そもそも足利義昭は傀儡としての地位に不満であり、朝倉を後援し浅井を裏切らせた「黒幕」であったとも言われている。
 ところが、上記のような理解はもはや成り立たないことが新しい研究によって指摘されつつある。足利義昭の幕府は傀儡政権どころか、信長抜きに自律的に機能しており、織田信長との関係も基本的に良好だった。足利義昭織田信長が決裂に至るのは元亀4年(1573)以降で、それまでの「信長包囲網」は義昭包囲網でもあった。元亀元年(1570)の「朝倉攻め」もあくまで信長を軍事指揮官とする「幕府軍」の軍事行動であり、従来は朝倉攻めのカモフラージュとされてきた武藤友益の討伐が本命だった。金ヶ崎の退き口も金ヶ崎城に籠った最大兵力は池田勝正の軍勢であり、木下秀吉の活躍は過大評価できない。
 全然これまでの理解と違うじゃねーか!と言われそうだが、はい。本記事で上記の事象をいちいち論証するのは手間なので、以下の本を読んでください。

足利義昭と織田信長 (中世武士選書40)

足利義昭と織田信長 (中世武士選書40)

 さて、ここからが本題。ここまでの流れでおわかりかと思いますが、織田信長朝倉義景に上洛要請をしていません。
 織田信長がこの頃に諸大名に上洛要請をしてたのは本当です。しかし、それでは信長は誰に上洛を要請していたのか?簡単にガッチと検索をしてみたのですが、どうもネットの海にはリストが転がっていないようです。だったら、紹介する価値はあるはずだ、というのがこの記事となります。

 典拠となるのは『二条宴乗記』永禄13年(1570)2月15日条である。『二条宴乗記』はその名の通り、奈良の坊官・二条宴乗の日記である。現存するのは永禄末から天正初めまでだが、そのため義昭幕府期の奈良周辺を知るにはうってつけの史料と言える。個人的には人名表記の「公方様」(足利義昭)>>>(様付けの壁)>>>「左京大夫殿」(三好義継)>>>(殿付けの壁)>>>「霜台・城州」(松永久秀)>>>(実名忌避の壁)>>>「信長」(織田信長)の序列(?)などが面白いなあとか思っている。
 伝本の1つを天理図書館が所蔵し、図書館の年報で翻刻が公開されている。今回の引用も基本的にこれに依る。
ci.nii.ac.jp
ci.nii.ac.jp
ci.nii.ac.jp
ci.nii.ac.jp
ci.nii.ac.jp

 前置きが長くなったが、そろそろ当該箇所を引用していこう(割注部分を括弧書きにして示している)。

信長上洛付、書立。昨日、京都北大へ下。
就信長上洛可有立京衆中事
北畠大納言殿(同伊勢諸侍中)徳川三河守殿(同三河遠江諸侍衆)姉小路中納言殿(同飛騨国衆)山名殿父子(同□国衆)畠山殿(同□□衆)遊佐河内守
三好左京大夫殿 松永山城守(同和洲諸侍衆)
同右衛門佐 松浦孫五郎(同)和泉国
別□□□□(播磨国衆)同孫左衛門(同□国□衆)
丹波国悉 一色左京大夫殿(同丹後国衆)
武田孫犬丸(同若狭国衆) 京極殿(同浅井備前
同□子 同七佐々木 同木林源五父子
同□州南諸侍衆 紀伊国
越中神保名代 能州名代
甲州名代 淡州名代
因州武田名代 備前衆名代
池田・伊丹・塩河・有右馬此外其寄□ニ衆として可申触事
  同触状案文
禁中御修理武家御用其外天下弥□□来中旬可参洛候条、各御上洛、御礼被申上、馳走肝要、不可有御延引候。恐々謹言
   □□月廿□日          信長
依仁躰文躰可有上下

 こんなん、急にドバっと言われてもわからねーよ!と言われそうなので、一人一人解説していきます。

  • 北畠大納言殿(同伊勢諸侍中)

 伊勢北畠家のこと。「大納言殿」と呼ばれているが、当該時期に大納言・権大納言に任官した当主はいないので、多分に名目的な表記と思われる。北畠家は永禄12年(1569)に織田信長の侵攻を受けてその傘下に入り、信長の次男を養嗣子として押しつけられた(後の織田信雄)。しかし、この時の当主は北畠具房である。

 説明不要の徳川家康。徳川への名字改めと三河守任官は三好三人衆政権下、近衛前久の手で行われたため、義昭幕府は家康をずっと「松平蔵人佐」と呼んでいた。「徳川三河守」表記はこの文書が信長の手によることを証明する。

 姉小路家と言えば、飛騨国司家だが、この「姉小路」は飛騨国人三木氏がパクッった偽者。この時の当主は嗣頼。「中納言」も多分に名義的なもの。

  • 山名殿父子(同□国衆)

 但馬守護山名祐豊のこと。永禄12年(1569)には幕府軍と交戦していたので、ギリギリで和解、臣従したことになる。

  • 畠山殿(同□□衆)遊佐河内守

 「畠山殿」は河内高屋城主畠山秋高、「遊佐河内守」はその筆頭内衆遊佐信教のこと。遊佐氏はすでに将軍直臣の御供衆の家格を持っていたため、主君と並列されることになったのだろう。秋高が率いるはずの国衆は紀伊か河内か特定できないが、後に「紀伊国衆」がいるので河内だろうか。

 三好長慶の後継者・三好義継のこと。足利義昭から河内半国を保障され、若江城主となっていた。

  • 松永山城守(同和洲諸侍衆)・同右衛門佐

 松永久秀とその息子・久通のこと。

 「松浦孫五郎」とは松浦虎のことだが、虎は永禄9年(1566)には肥前守になっているし、永禄12年(1569)後は消息を絶つ。この頃、和泉国の支配者として織田信長らと音信を通じていたのは、孫八郎を名乗る松浦光なので、ここでの「孫五郎」は二条宴乗が「孫八郎」を誤記したとするべきだろう。

  • 別□□□□(播磨国衆)同孫左衛門(同□国□衆)

 虫損で何が何だかわからないが、恐らく別所長治とその叔父重棟のこと。前年に滅んでいなければ、赤松政秀も名を連ねていたことだろう。守護家の赤松義祐は幕府と結んでいた政秀と対立しており、反幕府勢力ということで召集されなかったと思われる。

 丹波では赤井忠家、波多野秀治、内藤貞弘ら諸勢力が乱立しながら、それぞれが幕府・織田信長と結んでいたため、代表者を特定し得なく、このような表現になったのだろう。

 一色義道のこと。

 武田元明のこと。この頃は家督相続間もなく、しかも幼少だった。

  • 京極殿(同浅井備前)・同□子・同七佐々木・同木林源五父子・同□州南諸侍衆

 この頃の京極氏の当主は高吉。「浅井備前」は浅井長政。「□子」は尼子氏だろうか。尼子氏と言えば出雲のイメージだが、名字の地・尼子は確かに近江なので本来の嫡流が近江にいたのかもしれないが、詳細は不明である。「木林源五父子」の「木林」は木村の誤記で木村高重・高次父子のこと。木村高重は近江の国人であるが、ここに特筆された事情はわからない。「七佐々木」は高島七頭のことだろう。南部はもともと六角氏の影響が強かったが、六角氏は永禄11年(1568)に駆逐されたため、トップがおらず「南諸侍衆」とされた。浅井氏だけ割注で書かれていて、格差を感じる扱い。

 まとめて畠山秋高に束ねさせればとも思うが、独立した扱いの上、代表者不在。

 わざわざ神保氏を指定しているのは、越中が名義上畠山氏の分国だからだろうか?以下、遠国は当主本人の上洛が難しいと考慮されたのか、「名代」が続く。

 能登畠山氏の畠山義慶。

 ご存知、武田信玄

  • 淡州名代

 この頃、淡路国人でトップだったのは、三好一族である安宅神太郎。淡路は別に遠国ではないが、阿波三好氏との最前線のため、名代で済まされたのかもしれない。

  • 因州武田名代

 因幡武田氏とはまた通ですね。武田高信。

 この頃、備前で力が強かったのは浦上宗景だが、宗景は反幕府勢力だったため、代表者たり得ず、国人が名代を出すようにという変則措置となった。

  • 池田・伊丹・塩河・有右馬此外其寄□ニ衆

 池田勝正、伊丹忠親、塩川長満ら、摂津国の有力国人たち。「有右馬」は有馬の誤記だろう。


 というわけで、これらの人々が織田信長によって「禁中御修理武家御用其外天下弥□□」、すなわち御所の修理、将軍への出仕、その他もろもろを行うために上洛を求められた勢力であった。つまり、織田信長が考える理想の室町幕府とはこれらの勢力によって構成されるもの、と言えるだろう。
 これらの勢力の特徴とは何だろうか。
 まず、室町幕府の伝統的な管轄範囲を踏襲していることが挙げられる。というのは、室町幕府の全国統治体制とは、遠隔地の関東や九州に鎌倉府や九州探題を置いて、統治権を大きく委任するものであった。幕府は日本全国を「都鄙」に分け、「鄙」は直接的に統治しなかった。信長によって上洛を求められた面々に関東・東北・九州の勢力がいないのは、信長が幕府の伝統を意識したからだと思われる。
 もっともこの構想には例外もある。それは「甲州名代」とされる武田信玄である。甲斐は鎌倉府の所管に属する「関東」であるため、本来的には幕府が直接出仕を求める範囲ではない。その信玄が加えられているのは、信長の友好国・同盟国の立場と、駿河を支配していることに依る「特例」であろう(逆に越後を領する上杉謙信関東管領のためか呼ばれていない)。
 次に幕府の敵がいないということである。具体的には三好三人衆や阿波の三好氏、近江の六角氏、備前浦上宗景などは幕府の敵であるゆえにスルーされている。
 そしてこの点は一部の西国勢力不在の説明にもなる。毛利元就は義昭幕府の支持勢力であったし、土佐・伊予の勢力も幕府に敵対的ではないものがいたにも関わらず、上洛要請の対象となっていない。これは阿波三好家を軸とする反幕府勢力が浦上宗景と同盟することで、東瀬戸内海の制海権を掌握していたからだと思われる。今回求められた上洛は使者が数人来ればいいわけではなく、ある程度の大人数を見込むものであろう。四国の親幕府勢力や毛利氏の上洛は海上経由となるが、途中に三好氏などに襲撃されれば、その大名も幕府も外聞が傷つくことから、最初から危ない橋を渡るのが避けられ、そのゆえに三好氏によって上洛ルートが遮断される勢力には上洛を求めなかったのだろう。
 また、織田信長が不在であることも一つの特徴だろう。この触状を出した主体が信長なのだから、信長が自分で自分に手紙を出すわけではないので当然ではあるが(単純にもうすでに上洛していて、幕府の意を奉じることが可能な大名が信長だけだったというのもあり得る)。織田信長は呼ばれる客体ではなく、呼ぶ主体を形成していた。この信長の地位については、管領に准ずる地位を足利義昭より授けられていたゆえであった。一方で信長が永禄13年(1570)時点で領国化していたと思われがちな伊勢・南近江は個別に代表者が立てられており、信長はあくまで自身を濃尾二国の代表者と捉えているらしい。
 最後に、国毎の勢力数がちょうど21になることである。これはいわゆる室町二十一屋形が意識されていたことを示唆する。本来の二十一屋形とは構成員が違っているが、新しい形での再興を意図したとも捉えられる。一方で国毎に複数の勢力を指名していたり、国衆としか書いていないのもあるため、二十一屋形の再興という構想は徹底は出来なかったようである。また、毛利氏などを含めた「理想」であれば、数が22以上になった可能性も高く、多分に偶然の可能性もある。
 以上をまとめると、織田信長室町幕府の伝統的管轄範囲を意識し、反幕府勢力と反幕府勢力によって上洛が難しい勢力を除きながら、数が21に近くなるように、上洛勢力を選定したと言える。この権限は足利義昭から管領に准ずる待遇を許されたことが前提にあるので、義昭幕府の意向に沿っているものであろう。
 こうして見ると、やはり朝倉義景不在は不自然である。義景が領する越前は東国でも九州でもないし、能登越中の勢力に上洛が求められている以上、上洛に困難が伴うわけでもない。となると、義景はこの時点ですでに幕府・織田信長から反幕府勢力認定を受けていたと言わざるを得ないだろう。
 この上洛要請でどれだけの勢力が実際に上洛したのか、直後の若狭攻めにどのように繋がって行くのかについては、記事を改めてまた考えたい。