志末与志著『怪獣宇宙MONSTER SPACE』

怪獣monsterのコンテンツを中心に興味の赴くままに色々と綴っていくブログです。

松永久秀と若江三人衆の血縁関係

 以前から、松永久秀若江三人衆の血縁関係については触れているが、そろそろ「なぜそうなのか?」と思われる方もいるかもしれず、考えをまとめてみることにした。
 まず、前提として松永久秀と若江三人衆のプロフィールをまとめておく。若江三人衆については個別に記事を書きたい欲もあるのだが、いつになるのかわからないので…。いやそもそも若江三人衆って?と思う人もいるかもしれない。若江三人衆とは、天正元年(1573)三好義継が滅亡する際に義継から離反した3人の三好家臣で、織田信長はその3人に義継遺領の河内北半国の統治を任せたものである。彼らは若江城に居住していたが、天正8年(1580)に若江城が廃城となり、八尾城に移った後も若江三人衆と他称された。恐らく「若江」は若江城だけではなく、三好権力を象徴する言葉でもあったと考えられる。

 三好長慶によって取り立てられた摂津国人。高槻五百住出身説が近年では有力視されている。主家三好氏に自発的に離反したことはないし、将軍殺害に直接的加担もしていないし、東大寺大仏殿も意図して焼いたことはないし、爆死もしていないのだが、これらの正反対のことをしたとして有名な人物。そのうち久秀の虚名については記事にしたいと思っている。

  • 多羅尾綱知 大永・享禄年間?(1520s)~天正15年(1587)前後?

 左近大夫→常陸介。近江多羅尾氏の系譜と見られるが、出自には謎が多い。多羅尾孫十郎として細川氏綱の家臣に登場を果たすが、どのようにして氏綱に仕えたのかもわからない。ただし、綱知の「綱」は氏綱からの偏諱と見られ、天文末年から永禄初期にかけて氏綱家臣の筆頭に成り上がった。氏綱の死後はその居城であった淀城を引き継いだようで、「守護代」とも呼ばれていた。永禄三好の乱においては松永久秀方として淀城に籠ったが、三好三人衆に敗れ退去した。その後、三好義継が三人衆から離反して松永久秀を支持するようになると、義継の重臣として再登場を果たす。しかし、天正元年(1573)には義継の敵である織田信長に通じ、主君滅亡に一役買っている。綱知の妻は義継の妹ともされ、その間の子三好生勝が三好本宗家の家督を継いでいる。織田政権下では綱知が若江三人衆の筆頭であったが、天正10年(1582)前後より子の光信に家督を譲りつつあったようで、綱知は「常陸入道」と呼ばれるように出家したようである。宣教師の記録では反キリシタンとして名前が見える。

  • 池田教正 ?~文禄4年(1595)以降

 丹後守。名前に「正」を含むことから摂津池田氏の一族だろうが、系譜は不明である。「教」の字は遊佐長教からの偏諱とも言うが、遊佐氏に仕えていたことは確かめられない。管見の限り、教正の初見は永禄4年の足利義輝の三好邸御成に三好家臣として出仕が見えることである。越水衆としての活動が見られるのは、永禄三好の乱からだが、恐らく天文年間までに三好長慶松永久秀によって越水衆に編成されたのだろう。三好三人衆に敗れた後は三好義継の重臣に収まり活動するも、天正元年に義継から離反し織田政権下で若江三人衆となった。豊臣政権下では若江三人衆の筆頭として遇され、豊臣秀次の家臣となって清州町奉行を務めた。秀次事件後は秀次に殉死したとも追放されたともいう。教正はキリシタンであり(洗礼名はシメアン)、キリシタンの保護者として宣教師の記録にも登場することが多い。

  • 野間康久(長前) 天文前期?(1530s)~天正12年(1584)以降

 左橘兵衛、転じて左吉とも呼ばれる。父野間長久(官途は「右兵衛尉」)は能勢氏の庶流国人であったが、細川晴元権力下で摂津国下郡守護代的地位にあった三好長慶と関係を深めることで立身した。越水衆への編成も長慶との関係によるものであろう。永禄9年(1566)頃から父長久の活動が見えなくなり、子康久への世代交代がなされたようだ。康久は三好義継の重臣であったが、天正元年(1573)義継を裏切り織田政権下に若江三人衆となった。豊臣政権下における活動は不詳。なお、実名を長前から康久に変えているが、長前の終見は永禄12年(1568)(『戦三』一四四〇など)、康久の初見は元亀以降(『戦三』一三二四*1)である。本記事では基本的に康久の名前で呼ぶ。


 松永久秀と若江三人衆の関係は、永禄三好の乱において後に若江三人衆となる多羅尾綱知、池田教正、野間長久がいずれも松永久秀に味方したように深いものがあったが、越水衆である池田と野間はかつて久秀が越水城主を務めたことによる縁以上の説明がなされたことはなかった。
 しかし、久秀と池田・野間にはそれ以上の関係があったのではないか。
 元亀2年(1571)8月4日辰市城の戦いで松永久秀筒井順慶に大敗を喫した。ここでの戦死者は同時代の日記にリスト化されているが、それは以下の通りである。

  • 『多聞院日記』…松永左馬進(久秀ノヲイ)、松永孫四郎(久秀ノヲイ)、松永久三郎(山城ノタラヲ息・金吾若衆)、河那辺伊豆守、渡辺兵衛尉、松岡左近、福智、赤沢蔵介、栄林院、竹田対馬守、豊田、山崎久助、安倍、クルス、ハシヲ、唐院弟ノ延泉ヽ(山中ノ)、山田、中岡、古市兄弟
  • 『尋憲記』…四出井紹二、山嵯久助、戸井田、山田太郎右衛門、野間、川辺伊豆、安辺、渡辺兵衛大輔、松岡左近、巣林院、立入左馬大夫、松永久三郎、半竹、藤市兄弟二人、クホ子、楠御合、永戸、ワニ(和仁)吉丞、滝久大夫、福智一承、竹田対馬織部、赤蔵内蔵助、竹田兵衛丞
  • 『二条宴乗記』…多羅尾子、菓林院、野間、山崎、山田太郎右衛門、松永キウ三郎、西京瓜生、竹内対馬、河那辺伊豆、渡辺兵衛大夫、箸尾、唐院、キウタヰ、豊田円専坊、安部、クルス、半竹、キウタヰ、狛治部大輔、春岡左近

 3つもあると同時代記録の危うさというものが色々と見えてくる。「栄林院」(『多聞院日記』)と「巣林院」(『尋憲記』)と「菓林院」(『二条宴乗記』)は同一人物だろうが、どの表記が正しいのかわからない。「渡辺兵衛尉」(『多聞院日記』)・「渡辺兵衛大輔」(『尋憲記』)・「渡辺兵衛大夫」(『二条宴乗記』)もわざとやってるのかと思うほど官途名が一致しない。耳で聞いた情報と単なる誤字と類推表記が混在するのが同時代記録の妙とも言える。
 それはそれとして、『多聞院日記』に松永久秀の甥として松永左馬進、山城多羅尾氏の子として松永久三郎がいるのは見逃せない。久三郎は確定は出来ないが、山城多羅尾と特定しているのだから、綱知の子と考えて良かろう。「金吾若衆」とあるため、久三郎は松永久通と親しかったのだろう。松永名字を付与されていることからも松永氏が多羅尾氏を取り込む姿勢が窺えよう。
 それでは久秀の甥とされる松永左馬進とは何者なのか。その答えは『寛政重修諸家譜』にあった。これにおける野間氏は尾張出身で医者として江戸幕府に仕えた一族である。ところが、系図の最初には傍流として次のような名前が見える。

 某 右兵衛 三好修理大夫長慶につかへ、摂津国小清水城を守る。妻は松永弾正少弼久秀が姪。
  女子 池田丹波某が妻。
  某 左吉 三好長慶につかふ。
  某 鵜鷹と称す。豊臣太閤につかふ。
  某 左馬進 はじめ松永秀久に属して多門城をまもり、後久秀か養子となる。妻は入江十左衛門尉が女。

 名前はすでに失念されているが、三好長慶に仕え、「小清水城」(越水城)を守護したという野間右兵衛が野間長久であり、その子・左吉が野間康久であることは歴然である。また、「池田丹波」とは池田丹後守教正のことで、池田教正と野間康久が義兄弟とする宣教師の記録と一致する。寛政重修諸家譜』は戦国時代から200年以上後の編纂史料であるが、戦国野間氏の事績は正確に記憶されていたのである。
 そこで注目されるのは野間長久の妻が松永久秀の姪で、左馬進を称するその息子が久秀の養子となったという記述である。つまり、松永左馬進が久秀の甥であるという『多聞院日記』の記述と200年の時を超え一致する人物ということである。すなわち、左馬進は野間氏の出身で久秀の甥であり(『寛政重修諸家譜』では久秀の姪孫となるが、年代的に野間長久の妻は久秀の姉妹と考えるのが自然だろう)、久秀から松永名字を付与された、と言えよう。
 ということは、野間康久と池田教正の妻も松永久秀の甥・姪にあたる可能性が非常に高い。野間長久がいかに成り上がったとは言え、側室を抱えられる余裕があったとは考えにくい。そもそも、長久が三好長慶に仕え出世を果たしたこと自体、妻の兄が松永久秀であった影響を重く見るべきだろう。長久が越水衆として編成されたのも久秀との縁が強く働いていると思われる。
 本来三好氏の家臣である越水衆が松永久秀に与したのは、単に昔の上司・同僚であったのも要因の一つだが、野間長久と池田教正にとっては義兄弟・義理の叔父であるという血縁が大きな要素であった。特に長久の勢力が久秀の力に由来するものであるのなら、久秀が失脚すれば長久が不利益を被るのは間違いない。そうして越水衆は久秀に味方することになったのだろう。
 だが、越水城は篠原長房に奪われ、淀城を守っていた多羅尾綱知も敗北する。その後、多羅尾、野間、池田の3人は三好義継の重臣として復活する。3人が義継重臣として見えてくるのは、永禄10年(1567)義継が久秀を支持してからなので、この付属には久秀の口添えがあったと考えて不審はなかろう。義兄弟である野間康久と池田教正はともかく、多羅尾綱知がこの両者と結びつき、三好家の重臣であるには松永久秀の存在が重要な架橋であった。
 ところが、元亀2年(1571)の辰市城の戦いで野間康久の弟で久秀の養子となっていた左馬進と多羅尾綱知の子で松永久通と親しく松永名字を与えられていた久三郎が戦死してしまう。松永氏と多羅尾氏、野間氏との結びつきを代表する者の死はその関係性に影を落としたのではないか。結果的に天正元年(1573)多羅尾、野間、池田の3人は主君三好義継の殺害に加担してしまうが、松永久秀は義継の死後やっと織田信長に降伏している。このような義継に対する行動のギャップも久秀の3人への影響が薄れていることを示している。
 それでは、新たに若江三人衆となった多羅尾、野間、池田の3人は何を新たな紐帯としたのだろうか。それを示唆するのが『若江三人衆由緒書上』である。この文書はとある人物に対して、なぜその人物が織田信長豊臣秀吉、若江三人衆の文書を伝来しているのかを説明するものになっている。そのとある人物に対して若江三人衆との関わりを説明するのが次のような記述である。

  多羅尾常陸介(其方母儀
         親父之
         ぢいさま也
  野間左吉(其方母儀
       母かたの
       ぢいさま也
  池田丹後(左吉殿
       いもとむこ
       其方母儀之おばむこ

 多羅尾綱知に「其方母儀」があるなど若干不審な点もあるが、池田教正の妻が野間康久の姉妹であることなどは他の記録と一致する。何より重要なのは、このとある人物の父方の祖父は多羅尾綱知、母方の祖父は野間康久としていることである。すなわち、多羅尾綱知の息子に野間康久の娘が嫁いでいるのである(なお、確証はないが、『若江三人衆由緒書上』が三好氏の存在に触れないこと、多羅尾綱知をわざわざ祖父と説明することから、これを享受する人間は三好名字ではなかったかと推測している。つまり、康久の娘が嫁いだ綱知の子とは三好生勝ではないだろうか)。
 また、「1582年2月15日付長崎発信ガスパル・コエリュ師イエズス会総長宛年報」には野間康久が池田教正の影響によってキリスト教に好意を持っていることを記した後、「三人目(の領主)もまたシメアンの婿」としている。年齢的に多羅尾綱知が池田教正の婿になるのは不自然なので、この頃若江三人衆の地位を受け継ぎつつあった光信が教正の婿であったと思われる。このように若江三人衆は相互に婚姻関係を結び、もはや結びつくのに松永久秀の存在を不要としていた。久秀は天正5年(1577)に敗死するが、この謀反に若江三人衆が関わることはなかったのも、若江三人衆が自律的に存在するようになっていたからだろう。
 以上の考察でわかったことをまとめると次のようになる。

  • 松永左馬進は野間長久の息子である
  • 野間長久の妻は松永久秀の姉妹で、康久・池田教正室も久秀の甥・姪にあたる可能性が高い
  • 池田教正の娘が多羅尾光信に嫁いでいる
  • 野間康久の娘が多羅尾綱知の息子(三好生勝?)に嫁いでいる
おまけの系図

 赤枠が若江三人衆、赤線で示したのは確証がないもの
f:id:hitofutamushima:20190808191823j:plain

*1:『戦国遺文』では永禄10年に比定するが、誤りだろう