志末与志著『怪獣宇宙MONSTER SPACE』

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なぜ松永久秀は誤解されていたのか―三悪説話に反駁する

 松永久秀三好政権関係の人脈の中ではダントツの知名度を持つ戦国武将である。久秀のみがメジャー武将と言っても過言ではないほどである。これはやはり戦国時代の超メジャー人・織田信長と関係を構築したため、その関係性がフィーチャーされる機会が多いためであろう。しかし、何よりも著名およびキャラ付けとして重要なのは三悪説話である。すなわち、松永久秀には以下3つの逸話がある。

  • 主家である三好氏の要人を殺害し乗っ取った
  • 将軍足利義輝を殺害した
  • 東大寺大仏殿を燃やした

 私も多くの人の例に漏れず、これらの逸話を信用し、松永久秀下剋上の極致を尽くした悪人、「梟雄」と解してきた。その一方、ここ10年ほどで「久秀はどうやら梟雄ではないらしい」という話も広まってきた。その時はそこまでそのような説を信用していたわけではなく、半信半疑な思いもあった。ようやく自分の久秀像が変わってきたのはここ数年くらいの話であるが、それなりに確固たるものが出来たし、今なら色々な久秀伝説の当否を判断することもできよう。
 そして、一つのポイントは「逸話がデタラメなのならなぜその逸話が信じられたのか」という問題が今なお未解明ということである。ネット上では「久秀と対立した三人衆側のプロパガンダ」のような意見もあるが、そのような形跡はあるのだろうか。三悪説話に反論しつつ、その点についても確かめていきたい。

 ちなみに、一言で上記の三悪逸話に反論してしまうと次のようになる。

  • 主家である三好氏を乗っ取った→そのような形跡は認められない
  • 将軍足利義輝を殺害した→久秀は義輝が殺害された現場にいない
  • 東大寺大仏殿を燃やした→大仏殿炎上は戦争中の事故のようなもので意図して焼いたわけではない

目次

松永久秀三好政権を乗っ取ろうとしたのか

十河一存の死に関与したのか

 俗説では「松永久秀は有力三好一族、具体的には十河一存三好義興、安宅冬康を秘密裏に(あるいは讒言で)葬って、主君三好長慶の政治意欲を大幅に削ぎ、実質的に三好政権で専横を行なった」とされる。これはどう間違っているのだろうか。
 十河一存三好長慶の弟で讃岐国人十河氏の養嗣子に入った。長慶の兄弟の中では一際武勇に優れていたとされることが多い。さて、一存の十河氏が讃岐国人であることを思えば、一存は讃岐を支配していたように思ってしまうが、一存が家中として組織したのは一部の国人だけで、讃岐の広域支配権は長慶の長弟である三好実休に属していた。三好政権内での一存の役割は和泉国支配にあった。一存の子が和泉松浦氏に養子に入っており、三好政権は松浦氏を支援ことで和泉国統治権を確保した。一存は子である松浦万満(後の孫八郎・光)を後見して、堺や岸和田城におり、反三好勢力である根来寺などと戦っていた。
 その一存が死んだのが永禄4年(1561)4月23日である(『己行記』)。死因は不明であるが、一存は30歳そこそこで若死にであることは確かだ。和泉国の抑えであった一存の死は当然ながら南近畿の不安定に直結する。長慶は松浦氏への後見役に新しく実休を据え、実休が率いる四国勢に畠山氏・根来寺と対峙させ交戦状態に突入する。この時実休が和泉国人に河内国で所領を給付する書状が残っており(『戦三』七八〇)、和泉国は実休の統治下に入った。
 三好氏を襲った苦境はそれだけではない。北からは近江の六角承禎が畠山氏と呼応する形で京都を窺った。松永久秀三好義興とともに六角氏の攻勢に対処しなければならなかった。南北からの挟撃は、永禄5年(1562)3月5日の久米田の戦いで三好実休が敗死したことで臨界点に達した。四国勢は敗走し南方の戦線はがら空きとなった。「天下の御かち」の余勢に乗る畠山軍は長慶の本拠地飯盛山城を包囲する。この攻勢に義興と久秀は京都を六角氏に明け渡し、飯盛山城への救援に向かう。
 この時久秀は何を思っていたのか。3月12日に柳生宗厳に宛てた『戦三』八一〇「松永久秀書状」には次のような一節がある。

一、当国之儀、よわもの共、敵へ城を渡候共、我等罷越候て、則時可相果候間、可御心安候、其間無越度候様御調儀専一候、

 「私たちの国のことで、弱い連中が敵へ城を渡してしまいましたが、我々が来たからには、すぐに敵を討ち果たしますのでご安心ください。その間も計略をめぐらすことが大事ですよ」。柳生氏は大和の国人で松永久秀の配下になってから日が浅かった。三好氏の退潮に摂津国人の三宅国村が離反したり、膝元の寺院が根来寺から禁制を獲得するなど、三好領国では動揺が広がっており、久秀はこのように虚勢を張ることで配下の離反を防ごうとしていた。逆に言えば、三好氏が危機的状況でも久秀は三好氏と一体であり離反など毛頭考えていなかったのである。
 結局三好氏は5月20日教興寺の戦いで畠山氏を撃破し、危機を乗り越えた。一連の戦争は十河一存の死が契機であると言えるが、一存の死で久秀が得たものは何もなく、逆に主君もろとも滅亡する危険さえあった。もしも一存の死に久秀が関わっているのなら、相当に近視眼的な企みでしかなかったと言うべきであろう。

三好義興の死に関与したのか

 永禄6年(1563)8月25日三好長慶の嫡男・三好義興が死去した。享年22歳、あまりにも若すぎる死である。義興は永禄2年(1559)頃から長慶の後継者として活動を開始し、将軍足利義輝からの義字偏諱、三好氏嫡流の代々の官途である「筑前守」への公式な任官、従四位下、御相伴衆、桐紋の付与など考え得る限り最上級の栄典を一身に受けた。永禄3年(1560)には父長慶から畿内の政庁である芥川山城を譲り受け、三好政権の裁許者として振舞った。戦歴はそこまで多くないが、そつなく敗北を喫したことはない。まさに三好政権の次代を代表するであろう人物として申し分なかった。
 その義興が亡くなったのであるから、三好政権にとって大打撃だったのは言を俟たない。義興には息子も男兄弟もおらず、長慶は一転して後継者問題に苦慮しなければならなくなった。松永久秀三好政権を乗っ取る意志があるのなら、確かに義興を殺すのには効果があるのかもしれない。
 しかし、そもそも義興と松永久秀は単なる主従ではなかった。三好義興への栄典付与と幕臣三好政権幹部としての活動の傍には松永久秀の影があった。久秀は独自に幕臣としても活動していたが、義興を支える後見人として幕府や寺社から見なされていた。義興は足利義輝とも良好な関係を築き、宣教師をして「都の執政官」と呼ばれたが、三好氏と幕府との鎹となったのが松永久秀であった。永禄4年(1561)3月の足利義輝三好義興邸御成において、久秀が義興の重臣としても幕臣としても振舞ったのは象徴的な行為と言える。
 すなわち、義興の死は久秀が三好氏当主の後見人ではなくなることを意味していた。長慶は義興に代わり、甥の重存を後継者に指名する。これに連動するものであろう、久秀は永禄6年(1563)閏12月息子の久通を上洛、右衛門佐に任官させ、家督を譲った。永禄7年(1564)三好重存が上洛し、足利義輝に謁見した際に重存の傍にいたのは久通だった。松永氏の地位自体は久通に継承されてはいるが、久秀個人は義興の死とともに隠居に至ったのである(もっとも隠居が即政治的引退を意味するわけではない。だが少なくとも一線から退いたとは言えるだろう)。
 ところで、松永久秀が義興の重篤に対して心中を披露した史料は存在する。それが『戦三』八九四「松永久秀書状」である。義興に関わる部分を以下に引用する。

一、石主被罷下、御脈之様体被申旨承候、此方へも同前ニ被申越候由候、先八幡も生をハうけ候へハ、御死ニ候へ共、御いたハしく、さて〳〵ほしきハ事候哉と、気も心もきへいり申様ニ候へとも、さやうニ取乱候てハ、無念と存、御跡之儀、馳走申候へハ、其御いたハしきと存候、覚悟と成り申と存、心をもち是分事候、貴所も其御分別専一候、
(略)
一、(略)殿の御跡まてのためニて候、只今さやうの事候てハ、可為不忠候、敵出申候時、御用ニ立、打死つかまつるへく候、敵も出不申、世上しつかに候て、御さうれいなとも候時、ほもひきりたる覚悟見せられ候へハ、殿之御為其身ニこゝろさし不可有比類候、能々其心得肝要之由、ほんミつを以不被仰候、何と御かくし候ても、さやうの事としめき申候てハ不可然候、目出可為御長久候へ共、かやうの事申候も、御祈祷にて一力ニ候由、以可被入候、

 義興が重篤であると石成友通から知らせを受けた久秀は「気も心も消え入りそうだが、取り乱しては無念」とし、友通にも正気を保つことを求めている。また、万一義興が亡くなった場合、その混乱に乗じて敵が現れたら討死覚悟で戦うこと、戦争沙汰にならなければ盛大に葬儀を行うことを述べる。久秀は義興の死に限りなく同情を加え、十河一存の死が六角・畠山との戦争を招いた苦い記憶も忘れていない。義興の死が引き起こす悪い事態を久秀は想定していたと言える。
 さらに言えば、久秀は義興の状態を直接知る立場にはなかったのも毒殺説を否定する上で重要である。久秀は基本的に奈良か京都におり、芥川山城に勤めていたのは石成友通であった。だから、久秀は友通と連絡を取っているのである。さらにこの書状が現存しているのは、この書状を友通が大和国人の柳生宗厳に転送したからである(『戦三』九一〇「石成友通書状」)。政権全体とまでは言えずとも、久秀のこの意志は政権中枢には公認され、ある程度流布していたと言えよう。
 久秀が義興を殺害した、あるいは殺害に関与したという説は、石成友通ら義興に近しい他の三好家臣の目を盗む必要があるし(久秀忍者説)、義興への熱い想いを吐露した書状が回覧されたことを思えば、限りなく不可能に近い。と言うか、義興は上の久秀の書状が如実に示すように、6月中旬には発病している。これは実際に月下旬に祇園社が義興の平癒の祈祷をしたり、曲直瀬道三が義興を診察していることから確かめられる。義興はすでに重篤であったようだが、亡くなったのは8月25日である。2ヶ月の闘病を伴い、しかも医者の診察さえ目を晦ませてしまう「毒」なんてあるんでしょうかね。
 そもそも永禄6年(1563)は畿内勢力にとっては厄年じみており、3月には三好氏の旧主・細川晴元が、6月には池田氏の当主で三好氏の血を引く池田長正が、12月には三好氏の名目的主君である細川氏綱が亡くなっている。本当に陰謀論を立てようと思うなら、彼らの死とも絡めた方が純度は上がるのだが、義興の死ばかりが言われる。三好政権の衰退と言う結果論から逆算して義興の死に「犯人」を想定したいという後代の妄想が久秀毒殺説を産んだ何よりの証左であろう。

安宅冬康の死に関与したのか

 永禄7年(1564)4月三好長慶は次弟で淡路水軍の棟梁であった安宅冬康を居城の飯盛山城に招いて切腹を命じた。冬康の死で長慶の兄弟は全員が死に、長慶本人もその年の7月4日に亡くなった。こうして三好政権の屋台骨であった長慶とその弟たちは全滅したのである。
 安宅冬康を粛清するに至った事情については謎が多い。その死にまつわる経緯が不明なため、松永久秀の関与については肯定も否定もできない、と言うのが穏当な答えとなる。
 しかし、安宅冬康の粛清の際、冬康の家臣が20人ほど殺されている事実(『言継卿記』)は看過できない。さらにこの後淡路の国人、あるいは冬康の子である神太郎が、三好氏に背反したこともない。神太郎は三好氏が分裂すると、基本的に三人衆方に立つが、松永(三好義継・織田信長)方に立つこともあった。これは神太郎がどちらにも怨みを持っていなかった、あるいは怨みがあったとしてもそれを政治的趨勢に直結させなかったことを示す。安宅冬康粛清とは三好政権による安宅氏家中粛清であり、少なくとも政権内部と安宅氏には粛清を受け入れるやむを得ない事情が共有されていたのではないだろうか。長慶個人、冬康個人、あるいは久秀個人への理解による事件と考えるのは差し控えたい。
 それでは一体三好政権内部においてどのような事情が想定されるのだろうか。天野忠幸氏は三好氏の後継者問題を指摘する。三好義興の死後、後継者を失った長慶は十河一存の子で十河氏を継いでいた重存(後の義継、義継で統一)をその座に据えた。次弟の実休には確認できるだけでも長治、存保、神五郎と3人の男子がいたが、長慶は三好名字の甥よりも十河名字の甥を選んだのである。一存のもう一人の子は和泉松浦氏を継いでいたため、当主を失った十河家中は実休の次男存保を擁立するという迂遠な策を取らなければならなかった。
 なぜ長慶は義継を選んだのか。これは義継の母が九条稙通の娘(養女か)であったため、その貴種性を見込んだとされる。しかし、傍目から見ると歪な継承なのは間違いない。長慶がもう先が長くないと感じた時、冬康が義継に対抗する大きな求心力を獲得する可能性は無視できなくなった。そこで義継に三好氏後継者の確たる地位を保障するために冬康には死んでもらった、という説である。
 この説には二次以下の史料が仄めかす讒言者の存在が全く出て来ず、三好氏内部の事情のみで冬康粛清を完結させるのが特徴である。その一方でやはり冬康の家臣までが殺害された理由までは説明できていないのではないだろうか。もちろん三好氏の後継者問題が冬康粛清を説明できる一要因なのは大いに肯定できるが、それだけで説明可能とは言えない。
 この問題については私にも裏打ちされた持論があるわけではないが、一つの取っ掛かりとして和泉国統治について考えてみたい。十河一存三好実休の死後、三好政権の和泉国担当者は安宅冬康になったと言われている。その一方で冬康の和泉国統治文書は一つとして現存しておらず、本当にそうだったのか確認することはできない。そういうわけで、冬康が永禄5年~7年に和泉国統治に関わっていたという前提から出発する議論は砂上の楼閣のようなものだが、それも織り込んで論を進めたい。
 さて、三好政権による和泉国統治とは守護代松浦氏家中の支配にコミットするものであった。十河一存が息子を松浦氏の当主にして後見する形で和泉国人への動員権を確保したのが原型である。これが三好政権の拡大と危機に伴い、三好実休和泉国人に和泉国外の新しい権益を恩賞として提示していくことになる。ところが、永禄5年(1562)実休が敗死し、松浦氏の一部が畠山氏に与すると、自然に新しい恩賞も反故になったと思われる。それどころか、三好政権は河内国を回復したものの、和泉国では根来寺と冷戦を継続しており、永禄6年(1563)にやっと和睦を結んだ。この和睦は妥協の産物で、松浦氏を始め多くの国人は根来寺に所領を譲渡しなければならなかった。和泉の勢力には三好氏への不満が燻ったに違いない。
 一方で安宅冬康は江口の戦い後榎並を確保したり、冬康の家臣が長慶の家臣の所領を押領するなど、淡路水軍の棟梁として大阪湾の掌握に熱心であった。冬康が和泉国に乗り込んだからには、冬康やその家臣たちはやはり和泉の権益を獲得しようとしたのではないか。こうした行為が所領拡大の機会どころか所領を奪われつつあった和泉国人の感情を逆撫でするのは必至であった。そこで三好政権は冬康を始め安宅氏家中を粛清することで、和泉統治への不満を彼らにお仕着せて、政権への求心力維持を図ったのではないだろうか。
 「へえ、で、それを証明する史料は何かあるの?」と言われればないんだなこれが。推論に推論を重ねただけであるが、これなら和泉国人か松浦氏家中が冬康を悪し様に言うこともあり得る。結局、何が言いたいのかと言えば、松永久秀という個人が讒言したくらいで安宅冬康の粛清が政権に受容されることはない、この一点に尽きる。
 なお、松永久秀と安宅冬康の関係としては、永禄6年(1563)久秀の多武峰攻めに冬康が援軍を出し、久秀はこれに感謝している(『戦三』八七二「松永久秀書状」)。この事実で以て久秀と冬康が親しかったとまでは言えないが、久秀にとって冬康粛清は安宅氏の軍事力を友軍として恃める状況ではなくなったことを意味する、とは言える。

小結

 松永久秀が三好氏の要人を影で殺害していたという陰謀論が意味するところは、松永久秀の梟雄ぶり、ではなく、久秀がその人物を殺すことで自身が蒙る不利益にいかに無頓着であったかである。通常、この不可解な事件が起きて得をした人物がいる→その事件の黒幕は受益者に違いない、として陰謀論は発生するものだが、久秀は別に大した得をしていないのであるから、前提そのものが間違っているか、ただの誤解である。

松永久秀足利義輝殺害事件(永禄の変)に積極的に関与したのか

 永禄8年(1565)5月19日が三好氏の軍隊が足利義輝を強襲し、義輝とその側近たちを殺害、御所を焼き払った(永禄の変)。この事件は戦国時代でも大きなインパクトを以て知られている。何せ現職の将軍が殺されるのは源実朝足利義教以来で戦国時代ですら忌避されてきた禁忌であったからだ。
 通説ではこの事件の首謀者は松永久秀とされてきた。しかし、近年この時上京していたのは三好義継、松永久通、三好長逸らであり、久秀は京都にいないことが示された。ただ、それでもこう思われる方もいるだろう。久秀は現場にはおらずとも、主君義継を操るか、あるいはその意志を反映させて義輝を殺したのではないか、と。よろしい、それでは反論していこうではないか。
 前章でも述べたが、この時久秀は公的には息子久通に家督を譲って隠居していた。ただ、戦国大名の隠居は必ずしも政界からの引退を意味するとは限らない。通常は新当主と権限を分かち、軍事面あるいは政策における大事には関与するなど、家中において役割を果たす。久秀の場合、公的な出仕も奈良の統治も久通に任せ、久通を後見しつつもほとんどの実権を手放してしまっていた。本格的に世代交代を図っていたとも言えるだろう。永禄7年(1564)以降の松永久秀は存在感を薄れさせていたわけではないが、実際の活動としては徐々に後退する傾向にあった。
 だが世代交代が上手く行くなら苦労はない。三好義興松永久秀は幕府と上手く付き合い、役割も果たしていた。しかし、2人の新当主三好義継と松永久通はこれから幕府、あるいは足利義輝と関係を構築していかねばならない。永禄7年(1564)6月義継は久通を連れて上洛し、義輝に謁見、家督継承の公認を受けた。そして、永禄8年(1565)4月にも上洛し、官途「左京大夫」、義字偏諱を受けるなど、長慶と義興をミックスさせた栄典を急激に付与される。
 実に急ピッチである。これは長慶が死去したことが関係する。三好長慶は永禄7年(1564)7月4日に世を去っていたが、死は秘され一部の三好氏の幹部以外には気付かれていなかった。同時に義継の権限継承は未だ不安定であった。長慶の死を知った義輝が反三好に転向する可能性もあり、義継は自身への箔付けと幕府との協調維持のため、長慶の死を隠したまま長慶段階の幕府との関係を保持せんとしたのである。意外にも永禄の変直前まで三好氏側としては幕府との協調を求めており、足利義輝も長慶の死を知ってか知らずかそれに応えていた。足利・三好の同盟は続くはずだったのだ。
 ところが三好氏側の義輝への御成要請で事態は躓くことになる。主君が臣下の屋敷に御成することは君臣関係が融和的であることを示す最大の機会である。弘治2年(1556)に松永久秀も自身の居城である滝山城に主君長慶を招き歓待している。かつて義輝は永禄4年(1561)にも三好氏への栄典付与の返礼として三好義興邸に御成しており、義継の要求自体は義興並の信頼を義輝から獲得しようとするもので真っ当である。しかし、義輝は難色を示した模様である。
 なぜ、足利義輝は御成に難色を示したのだろうか。これは三好氏の軍事的威圧に原因があった。永禄7年(1563)の義継の上洛の際、義継が率いた兵は4000であった。三好氏新当主の率いる軍勢の誇示としてはまずまずの、そして常識的な数であろう。ところが、永禄8年(1565)の上洛では義継は1万規模の軍勢を率いて入京した。前年の2倍以上の兵数である。一体何のためにここまでの軍勢が必要なのか、義輝は疑い訝しがったと見られる。
 実際に義継がここまでの兵数を率いた理由はよくわからない。三好の軍勢に自身の権威を広く見せつけるためかもしれないし、義輝が栄典付与を渋った場合の軍事的威圧が目的だった可能性もある。最初から義輝を殺すつもりだったのでは?とも思われそうだが、それなら最初から殺せばいいのであって栄典を受けたり御成を請う必要はない。義輝は御所を城郭化しており、御所に籠ればある程度はこらえられるかもしれないが、三好邸御成となれば主人の義継に全ての安全保障を委ねてしまうことになる(だからこそ臣下の屋敷への御成は仲良しアピールになるわけだが)。義輝が譲れなかったのはその一点だったのだろう。
 義輝は御成を渋々承諾したものの疑念は消え去らなかった。栄典付与や御成の予定は複数の史料から確かめられ概ね事実と見て良かろう。その一方で、なぜそこから義輝殺害に至るのかはやはり謎が多い。
 その点で変前夜に義輝が京都外への逃亡を図ったとする宣教師の書簡の記述は興味が惹かれる。変当日の朝に三好義継が清水寺に参詣する予定を急遽変更して変に及んだのも複数史料に記述がある。多くの史料はこれを騙し討ちとして記すが、清水詣でを装うのが何のカモフラージュになるのかよくわからないので、やはり緊急事態が発生したと考えるのが自然ではないかと思う。その緊急事態とはやはり義輝が出奔しようとしたということではないか。義継からしたら突然の足利・三好同盟破棄宣言だったに違いない。
 ところで義継はすぐに義輝を殺そうとしたわけではない。三好軍が御所を取り巻いた後、石成友通が幕臣の進士晴舎に訴状を提出したらしい。これは「御所巻」と呼ばれる室町幕府に特有の政治現象で、臣下の大名が将軍を軍事的に包囲することでその政治要求を通すというものである。進士晴舎は三好氏への取次であり、訴状提出の対象も公的なルートを通している。この段階では三好氏側としては外面的には義輝を必ず殺害するという意志はなかった。
 しかし、義継の要求は過激にすぎた。「義輝を傷つけるわけにはいかないので、側近に詰め腹を切らせよう」という発想自体は至当であるが、殺害要求リストには義輝の最愛の側室である小侍従局が入っていた。折しも小侍従局は進士晴舎の娘でもあり、訴状を一読した晴舎は激昂し切腹してしまった。こうなると足利・三好の公的交渉ルートは断たれることになるし、幕府側から三好氏への手切れということになる。御所巻で要求が通らなかったら、将軍を排除するしかない。かくして三好氏の軍勢が御所になだれ込み義輝らは討ち取られたのであった。
 …というのが私の永禄の変の理解である。永禄の変直前まで幕府と三好氏は良好な関係を保とうとしていたのは確実である。しかもそれはどちらかと言うと三好氏の側が推進したものであった。こうした場合、三好氏の側が主体的に突然変心するのは不自然である。そういうわけで私はそもそも三好氏サイドに義輝を積極的に討とうとした意志は乏しいと考えている。京都にいなかった松永久秀がこうした経過にコミットできるはずもない。
 まあこれは私の説であるので、三好氏の側が主体的に義輝を討ったという解釈も不可能ではない。その場合でも久秀は義輝を殺すのに乗り気ではなかったことを示す文書が次に挙げるものである。

今度公方様御儀、不及是非題目候、就其、進退之儀気遣候処、霜台以誓紙不可有別儀由候間令安堵候、弥於無疎略者、別而可為祝着候、尚委細者竹下へ申候、憑存外無他候、恐々謹言、
     五月廿二日     (花押)
  松永右衛門佐殿

 実はこれが現存する最古の足利義昭発給文書である。義昭は兄義輝が殺され「私はどうなるのか」と怯えていたところ、「霜台」つまり松永久秀が生命を保障する誓紙を出してくれ一安心したということを松永久通に伝えている。義昭は当時一乗院門跡で出家しており、奈良にいた。5月22日という日付けも勘案すると、久秀は永禄の変を聞き付けた翌日には義昭に誓紙を出していると見られる。状況把握が途上の中、義昭の生命を奪おうとする方向には行っていないのは重大な決断と言える。もっとも久秀も単なる善意ではなく、義昭を何らかのカードとして使えると思っての判断であろう。
 一方、義昭からすると久秀に誓紙を出してもらえばそれで終わりというわけではなかった。宛名はあくまで久通な上、「憑存外無他候」、あなたを頼むほかないと書くのは弱弱しすぎる。義昭は久通の判断如何ではやはり生命が危うい状態のままと認識していたとわかる。義昭にとって久秀と久通は別の存在なのだ。こうしたことからも久秀が奈良から三好氏を操っていたとするのはなさそうである。
 ここらへんで言いたいことをまとめておこう。

  • 永禄の変は突発的な事件であり誰かがコントロールできる類の事件ではない
  • 松永久秀は将軍殺しに直接加担しておらず、義昭を助けていた
  • 松永久秀の意志と松永久通の意志は別物と認識されていた(ので、久秀は久通すら自身の意のままというわけではない)

 こうした点から、松永久秀は永禄の変に積極的な加担も積極的な支持もしておらず、京都に不在な以上変の推移に影響力も及ぼしていないと言える。

松永久秀東大寺大仏殿を炎上させたのか

 永禄10年(1567)10月10日、三好義継・松永久秀の軍勢が三好三人衆の軍勢を強襲し、三人衆を敗走せしめた。この過程で東大寺大仏殿は炎上し、鎌倉時代に再建されて以来の伽藍や大仏が灰燼に帰した。現代なら文化財保護法違反で逮捕は間違いない事案であるし、行動を起こしたのは松永方であるから、松永久秀東大寺大仏殿を炎上させた」という論は成り立つようにも思える。
 しかし、この件については「松永久秀東大寺大仏殿を炎上させた」が通説の一方、異説もそれなりに存在する。天野忠幸氏によれば、『東大寺記録写』・『二月堂修中練行衆日記』には火をつけたのは松永方だが、風に煽られて大仏殿に延焼したという記述が、『寺辺之記』・『和州諸将軍伝』・『フロイス日本史』には三人衆側が火をつけたという記述がある。当たり前だが、戦争は基本的に乱戦であるわけで、火を使ったのがどちらなのか、故意に火をつけたのかどうかなどはそう簡単に確定できるものではないのである。
 それではなぜこの時鎌倉時代以来初めて東大寺大仏殿は焼け落ちてしまったのか。中世の大和国は必ずしも平穏ではなかった。おかしな言い方だが、それまでに燃える機会はあったはずである。
 この点は松永久秀大和国で築き上げた権力の本質と大きく関係する。
 中世の大和国には幕府によって守護が置かれなかった。大和国は「神国」であり、奈良時代以来の寺社勢力が強かった。中でも興福寺藤原氏の氏寺ということもあって、その所領は圧倒的で興福寺が事実上の守護の役割を果たしていた。大和の武士たちは名義上興福寺門徒であり、元服の儀式が出家という有様だった。大和在地の武士と言えば筒井順慶が有名だが、彼が「順慶」という法名を実名として用いているのも中世大和国人の系譜だからである。
 しかし、戦国時代に入ると興福寺の権勢もかなり衰え、大和国人たちが畠山氏と結び編成されると世俗権力の侵略を招くようになる。細川政元の有力内衆・赤沢宗益(朝経)は対立する国人を追って法華寺西大寺などを焼き討ちしているし、信貴山城主木沢長政は主家である畠山氏から半独立して「大和守護」と認知された。しかし、彼らの侵攻・支配は軍事的・一時的なものに留まり、興福寺を差し置いて君臨する段階までは行かなかった。
 だが、三好氏の威勢を背景とした松永久秀の大和侵攻とその領国化はそれまでの侵入者からは異質であった。それを示すのが永禄4年(1561)より築城が開始された多聞山城である。多聞山城は都市奈良に隣接する城郭であり、奈良を見下ろすことが出来た。さらに多聞山城には天守閣の先駆けとも言える「四階櫓」が築かれていた。久秀はそれまで筒井氏や越智氏が発布してきた徳政令も実施し、奈良に恒常的に君臨する支配者となることを印象付けた。久秀は徐々に興福寺の利権を切り崩し解体して行くことになる。
 松永氏が奈良にその居城を構えたことは、大和国の最高権力者が興福寺ではなく久秀であることを示す革命的な出来事であり、未曽有であったのである。この事態が東大寺大仏殿炎上への前提に存在する。松永氏が攻撃を受ける時、それはすなわち奈良が直接の戦場の舞台になることを意味するようになったのである。
 実際に永禄10年(1567)5月石成友通と池田勝正が1万の軍勢で東大寺に布陣すると、多聞院英俊は「大天魔ノ所為ト見タリ、浅猿々々」と感想を記した。英俊にとっては、宗教都市奈良に大軍が進駐すること自体がすでに反仏教行為の最たるものであった。これに先立つ4月24日には三人衆の軍勢が東大寺南大門の上から鉄砲を放ち、「片時無安堵之思、嗚呼々々」と漏らしている。ネットスラング的に言うなら「あああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!(ブリブリブリブリュリュリュリュリュリュ!!!!!!ブツチチブブブチチチチブリリイリブブブブゥゥゥゥッッッ!!!!!!! )」くらいの勢いがある(たぶん)。
 東大寺大仏殿の炎上ばかりが取り上げられるが、戦災はそれ以前から発生していた。4月に久秀は三人衆の軍勢を進駐を防ぐべく陣所となりそうな文殊堂や戒壇院授戒堂を焼き、7月には逆に松永方の武将が三人衆に寝返りこの時に松永方の陣所である千手堂に火をかけた。戦争に勝つかどうかという瀬戸際の中では文化財の保護などは打ち捨てられた。いつ奈良の由緒ある建物が焼失するかしれないという状況。これこそが多聞院英俊が最も恐れた事態であったのだ。
 そもそも前提として三好軍の意識も低かった。天文20年(1551)に細川晴元の武将である香西元成と三好政勝が相国寺に陣取ると、三好長慶軍は相国寺に火を掛け元成と政勝は敗走した。結果、相国寺は全焼してしまっている。京都五山第二位の格を誇る寺院相手にしてこの有様である。別段三好氏の兵が特段神仏への信仰がないわけでもあるわけでもないが、全体として戦争目的が優先され、そのためには寺社建築は顧みられなかった。
 こうして見ると、10月の東大寺大仏殿炎上も起こるべくした起こった、とは過言であろうか。三人衆が東大寺に陣取っている以上、東大寺が攻撃対象になるのは自然であり、戦災を蒙るのも起きるべくした起きた出来事である。誰が火を付けたか、火を付けるつもりがあったのかはあまり関係がない。両軍ともに「未必の故意」とでも言うべき感情が底流していたと言うべきだろう。
 一応付言しておくが、東大寺大仏殿が炎上したのはやはり衝撃的であり、捨て置くことは出来なかった。翌永禄11年(1568)には正親町天皇が当事者である松永久秀三好長逸の両者に東大寺再興を命じ、両者ともに再興資金集めをしていた阿弥陀寺の清玉を援助している。燃やすことに精神的な躊躇はなかったが、それはそれとして燃えたことを悼んでおり、復興に動いている。矛盾しているような気もするが、こうした精神状態が戦乱期の統治者たる武士の心構えなのであった(平重衡高師直が戦争に勝つために寺社を焼いた一方で厚い信仰心を持っているのと同じである)。
 そういうわけで、東大寺の炎上を一概に松永久秀を主犯とすることは出来ない。それ以前から奈良の寺社は焼かれており、そもそも奈良での戦争行為自体がご法度であった。東大寺炎上もこの前提の延長上に存在する事象にすぎないのである。
 それでは松永久秀が主犯とされたのはなぜか。これを示唆する記述が『多聞院日記』天正5年(1577)10月11日条に見える。松永久秀の死亡記事である。

昨夜松永父子腹切自焼了、今日安土ヘ首四ツ上了、則諸軍勢引云々、先年大仏ヲ十月十日ニ焼、其時刻ニ終了、仏ヲ焼ハタス、我モ焼テ也、大仏ノ焼タル翌朝モ村雨降了、今日モ爾也、奇異ノ事也、

 多聞院英俊は単に久秀が死んだということだけを記さなかった。久秀が焼死したのは、10月10日大仏殿が炎上した時と同じ日次・時刻であり、直接的な言及こそないものの因果応報を強く印象付ける筆致になっている。トドメに大仏殿が燃えた次の日と同じような雨が降ったことまで記す。同じ奇瑞が起きたことが、久秀の悪因悪果を完成させるのである。
 つまり、松永久秀が大仏殿を燃やした説は大仏殿が燃えた同時代の認識ではなく、久秀が偶然にも大仏殿炎上と同日に亡くなったことから逆算されて誕生する意識なのである。
 かかる風説は久秀死去直後から生じたが、徐々に完成度を高めていくことになる。太田牛一の著作を読むと、『大かうさまくんきのうち』では次のように記す(原文は仮名書きなので適宜漢字表記に改めている)。

大坂と松永、一味の逆意をさしはさみ、和州志貴の城へ、松永弾正、息右衛門佐父子・一類楯籠り候。時日を移さず、信長公の嫡男・秋田城介殿、御取りかけ候。さるほどに、先年松永しわざをもつて、三国隠れなき大伽藍奈良の大仏殿、十月十日の夜、既に灰塵となす。その報ゐ、たちまち来たつて、十月十日の夜、月日時刻も変はらず、松永父子・妻女・一門歴々、天守に火をかけ、平蜘釜うち砕き、焼け死に候。まことに欲火をこがすとは此節也。天道恐ろしき事。

 太田牛一が多聞院英俊の認識をより直接的に表現している。さらに『信長公記』では以下のようになる。

十月十日の晩に、秋田城介信忠、佐久間、羽柴、惟任、惟住、諸口仰せつけらる。信貴の城へ攻め上げられ、防戦。弓折れ矢尽き、松永、天主に火を懸け、焼死候。奈良の大仏殿、先年十月十日の夜、炎焼。偏に是れ、松永の云為を以て、三国に隠れなき大伽藍事、故なく灰燼となる。其の因果、忽ち歴然にて、誠に鳥獣も足を立つべき地にあらず。高山険所を、輙く、城介信忠、鹿ノ角の御立物、ふり立て〳〵攻めさせられ、日比案内者と聞し松永、詮なく企して、己れと猛火の中に入り、部類・眷属一度に焼き死に、客星出来、鹿ノ角の御立物にて責めさせられ、大仏殿炎焼の月日時刻易らざる事、偏に春日明神の所為なりと、諸人舌を巻く事。

 著者が同じなので骨子は『大かうさまくんきのうち』とそこまで変わらないが、注目されるのは松永討伐の大将である織田信忠の兜に鹿の角があったとすることである。これは単に「へえ、そう言えばそんな兜の写真見たことあるぞ、信忠も持っていたんだな」と思わせるための情報ではない。実際に信忠がそのような兜を装着していたかという問題でもない。太田牛一がちゃんと書いているように、信忠に鹿の角という組み合わせは神鹿の表現であり、この時の織田軍が神仏の加護を受けた聖なる軍隊であることを強調するためのものである。太田牛一織田信長の伝記を書くにあたり『多聞院日記』に代表されるような因果応報認識を援用し、織田家=仏教的な正義の軍隊、松永久秀=反仏教の悪人という枠組みを提示してみせたと言える。
 こうした認識を後世の歴史書も受け継ぐことになった。織田信長に関する歴史書松永久秀討伐の話はほぼ間違いなく出て来る話なので、そのたびに「松永久秀が死んだのは10月10日、これは奈良の大仏殿を焼いた日と同日で…」という因果応報の話型が再生産されていく。あまりに再生産されたせいで、三好三人衆との戦争や三好軍自体が戦争のためには寺社を焼くのを厭わない軍隊という前提が想起されなくなり、いつしか久秀が主体的に大仏殿を燃やしたという言説のみが強いインパクトを帯びることになったのだろう。
 「松永久秀が大仏殿を焼いた」とはかかる経緯を持つ言説であることを意識するべきだろう。極論を言うなら、10月10日に死んだのが三好長逸であったなら、「三好長逸が大仏殿を焼いた」という話が現在まで知られているに違いないのである。
(なお、『多聞院日記』から久秀の死を焼死としているが、その一方久秀らの首が安土城に届けられたことも記している。焼け死んでなお首が残っているのもおかしいので(燃えカスの頭蓋骨でも送ったのだろうか?)、「焼死」というのも事実と言うより大仏が燃えたことからの因果応報表現である可能性がある)

松永久秀はなぜ誤解されていたのか

死せる長慶、生ける久秀を走らす

 これまでで、松永久秀の悪行と信じられていた事績は全て事実無根であることが理解されたと思う。それでは、なぜ松永久秀にかかる悪行が押しつけられたのだろうか。東大寺炎上についてはすでに説明したし、久秀は幕府の身分秩序を乱しており、大和においては興福寺の支配体系に切り込んだことから、元からそういう意味では悪いイメージがあった。三好氏の要人への殺害疑惑は、三好政権が滅んだ結果からの逆算、犯人探しという要素が大きい。
 ただ、松永久秀が長らく誤解されてきたのはそのような後代からの視線ばかりではない。何よりある程度の客観性を帯びた情報源とされてきた『フロイス日本史』が、久秀を将軍足利義輝三好長慶を傀儡化していた「黒幕」と描いている。同様の記述(久秀が三好政権において主君長慶を傀儡化していた)は近世初期までの日本の軍記ものにも見られる。
 もちろん、松永久秀が主君である三好氏の当主を傀儡化したことなどない。すでに今谷明氏が30年以上も前に三好政権において、最高決定を成し得た(厳密に言うと最高決定文書を発給できた)のは三好氏の当主(長慶・義興・義継)のみであることを明らかにしている*1。久秀その人を頂点とする体制はなかったし、三好氏の当主は久秀に依存して文書を発給していたわけではない。『フロイス日本史』に代表される久秀の下剋上記述は事実誤認なのである。
 では、なぜこのような事実誤認が発生したのか。『フロイス日本史』は編纂物であるが、同時代の宣教師の書簡をまとめたものとして『十六・十七世紀イエズス会日本報告集』がある。これを分析した金光誠氏は1564年段階では、久秀は三好氏の一家臣としての記述しかなされておらず(「三好殿に臣従し、国を治め、法を司る役職にある」)、1565年に入ると三好殿より「はるかに大きな勢力を持ち」や公方様と三好殿を「己れの家臣のようにしている」などの大権力者としての記述がなされることを指摘した。つまり、久秀が義輝や長慶を傀儡化し、自身を最高権力者として振舞ったという記述が現れるのは同時代の宣教師の記録では1565年からなのである。『フロイス日本史』の記述は1565年の認識を64年以前に遡及させてしまっている可能性が高い。
 これは何を意味するのか。永禄7年(1564)7月4日三好長慶が死去する。しかし、長慶の死は秘匿され、同時代記録に記されることはなかった。宣教師の書簡では1565年段階のものは「三好殿」を長慶として記している。ただ、長慶は亡くなっているので、長慶本人はもはや文書を発給し統治を行うことは出来ない。すなわち、三好政権は最高権力者が公的には生きているのに、最高権力者が何も行っていない状況に置かれたわけである。
 長慶の権力は養嗣子の重存に継承されたはずだが、重存は幼少であり自律的な権力行使には難があった。永禄8年(1565)には京都浄福寺が三好氏に利権安堵を申請しているが、長慶の奉行人・長松軒淳世、故義興の奉行人・奈良長高、松永久通、三好長逸らがバラバラに重存の意を奉じる文書を発給しており、誰が三好政権の最終意志を保障できるのか、誰もわからなかった。
 こうした中、隠居したとは言え、三好政権の重臣かつ幕臣としての活動を行ってきたベテランである松永久秀の存在感が急浮上していったのではないか。久秀が実質的に権力意志の保障者として認識され、生きているはずの長慶は何もしない状況が生まれた。これが1565年に入ってからの、久秀こそが三好政権の意志であるという認識の源にあると考えたい。
 そしてこの認識には前提があると考えられる。それは細川氏綱から三好長慶への権力委譲である。通説では三好長慶は天文18年(1549)の江口の戦いで細川晴元を追放し、細川氏権力からの下剋上を成し遂げたとされている。しかし、近年では長慶の傀儡と見られてきた細川氏綱の存在が再評価され、天文末年までは氏綱が自身の配下を用いて山城・京都支配を行なっていたことが指摘されている。つまり、江口の戦いの結果成立したのは三好政権ではなく、細川氏綱政権であったのだ。
 ではなぜ細川氏綱政権は三好政権に移行し、その存在は語られなくなったのか。もともと三好長慶は四国の軍事力を動員できることもあり、細川氏綱政権では突出していた面もある。ただ、同時に丹波内藤国貞、河内の遊佐長教、和泉の松浦守らも摂津の長慶と同格の「守護代」として、氏綱を支持していた。氏綱政権は守護代層の連立によって支えられており、長慶一人が氏綱を傀儡化できていた理解は成り立たない。
 ところが、遊佐長教は天文20年(1551)に暗殺され、内藤国貞も天文22年(1553)に戦死、松浦守も弘治年間には姿を消す。長慶と同格の立場として細川氏綱を支えてきた存在は全て倒れたのである。逆に長慶は遊佐氏家中を調停したり、内藤国貞の後継者に久秀の弟・長頼(内藤宗勝)を*2、松浦守の後継者に甥の万満を送り込み、三好氏の後ろ盾による氏綱支持勢力の維持を図った。
 こうした中、氏綱の統治権限である京都・山城国支配も徐々に三好長慶の被官が担うようになる。守護代4人による細川氏綱擁立はいつしか、三好長慶1人による氏綱擁立となる。丹波・山城・和泉の統治権は長慶に収斂され、権門や国人たちも長慶による統治を期待するようになった。
 細川氏綱はあえてこの流れに逆らおうとはしなかった。氏綱は弘治年間に淀城に入り、以降は三好氏の名目的主君の地位を保ち、三好氏の要請によって動くことはあったが、もはや自発的に意志を発露することはなかったのである(ただ、淀周辺の統治権などは持っていた)。永禄年間に入ると、氏綱の被官たちも長慶を主君と見なすようになり、細川氏綱政権は何の内紛もなく自然な形で三好政権になったのである。
 同時代の畿内の人間はこの、細川氏綱の隠遁による三好長慶の政権確立を見ていた。すると、永禄7年(1564)以降の生きているはずの三好長慶の活動停止も同じ文脈で見られた可能性があるのではないか。折しも長慶の弟たちは全滅しており、その中での久秀への権力委譲が細川氏綱の場合に重ねられてもおかしくはない。ただ、長慶が目指したのは重存(義継)への継承であるし、久秀はすでに60歳手前で隠居の身であり、政治活動は後退していた。正確に見れば、久秀が「天下人」となる条件は揃っていないので、やはり誤認ということになる。
 松永久秀が同時代から下剋上者と見られた理由としては、この三好長慶が死んでいるのに生きているとされた結果、長慶が隠遁したかのように見えてしまい、松永久秀に権力が委譲されたように見えた」という事情がまず挙げられることになるだろう。
(おまけに言っておくが、晩年の長慶が「恍惚の人」などと呼ばれ、意志決定力を欠いていたかのような説も基本的には永禄7年以降の「生きているのに何もしない」という状況を永禄7年以前に遡及させてしまったことが淵源だと思う。実際の長慶は死の数ヶ月前まで文書を発給しており、その統治能力に陰りがあったとする理由はない)

三好氏に蔓延る松永人脈

 上に述べたのは長慶が生きている(と信じられた)間に久秀が下剋上者と見られた理由である。しかし、そもそも長慶から義継への権力継承が行われ、義継が自発的に統治を行うようになれば、久秀の存在は後景に退くことになるはずだ。久秀こそが三好政権の黒幕という理解もこれに伴ってなくなるはずである。しかして、その理解が生き続けたのはなぜか。
 永禄8年(1565)11月三好長逸三好宗渭、石成友通らは飯盛山城の義継に訴訟して、松永久秀の排除を迫った。長逸らは義継の奉行人である長松軒淳世と金山駿河守を同時に斬り殺したため、義継にノーの選択肢はなかった。こうして、三好政権は三好三人衆を名乗る長逸らと松永久秀の陣営に分裂し、全国的な闘争と連動しつつ内紛に突入することになる。
 松永久秀には細川氏綱の遺臣や摂津国下郡の勢力が味方したものの、義継を擁し畿内の要所を抑えた三人衆が優勢で、永禄9年(1566)6月には敗北した久秀は失踪し、8月までに順次松永方の勢力は屈服した。6月24日に義継と三人衆は長慶の死を公表して葬儀を行い、三好政権の継承を決定付けている。このまま義継と三人衆の権力が推移すれば、松永久秀は失脚したまま消え失せるはずであった。
 ところが、永禄10年(1567)2月三好義継は三人衆を「悪逆無道」を非難、逆に松永久秀を「大忠」として、松永方に移った。失踪していた久秀は再び姿を現し、義継とともに奈良に転戦する。その結果、東大寺大仏殿の戦いに至るわけであるが…。久秀としては三好氏の当主を自陣営に引き入れたのが重要である。ここに義継と久秀が再び連繋したのである。
 ここで、三好義継の家臣団というのを見てみたい。松永久秀陣営に移ってから三好義継の意志を奉じた家臣としては金山信貞、某元清、瓦林長房、瓦林長親、某俊昌、某信直、野間康久、多羅尾綱知、池田教正らがいる。一部の奉行人は実名しかわからない者もいるが、素性がある程度把握できる者について触れていくことにしよう。
 金山信貞は義継の腹心である。信貞は受領名「駿河守」を帯びており、金山駿河守としての先代に金山長信がいる。長信と信貞の関係はよくわからないし、もしかしたら同一人物なのかもしれない。信貞がどのような出自を持つのか正直よくわからない(幕府奉公衆に金山氏がいるが関係不明)が、金山駿河守は永禄6年(1563)から義継の意を体現する存在として見える。長信か信貞である金山駿河守の特徴としては、義継の重臣であると同時に松永久秀に近しい側面が見えることである。永禄8年(1565)の三好三人衆松永久秀との関係断絶を迫るクーデタでは駿河守が殺され、翌年にも駿河守が松永方に通じて高屋城を占拠する噂が立っている。そして永禄10年(1567)義継が松永久秀を支持した時も駿河守の策謀によるとされる。このように金山信貞は義継最側近にして無二の松永派であったと言える。
 瓦林長房、瓦林長親は瓦林氏である。瓦林氏はかつては越水城主であったが、三好長慶にその地位を奪われると、城主の血統は反三好方として動いた。が、一部の瓦林氏は三好氏に従ったようである。特に瓦林秀重は松永久秀より偏諱を受けたと思われ、その奉行人として広く活動した。また、久秀の影響が強い越水衆として瓦林三河守がおり、永禄三好の乱に際しても松永方として戦っている。こうしたことから、瓦林長房・長親も三好氏の奉行人ではあるが、久秀の影響がある可能性がある。
 野間康久、多羅尾綱知、池田教正については松永久秀と若江三人衆の血縁関係 - 志末与志著『怪獣宇宙MONSTER SPACE』でも触れたので、詳細はそちらに譲るが、結論を言うと野間康久は久秀の甥、池田教正の妻は久秀の姪である。また、多羅尾綱知も息子が久秀の子・久通の「若衆」となって松永名字を授けられていた。
 何が言いたいのかだいたいわかってきた人もいるだろう。要するに義継の重臣というのは松永久秀に親しかったり、一族が久秀に仕えていたり、血縁を有していたりする人間が多いのである。三好義継という当主を戴く三好氏家中には松永人脈が大量におり、彼らを介して久秀は影響力を及ぼせる、正確に言えば及ぼせたように見えたに違いない。外からは松永一派が三好氏を乗っ取ったようにも見える状況だったのである。
 しかし結局これもそう見えた、以上の域を出ない。そもそも義継の重臣に親松永が見えるのは原因ではなく結果である。反松永である三好三人衆とこれに与同する三好家臣たちは義継の下にいなかったのだから、必然的に松永派が結集することになる。義継の重臣が意志を奉じるのは義継のであって、いくら久秀と親しくても久秀の意志が奉じるわけではない。
 逆に松永氏自体が義継を主君として奉じている。永禄11年(1568)義昭幕府は義継に河内半国を、久秀に大和一国を与えた。この時点で久秀がその所領を保障される対象は将軍足利義昭となったのであり、この時点で三好氏との主従関係が切れ、独立大名面を初めてもおかしくはない。ところが、永禄13年(1570)1月12日久秀は若江城の義継の下に赴いている。これは年頭礼のためとしか考えられない。久秀の主観としては義継は変わらず主君であった。
 さらに本当に三好氏を松永人脈で乗っ取ってしまうつもりであるのなら、その先の歴史の流れはかなり奇妙となる。元亀元年(1570)三好三人衆相手に劣勢であった義昭幕府は松永久秀の仲介によって和睦を結んだ。この時久秀の娘が三好長治に嫁ぐことも決まったようである。ここまではまだ義昭幕府の有力構成大名としての働きで理解できる。しかし、これを切っ掛けに三人衆と松永久秀は急接近を始める。
 元亀2年(1571)3月22日には若江城の義継へ松永久通と並んで三人衆側の要人が礼に参っている。三人衆側の要人とは三好長逸、三好康長、石成友通、加地久勝、松山彦十郎らである。そして6月には義継と松永氏、三人衆が一味して河内の畠山氏を攻撃、ここに三好氏は義昭幕府に反旗を翻した。元亀3年(1572)には義継の安宅氏への援軍要請の副状を久秀と三好長逸が並列して出している。ここに久秀と長逸が並んで、三好氏当主の意志を遵行するかつての体制が復活したのである。久秀が本当に三好氏の乗っ取りを企図しているのなら、今更三人衆人脈を迎え入れ、自身と並列されるような体制を受容するわけがない。この動きは義継に主導権があったと言えるだろう。久秀にとっても義継の意志が第一であった。
 実際に久秀は義継への義理を果たした。天正元年(1573)11月16日義継は織田信長に通じた多羅尾綱知、野間康久、池田教正に離反され、金山信貞とともに自害に追い込まれた。松永氏は筒井順慶に押され多聞山城に籠城していたが、11月下旬についに織田信長への降伏の意志を固めた。つまり、久秀が信長に屈したのは義継が死んでからであった。三好氏の当主が亡くなるまで、久秀もまた三好氏の家臣として動いたのである。
 そういうわけでこれもまた事実誤認であるわけだが、「三好義継が松永久秀を支持した結果、その重臣が松永人脈だらけになり、久秀が義継を傀儡化しているように見えた」が2つ目の答えとなる。

松永久秀は「忠臣」か

 松永久秀にまつわる誤解の言説がどのように生成したものなのか、解き明かせたように思う。もうここまでで終わっても良いのだが、少し欲張ってもうちょっと続くんじゃ。
 こうして実際の松永久秀の動きを見ると、久秀を三好家への忠臣と言っても間違いではない。これはこれでそういうキャラ付けで今後売っても、それが放つ新しい魅力もあるだろう。しかし、私は捻くれているので少し視点を変えてみたい。
 なぜ、松永久秀は通説と異なり、三好氏の当主に従い続けたのだろうか。もちろん久秀は「忠臣」であったからという解釈でも良かろう。しかし、より外面的と言うか、ドライな解釈もできる。
 まずは精神的な側面について。戦国時代は下剋上と言うが、旧主の存在を完全に捨象してしまうのは困難である。そもそも主君を殺害するという事態はあまり起こらず、追放することが多い。これはやはり主君殺害が大罪であり、敵勢力に大義名分を与えてしまうことに繋がるからである(実際に主君を殺したはいいがその後自身も排除された事例も多い)。主君というのは否定することが難しい。実際、三好氏にしても「御屋形様」と敬称するのは細川京兆家の当主のみであり、京兆家当主に実権は残されていなかったとは言え、その存在はやはり主君であったのである。
 一度存在した主従関係を主観的に清算するのが難しいことは、次の後北条氏の文書からも窺うことができる(『戦国遺文 後北条氏編』一二四「北条家朱印状」)。

巳年之箱根竹未進候、急度人夫越候て可為切候、駿府御屋形御越候、さ様之普請彼是ニ入候間、早々越候て可為切者也、仍如件、
  天文五年(丙申)二月二日
   (虎朱印)
         那賀之郷
            百姓中

 後北条氏は幕府官僚伊勢宗瑞が駿河に下向し、今川氏の御一家となったのをルーツとする。宗瑞は伊豆・相模に勢力を拡大、後継者氏綱は北条名字を名乗り、関東の戦国大名となった。ところで、上記文書が出された天文5年(1536)と言うと、後北条氏がその領国の名で以て呼ばれるようになってから40年弱が経過している。それでもなお、後北条氏は文書内で今川氏の当主を「御屋形」と称し、その行動に敬語を用いている。今川氏を主君とし敬う意識は後北条氏になお脈々と存在したのである(ちなみにこれが清算されるのはこの直後の河東一乱が契機であるようだ)。
 典型的な戦国大名とされる後北条氏からしてこのような意識なのであるから、久秀が精神的に独立するという発想とは無縁なのは当然ではないだろうか。特段忠に篤いと言うよりは単に当時の身分秩序の中で主従関係に関しては常識的であると考えることも出来るだろう。
 次に物質的な側面がある。松永久秀の領国と言えば何より大和だが、述べてきたように久秀の大和平定は三好氏の武将としての行動であった。久秀の大和平定には副将格として三好氏家臣として軍事に優れた松山重治が付けられ、大和国内で反乱が起きると安宅冬康らが援軍として駆け付けている。また、久秀は大和国に所縁があったわけではなく、大和国人から見ると一義的にはただの侵略者であった。久秀は手際よく柳生宗厳など大和国人らを自らの配下に編成していったが、筒井氏を筆頭に反松永の国人らも多かった。多くの国人は久秀と厚い信頼関係や主従関係があったわけではない。大和の勢力が久秀に従うのはあくまで軍事力によるものであるが、その軍事力の淵源は久秀個人ではなく三好氏であった。
 つまり、久秀にとって三好氏からの独立は大和統治に関して三好氏からの援助がなくなることを意味していたのである。象徴的なのは元亀2年(1571)の辰市城の戦いである。この戦いでは久秀は「左京大夫衆」(義継の家臣)を率いたと諸記録に一致し、大敗の結果の大量の戦死者も摂津・河内を出身地とする三好氏の家臣たちばかりであった。久秀の大和統治が行き詰るほど、三好氏の援軍は生命線であった。
 以上、精神的な面と物質的な面から、松永久秀が忠臣だろうがそうではなかろうが、三好氏から独立してしまうことは「現実的」ではないと示したつもりである。

松永久秀の実像とは

 三好氏の要人を殺してはいないし、足利義輝も殺してはいないし、東大寺大仏殿を意識的に焼き討ちしたわけでもない。三好家や幕府で専横を振るったわけでもない。こう書いていくと何だかガッカリする方もいるかもしれない。しかし、上記が否定されるからと言って、あるいは久秀は忠臣だからと言って、それで久秀が清く正しく美しい男になるわけではない。
 例えば、三好軍の進撃によって多くの寺社は実害を蒙っているが、久秀も戦闘中その一翼を担っていたとは言える。久秀個人で言うと、やはり大和統治に関して興福寺の地位に打撃を与えたのが決定的に大きい。大和国を「神の国」から「人の国」に変える先鞭をつけたのが久秀であり、その功績は日本が中世から近世に移行する上で大きな役割を果たしたと言えよう。
 そして、松永久秀は目的のためには殺人を厭わない側面も確かにあった。久秀と大和国人に篤い主従関係がなかったのは先述した通りで、大和国人は実際に久秀から離反することもあった。その時久秀はどうしたか。その国人から取っていた人質を多聞山城で串刺しにして殺したのである。言うまでもなく、久秀に逆らったらどうなるかを奈良の市民たちに教えるための見せしめである。
 また、和泉松浦氏の「四人之者」であった富上宗俊や畠山氏の家臣で久秀には与力として仕えていた交野城主の安見右近などは実際に久秀に招かれ殺された。富上宗俊の事情は本圀寺の変に関わるもののようなので正統性はありそうだが、安見右近は三好勢力の決起に従わないことへの粛清のようだ。敵となった人物に容赦はなく、あっさりと殺してしまうのが久秀であった。
 こう見ると松永久秀の属性として残忍性と言うのは否定できるものではない。久秀が上層の人物を殺したというのは冤罪であるが、そうしたことをしてもおかしくない人物としての造型はすでに存在したとは言えよう。松永久秀はやはりアクの強い、個性的な人物なのである。
(今回の記事は久秀は悪人なのかどうかという話がテーマなのであまり触れられなかったが、茶の湯に優れ茶器コレクションを持っていたり、多聞山城の内装について細かく指示する美的センスであったり、曲直瀬道三に性の指南書をもらったり、幕府・朝廷・公家との折衝を担当したり、畿内支配にあたるため清原枝賢を招いて行政法特講を受けたり、久秀には面白い側面がまだまだある。さらに久秀を知りたいのなら参考文献の本を読まれたい)

参考文献

松永久秀と下剋上:室町の身分秩序を覆す (中世から近世へ)

松永久秀と下剋上:室町の身分秩序を覆す (中世から近世へ)

松永久秀 (シリーズ・実像に迫る9)

松永久秀 (シリーズ・実像に迫る9)

松永久秀 歪められた戦国の“梟雄

松永久秀 歪められた戦国の“梟雄"の実像

*1:実際にはその後の研究で松永久秀三好長逸が例外的に最高決定文書を発給することがあったと示されている。また三好三人衆政権の時は三人衆の裁許状が最高決定文書として扱われた

*2:厳密に言うと内藤氏を継承したのは長頼の子(内藤貞勝)で、長頼は息子を後見した