織田信長
『戦国遺文 三好氏編』一四〇〇号「三好長逸書状」の年次比定について、近年ちょっとした論の食い違いが見られたので少し考えてみる(というほどのものでもないが)。まずは問題となる文書を以下に引用し、私訳を示しておく。 三好長逸書状(切紙) 保阪潤治…
ここ10年ほど畿内戦国史を彩る風景はだいぶ様変わりしている。信長上洛以前の権力(室町幕府・細川京兆家・六角氏・畠山氏・三好氏)の実態解明が進んだことで織田信長の上洛、あるいは織田政権の成立を画期と見なす時代観は大きく動揺し、再考を迫られてい…
日本史を素描していくための史料として基礎となるのは、やはり当事者がその時々に遺した文書や手紙、日記ということになる。こうした史料にはリアルタイムの認識が直に反映されていると見られるからである。ところが、こうした史料の「素性」というのはすぐ…
以前の記事(松浦光(孫八郎)―和泉国の戦国大名 - 志末与志著『怪獣宇宙MONSTER SPACE』)では松浦光が亡くなったのを、織田信長が光に進物の返書を宛てた天正3年(1575)12月から、『兼見卿記』に「泉州松浦後室」が出現する天正4年(1576)8月までの間と…
元亀元年(1570)に行われた織田信長の朝倉義景攻めは信長の人生を語る上で外せないイベントの一つである。と言っても、朝倉攻めそのものが画期と言うよりも、この最中に織田信長の同盟者であった浅井長政が信長より離反し、以降織田信長は長期にわたって、…
松山重治とは一体何者なのか?松山重治なんて初めて聞いたという人にも、三好氏を齧っていて名前を知っている人にとってもこの問題は深淵なものを孕む。三好氏家臣の中での出世頭と言えば松永久秀である。近年では三好長慶の家臣団編成の特異性が指摘されて…
最初に言っておきますが、この記事は疑問を噴出するだけのもので、記事タイトルの回答要素はありません。荒木村重研究会、何とかしてくれー!ってやつです。 荒木村重はまあまあ有名な戦国武将なのではないかと思います。通説だと織田信長に取り立てられて摂…
三好康長はどちらかと言えばマイナーな三好一族の中ではそこそこ名前が知られている武将ではないかと思われる。なぜなら、康長は織田信長の重臣となっており、近年は本能寺の変の原因として四国説がクローズアップされる中、四国説のキーマンとなる人物だか…
何となくリアルっぽさがある人気戦国歴史漫画『センゴク』を読んでいて思わず吹き出したシーンがある。『センゴク』第一部第五巻(だったか…)には比叡山で織田信長包囲網を代表する大名たちが参会する、漫画らしさ重視の場面がある。ここに現れたのは朝倉義…
天正元年(1573)は濃尾の大名織田信長がそれまで共に室町幕府を運営してきた将軍足利義昭を追放し、織田政権を樹立した年である。また、この年には信長がそれまで戦ってきた有力大名の死が相次いだ。4月には甲斐の武田信玄が死に、8月には越前の朝倉義景、…