志末与志著『怪獣宇宙MONSTER SPACE』

怪獣monsterのコンテンツを中心に興味の赴くままに色々と綴っていくブログです。

松浦光(孫八郎)―和泉国の戦国大名

 唐突だが、和泉国の戦国時代を説明せよと言われて、すらすらと答えられるだろうか。そもそも和泉国戦国大名はいたのか、それさえも意識にない人が多いと思われる。そうした中、松浦氏は和泉戦国史の鍵を握る氏族である。ところが、松浦氏の情報は未だ研究史においても断片的なものしか示されておらず、共通の前提すら存在していないという状況にある。そういうわけで頭の整理がてらと松浦氏の知名度アップのために松浦光についてまとめてみることにした。和泉国にそのような人物がいたのかと思ってもらえれば本望であるし、松浦氏の存在を意識することでこれまでの歴史の見方が変わってくるかもしれない。ただこの記事はかなり冗長なので思い通りに書けたのかはだいぶ悩ましいのだが…

※本記事は松浦光および和泉松浦氏に関する情報を募集しています。また事実の誤謬などありましたら遠慮なくご指摘くださいますようお願いします。

和泉国守護代松浦守の下剋上

 室町幕府体制下の和泉国は、守護が二人置かれる特殊な国であった。二人の守護は上守護下守護と呼ばれていたが、その管轄範囲が領域あるいは権限によって分割される類のものではなく、守護二人で和泉国の守護権を行使するという他に例を見ない形式を採った。なお、上守護・下守護両者とも細川氏であるが、系統は異なる。上守護を務めた系統は細川頼長(細川頼之の弟・頼有の子)の子孫で、「刑部大輔」あるいは「刑部少輔」の官途を世襲していた。下守護の系統は細川基之(細川頼之の弟・満之の子)の子孫で、代々「民部大輔」を名乗ったと見られる。和泉国守護は畿内にあって堺を掌握可能なため、室町時代前期には山名氏清や大内義弘が反乱を起こす拠点になることもあった。室町幕府和泉国守護を細川氏から二人置いた理由は定かではないが、、一人による和泉国掌握を回避する意図があったと評価される。
 和泉国の二人の守護の権限に相違はなかったようだが、守護に連なる人間は異なる。例えば、上守護代は宇高氏が務め、下守護代は斎藤氏、久枝氏が交代で務めていた。宇高氏は伊予国新居郡の国人、斎藤氏は幕府奉行人の一族、久枝氏は伊予国和気郡出身の河野一族で、いずれも細川氏の内衆を起用したものである。
 一方で、細川氏は現地の和泉国人を被官として編成することには従来積極的ではなく、国人たちは一揆契約を結ぶことで自立していた。応仁の乱の最中、両守護が和泉国に不在となったため、和泉国人の三十六人衆は「国一揆」を成立させて、国内の不安定に対処している。しかし、この和泉「惣国」体制は長続きせず、上守護細川元有・下守護細川基経の復帰によって崩壊に追い込まれ、これを契機にして和泉国人は細川氏の守護権力に編成されていくことになる。
 こうした中、和泉国に出現し勢力を蓄えて行くのが松浦氏である。上守護細川元有の被官に松浦五郎左衛門尉が見えるのを端緒に、明応年間に松浦盛(五郎左衛門尉か)が活動し、盛の後継者松浦守は上守護代となって、公権を行使した。松浦氏と言えば肥前松浦氏が著名な存在だが、和泉国守護代の松浦氏もその名字を「まつら」と訓じることと、嵯峨源氏特有の一字名から、肥前松浦氏から分かれた一族である可能性が高い。とは言え、肥前松浦氏の一族がいつ、いかにして和泉国に渡来し、どのように細川氏の被官の地位を得たのかは謎に包まれている。
 さて、永正4年(1507)細川京兆家の当主であった細川政元が暗殺されると、畿内政治に多大な影響力を有していた細川一門は内紛に突入する(両細川の乱)。和泉国の守護も上守護細川元常は細川澄元を支持(元常の母は細川成之の娘で澄元とは従兄弟であった)、下守護細川高基細川高国を支持し、分裂することになった。また、明応9年(1500)には河内・紀伊守護である畠山尚順和泉国に進出し、両守護を駆逐して(上守護元有・下守護基経ともに自害)、守護権を行使したことがあった*1。以降、和泉国の一部には畠山氏の勢力が入り込み、尚順の子・畠山稙長は細川高国と協力して、弟を「細川晴宣」として和泉国上守護に擁立した。こうして和泉国は上守護、下守護・畠山氏の勢力によって争われることになったが、奇しくも内紛に至ることが和泉国の守護権力が複数存在するという事態を克服することになる。享禄4年(1531)細川高国が大物崩れで敗れ去ると、細川晴宣は運命を共にした。また、下守護系の子孫も消息が途絶えてしまう。和泉国の守護は上守護細川元常一人となった。
 こうした中で上守護代である松浦守の存在感もまた大きくなる。細川澄元・晴元と連携する元常は四国にいることも多く、その間元常派の和泉国人たちを束ねたのは守であった。守は日根野氏などを独自の内衆に組織し、その勢力を保つため、場合によっては主君元常から離反して高国与党となることもあった。こうした状況を背景に、享禄年間には守は独自の判物を発給するようになる。また、天文5年(1536)本願寺和泉国守護勢力に贈った音信では、松浦守は主君細川晴貞と同じ「五種十荷」が贈られている(『天文日記』)。守の勢力はすでに主君と同格であると認識されていた。しかし、河内畠山氏への音信には馬があったのに、自身には馬が贈られなかったとして守は激怒し、本願寺の使者を謝絶する有様であった。守の自意識はすでに三管領家の畠山氏に自身を比するほど、肥大化していた。
 そして、天文17年(1548)三好長慶が主君細川晴元に反旗を翻すと、守は三好長慶に味方する一方、細川元常・晴貞父子は晴元を支持し、守護と守護代は決裂に至った。翌天文18年(1549)晴元が没落すると、守は細川元常・晴貞父子を追放し、ついに和泉国の実権を名実ともに掌握した。元常は天文23年(1554)近江で客死し、晴貞も活動は見られなくなる。和泉守護細川氏は滅亡したのである。
 松浦守はこうして和泉国において「下剋上」を遂げた。しかし、彼に残された時間は少なかった。文亀元年(1501)において「年少」ながらも成人していた守(『政基公旅引付』)は天文末年においてすでに60歳以上に達していたことは疑いなく、天文末年から弘治年間までに亡くなったと見られる。守には若年の息子がいたとも言う*2が、家族関係については謎が多い(守を細川元常の弟・細川有盛の後身とする(『永源師檀紀年録』)説もあるが、守本人は松浦氏を名乗り続けているため、細川氏出身であったことには疑問が多い)。守の後継者となったのは、松浦万満であった。

(本来的には松浦守にももっと多くのすったもんだがあるのだが、守は長寿であるし今後評伝が出てもおかしくないと考え手短にまとめた)

三好政権下における松浦氏と和泉国支配体制

 それでは松浦万満とは何者か。かつては万満は守の息子と見られてきた。ところが、万満をとりまく周囲の環境が明らかにされるとともに、十河一存三好長慶の弟)の後見を受けたこと、九条稙通が和泉に下向し、万満・孫八郎を補佐していたこと、三好義継と並列されることなどが指摘された。これらにより、万満は十河一存の子、九条稙通の孫、三好義継の弟とする理解が支持を得るようになった。
 さらに万満に関する問題として、万満に後続して出現する松浦孫八郎、松浦光を万満の後身と認めるかという課題がある。なぜ、このような問いが立てられるかと言えば、後述することになるが、孫八郎と同時期に孫五郎を名乗る松浦虎が活動し、孫八郎と孫五郎では混同されやすく、さらに虎も後に「肥前守」を称したため、「肥前守」を称する光と人物がごっちゃになって行くからである。永禄末期~元亀に至るまで、松浦氏当主として孫八郎、孫五郎、孫五郎虎、肥前守虎、肥前守光が存在する状況で誰が万満なのかかつては不分明であったのだ。
 しかし、これらの問題も近年に至りかなり整理された。孫八郎は九条稙通らしき人物の補佐があったことから、万満と同一人物であることは確実視されている(孫八郎=万満)。孫八郎と争った松浦虎の動向もかなり整理され、万満=孫五郎虎とする理解はもはや成り立たない(孫五郎≠万満)。最後に残されたのは天正年間に活動する松浦光が孫八郎の後身であるかどうかだが、これも状況から考えるに孫八郎が排除されて、光が新たに松浦氏当主に就いたとするのは考えにくいのではないだろうか。よって、本記事では万満=孫八郎=光とし、基本的に松浦光と呼称することにする。
 以上の仮定から光の系譜を示すと次のようになる。光の生年は不明だが、兄である三好義継が天文20年(1551)生まれで、先代の松浦守が弘治年間には姿を消すことから、天文22年(1553)前後に生まれたと考えられる。実父は三好長慶の弟・十河一存で、母は九条稙通の娘(養女)である。幼名は万満(「萬満」)で読みは「まんみつ」である。松浦孫八郎の初見は永禄9年(1566)であるので、この数年前から直前にあたる時期に万満は元服し、仮名「孫八郎」を称するようになった。その後、元亀2年(1572)以降松浦氏当主の受領名である肥前守」を名乗るのが確認され、元亀3年(1573)には実名「光」が伴っている*3。なお、「光」という実名は祖父九条稙通が『源氏物語』を愛好していたことに由来する可能性もある。
 さて、前節では松浦守の下剋上をすんなり書いてしまったが、守護を追放するという劇的な転換がすぐに受け入れられたわけではない。反松浦氏の和泉国人として岸和田兵衛大夫が活動しており、細川晴元と結んで松浦氏と戦っていた。岸和田氏は天文20年(1551)にも三好氏と交戦している。この過程で松浦氏と三好氏は協力関係を進展させていったと見られる。そして、三好政権の下で和泉国内の対立は止揚され、新たな統治体制が生まれることになる。
 松浦守という南方の有力者の死後、三好長慶は新当主光に書状を発給し、弟であり光の実父・十河一存岸和田周防守の後見を受けることを促した。さらに注目されるのは、弘治3年(1557)には十河一存岸和田城在城が確認され、以後松浦氏の本拠地となったことである。松浦氏と岸和田氏の対立は、岸和田氏が松浦氏に属し、岸和田が和泉国支配の拠点となることで発展的解消を遂げたと評価できよう。岸和田城は戦国時代にはすでに存在していたようだが(岸和田古城)、三好政権の下、新たに大幅な改築がなされ近世岸和田城のベースとなったと考えられる。
 さらに松浦氏家中の有力集団として登場するのが「四人之者」である。「四人之者」は若年の松浦光に代わり、行政を執行し、在地との取次を務めるなど、光を補佐、意見する地位にあった。その構成員は富上宗俊*4(石見守)、寺田越中入道(実名は永禄前期に「知」を自署、後に「弘家」と称している。「知」と「弘家」が同一人物かは不明)、長曽根*5(「長隼貞」、官途名は隼人、後の安芸守と同一人物か、実名は貞○と思われる)、松浦俊(孫大夫)である。この中で来歴が最も明らかなのは寺田氏で、戦国時代初期には守護細川氏の被官として名前が見える。長曽根氏は和泉国大鳥郡に地名として長曽根(現大阪府堺市)が見えるため、同地出身の国人であろう。一族か前身と思われる長曽根右兵衛尉が「与力」として河内守護代遊佐氏の部下となっていることが確認できる(『天文日記』)。松浦俊は松浦氏の一族、富上氏は出自不明である。この「四人之者」にはそれまでの松浦氏の親類、配下として名が挙がっていた稲井氏、村田氏、森本氏、安松氏、山本氏、高槻氏などは入っておらず、和泉国統治権力となった松浦氏家中を支える官僚機構として再編された人選と見られる。
 また、光の実父である十河一存和泉国との関わりは明確ではないが、和泉国人福田氏への感状が確認される。一存は和泉国人らを率いて根来寺と交戦しており、政治的役割よりも和泉の武士たちを組織する軍事的役割を担っていたようだ。一方、堺に滞在する一存に礼銭が贈られる例もあるため、一存は和泉国において松浦氏家中の高次に位置する存在だった可能性もある。一存は三好政権において和泉の統括者であり、上下関係が存在するにせよしないにせよ、松浦氏家中を支援する存在であった。
 つらつら述べてきたが、三好政権における和泉国支配最大の転換は、それまで守護所が置かれ、和泉国支配の拠点であった堺が和泉国統治から切り離され、三好政権によって奉行が設置される直轄都市となったことである。堺はかつて細川晴元三好元長らに擁立された足利義維の政権(「堺幕府」)の本拠地となったこともあり、三好氏との関係が強かった。三好長慶は堺に菩提寺の南宗寺を創建し、堺を三好一族の宗教的拠点として確立している。長慶は堺の都市共同体の掌握に努め、堺の商人を御用商人化し、三好氏の外交に活用するなど密接な関係を持つようになった。堺にはもはや松浦氏権力が介在することはなかったが、十河一存九条稙通は堺に滞在することがあり、そうした点で関係を有していた。
 三好政権下での松浦氏の和泉国支配のありようをまとめよう。堺を重視した三好政権は、堺から和泉一国を統治する拠点という性格を払拭して直轄都市化した。代わって和泉国を統治する政庁として整備されたのが岸和田城である。この過程で反松浦氏であった岸和田古城の主・岸和田氏は松浦氏の重臣となり、その対立は止揚されたと考えられる。岸和田城には当主松浦光と光を支える有力集団「四人之者」が滞在しており、和泉国の公権を行使する主体であった。この松浦光の公権者の地位は三好政権および十河一存によって保障されたもので、一存も岸和田城に滞在し、和泉国人への軍事指揮権を握っていた。
 軍事を十河一存が握り、行政を松浦氏家中が担っていたとでも言えようか。しかし、この体制も有為転変を余儀なくされるのである。

和泉国をめぐる所有関係と抗争

 さて、さらに松浦光と和泉国をめぐるファクターを紹介し、情勢の推移を見て行くことにしよう。
 まず挙げなくてはならないのは九条稙通である。貴族の最高峰たる摂関家九条家の当主で稙通本人も天文2年(1533)に関白を務めている。その稙通がなぜ和泉国に関わって来るのかと言えば、和泉国南部の巨大荘園日根荘が九条家の領地であったからというのが第一義的理由であった。かつては文亀元年(1501)稙通の祖父・九条政基和泉国守護権力が混乱に陥った隙を突いて、日根に下向し直務を企図していた(『政基公旅引付』)。稙通も九条家の本来の家領を維持すべく、地方への下向を繰り返していた*6。稙通の地方下向は広範囲に及び、ある時は赤松氏、ある時は尼子氏、ある時は大内氏、ある時は足利義維と提携して九条家の勢力の維持・伸張を図っていたのである。
 そのような中で最終的に稙通の提携相手として浮かび上がってきたのが三好氏であった。三好長慶細川晴元を追放すると、稙通は娘*7を長慶の弟・十河一存に嫁がせ、一存と結ぶことで三好政権の力による家領維持を図った。九条家の領地を一存が代官として知行し、年貢を九条家に届けるという契約によって両者は互恵的関係にあった。稙通は自らの後継者である九条兼孝の処遇を三好長慶に委ねるなど三好氏との関係を強化していく。その中で、稙通にとっては孫である光の存在は三好氏との提携によって家領を維持すると言う方針の要石と言えよう。
 逆に松浦氏と敵対的であったのが根来寺である。紀伊国の寺院勢力である根来寺は永正元年(1504)に和泉国惣国半済の権限を獲得すると、和泉国進出の足掛かりを掴んで、南部の日根郡の大部分を勢力圏とした。根来寺は在地の豪族や百姓と直接結びつき、彼らの子弟を入寺させることで密接な関係を築いた。この中で根来寺と対立する国人や守護被官は駆逐されていくことになり、松浦氏を頼る者もいた。根来寺紀伊の守護公権を有する畠山尾州家とも懇意で、しばしば畠山氏の軍事動員を受ける形でその与党となった。根来寺和泉国支配を目指す松浦氏にとって仇敵であった。
 細川晴元を追い、細川氏綱を新たに擁することで畿内に覇権を立てた三好長慶には畠山氏が当初同盟しており、松浦氏と畠山氏傘下の根来寺は同陣営にあった。この状況下で松浦氏と根来寺の対立は抑制ないし調停されていたと考えられる。ただし、松浦守死去の影響か、反三好陣営の調略か、あるいは三好政権による和泉国統治体制の改編の影響か、永禄元年(1558)より和泉国をめぐる対立は抜き差しならない状態に突入する。
 永禄元年(1558)6月にはいち早く九条稙通が和泉に下向し、9月には十河一存が摂津・阿波・淡路の軍勢を引き連れて、和泉国中に示威行動を行なった(『細川両家記』)。この年、三好長慶は帰京を目指す足利義輝と交戦していたが、畠山氏の協力が得られていなかった。畠山氏の不協力は現職の将軍相手の戦いという後ろめたさもさることながら、和泉国における紛争と密接に連動したものとも考えられよう。結局、三好長慶足利義輝との間には和睦が成立し、11月義輝は帰京を果たした。和泉国の騒乱もひとまずは収まったものと見られる。
 しかし、永禄2年(1559)5月23日には長慶旗下の軍勢と播磨国衆が十河一存に合流し、29日に根来寺と戦ったが一存は敗れている(『細川両家記』)。この直後に三好軍は畠山高政を支援して河内に侵入しているから、この軍事行動も畠山氏の内紛に絡んだものかもしれない。三好軍は永禄3年(1560)2月12日に三度和泉に出兵しており(『細川両家記』)、この時の戦果は不明だが、8月に九条稙通が帰洛するため(『源氏物語竟宴記』)、とりあえず和泉国をめぐる混乱は収拾されたらしい。なお、この年の7月より三好軍は再び河内に攻め入り、今度は畠山高政を攻撃して河内から畠山氏権力を駆逐して河内を領国化している。根来寺も畠山氏に協力して三好氏と戦ったが共に敗れており、和泉国で活動する余力がなかったとも言える。
 こうして和泉国には静謐が戻ったかに見えたが、永禄4年(1561)4月に十河一存が死去する(『己行記』)と、再び情勢は流動的となる。南方の抑えであった一存の死は、この地域の緊張の高まりと一存が後見していた松浦光の地位の危うさに直結する。和泉国南部の権益維持を狙う根来寺河内国奪還を望む畠山氏の軍勢が再び進出してきたのである。三好長慶河内国南部を統治していた三好実休和泉国を任せた。また、十河一存の未亡人、すなわち実質的にはその父である九条稙通に、三好氏の十河氏・松浦氏への変わらぬ後援を約束した(『戦三』)。実休は日根野氏に河内国内で所領を宛がっており(『戦三』)、和泉国人に三好氏に従うことによる実利を保証した。こうした政治的配慮によって、三好氏は和泉国支配を維持し求心力の保持を図った。
 だが、永禄5年(1562)3月5日の久米田の戦いで三好実休が敗死し、四国勢が離散すると和泉国は再び揺れる。実休の死によって、岸和田城は一時安宅冬康が守ったものの、守り切れずに退城を余儀なくされ(『細川両家記』)、再び和泉松浦氏を支える三好氏の存在が空白になった。北からは六角氏の攻勢を受けていた三好氏は窮地に陥り、松浦氏を支えるどころではなくなったのである。この後の松浦氏の動向はよくわからないが、5月20日の三好氏と畠山氏の戦いでは、畠山方の松浦氏の軍勢が崩れたことが畠山方敗北のきっかけになったという(『大館記』)。
 教興寺の戦いで三好氏の敵に松浦氏がいた―この事実をどのように捉えるのかは解釈の問題になる。この松浦氏は松浦光なのか、以前から畠山氏と提携していたと思われる松浦虎(後述)なのか、あるいは反三好氏の和泉国人が松浦氏を標榜したにすぎないのか。どれが正しいのか、決め手はない。ただ、安宅冬康が岸和田城から退いて以来、松浦氏への三好氏の後見は消滅している。松浦光や光に従う和泉国人と三好氏の関係は断絶してしまったのである。こうした状況で根来寺の和泉への侵入を食い止めるには、畠山氏に協力して権益を主張するのが最善の道であると考えられる。よって、松浦光が教興寺の戦いで畠山方に立ったと想定しても無理からぬことであると言える。
 しかし、教興寺の戦いで畠山氏は敗北して駆逐され、三好氏は河内・和泉の支配権を回復した。松浦氏は再度三好氏の配下に収まったと見られる。だが、松浦氏離反の可能性はこの後の歴史に爪跡を残していく。

松浦虎(孫五郎)との闘争

 教興寺の戦いで三好氏は畠山氏に勝利したが、すぐに平和が回復されたわけではなく、和泉方面では根来寺との対陣が続いたようである(『長享年後畿内兵乱記』)。この争乱は大規模な戦闘とはならず(三好氏、根来寺ともに戦闘は消耗が激しいと感じていたのだろう)、永禄6年(1563)10月には和睦が成立することになった(『細川両家記』)。これに伴って、九条稙通は最低でも永禄6年(1563)末から永禄7年(1564)7月にかけて堺に滞在し(『嵯峨記』・『言継卿記』)、「兵革」の処理にあたっている。
 ところが、永禄6年(1563)の三好・根来寺の和睦の際になされた境界の設定は松浦氏に不利な面を含んでいたようだ。具体的に言うと、松浦氏に属する所領が削られ、根来寺の所領が認められることで和睦が成立した。この結果、松浦氏は所領の整理・調停を行う必要に迫られた。
 例えば、三好政権下で和泉国日根野氏に発給された所領に関する文書は以下のようである。

年次 文書名 出典 内容
永禄4年(1561)8月2日 三好実休書状 『戦三』七八〇 三好実休日根野孫七郎に河内国八上郡黒山、丹北郡柚上、志紀郡長原、小山などの所領を給付する
永禄5年(1562)5月9日 富上宗俊書状 『戦三』八一八 富上宗俊、日根野孫七郎に和泉国日根郡・泉郡の所領に替えて、南郡の天下本知分の半分を給付する
(永禄6年)5月9日 富上宗俊書状 『戦三』八八七 富上宗俊、日根野孫七郎に根来寺との和睦の際には日根野の本知分の回復が難しいと通告
(永禄8年)12月21日 松浦虎書状 『戦三』一二二三 松浦虎、日根野孫七郎に和泉国日根郡日根野の本知分の回復させる

 日根野孫七郎から見ると、三好氏の河内進出によって、本領日根野が属する和泉国の外、具体的には河内国への勢力拡大の機会を得た。ところが、久米田の戦いで三好実休が敗死すると、もはやそれどころではなかった。和泉国の本領が危うくなり、松浦氏から替地こそ支給されたものの、本領の大部分を失うことになったと考えられる(かかる措置が久米田の戦いから教興寺の戦いの間になされていることは松浦氏の根来寺への妥協の存在を暗示する)。この後教興寺の戦いで三好氏は再び盛り返し、河内国から畠山氏を駆逐することになるが、松浦氏の態度が定まらなかったことにより、孫七郎に河内で所領を与える件も立ち消えになってしまったのではないか。そして、永禄6年(1563)三好氏と根来寺が和睦してしまうと、孫七郎が本領を奪還する道は断たれたのである。このような事情は孫七郎以外の多くの和泉国人に存在したと推察される。
 これを見逃さず、孫七郎に本領を返付しようとしたのは松浦虎なる人物だった。松浦虎とは何者か。
 松浦虎の来歴には謎が多い。しかし、仮名「孫五郎」に含まれる「五郎」とはかつての松浦氏である松浦五郎左衛門尉や松浦守の仮名「五郎次郎」とも共通する*8。虎は後に守と同じ受領名肥前守」を名乗るため、和泉松浦氏後継者としての正統性を備えていたのは間違いない*9。虎は弘治3年(1557)に16歳であったといい、逆算すれば天文11年(1542)生まれになる。虎は蛇谷山城主であったようで、根来寺と対峙していた。だが、弘治3年(1557)三好政権に謀反し、永禄元年(1558)8月十河一存と戦った(以上『拾遺泉州志』)。こうしたことを見ると、永禄年間の和泉争乱において、虎の存在は一つの鍵であったと言えよう。
 松浦光は「四人之者」の富上宗俊を通して配下の和泉国人らの所領整理を行なおうとしたが、自ずと限界があった。光の対抗者である虎は逆に和泉国人らに光には成し得ない所領給付を行おうとすることで求心力拡大を狙ったのであろう。
 三好政権の和泉への関わり方も十河一存三好実休の死により変転した。教興寺の戦い後は安宅冬康岸和田城に入り、和泉支配を任された(『長享年後畿内兵乱記』)らしいが、その統治を証明する文書は現存していない。さらに永禄7年(1564)4月、安宅冬康は兄三好長慶切腹を命じられた(『言継卿記』)。この粛清には謎が多いが、和泉国支配という観点から見ると、冬康が和泉国に乗り込んだことが何らかの諍いを起こし、その責任を問われたという見方もできる(冬康は大阪湾支配に熱心であり、その被官が和泉の所領を押領するような事態があったのかもしれない。例えば、永禄12年以降であるが、冬康の息子神太郎は堺南庄を知行しており、この知行を冬康段階に得た可能性もあろう)。
 そしてその後三好政権が誰を和泉国統治担当者としたのか不明となる。ただ、松永久秀がそれを担った可能性がある。安宅冬康粛清に久秀の讒言があったとする説があるが、冬康の死で担当領域が広がったのが久秀とすると、受益者が犯人であるとする推測によるものとも考えられる。また、和泉国人らはこの後久秀に従うことが多かった。しかしこれらを以て、久秀に和泉統治が任されていたと言うにはやはり材料が不足する。
 何にせよ三好政権に和泉にかかりきる余裕はなく、基本的に松浦光と九条稙通に実務を任せていたと推察される。永禄7年(1564)7月には三好長慶が死去し、永禄8年(1565)5月には後継者義継は将軍足利義輝を討った(永禄の変)。畿内政局は新たな段階に進みつつあった。そして、永禄8年(1565)11月三好長逸がクーデタを起こし、飯盛山城の義継を確保すると、松永久秀は失脚、三好長逸を首魁とする三好三人衆松永久秀の闘争が勃発した。
 この闘争で光はどう動いたのだろうか。実兄三好義継を擁する三人衆を支持するのかと思いきや、光は松永久秀、そして仇敵とも言うべき畠山秋高、根来寺と結ぶ道を選んだ。これには光を補佐する九条稙通の示唆があったようだ。稙通は十河一存と縁戚関係を結び、九条家の所領の管理を任せることで九条家領の運営を確保した。ところが、一存が死去し、その後継者であった義継が三好本宗家を継ぐと、十河氏の家督三好実休の子・存康(存保)となり、稙通とは血縁関係がなくなった。こうなると一存に管理を任せたはずの所領からの九条家への上がりが滞ることになった(『戦三』一一四四)。稙通にとって三好家はもはや家領を維持するための提携相手ではなく、政局の中で主体的に動かねばならなかった。多くの和泉国人たちも同様の感情を持っていたのではないか(だからと言って全ての和泉国人が反三人衆に走ったわけではない)。
 ところが、松永・畠山方は永禄9年(1566)前半に何度か三人衆と戦うも敗北してしまい、6月には松永久秀は消息を絶つ。義継・三人衆にとっても早期に戦乱を収拾し、長慶の死を公表して自分たちが後継者であることをアピールする必要があった。そのため、三人衆は畠山氏との和睦を急いだ。だが、ここで懸案となったのが松浦光の処遇であった。三人衆はすでに松浦虎と結んでおり、三人衆が勝利したことで松浦氏の家督も虎に譲られることになったと思われる。
 九条稙通にしてはアテが外れる形になったが、転んでもタダでは起きないのが彼の老獪なところである。稙通は光の代理として、根来寺との和睦の際に失った和泉国南郡の八木と池田の替地を三人衆・畠山双方に要求したのである(『戦三』一二八〇)。三人衆、畠山ともに和睦を急いでいることを察知し、妥協してくることを読んで、少しでも実入りを確保せんとしたのである。
 こうして7月には松浦氏は三人衆に帰順し、和睦が成立したようだ(『細川両家記』)。8月には天下谷に松浦虎が「松浦肥前守」として禁制を発給している(『戦三』一二八七)ので、虎は三人衆の後援によって松浦氏の家督に就いたと見られる。一方、光は12月に畠山氏から替地として河内国の十七箇所を受け取っている(『戦三』一三一五)ため、和睦の条件も履行されている。光と虎の対立はなくなったわけではなかったが、とりあえずの共存が図られる条件が揃った。
 しかし、永禄10年(1567)2月三好三人衆の盟主であった三好義継は高屋城から出奔し、三人衆を糾弾、松永久秀を支持する文書を畿内にばらまいた(『戦三』一三二二・一三二三)。三好氏当主が死に体状態の松永久秀陣営に与するという驚天動地の事態であったが、この行動は突発的なものではなく、義継の腹心である金山信貞や池田氏を巻き込んだ計画行動だったと見られる。三好三人衆によって和平が一時もたらされていた畿内政局は再び動き出し、反三人衆陣営は義継と畠山氏を加えて活気づくことになった。
 松浦光は兄義継を支持し、再び松永久秀陣営に身を投じることになった。一連の流れには九条稙通も一枚噛んでいたのだろう。松浦虎も義継に従った。虎が光と同陣営になることを選んだ理由はよくわからないが、推察するのなら、前年の和睦条件を維持しようとしたのかもしれない。和泉国人を完全に掌握しきれていない中、光が松浦氏の対抗当主として復帰してくる事態は悪手と見たのだろう。虎としてはあえて光と同陣営になることで勢力の維持を図ったのではないか。
 だが、義継が松永久秀に身を投じた影響は広がらなかった。三人衆は相変わらず畿内の要所を抑えており、松永久秀に通じていた東の足利義昭織田信長は援護に動けなかった。近江の六角氏は三人衆を支持し、畠山氏も積極的な軍事行動は取れていない。義継と久秀は奈良に移り、三人衆と睨みあったが、交代で奈良に布陣する三人衆方と比べるとジリ貧なのは明らかだった。8月に松浦虎が松山彦十郎とともに三人衆方に寝返った(『細川両家記』)のも、義継に従うばかりでは勢力を保てないと悟ったからだろう。こうして再び、光と虎は対立関係に戻り、松浦氏当主の座を巡って競合する立場となった。
 三好義継と松永久秀は10月に東大寺に陣取っていた三人衆方を奇襲することで当座の危機を脱したが、それで事態が打開できたわけではない。義継と九条稙通は畠山氏の動向に気を配り始めた。松浦虎は畠山氏・根来寺と関係があったようで、虎によって畠山氏が三人衆に引き込まれ、または妥協してしまうことを恐れた。そこで義継が打った手は畠山氏による和泉守護家の再興であった。永禄11年(1568)2月三好義継は細川晴宣の遺児である刑部大輔(政清カ)を和泉守護に擁立したのである(『戦三』一三八三)。しかし、刑部大輔は「進退事万端可被任松浦孫八郎旨」(『戦三』参考110)と九条稙通らしき人物によって規定された、光の完全な傀儡であった。刑部大輔は浅井長政から織田信長の上洛について連絡を受けるなど対外的な代表者ではあったようだが、それ以上の権力を振るった形跡はない。
 さて一方の松浦虎である。虎は三人衆に寝返った8月中にはすでに山城南部の要地にして奈良の外港でもあった木津の支配に乗り出した(『多聞院日記』)。慌てた多聞院英俊は虎と連絡を取り始め、この過程で虎の重臣として「五穀寺」と「隠岐」がいることが判明する(『多聞院日記』)。「五穀寺」が護国寺なのかどうか、名字なのか寺院に属する僧侶なのか、「隠岐」は松浦隠岐守なのか、隠岐氏なのか全く不明で、虎は従来松浦氏に縁故がない人脈を登用していたらしい。虎の木津支配は順調に進んでいたが、永禄11年(1568)7月虎は木津支配を放棄し、河内に帰還する。光・義継(の祖父九条稙通)による和泉守護再興に対応する必要に迫られてのことであったようで、これは戦乱の趨勢を左右することになった。

自立する松浦光

 永禄三好の乱の中でも松浦光と松浦虎の対立は一つの軸を規定していたと言って良い。光は局地的には松永久秀陣営、全国的には足利義昭陣営に付いていた。松永久秀三好三人衆相手に劣勢を強いられていたが、足利義昭与党は徐々に上洛と幕府再興に向けて動き出していた。特に尾張の大名織田信長足利義昭を当初から熱烈に支持しており、永禄10年(1567)美濃の一色義棟を追うと、すでに近江北部の浅井長政とは同盟していたこともあり、上洛ルートが開けた。かくして足利義昭に従う織田信長は永禄11年(1568)7月より軍事行動に入った。破竹の勢いの幕府軍三好三人衆は一部の地域を除いてほとんど戦わずに撤退した。これは木津を松浦虎に任せたはずが、虎が河内方面へ転戦したため、三人衆の三好宗渭が木津に入るなど、三人衆が一か所に総力を結集できなかったのも一因だった。三好義継・松浦光の作戦は側面援護として大きな意味があったということになる。
 さて、永禄11年(1568)10月には足利義昭は晴れて征夷大将軍に就任し、室町幕府を再興した。この時に摂津守護として和田惟政、伊丹忠親、池田勝正、大和守護として松永久秀、河内守護として三好義継、畠山秋高が任命されたという。守護任命の当否はともかく、彼らに「天下」を形成する領域の公権が付与されたと見ていいだろう。ただ、和泉守護について言及する史料はほとんどない。義昭幕府がこの時点で和泉国を誰に任せたのか、明確に語る史料はない。なお、細川刑部大輔はこの後和泉支配に関わることはなく、擁立は放棄されたようだ。その必要性がなくなったからだろう。
 しかし、義昭幕府は始動から大きな危機を体験した。三好三人衆は退いたものの、その戦力が撃破されたわけではなかった。三人衆は反攻を狙っており、10月に織田信長が岐阜に帰国し、12月に松永久秀が岐阜の信長を訪れて畿内に不在になるとチャンスが巡ってきた。12月27日堺に渡海した三人衆の軍勢は付近の家原城を攻略すると、永禄12年(1569)1月には京都の義昭の御所となっていた本圀寺を強襲した(本圀寺の変)。この襲撃は池田勝正、三好義継がすぐに後詰に駆け付けたことで失敗に終わり、三人衆は再び四国に退散したが、あっさり京都まで攻め込まれた衝撃は大きい。義昭幕府はさらなる増強と反幕府勢力の討滅に向かうことになる。
 本圀寺の変は松浦氏にとっても無縁ではなかった。まず、第一に家原城の戦いで松浦虎が戦死したことである。『多聞院日記』による情報は誤報も含んでいるが戦死者に「松浦」がおり、この後虎が生存していることは窺えなくなる。虎はここで死んだと見なせるだろう。享年28歳であった。松浦光にとっては松浦氏当主をめぐるライバルが消えたのであった。
 次に松浦氏家中にどうやら三人衆に呼応する勢力があったということである。永禄12年(1569)3月松浦氏の「四人之者」の一人である富上宗俊は京都で切腹した(『多聞院日記』)。松永久秀に対して「曲事」があったのが原因と言うが、久秀への個人的な反逆なら奈良に招いて殺害すればいい話である。同時期には三人衆に与した高槻の入江氏が京都に招かれた上殺害されている(『細川両家記』)ので、宗俊の切腹も宗俊本人が三人衆に通じたのか、和泉国人が三人衆に従った引責なのかわからないが幕府への反逆があったのが原因であろう。もともと三人衆に攻略された家原城には池田教正と寺町左衛門大夫が入っており(『多聞院日記』)、彼らは三好氏の家臣でありながら、松永久秀によって配置されていた。和泉には三好氏の影響が及んでおり、松永久秀は三好氏の宿老として和泉支配の一端に関与していたと考えるべきだろう。なお、宗俊に後継者はいなかったようでこの後富上氏の動向は見えなくなる。
 三つ目は堺に織田氏の力が及んできたことである。三好氏の直轄都市であった堺は本圀寺の変の際も三人衆方に立った。織田信長はこの状況を看過せず、堺の屈服を要求したのである。堺はこの要求を容れ、豪商の一人である今井宗久が織田方の代官となった。もっともこれで堺と三好氏の伝統的な提携関係がすぐさま完全に断ち切られたわけではないが、松浦光は堺を通じて織田信長と関係を持つようになった。
 それでは実際に松浦光は幕府、三好氏、織田氏などの勢力の下いかなる統治を行なっていたのだろうか。織田方の代官今井宗久の文書からその一端を窺うことができる。
 永禄12年(1569)8月17日今井宗久は「四人之者」である寺田弘家と長曽根安芸守宛に大鳥郡万代の野原宗恵の知行が「古肥州」によって押領されていたのを、織田信長がその回復を認めたと伝達した。その書状によれば、光には佐久間信盛がその旨を伝えたようである。ところが8月23日今井宗久は野原宗恵の知行を確認する検使を松浦氏の要請によって堺に留め置いていた。これでは野原宗恵としては万代の回復は覚束ない。
 どうやら「古肥州」というのは松浦虎のようで、虎が故人であることが認識されていたようだ。おそらく虎が押領していた地域は光によって接収され、そこへ領地の回復を目論む野原宗恵の訴えが起こったということらしい。織田信長は野原宗恵の訴えを認め、佐久間信盛はその命令を遵行すべく使者を送ったものの、これが通ってしまっては松浦氏にとっては失地となってしまうため、松浦氏家中は今井宗久に使者を足止めするよう求めたということになる。信長は光を和泉国の当事者として認めていないように見える(と言うよりこの頃の織田信長畿内統治に消極的だったことを思えば、野原宗恵の訴えを精査せず知行を認めてしまったのではないか)が、逆に松浦氏権力によってストップがかけられる形となった。
 また、永禄12年(1569)10月、足利義昭が毛利氏と大友氏の和睦を調停した際の進物が和泉国日根郡で奪われた際には光に成敗が依頼されており、義昭幕府の軍事力を担う主体として認められていることもわかる(以上『今井宗久書札留』)。永禄11年(1568)段階では義昭幕府において光の存在は認知されていなかったが、永禄12年(1569)に入ってその存在感を浮上させ公権の担い手として認知されていったと思われる。
 この結果として、永禄13年(1570)織田信長が発した、上洛と義昭幕府への出仕を求める触状には、和泉国の代表者として「松浦総五郎」が見える(『二条宴乗記』)。この「総五郎」は「孫八郎」の誤記と考えられる*10。光はついに義昭幕府において、和泉国の代表者としての地位を獲得しそれが周知された。光はこの後、元亀2年(1571)までに松浦氏代々の受領名「肥前守」を称するようになるが、これも光が和泉国のトップとして認められたことによるものと考えて良かろう。
 光本人の動きはよくわからないが、元亀元年(1570)の野田・福島の戦いでは和泉国人たちが幕府軍として動員されている。ところが、野田・福島の戦いは三好三人衆の調略で本願寺が蜂起したことや、北の朝倉・浅井軍と共同戦線を張ったことにより、幕府軍は劣勢に陥る。12月には松永久秀の仲介で三人衆と幕府に和睦が結ばれたが、この和睦において久秀の娘が三好長治に嫁ぐ約束が交わされるなど、若江城の三好義継の下に松永久秀三好三人衆が再結集する動きが生まれた。これは足利義昭の久秀に対する不信を招いたようで、元亀2年(1571)三好義継と松永久秀は義昭幕府から離反することになった。
 松浦光は義継の実弟でもあり、当初はこの三好政権再興とも言える動きに加担したようである。ところが7月27日光は三好氏から離反し、三好氏の攻撃対象となっていた高屋城の畠山氏に味方した(『尋憲記』)。離反した事情はよくわからない。6月に沼間任世(越後入道)が松永久秀に知らせたところによると、松浦光は陣立てについて三好義継や長治に何らかの相談をしたが上手く行かなかったようだ(『戦三』一五九九)。光と三好氏で意志疎通が上手く行かなかったことが背景にあるのかもしれない。なおこの一件で綾井城主の沼間任世が松浦光の意向を把握している。「四人之者」の長曽根氏がこの後見えないことから、任世は長曽根氏の後を襲って取り立てられたと見られる。
 光は兄義継とは別の道を選んだ。松浦氏家中や和泉国人が光から離反した形跡もないので、光の行動は和泉の勢力から支持を受けていたと言える。元亀3年(1572)には義継の若江城攻めに和泉国人が動員される風説があり(『誓願寺文書』正月4日付下間正秀書状)、4月には織田信長の援軍が三好氏を攻撃したがその軍勢に松浦氏や和泉国人は見えない。ただ、元亀4年(1573)1月段階でも光は「信長衆」と認識されており(『尋憲記』)、基本的に反三好陣営を維持していた。4月には光を通じて十河氏が織田信長に協力を申し出ている(『山崎文書』)ので、光の役割は軍事行動ではなくその人脈を生かした三好方への調略にあったようだ。また、元亀2年(1571)には三好方も篠原長房と三好康長が和泉国人に調略を行なっている。このように三好氏と松浦氏は互いに相手陣営を調略する冷戦状態にあったと評価できる。三好義継と光は兄弟だったので、ある意味互いに和解の余地を残していたのかもしれない。
 この時期には他にも光にとって画期となる出来事があった。元亀3年(1572)11月光は久米田池郷と尾生の相論に裁定を行った。さらに光はその際に発給した起請文で起請の対象に「当国五社大明神」を記している(『拾遺泉州志』)。「当国五社」とは和泉五社のことに他ならない。松浦光が和泉一国の統治権力を自認し、在地社会もそれを受容していたのである。
 こうして元亀の争乱の中、松浦光は自立していったのである。

織田政権における松浦氏権力の継承と終焉

 元亀の争乱の結果、将軍足利義昭織田信長によって追放され、兄三好義継が滅ぶ中、松浦光は「信長衆」として活動していたこともあり、和泉国公権力としての地位を維持した。松浦光は独自の家中と和泉への国単位の統治権を保持しており天正3年(1575)4月にも岸和田池の水利に関する掟を下している)、織田政権に従属的でありつつも織田家中には組み込まれていなかったのである。ところが、光は天正3年(1575)を最後に活動が確認できなくなり、天正4年(1576)8月には光の妻であろう「松浦後室」が現れる(『兼見卿記』)ことから、この間に死去したと考えられる。年齢は24歳前後、あまりにも若い死であった。
 なお、光の死は松浦氏家臣の寺田生家(又右衛門尉、弘家の後継者だろう)と松浦家の兄弟による殺害で、家が松浦氏の家督を継承したとする説があるが、そのような事件があった蓋然性は低い。松浦氏当主殺害という「下剋上」が同時代の記録に現れないのも不審だし、光をわざわざ殺す理由が実に乏しいからである。光と織田信長は親しい関係にあり、それは天正3年(1575)12月に比定される信長朱印状(『信長』六一三)からも窺える。信長は光の存念について細川昭元(「細六」)があれこれ言ってくるが、信長は気にしないと述べる。信長は細川昭元を厚遇し、妹を嫁がせたり丹波に領地を与えたりしており、昭元も和泉守護細川氏の復活を狙っていたのかもしれない。しかし、信長はそれでも昭元より光を優先すると表明したのである。織田政権から見てこのような光をわざわざ排除する理由はないはずである。
 そうなると、寺田兄弟が光を殺害したとしたら、当然寺田兄弟は織田政権から排除されることになろう。だが、そうはならず後述するように寺田兄弟は織田政権に重用される存在だった。陰謀が存在した可能性は限りなく低いと言えよう。また、寺田生家の弟が松浦氏を称しているのは不審であるが、家は松浦氏当主の官途であった「左衛門大夫」や「肥前守」を名乗ることはなかった。家の官途は「安大夫」で、これはかつて「四人之者」であった松浦俊の官途「孫大夫」に近い。おそらく、家は俊の後継者でその継承の際に何らかの事件があったのが誤って伝承されたのが、光の殺害→家の継承ということではなかったかと推測できる。
 さて、松浦光には子が確認できず、後継者もいなかった。松浦氏当主の座は空位となったのである。こうなれば松浦氏の権力は解体、消滅する…と思いきやそうはならなかった。織田信長は寺田兄弟に岸和田城を任せ、沼間任世とともに松浦氏が持っていた和泉国公権を行なわせたのである。松浦氏当主はいなくなったが、公権としての松浦氏はその家中に主権を移すことで存続することになったのである。
 織田政権が和泉国支配に関与しなかったわけではない。南部の佐野城には天正4年(1576)には織田一門の織田信張が入城していたし、本願寺攻めの指揮官である佐久間信盛和泉国人を与力として付属させていた。また、蜂屋頼隆和泉国人を率いて畿内の外の戦いに赴くこともあった。しかし、3人の役割は基本的に軍事動員を行う際の寄親以上のものではなかった。信張に一部の和泉国人が出仕することはあったものの、3人は国人たちを独自に家臣団として編成することはなかったのである。三好政権下では十河一存和泉国人への軍事指揮権を担ったが、織田政権ではその役割を本願寺方面への佐久間信盛紀伊方面への織田信張、遠距離外征への蜂屋頼隆と分担させたと評価できる。そして三好政権下で和泉国への行政権を行なった松浦氏の地位は、織田政権下でも当主不在という状況の中維持されたと言える。
 同時に織田政権下でも松浦氏家中と根来寺の対立は続いた。天正年間にも根来寺は南郡で「悪事」を催し、「在所迷惑」「百姓等難儀」と沼間任世によって指摘されている(『板原家文書』九一)。松浦氏家中にとって、根来寺は相変わらず統治への障害だった。ところが、根来寺は早くから織田政権の支持者で、その軍事力を織田政権も頼んでいた。そのため、織田政権は根来寺による和泉国南部への侵入を強く咎めることは出来なかった。織田信張和泉国人多賀氏から陳情を受けていたようで、根来寺の行動を非難しつつも、紀伊方面へ根来寺を軍事動員する必要から、訴えを起こさないよう理解を求めている(『板原家文書』一六)。こうして、織田政権下でも和泉国統治をめぐる100年来の課題は放置されることになった。
 一方で織田政権下において和泉国統治が変転した部分もある。天正8年(1580)に織田信長本願寺を屈服させると、その畿内支配における障害はなくなった。織田政権は畿内において指出検地を行い、畿内の掌握を進めていく。和泉国においては、天正9年(1581)から指出が開始されている。指出徴収の実務を担ったのは沼間任世で、この時も基本的に松浦氏家中に主体があったようだ。この過程で指出を拒否した松尾寺や施福寺が破却されるなど、織田政権側は強い姿勢で検地を行った(この破却には寺田生家、松浦家、堀秀政、松井友閑、惟住長秀、津田信澄、蜂屋頼隆らも参加している)。その甲斐もあってか、7月には検地は終了し、7月23日には任世が安土城へ報告に訪れている(『板原家文書』九四)。直後に和泉国人らには知行替えが行われ、信長の朱印状によってそれが保障された。知行は石高で設定され、和泉国人はその知行を織田政権によって完全に規定される存在となったのである。
 同時期に岸和田城には織田信張と蜂屋頼隆が入城し、織田政権による和泉国統治の基本形が整ったと言えよう。ただし、和泉国人らにとってその知行を保障する主君は織田信長その人であり、信張・頼隆はやはり寄親にすぎなかった。また、織田政権が和泉国人を掌握したのなら、松浦氏家中の存在意義は低下するはずだが、寺田生家・松浦家の兄弟はなおも岸和田城に留まっていた。織田政権は結局和泉国一国を管轄する大名権力を生み出さなかったのである。
 織田信長和泉国支配の展望については不明である。しかし、織田信長が晩年畿内を織田一門において直轄する構想を持っていたのならば、和泉国もその例外ではないはずだ。そこでヒントとしたいのは、織田信張、蜂屋頼隆ともに後継者が不在、または幼年であったということである。すなわち、信長にとって2人に和泉国を任せるのは当座の処置ではなかったか。松浦氏家中が温存されていることも併せて大胆に推測するならば、信長は息子の一人を松浦氏当主の座に就けて、信張と頼隆に後見させつつ、和泉国の公権を織田政権に穏便に吸収する目算を持っていたのではないだろうか。
 ただ、織田信長の将来構想は形になることはなかった。天正10年(1582)6月信長は惟任光秀に強襲され敗死する(本能寺の変)。和泉国人たちは蜂屋頼隆に従い、予定されていた四国遠征のため岸和田城に集結していた。そこへ本能寺の変の急報が入ったため、頼隆らは渡海を取りやめ、織田信孝を支持することを鮮明にしつつ、紀伊方面の騒擾に備えている。6月10日付の織田信孝書状(『大阪城天守閣所蔵文書』1469)によれば、信張と頼隆の使者となったのは寺田生家と松浦家であり、両者は変わらず和泉国人の代表格として存在感を保っていた。信孝は摂津・河内の勢力に羽柴秀吉を加えて惟任光秀を破る(山崎の戦い)が、和泉国人らも南方に備えることで勝利に貢献していたと言える。
 さて、本能寺の変山崎の戦いに続く清洲会議を経て、織田政権は宿老の合議体制を基調としつつ存続する。和泉国支配体制もとりあえず本能寺の変直前のまま固定されたようだ。しかし、天正11年(1583)宿老の一人であった羽柴秀吉織田信孝柴田勝家を敗死に追い込む(賤ヶ岳の戦い)と、秀吉は畿内の直轄化に乗り出し、織田信張・蜂屋頼隆ともに転封されることになった。秀吉によって岸和田に送り込まれたのは、その叩き上げとも言える中村一氏である。一氏には和泉国人が与力として付けられ、国人らは一氏の軍事指揮権に属することになった。一氏は紀伊方面への軍事司令官であり、織田政権によって佐久間信盛織田信張、蜂屋頼隆に分割された十河一存の役割が再び一つになって戻ってきたとも言える。同時に羽柴秀吉は沼間任世、寺田生家、松浦家、真鍋貞成に書状を認め、松浦氏家中の和泉国人代表としての地位も保持されていた。
 織田政権下では政権に親和的であった雑賀衆根来寺は調略によって反羽柴勢力となっており、天正12年(1584)和泉国は小牧の戦いで大坂を留守にする秀吉の不在を狙った紀伊の勢力によって戦場となった。この中で中村一氏や寺田生家らは奮戦している(タコが助けたという伝説もある)天正13年(1585)羽柴秀吉は本拠地南方の憂いを除くため、雑賀や根来を反対勢力として滅亡に追いやった。この過程で泉南に残っていた根来寺の所領も壊滅し、ようやく和泉から根来寺は駆逐された。さらに秀吉は戦後処理において中村一氏を近江に転封するのに伴い、沼間任世を一氏の被官、寺田兄弟を弟秀長の被官とした。寺田兄弟は岸和田城から退城し、ここに和泉国行政を担ってきた松浦氏家中は解体された(寺田生家は直後の四国攻めで戦死し、家は独立大名となったが関ヶ原の戦いで西軍に属し改易された)。秀吉は岸和田城に桑山重晴、次いで小出秀政を置き、ここに和泉の行政と軍事を管掌する岸和田藩の祖形が成立したのである。
 かくして「松浦肥前守」は正体不明の最初の岸和田城主として名を残すのみとなった。当主不在のまま家中が存続したことにより、滅亡のロマンも後継者が語り継ぐ物語も生まれなかった。しかし、松浦光は確かに和泉国戦国大名として存在していたのであり、天正13年(1585)にその使命を終えたのである。

松浦光の評価

 以上、松浦光を中心に天文から天正までの和泉国の政治情勢や問題を概観してきた。
 松浦光はどのような人物であり、どのように歴史上に位置付けることが出来るのであろうか。
 松浦氏は松浦守が守護細川氏(元常・晴貞)に下剋上を起こしたが、下剋上の成果を定着させることなく歴史から消えた。松浦光はそのような松浦氏権力の継承者として、三好政権に送り込まれた存在だった。ところが、光には松浦氏の家督の座を競合する存在として松浦虎がおり、光を後見すべき三好一族の重鎮も永禄4年から7年という短期に次々と亡くなってしまい、その権力はなかなか安定することがなかった。光は祖父の九条稙通と「四人之者」に支えられ、何とか自らの地位を維持すべく行動を重ねた。
 光は兄三好義継とともに戦い、永禄11年(1568)の義昭幕府成立とともにようやく松浦虎を排除し、松浦氏権力の統一に成功した。その一方で光の権力は中央政権に未だ認知されておらず、光は幕府や織田信長と折衝する中で、徐々に和泉の代表者として認められていった。
 そして、元亀の争乱で兄三好義継が三好政権の復活に動くも、光は独自に行動し、兄とは袂を分かって織田信長を支持した。同時に守以来の受領名である「松浦肥前守」を称し、和泉国の公権者であることを背景に統治に臨んだ。元亀の争乱が織田信長の勝利によって終結し、兄義継が滅亡する中、織田信長は光の地位を尊重し光はその地位を保った。もはや松浦光は和泉国に自立する戦国大名となった。光は沼間任世らを新たに取り立てたが、松浦氏家中・和泉国人の利益に配慮しその支持を受けたことは無視できない点でもある。
 しかし、松浦光は権力を確立したのも束の間、天正4年(1576)までに没してしまう。あまりにも若い死であった。ところが、織田信長和泉国に織田人脈を単純に送り込むのではなく、光の腹心であった沼間任世、寺田生家、松浦家らに和泉の行政を任せた。光が作った統治機構は織田政権でも温存されたのである。織田信長和泉国についていかなる展望を持っていたかは明らかではないが、松浦氏権力を否定も無視もできなかったと評価できる。
 最終的に和泉国の統治体制は天正13年(1585)に解体され、豊臣政権によって大名が送り込まれる近世体制に移行することになる。こうして見ると松浦光の痕跡というものが実に大きいとわかる。単純計算として20年近く光は和泉国の支配体制に携わり、そのシステムを(意図していたかは別にして)作り上げたのである。その権力はまさに「戦国期権力」と呼ぶに値するのではないだろうか。
 松浦光は和泉国において、先代の守の下剋上を後継し完成させた人物として評価されるべきであろう。

史料紹介

『拾遺泉州志』九二「木積村の根福寺」所収臨摸文書

抑大伝法院の末寺根福寺と号して最興仕事
于時弘治三年丁巳卯月三日紀州くるすと神宮と丼事出来候然処を御惣分とさいかの御かしみに成南郷野三山東まて一所に罷成り日々の合戦無障も候之時に又和泉国守護代に三好家の子孫十河存と申弓取なり同実及阿多木何もおとらぬ兵者なり三好修理之大夫殿御内に松長たん正と申者これも大和国を切取て多聞山に城をこしらへ国をおさむる河州はなみいて色たたすこゝに三好の一門あつまりよきおりからなれはねころの寺領をうはわんときする事かくれなし寺家一大事の事なれは東西おんみつの衆儀として内状をつかわし松浦孫五郎殿十六歳の弘治三年十月廿六日にこつみ村蛇谷の山に城をこしらへすえ並に三好家名立たるむほんなれは永禄元年八月十八日に岸和田の城より出張して木島谷をやき入に其庄の御百姓等わつか人数二百はかりにてはせむかひ合戦す百姓の大将十八人打しにするといへとも十河殿の人数こと〳〵おひちらし数多打取て根来寺へ注進申に次の日の十九日に惣分出張して積善寺に足がかりをこしらへ先陣とする又蛇谷山より松浦孫五郎人数をくり出し加勢して日々合戦するなりかくのことくの折節十河方武略をめくらすに作間田内殿此怒田山をしのひ取てもつへき由風聞に驚き先陣於積善寺老若の為奥儀と怒田山をてき方へとられしために俄に木島の御百姓等に被仰付寺号を根福寺とあらため四方の四至をかきり御宿老書立老若の御加判を頂戴して神於寺の衆僧等内少々すゝみ出て忝も安置宝生権現役の行者御建立の寺をふり捨て永禄元年戊午九月廿六日に小屋をかけ国中のおほへに気ふりを立る根来寺のきほひかきりなし同十月十九日に近木庄地蔵堂へ御めしあつて根福寺の衆参に岩室坊勢誉法印泉識坊快誉法印惣分の御使者として一々段忠節の根福寺にて有間神於寺に不知行の五ヶ畑をあらためてこと〳〵く根福寺へ可被成付と重而御判給候事はいさゝかかくれもなし向後能々寺の外かまと成て忠節申はなを知行へのそみ次第と御下知について数ヶ年の間誠之五三日ほとの御陣迄も油断なく御見舞申なり同十月廿日に三好家の一門数万きにてきりかゝる此時も数通の御打紙給候子細者根福寺をなんなく持し候はのそみ次第に知行可取付旨蒙仰候これをせんに仕御事に候同永禄三庚申三月十五日三木田退城の時は蛇谷にも別心之由取々沙汰有について夜中に惣分江注進申所に皆御在陣無障事に候間芦室坊より御同宿衆てつはう十丁被持下大木熊取木島の御百姓等に被得付度五日之間根福寺へ御番を被加候且は柴のゆゑに国方に禁御ことに候同三月廿日に木島御百姓等同道申候て知行の事を訴訟申上候に重而御下知可有分に相定られ候て于今如此然に神於寺の灯明領と申は高氏の将軍御寄進此巻物を 公方様江州矢島に御座被成候御時さゝけ訴訟申上候に惣分の御威光おもつて安堵の御書並御下知被成下候いへとも国方の武士違儀につひて御百姓等あひしたかわす候曩に御惣分より国方江一書をさしつかわされ候者忝可念入候

おまけのイラスト
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参考文献

馬部隆弘「永禄九年の畿内和平と信長の上洛―和泉国松浦氏の動向から―」
ci.nii.ac.jp

戦国期畿内の政治社会構造 (日本史研究叢刊)

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岸和田古城から城下町へ―中世・近世の岸和田 (上方文庫)

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織田権力の領域支配

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*1:畠山氏がかかる侵略に打って出た直接の原因としては、紀伊根来寺和泉国における所領が守護によって侵蝕されている切迫した状況が存在した

*2:天文18年(1549)比定の遊佐長教書状写に「松肥弱息」という記述がある(『古簡雑纂』)。なお、『天文日記』天文12年(1543)5月22日条に「従松浦肥前就誕生、有音信」より、この日に松浦守の後継者が生まれた説や松浦守の誕生日を祝っている説などがあるが、この年は「従~就誕生、有音信」という記事は珍しくない。これは急に各家に子供が生まれまくったわけでも、この年だけ当主の誕生日を祝うのがブームになったわけでもなく、年頭に後の顕如光佐となる子供が生まれたため、『天文日記』の著者本願寺証如に各家からお祝いが届けられている、それだけのことである。よって、既存の説は否定される

*3:「信輝」という実名は確かめられない。そもそも「信輝」は二字名であり、松浦氏の一字名に合わない

*4:富上は冨上と書く人もいるが、富上で統一する

*5:「長曾禰」などいくつかの表記があるが長曽根で統一する

*6:こう書くといかにも無責任だが、家領維持のための公家の地方下向は一般的に見られた。そしてそれが朝廷の衰微を招いていた

*7:稙通は婚姻していなかったので恐らく養女であろう

*8:さらに言えば和泉上守護細川氏の仮名も「五郎」であった

*9:私見を述べれば、虎は守の息子、本来の後継者であり、畠山・根来寺との協調を担っていたのではなかったか

*10:普通に考えれば、「孫五郎」の誤記だが、孫五郎を名乗っていた松浦虎はすでに肥前守になっていたはずであるし、死んでいた可能性が高い。仮に虎だとしても前年10月まで光を認知していた義昭幕府・織田信長が新年早々急に虎を公認するに至るプロセスは不自然すぎる