志末与志著『怪獣宇宙MONSTER SPACE』

怪獣monsterのコンテンツを中心に興味の赴くままに色々と綴っていくブログです。

中西裕樹『戦国摂津の下克上 高山右近と中川清秀』(中世武士選書・戎光祥出版)の感想

 知ってると思ってるけどよく考えたら意外と知らない、そんな人物や出来事を研究者が斬る!ことでお馴染みの戎光祥出版さんの中世武士選書シリーズ。最新刊は何と中西裕先生が描く、摂津の戦国時代。これは高槻市民としては読まざるを得まい…といった趣きがあります。
 副題は「高山右近中川清秀」とのことで、やっぱ織豊期のこの2人がメインなのかと思えば何の何の。彼らが本格登場するのは何と後半3分の1といったところです。これだけ聞くと「おいおい詐欺か?」と思われるかもしれませんが、右近と清秀が登場するためにはこれくらいの前史が必要、と言うか本人が出ない3分の2こそが右近と清秀の摂津国人としての血肉を形成するわけです。これまで高山右近の本というのはたくさん出ていますが、本当にベースの部分を掘ってから語るこの本のようなタイプは初めてではないでしょうか。この時点で全く新しい本で、出た価値がありますね。

戦国摂津の下克上―高山右近と中川清秀 (中世武士選書41)

戦国摂津の下克上―高山右近と中川清秀 (中世武士選書41)

www.ebisukosyo.co.jp

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デジモンリンクスの遺産―新規CGポリゴンたち

 デジモンリンクスデジモンスマートフォン向けアプリゲームでした。平成28年(2016)3月より配信を開始しましたが、令和元年(2019)7月末サービス終了となりました。お疲れ様でした。デジモンを題材にしたいわゆるソシャゲとしては意外と長命だったと言えるのではないでしょうか。
 さてデジモンリンクスにはストーリーらしいストーリーはほとんどありませんでした。一応デジタルワールド崩壊や徐々にヴォルケニックドラモンの謎に迫るなどの要素はありましたが、サービス展開中ほとんどそれらは提示されず、終了間近になってストーリーが解放されるという、お話でゲームを持たせる気をあまり感じさせませんでしたね。デジモンたちの能力差も激しく、ゲームとしては必ずしも高評価ではなかったと言えましょう。
 しかし、デジモンリンクスはそこそこ受けたようで、実プレイ人口がそこまで多くない中(個人的体感では1万人くらい?リアライズ以降はグッと減って3000人くらい?)その中ではコロシアム要素などを念頭にそれなりの盛り上がりはあったように思います。ここらへんが長寿の秘訣だったのですかね。
 さて、ストーリー要素が薄く、それでいてある程度受けたゲームに望まれることと言えば…まあもちろん第一義的にはゲームをより良いものに改善することですが、デジモンというコンテンツに資するという観点から言えば、新規ポリゴンの追加ということになろうかと思います。
 これは大事なことでして、かつてデジモンは平成18年(2006)のアーケードゲームデジモンバトルターミナル』から始まって、平成25年(2013)の『デジモンワールド リ:デジタイズ デコード』まで主要デジモンのポリゴンを使いまわしてきた歴史があるわけです。解像度が上がりゲームでもポリゴンに一定以上のクオリティが求められる現代、いちいち新作ゲームのたびに新規ポリゴンを用意するより遥かに経済的だと言えます。しかし、バトルターミナル時代のポリゴンは流石に見た目に耐えられなくなり、平成27年(2015)の『デジモンストーリー サイバースルゥース』(以下、サイスル)からはさらにブラッシュアップされた仕様のポリゴンが用意されることになりました。
 サイスルのポリゴンはかなりレベルが高く、その後リンクスを始め種々のゲームに流用されていくことになりました。ただ、サイスルに登場したデジモン240体、まあまあ多いようにも見えますが今や1000体を超えるデジモン総数から見るとまだまだ足りていないし、古参やアニメ主役すら網羅できているわけではないという厳しい現実もあります。令和2年(2020)発売予定の『デジモンサヴァイブ』など、2D作品が今後出ないわけではありませんが、基本的にはサイスル仕様のポリゴンが流用されていくのが基本線と思われ、多くのデジモンたちがゲームに出るためにはまずポリゴンが作られないことには始まらないということです(近年のウルトラマンで着ぐるみが作られた怪獣はよく再登場するというのに似ていますね)。
 そうした中、デジモンリンクスはストーリーに縛られず人気デジモンを追加できるという環境にあったとも言えます(ここは新規追加に進化系譜やストーリーをセットで出すリアライズと比べると敷居が低い点ではないでしょうか)。実際、リンクスで少なからぬ数の新規ポリゴンが登場することになりました。これは間違いなく、ゲームデータを消してしまえば内容は何も残らないソシャゲの宿命を背負ったリンクスの遺産とも言えるものでしょう。
 ただ、遺産があるからと言ってそれが有効活用されるかは不明、というのはこれまでのデジモンの歴史が証明していると思います。中には流用するのは難しかろうというものもある(変異種など)ので、リンクスで見納めになってしまうデジモンもいるかもしれません。そうしたデジモンを思い出すよすが、あるいは「こいつはポリゴンがあるぞ!(出せるぞ!)」というアピールの場として、リンクス発のポリゴンをまとめてみることにしました(なおコンシューマーゲームにすでに参戦済なデジモン(ドラコモン系譜など)は除いてあります)。

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※なおデジモンにいちいち付けているコメントは個人の感想です。不快に思う人もいるかもしれませんがご寛恕願えれば幸いです。

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『今村家文書』376「年未詳七月 松謙斎新介(松山重治)書状(折紙)」小考

 『今村家文書』に松山重治の新出書状があるというのは認知していたが、確認するのが遅くなってしまった。ただ、正直何を言っているのかよくわからないところがあり、それでいてこれは結構面白いのではないかとも思ったので全文と試訳を掲載して諸賢の教示を仰いでみたい。

www.shibunkaku.co.jp

本文

376 年未詳七月 松謙斎新介(松山重治)書状(折紙)
  尚々先ニ久秀へ書状如此認上申候、御被見候て、上包させられ、多門へ可被遣候
一高対者、一昨日路次まて罷上候、昨日定而其方へ可為参着候、御状即辺進候
一与兵相煩延引申候、今日者、可罷上候間、路次まて成共候、直ニ申含越可申候
一三豊御下之由、然共、紀州遅引之旨、被取乱、左様ニも可有之候、然者、御同備・福賀彼方へ弥入魂候て、江州辺まて令調略、於山科大志万兄弟・郷之者与参会候由候、時宜いか様之儀候や、菟角慶満・一慶之御証跡さへ候ハねハ、自余之儀者、不止事候、然者、御気遣御尤ニ候、於我々無由断候、涯分急候て与兵多門へ越可申候
一南方牢人催事必定ニ候、是も当方内輪候、不慮ヲ伺然候
一竹三へも切々可有御入魂候、猶追々目出可申承候、昨日日暮候間、御使留申候、恐々謹言
  七月九日       新介(花押)
「(墨引)
           松謙斎
             新介
□□(弥カ)御返報           」

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三好右衛門大夫政勝と三好下野守政生は同一人物か?

 三好政長(宗三)の息子・政勝と三好三人衆の一人・三好宗渭が同一人物であることは今やWikipediaにすら載っている。この事実が指摘されたのは平成22年(2010)と9年前にすぎない(『戦国期三好政権の研究』補論二「三好一族の人名比定について」)*1が、すでに巷間には知名度を確保しているとも言えるだろう。そういうわけでもはや常識とのほほんとしていたのだが、最近「本当にそうなのか?」という問い合わせを頂いた。私個人としては政勝と宗渭が同一人物であることは間違いないと思っているが、考えてみれば自分で確かめて論理を組み立てたわけではないので、良い機会であるし調べてみることにした。
 まず、わかりやすく決め手になるのが花押(署名の下に書く属人的紋章)で、天野忠幸氏の指摘もこれを根拠にしておられる。実際、注で何を見て花押を確認すればいいのかまで明記されていた。いやあ有難い話である。

 花押を収載しているのは、この『大仙院文書』である。100を超える文書を収めているが、それら一点一点の印判を巻末に掲載しているという優れもの。これで三好政勝・政生の発給文書を見て行こう。なお、『大仙院文書』刊行時点では政勝と政生が同一人物だとは気付かれていなかった。また、内容はどれも「贈り物ありがとう!」なので年次も不明である。それでは、文書名と花押を見て行こう。

*1:なお、この論考にも触れられているが、三好下野守の実名が「政生」であることを指摘した先行研究や、三好宗渭三好政長(宗三)の息子とする系図類は少なからず存在していた

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『戦国遺文 佐々木六角氏編』八〇一・本文と現代語訳~長文で激怒する六角承禎

 先日から村井祐樹『六角定頼:武門の棟梁、天下を平定す (ミネルヴァ日本評伝選)』を読んでいるわけなのですが、この本は史料の引用と現代語訳が多く、六角氏に関する歴史の流れはとてもわかりやすいものになっています。その中には、永禄3年(1560)の「六角承禎条書案」の現代語訳もありました。ただ、これがかなり面白い!何が面白いって六角承禎の激怒ぶりがです。しかもそれが現代語訳だけで5ページも続きます。長い!あまりに長かったためか、原史料が引用されておらず、調べればこの広いネットの海にも(この文書は斎藤道三下剋上を語っているので有名ながら)原文が転がっていないということで、ならば紹介しても罰は当たるまい…ということで本文と現代語訳を掲載することにしました(本文は『戦國遺文―佐々木六角氏編』より引用)。
 なお、現代語訳ですが、上記『六角定頼』のものを参考にしながら、若干表現を変えた箇所もあります。これは承禎の怒りを盛っているのではないか?という意訳もあるかもしれませんので、適宜原文と対照してください。また、六角義弼や土岐頼芸の呼称は数種類ありますが、訳では「義弼」・「土岐殿」など統一を図ったところがあります。

簡単な紹介

 六角氏は斎藤道三に追放された土岐頼芸を保護し、頼芸の美濃復帰を国策として、織田信長朝倉義景、幕府らを誘って斎藤包囲網を作ろうとしていた。だが、承禎の息子で六角氏の家督である義弼(義堯・義治)は、斎藤氏との同盟路線に転換し、斎藤義龍の娘を娶ろうとした。ところが、この路線変更は父承禎には知らされず、義弼が独断で進めようとしたものであった。これに気付いた承禎は義弼にストップを掛け、制止された義弼は拗ねて出奔してしまった。そこで承禎が義弼を連れ戻すこととこれまでの外交路線の維持を求めて、家老たちに出したのがこの文書である。
 そういう経緯で出されたものなので、とにかく斎藤氏と結ぶことの愚かさをこれでもかと説いているのが特徴である。もちろん斎藤氏さげのバイアスはかかっているが、しれっと重要な情報が紛れ込んでいる。有名なのは、斎藤道三の国盗りが実は親子二代のものであったことである。他にも、承禎は土岐頼芸の復帰を押し立てて斎藤義龍を悪し様に言っており、義龍の実父が頼芸である可能性など脳裏に全くないことや、六角氏と朝倉氏との縁組が過去に存在していなかったことなどがわかる。
 また、世間の評判といったものを戦国大名が強く意識していることが窺える。下々の者の噂話でも大名家の生末を左右するという認識があったのである。

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村井祐樹『六角定頼 武門の棟梁、天下を平定す』(ミネルヴァ書房)の感想

 発売されるとわかった時から話題騒然だった本です。何せ、六角氏は室町時代・戦国時代に侮れない勢力を誇りながら、この手の比較的一般向けの評伝を欠いていたからですね。タイトルは六角定頼ですが、実際には章を割いて、前2代の高頼・氏綱、後2代の義賢・義弼までフォローしています。言わば「戦国六角氏五代」が読めるわけで豪華な一冊と言えましょう。


 さて、私にとってはこの本が出たことで得るものは単に戦国六角氏の伝記が読めるということに留まりません。これまでこのブログを読んできた方にはおわかりかと思いますが、私は三好氏を贔屓にしておりまして、特に近年の三好長慶再評価とその徐々な定着ぶりには感激するところ大なわけです。ただ、一方で三好長慶、あるいはその家臣として有名な松永久秀のみ称揚されればいいのか?と言うとそれは違うと考えています。その人物が生きた時代がいかなるものだったのか、その上で何を成したと言え、何が評価できるのか。これを抜きにして再評価はあり得ません。近年の三好氏研究においても、長慶が将軍を超克しようとしたのかについては、戦国期室町幕府の研究者からは疑義が呈されており、活発な論争の中で事績や意向がこれからはっきりしていくでしょう。
 三好氏をはじめ、畿内戦国史研究は近年活発なところではありますが、各大名家で研究がセレクション化しているきらいも見え、戦国時代の畿内、あるいは日本全国においてどういう存在だったのかにまで及んでいないところもあります。上記のような三好氏研究が結論を急ぎすぎたら、幕府研究からストップが入る…こういった形で研究が深化していくのが理想です。その点、今回の『六角定頼』は六角定頼が「天下人」であったと主張していて、幕府研究、三好氏研究、あるいは織田氏研究へまで啓発的な内容を含んでいます。ここまでされたらスルーは出来ないでしょうから、六角氏を通してまた論争や研究の深化が見られるな、という予測があります。その結果、やっぱり三好長慶は偉大ですね!となれば言うことナシです。

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三好康長の息子・徳太郎の動向と三好式部少輔との関係小考

 三好徳太郎は三好康長の息子とされる人物である。『細川両家記』の元亀元年野田・福島の戦いの三好勢の記述にも「三好山城入道笑岩斎。同息徳太郎」が見える。『両家記』は元亀4年(1573)に成立したとされるため、この記述の信憑性は高い。また、康長の文書上の初見は永禄2年(1559)で*1この時から阿波三好家の重臣だった*2。よって、元亀元年(1570)に成人している息子がいることに年齢から見ても不自然さはない。元亀に至るまで康長の息子の存在は確認できないため、徳太郎は天文末~永禄初年までに生まれ、永禄末年に元服(成人)したと考えられる。なお、『己行記』にも元亀4年(1573)年初に彼岸談義が行われた際「三好徳太郎聴聞打田内膳受法」と見え、徳太郎とその配下であろう横田(「打田」は誤記か)内膳(後の村詮か)が受法しており、この時期畿内に来ていたことが確かめられる。しかし、その後の動向はよくわからなくなる。

*1:『戦三』五五八「篠原実長等連署書状」

*2:なお、この時は「三好孫七郎康長」を称していた。永正6年(1509)に死亡した三好長秀の子がこの年に至るまで仮名というのは考えにくいため、恐らく康長は通説で言われるような三好元長の弟ではない

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