志末与志著『怪獣宇宙MONSTER SPACE』

怪獣monsterのコンテンツを中心に興味の赴くままに色々と綴っていくブログです。

三好右衛門大夫政勝と三好下野守政生は同一人物か?

 三好政長(宗三)の息子・政勝と三好三人衆の一人・三好宗渭が同一人物であることは今やWikipediaにすら載っている。この事実が指摘されたのは平成22年(2010)と9年前にすぎない(『戦国期三好政権の研究』補論二「三好一族の人名比定について」)*1が、すでに巷間には知名度を確保しているとも言えるだろう。そういうわけでもはや常識とのほほんとしていたのだが、最近「本当にそうなのか?」という問い合わせを頂いた。私個人としては政勝と宗渭が同一人物であることは間違いないと思っているが、考えてみれば自分で確かめて論理を組み立てたわけではないので、良い機会であるし調べてみることにした。
 まず、わかりやすく決め手になるのが花押(署名の下に書く属人的紋章)で、天野忠幸氏の指摘もこれを根拠にしておられる。実際、注で何を見て花押を確認すればいいのかまで明記されていた。いやあ有難い話である。

大仙院文書 (史料纂集 古文書編)

大仙院文書 (史料纂集 古文書編)

 花押を収載しているのは、この『大仙院文書』である。100を超える文書を収めているが、それら一点一点の印判を巻末に掲載しているという優れもの。まずはこれで三好政勝・政生の発給文書を見て行こう。なお、『大仙院文書』刊行時点では政勝と政生が同一人物だとは気付かれていなかった。また、内容はどれも「贈り物ありがとう!」なので年次も不明である。それでは、文書名と花押を見て行こう。

*1:なお、この論考にも触れられているが、三好下野守の実名が「政生」であることを指摘した先行研究や、三好宗渭三好政長(宗三)の息子とする系図類は少なからず存在していた

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『戦国遺文 佐々木六角氏編』八〇一・本文と現代語訳~長文で激怒する六角承禎

 先日から村井祐樹『六角定頼:武門の棟梁、天下を平定す (ミネルヴァ日本評伝選)』を読んでいるわけなのですが、この本は史料の引用と現代語訳が多く、六角氏に関する歴史の流れはとてもわかりやすいものになっています。その中には、永禄3年(1560)の「六角承禎条書案」の現代語訳もありました。ただ、これがかなり面白い!何が面白いって六角承禎の激怒ぶりがです。しかもそれが現代語訳だけで5ページも続きます。長い!あまりに長かったためか、原史料が引用されておらず、調べればこの広いネットの海にも(この文書は斎藤道三下剋上を語っているので有名ながら)原文が転がっていないということで、ならば紹介しても罰は当たるまい…ということで本文と現代語訳を掲載することにしました(本文は『戦國遺文―佐々木六角氏編』より引用)。
 なお、現代語訳ですが、上記『六角定頼』のものを参考にしながら、若干表現を変えた箇所もあります。これは承禎の怒りを盛っているのではないか?という意訳もあるかもしれませんので、適宜原文と対照してください。また、六角義弼や土岐頼芸の呼称は数種類ありますが、訳では「義弼」・「土岐殿」など統一を図ったところがあります。

簡単な紹介

 六角氏は斎藤道三に追放された土岐頼芸を保護し、頼芸の美濃復帰を国策として、織田信長朝倉義景、幕府らを誘って斎藤包囲網を作ろうとしていた。だが、承禎の息子で六角氏の家督である義弼(義堯・義治)は、斎藤氏との同盟路線に転換し、斎藤義龍の娘を娶ろうとした。ところが、この路線変更は父承禎には知らされず、義弼が独断で進めようとしたものであった。これに気付いた承禎は義弼にストップを掛け、制止された義弼は拗ねて出奔してしまった。そこで承禎が義弼を連れ戻すこととこれまでの外交路線の維持を求めて、家老たちに出したのがこの文書である。
 そういう経緯で出されたものなので、とにかく斎藤氏と結ぶことの愚かさをこれでもかと説いているのが特徴である。もちろん斎藤氏さげのバイアスはかかっているが、しれっと重要な情報が紛れ込んでいる。有名なのは、斎藤道三の国盗りが実は親子二代のものであったことである。他にも、承禎は土岐頼芸の復帰を押し立てて斎藤義龍を悪し様に言っており、義龍の実父が頼芸である可能性など脳裏に全くないことや、六角氏と朝倉氏との縁組が過去に存在していなかったことなどがわかる。
 また、世間の評判といったものを戦国大名が強く意識していることが窺える。下々の者の噂話でも大名家の生末を左右するという認識があったのである。

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村井祐樹『六角定頼 武門の棟梁、天下を平定す』(ミネルヴァ書房)の感想

 発売されるとわかった時から話題騒然だった本です。何せ、六角氏は室町時代・戦国時代に侮れない勢力を誇りながら、この手の比較的一般向けの評伝を欠いていたからですね。タイトルは六角定頼ですが、実際には章を割いて、前2代の高頼・氏綱、後2代の義賢・義弼までフォローしています。言わば「戦国六角氏五代」が読めるわけで豪華な一冊と言えましょう。


 さて、私にとってはこの本が出たことで得るものは単に戦国六角氏の伝記が読めるということに留まりません。これまでこのブログを読んできた方にはおわかりかと思いますが、私は三好氏を贔屓にしておりまして、特に近年の三好長慶再評価とその徐々な定着ぶりには感激するところ大なわけです。ただ、一方で三好長慶、あるいはその家臣として有名な松永久秀のみ称揚されればいいのか?と言うとそれは違うと考えています。その人物が生きた時代がいかなるものだったのか、その上で何を成したと言え、何が評価できるのか。これを抜きにして再評価はあり得ません。近年の三好氏研究においても、長慶が将軍を超克しようとしたのかについては、戦国期室町幕府の研究者からは疑義が呈されており、活発な論争の中で事績や意向がこれからはっきりしていくでしょう。
 三好氏をはじめ、畿内戦国史研究は近年活発なところではありますが、各大名家で研究がセレクション化しているきらいも見え、戦国時代の畿内、あるいは日本全国においてどういう存在だったのかにまで及んでいないところもあります。上記のような三好氏研究が結論を急ぎすぎたら、幕府研究からストップが入る…こういった形で研究が深化していくのが理想です。その点、今回の『六角定頼』は六角定頼が「天下人」であったと主張していて、幕府研究、三好氏研究、あるいは織田氏研究へまで啓発的な内容を含んでいます。ここまでされたらスルーは出来ないでしょうから、六角氏を通してまた論争や研究の深化が見られるな、という予測があります。その結果、やっぱり三好長慶は偉大ですね!となれば言うことナシです。

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三好康長の息子・徳太郎の動向と三好式部少輔との関係小考

 三好徳太郎は三好康長の息子とされる人物である。『細川両家記』の元亀元年野田・福島の戦いの三好勢の記述にも「三好山城入道笑岩斎。同息徳太郎」が見える。『両家記』は元亀4年(1573)に成立したとされるため、この記述の信憑性は高い。また、康長の文書上の初見は永禄2年(1559)で*1この時から阿波三好家の重臣だった*2。よって、元亀元年(1570)に成人している息子がいることに年齢から見ても不自然さはない。元亀に至るまで康長の息子の存在は確認できないため、徳太郎は天文末~永禄初年までに生まれ、永禄末年に元服(成人)したと考えられる。なお、『己行記』にも元亀4年(1573)年初に彼岸談義が行われた際「三好徳太郎聴聞打田内膳受法」と見え、徳太郎とその配下であろう横田(「打田」は誤記か)内膳(後の村詮か)が受法しており、この時期畿内に来ていたことが確かめられる。しかし、その後の動向はよくわからなくなる。

*1:『戦三』五五八「篠原実長等連署書状」

*2:なお、この時は「三好孫七郎康長」を称していた。永正6年(1509)に死亡した三好長秀の子がこの年に至るまで仮名というのは考えにくいため、恐らく康長は通説で言われるような三好元長の弟ではない

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【ネタバレ有】『名探偵ピカチュウ』感想

 ポケモン初の実写映画『名探偵ピカチュウを令和元年(2019)5月3日、公開初日に観て参りました。いい映画だったので、記事にしようと思います。
 まず、前提ですが、私はゲームの名探偵ピカチュウ3DSの体験版しかやってません(ケチ臭…)。だから、物語の核心については知らず、元のゲームと比べてどうかという比較も出来ませんが、それでもすでに名探偵ピカチュウの世界観に馴染んだと言いますか、大川透ピカチュウたまらん、探偵…いいじゃないかとなったわけです。名探偵ピカチュウをベースにしたという点では、元をとりあえず見知っているわけでそこは違和感なく期待大でした。

 一方で今回はポケモンの実写映画でもあります。ポケモンは公式絵やゲームでは表面がツルテカとしている感じで、そのまま出しても現実空間には馴染みません。よって、実写化にあたってはデザインに処理を加えるのが当然でしょう。ただ、今回の処理の仕方は表面の質感をリアルに寄せてみた感じで…正直あまり好きではないですね。リアルさをグロみたいなものと勘違いしてないか?ピカチュウやプリンのぬいぐるみ感は嫌いではないですが、リザードンなどの表皮はディテール過多で逆に不自然ではないかと思います。

 観る前に思っていたこととしてはこのようなことでした。それでは、ストーリーを追いつつ、つらつら感想を述べて行くことにします(ぶっちゃけ記憶が曖昧なところがあるので、ちょくちょく間違ってるかもしれません)。改めて言っておきますが、ネタバレをバンバンかましていくので気を付けてくださいね。
 ダラダラ長いだけの駄文なんて読んでられるか!って人は総括までのショートカットがありますのでどうぞ。

  • 総括

 なんとこの映画は公式から100分流出しているので、どうぞご覧ください。(僕は40分くらいで飽きました)


POKÉMON Detective Pikachu: Full Picture

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三好長慶の動員兵数はどれくらいなのか?

 昨年三好長逸の記事を完成させた後、Twitterで「三好長逸」の話題を探っていたら、偶然あるやり取りに出くわした。どうも最近ある本が出版されたところ、その著書には三好長慶の動員兵数は数千人程度であるという記述があり、読者と筆者がその件について話し合っていたようだ(と言うほど穏やかでもなかったが…)。その頃は正直「三好氏の動員数が数千レベルなわけないだろ」と漠然と思いつつ、たぶんその著書には三好氏が太閤検地的な動員を成し得なかったことが論証されているのではないかなと予測するに留まった。

 その時はそれで終わり、自分の興味は他に移って行ったが、年が明けて偶然その本を読む機会があった。さてどのようなことが書かれているのか…

三好長慶の本拠地は阿波と讃岐です。今の徳島、香川を戦略的な本拠地として、京都まで船でやって来ます。京都へ来て将軍を支援し京都周辺で大きな力をふるった。だから、岐阜を本拠地として将軍を担いだ信長と三好長慶は、外形的には変わらないと言っている。しかしこれは、軍勢の数を見ると明らかに違います。三好長慶が命をかけて戦っているとき、その軍勢は何千単位なんですね、中核となる兵力はせいぜい約三千でしょう。(略)それに対して信長は、あっという間に「何万」という軍勢を持ってきた。(略)このように編制できる軍隊の数字を採り上げるだけでも、信長と長慶はレベルの異なる存在だということは火を見るより明らかです。(158頁)

えっ(絶句)
 三好クラスタのみならず畿内戦国史を少しでも知っているなら、この論旨には「???」となるのではないだろうか。そもそもこれ論拠が何もないような…*1と言うのも釈迦に説法だが(以前どこかで論証されていたのかもしれない)(政治体制の比較から始まったのに軍事動員力を挙げてレベルが違うとする噛み合わなさも気になる)(長慶の本拠地を阿波と讃岐としてるのも微妙に間違ってると言うか、よく知らない感を醸し出してるな)。
 ただ、これが場末の意見なら「HAHAHA!ナイスジョーク!」と済ませることも可能だが、学者の新書だけに一般的影響力は少なくない。そもそも私の思いも絶対的なものではないし、間違ってる可能性も大いにある。これはちょっとちゃんとした史料に基づいて三好氏の動員兵数を計算せねばなるまい…。

  • 論の前提
  • 『言継卿記』天文14年5月24日条に見る細川晴元の動員兵力
  • 『言継卿記』による三好氏および他勢力の動員兵数
  • 『多聞院日記』による三好氏および他勢力の動員兵数
  • 『細川両家記』による三好氏および他勢力の動員兵数
  • 『永禄九年記』による三好氏および他勢力の動員兵数
  • 宣教師による三好氏および他勢力の動員兵数
  • 阿波三好家の動員兵力
  • 当座の結論:三好長慶の動員兵力とは

*1:これはただの難癖だが、織田信長が命をかけて戦った場面と言うと稲生の戦いで率いた数百、本圀寺の変に駆け付けた10騎、天王寺の戦いの3000、本能寺の変の100足らずなどが思い出され、当たり前だが命を賭けるような局面での兵数は少ないものである

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さらば平成

 平成が終わる。平成が終わり、令和が始まる。令和が始まることで何が変わるのか、私にとっては全くの未知の領域である。
 ただ、近代日本の時代は天皇とともにある。今上陛下が退位され、皇太子殿下が即位されることで、時代の空気感は徐々に変わっていくだろう。
 今回の改元は今上陛下の強い示唆によって実現したものである。その時以来、国民には退位を是認するとともに卑近な言葉で言うと「お疲れ様でした」というムードがあった。
 考えてみれば、これは奇妙なことではないか。
 歴史上、退位した天皇は数多いるが、ここまで退位が「引退」と不可分で、しかもそれがポジティブな例はなかったのではないだろうか。初めて退位した天皇大化の改新に伴った皇極天皇だったが、これは政変によるもので、しかも皇極天皇は後に斉明天皇として重祚している。中世において譲位は慣例となったが、これは位を退いた上皇こそが皇室の家長として振舞うため(院政が慣行となったため)でもあった。
 そういう意味では老齢による引退と同義的な退位は画期的だと言えるのかもしれない。

 近代の天皇は(当たり前と言えば当たり前だが)個性で時代を彩った。
 明治天皇は日本が近代化する中、大帝を自ら演じた。
 大正天皇は権威的ではなかったが、それゆえに等身大の君主として日本国民に通じた。
 昭和天皇は日本を導かんとした英邁な君主であった。
 しかるに、平成の天皇は古い言葉で言うと「近来の聖主」であった。
 聖代というのは、必ずしも平和を意味しない。一条天皇の御世は「聖代」とされることがあるが、それは御伽草紙の中では、鬼が出現する→源頼光らが鬼を退治するという話柄の中で語られる。国難が存在し、それへの対処が出来るゆえに「聖代」なのである。
 平成は内に災害多き時代であった。それゆえに天皇陛下の聖徳が発揮されたとも言えようか*1

 それにしても、天皇陛下が退位礼で述べられた言葉には含蓄があった。

即位から30年、これまでの天皇としての務めを、国民への深い信頼と敬愛をもって行い得たことは、幸せなことでした。象徴としての私を受け入れ、支えてくれた国民に、心から感謝します。

 これほど短い言葉でも国民に真正面から相対する態度が強く看取されるのだから、正しく徳と言うべきであろう。

 1000文字くらい書いてきたが、結局何が言いたいのかさっぱりわからない駄文にしかならなかった。天皇のことを書いているだけに畏れ多いことである。ただ、平成が終わる時に「何ともまとめがたいことを思っていた」証としてとりあえず形にしておくことにする。

*1:政治家が言ったら問題発言になりそうなやつ