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篠原長房と十河一存の因縁
- 『昔阿波物語』
一、上方より名人の兵法人式部と申人罷下、孫四郎師匠として兵法の稽古被成候、又阿波の国ハ内藤太郎兵衛と申人、新当流を教へ申候ニ付て、実休様も十河殿も惣家中衆も新当流を稽古被成候時、式部か申ハ「新当流ハ役ニ立間敷」と申ニ付、実休様の被仰候ハ「さらハ孫四郎と仕相を仕り候へ」と被仰候て、互にほくとうを取あけ、さうさもなく孫四郎仕勝候、其後十河殿ハ妙永寺と申法花寺御番にて御座候に、式部御見廻申上候所、十河殿御内に十河新左衛門と申侍在、其人に「なるまいか」と被仰出候へハ、無法の事とハ合点なく「たゝきれ」と被仰けると心得て、妙永寺の仏たんの前に式部か居申候を、新右衛門は寺のえんのかけより刀をぬきもちて、うしろから袈裟かけに式部を打ハなし候時、孫四郎殿腹を被立、十河殿を討果さんと被申候付て、二日之間に孫四郎方へ人数五拾騎集り候て、十河殿へ取かけ被申候時、実休様の御耳にたち候二付、孫四郎殿へ被仰候ハ、如何様よりも孫四郎腹のいかやうに可被仰付候間、堪忍仕候へと被仰出候、殊ニ十河殿ハ実休様の舎弟なるによつて、孫四郎かんにんなされ候、孫四郎ハ惣侍頭に被定候故に、御家中ハ不残人数あつまり候、十河殿へハ一人も不寄候ニ付て、実休様の御分別被成、其後司を弐ツに分て、三好山城殿へ半分被仰付候、
『昔阿波物語』に語られる篠原長房と十河一存のいざこざ。「孫四郎」が篠原長房のことだが、実は長房の仮名が「孫四郎」とわかるのはここだけだったりする(長房の先祖や息子(長重)の仮名が「孫四郎」なので長房も「孫四郎」である蓋然性は高い)。『昔阿波物語』は三好実休のことを一貫して出家後の「実休様」と呼称するため、上記逸話もいつ頃なのかはわからないが、十河一存が阿波に在国していることや、長房が仮名であることから推すと、天文期後半頃と思われる。
さて、上方から式部という名人の兵法人が長房の師匠となっていたが、阿波では内藤太郎兵衛が指導する新当流が主流で、三好実休、十河一存以下家中の人間は皆新当流を学んでいた。これを式部は「新当流は役に立たないだろう」などと言うものだから、三好実休は「それでは長房と試合をしてみよう」と、互いに木刀で挑んだが、何事もなく長房が勝ってしまった。その後、十河一存は妙永寺という法華宗寺院(移転はしたが今でも徳島県に存在する)に御番としていたが、式部が見回りに来たところ、十河一族の新左衛門(新右衛門とも書かれておりどっちの表記が正しいのか不明)に「なるまいか」と語りかけ、新左衛門は「叩き切れ」と命じられたと解釈したので、仏壇の前に式部がいたのを縁側から刀を抜いて後ろから袈裟掛けに斬殺したのであった。
当然のように長房は立腹し、こうなっては一存を討つ!と号令をかけたところ、2日で50騎もの味方が集まり、いよいよ一存を討ち取りに行くかという時、実休も騒動を聞きつけ「今後は長房の意向に沿うから何とか堪えてくれまいか」と宥めたので、一存が実休の弟であることもあって長房も手を引いた。実休は長房を侍頭に任じたが、御家中の侍たちは皆長房の旗下に集まり、一存には誰一人として近寄らなかった。これを見た実休は分別を以て侍たちを二手に分け、一方は三好康長に委ねた。
この逸話が事実かどうかは何とも言えないが、阿波三好家の重臣トップツーが篠原長房と三好康長であったことや、十河一存が出身地のはずの四国にあまり寄り付かず、畿内でばかり活動しているのは史実として確かめられる。そういうわけで事実性を否定する材料もないので、少なくとも天正年間にはこのような長房あげ逸話が流布していたとは言えそうだ。
ところで若松和三郎氏の著作でもこの逸話は紹介され、氏は篠原長房と十河一存の試合と解釈されているが、よく読むと「十河殿」が登場人物として登場するのは妙永寺の場面からで、実休が「試合をしてみよう」と言ったのだから試合をしたのは実休本人と読めなくもない。その場合、一存は兄の不名誉を雪ごうとしたとも言える。しかし、式部も「新当流は役に立たない」なんて公言するものではないし、一存の言葉を拡大解釈した十河新左衛門といい、全体的に「口は禍の元」の方が教訓として引き出せそうである。