以前から、松永久秀と若江三人衆の血縁関係については触れているが、そろそろ「なぜそうなのか?」と思われる方もいるかもしれず、考えをまとめてみることにした。
まず、前提として松永久秀と若江三人衆のプロフィールをまとめておく。若江三人衆については個別に記事を書きたい欲もあるのだが、いつになるのかわからないので…。いやそもそも若江三人衆って?と思う人もいるかもしれない。若江三人衆とは、天正元年(1573)三好義継が滅亡する際に義継から離反した3人の三好家臣で、織田信長はその3人に義継遺領の河内北半国の統治を任せたものである。彼らは若江城に居住していたが、天正8年(1580)に若江城が廃城となり、八尾城に移った後も若江三人衆と他称された。恐らく「若江」は若江城だけではなく、三好権力を象徴する言葉でもあったと考えられる。
- 松永久秀 永正5年(1508)~天正5年(1577)10月10日
三好長慶によって取り立てられた摂津国人。高槻五百住出身説が近年では有力視されている。主家三好氏に自発的に離反したことはないし、将軍殺害に直接的加担もしていないし、東大寺大仏殿も意図して焼いたことはないし、爆死もしていないのだが、これらの正反対のことをしたとして有名な人物。そのうち久秀の虚名については記事にしたいと思っている。
- 多羅尾綱知 大永・享禄年間?(1520s)~天正15年(1587)前後?
左近大夫→常陸介。近江多羅尾氏の系譜と見られるが、出自には謎が多い。多羅尾孫十郎として細川氏綱の家臣に登場を果たすが、どのようにして氏綱に仕えたのかもわからない。ただし、綱知の「綱」は氏綱からの偏諱と見られ、天文末年から永禄初期にかけて氏綱家臣の筆頭に成り上がった。氏綱の死後はその居城であった淀城を引き継いだようで、「守護代」とも呼ばれていた。永禄三好の乱においては松永久秀方として淀城に籠ったが、三好三人衆に敗れ退去した。その後、三好義継が三人衆から離反して松永久秀を支持するようになると、義継の重臣として再登場を果たす。しかし、天正元年(1573)には義継の敵である織田信長に通じ、主君滅亡に一役買っている。綱知の妻は義継の妹ともされ、その間の子三好生勝が三好本宗家の家督を継いでいる。織田政権下では綱知が若江三人衆の筆頭であったが、天正10年(1582)前後より子の光信に家督を譲りつつあったようで、綱知は「常陸入道」と呼ばれるように出家したようである。宣教師の記録では反キリシタンとして名前が見える。
丹後守。名前に「正」を含むことから摂津池田氏の一族だろうが、系譜は不明である。「教」の字は遊佐長教からの偏諱とも言うが、遊佐氏に仕えていたことは確かめられない。管見の限り、教正の初見は永禄4年の足利義輝の三好邸御成に三好家臣として出仕が見えることである。越水衆としての活動が見られるのは、永禄三好の乱からだが、恐らく天文年間までに三好長慶・松永久秀によって越水衆に編成されたのだろう。三好三人衆に敗れた後は三好義継の重臣に収まり活動するも、天正元年に義継から離反し織田政権下で若江三人衆となった。豊臣政権下では若江三人衆の筆頭として遇され、豊臣秀次の家臣となって清州町奉行を務めた。秀次事件後は秀次に殉死したとも追放されたともいう。教正はキリシタンであり(洗礼名はシメアン)、キリシタンの保護者として宣教師の記録にも登場することが多い。
- 野間康久(長前) 天文前期?(1530s)~天正12年(1584)以降
左橘兵衛、転じて左吉とも呼ばれる。父野間長久(官途は「右兵衛尉」)は能勢氏の庶流国人であったが、細川晴元権力下で摂津国下郡守護代的地位にあった三好長慶と関係を深めることで立身した。越水衆への編成も長慶との関係によるものであろう。永禄9年(1566)頃から父長久の活動が見えなくなり、子康久への世代交代がなされたようだ。康久は三好義継の重臣であったが、天正元年(1573)義継を裏切り織田政権下に若江三人衆となった。豊臣政権下における活動は不詳。なお、実名を長前から康久に変えているが、長前の終見は永禄12年(1568)(『戦三』一四四〇など)、康久の初見は元亀以降(『戦三』一三二四*1)である。本記事では基本的に康久の名前で呼ぶ。
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