志末与志著『怪獣宇宙MONSTER SPACE』

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4月30日付新治伊予守(稲葉一鉄)宛三好長逸書状の年次比定について

 『戦国遺文 三好氏編』一四〇〇号「三好長逸書状」の年次比定について、近年ちょっとした論の食い違いが見られたので少し考えてみる(というほどのものでもないが)。まずは問題となる文書を以下に引用し、私訳を示しておく。

  • 三好長逸書状(切紙) 保阪潤治氏所蔵文書

御状令拝見候、仍就斎蔵上洛御音信殊十文字鎌送賜候、毎度御懇志喜悦存候、別而秘蔵可申候、雖為遠路相当之儀承不可有疎意候、将又斎蔵具示給候、就其存分■■(大方)申入候、定而可有演説候、被得其意尾州江可然候様、御取成肝要候、尚期後音候、恐々謹言、
   四月晦日     長逸(花押)
   新治伊予守殿
        御返報


(私訳)お手紙を拝見しました。「斎蔵」(=斎藤内蔵助利三)が上洛し音信として十文字の鎌を贈っていただいた件、いつものことながら親しくさせていただいているお気持ちをとてもうれしく思います。贈っていただいた鎌は秘蔵として大事に扱わせていただきます。遠路はるばる贈っていただいたお気持ちはよくよくわかっており、粗略に思う気持ちなどこちらにはございません。また、「斎蔵」が詳しく示しなさったことですが、それについてこちらの考えを申しましたので、「斎蔵」の説明がありましょう。よくよくご理解になり「尾州」(=織田尾張守信長?)へ上手く取り成してくださることが大事です。後の手紙で詳しく述べることになるでしょう。恐々謹言。

 ちなみに宛所となっている「新治伊予守」が稲葉一鉄のこと。「新治伊予守」のどこが稲葉一鉄やねん!と思われそうだが、織田信長が侵略する前に美濃を支配していた後斎藤氏は永禄2年(1559)以来一色氏に名字を改めており、それだけに留まらず家臣団にも一色家臣名字を付与し、一色氏なりきり大作戦を敢行していた。新治も一色家臣に見える名字であり、稲葉一鉄は一色氏なりきりの一環として新治に名字を改めていたのである。
 この史料を紹介された天野忠幸氏はこの史料の年次を永禄11年(1568)とし、織田信長足利義昭上洛戦を開始する直前にあっても三好三人衆三好長逸織田信長との交渉による妥結を睨んでいたとされた。 これに対して井口友治氏は「三好日向守長逸、信長に通じる」(織田信長家臣団研究会『天下布武』28号、2016年)と題して年次比定に反論された。要点を記すと以下の通り。

  • 斎藤利三は勝手に三好三人衆と通交しており、それを長逸が逆手に取ったのでは?
  • 長逸は本圀寺の変後織田信長に降伏しようとしていると考えれば「取成」の内容がすっきりする。

 直接関係ないが『天下布武』は結構面白い指摘もあるのに内容についてネット上では全く調べられないので何とかしてほしい。

 こうした反論が出ていたことは知らなかったが、桐野作人『明智光秀斎藤利三本能寺の変の鍵を握る二人の武将―』(宝島新書、2020年)にて一定の評価を以て言及された。新書という媒体に桐野氏自体が著名な論者であることもあって、井口説の提示は決して些事ではない。異なる解釈が出た以上、永禄11年という年次が正しいのか、改めて考える必要はある。

 もっとも、井口説も疑問なしとしない。反論としては以下のような指摘が出来る。

  • 織田信長足利義昭を保護下に置くのは永禄11年(1568)7月に入ってから。信長が義昭を奉じるのは既定路線ではあったが、確定的ではなかった。
  • 「御返報」と脇付けが付いており、「御状令拝見候」から内容が始まる以上、稲葉一鉄本人から最初に書状があった(この書状はそれへの返事)と捉えるのが少なくとも常識的である。
  • 「斎蔵上洛」とある以上、斎藤利三は上洛してきており、長逸は京都あるいはその周辺にいるのが前提である。
  • 三好長逸は永禄11年(1568)年末には出家して「日向入道北斎宗功」を称している。永禄12年(1569)以降の発給とすると署名は俗名の「長逸」にはならない。
  • 稲葉一鉄に外交権がないと言った傍から本圀寺の変後の外交権を主張するのも不審がある。後年の事例であるが、織田信長天正3年(1575)に降伏した三好康長を直後から本願寺との和睦交渉に起用し、和睦を成立させるなど新参であっても重要な対外交渉を行わせることはあった。稲葉一鉄三好三人衆が通交しており、それが織田―三好三人衆交渉に利用される可能性がなかったとは言えまい。
  • 斎藤利三が勝手に三人衆と通交したとするのはそれこそ無理筋と言うかどのような立場でそんなことが可能なのか説明していない。
  • 永禄12年(1569)時点で織田信長尾張守から弾正忠に通称を変更しており「尾州」と他称されるかは微妙(もっとも通称変更を知らずに他称されることはあり得る) 。

 ただし、井口説に瑕疵があるからと言って、天野説の永禄11年(1568)が絶対的に正しいとは史料内部の文言だけでは判断しきれない。少なくとも永禄11年(1568)以前と思われるが、三好長逸と「新治伊予守」を名乗る稲葉一鉄が健在である時期としては永禄9年(1566)以降なら可能性は否定できない。
 実はこの問題に回答を与えるのは存外簡単である。天野忠幸氏は三好長逸が生涯用いた花押を3種類に分けた(花押1・花押2・花押3)が、後に馬部隆弘氏は永禄10年(1567)暮れから永禄11年(1568)にかけて長逸が使用していた花押を指摘された(馬部氏はこれを花押Aと呼んでいる)。すなわち、永禄11年(1568)前後長逸は花押を変更しており、この文書も花押が花押2であれば永禄10年(1567)以前、花押Aであれば永禄11年(1568)、花押3であれば永禄12年(1569)以降とはっきりするのである。
 ちなみに以下が花押Aの形状。
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 ネット上では東京大学史料編纂所DBで見られる東福寺文書でも確認できる。小さいが…
clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp

 そして、実はこの問題についても答えが提示済である。馬部氏は花押A指摘ついでにどの文書が花押Aなのかを挙げている(『戦国期細川権力の研究』660~661頁)が、この文書も花押Aが据えられているとされている(他には『戦三』一三九五、一三九六、一三九九、一四〇三の文書に花押Aが据えられているという)。私も東京大学史料編纂所所蔵の影写本で確認してみたが間違いなく花押Aであった。よって、当該史料の発給年は永禄11年で確定する。

※追記(8月14日)
 東京大学史料編纂所データベースにて「保阪潤治氏所蔵文書」の画像が一般公開された。これによって、当該史料の謄写を誰でも見られるようになった。以下にリンクを貼るので確かに花押Aであることを実見していただきたい。
clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp

結論:当該史料の年次は当初の天野説通り、永禄11年(1568)である。

 当該史料は確かに織田信長の上洛戦直前に三好長逸織田信長と連絡を図ったものとして評価できる。稲葉一鉄斎藤利三を通じて三好三人衆との連絡回路を持っており、三好長逸から見ると織田信長とは妥結の余地があった、ということになるだろう。 また、上でも少し述べたが「御状令拝見候」「御返報」とあるからには、稲葉一鉄三好長逸の書状が先行してあったと捉えられる。これこそいつ音信があったのかによって解釈も変わるものの、使者に立った斎藤利三が長期間三人衆方に拘留されているといった事情は文言から想定しにくく、永禄10年(1567)に織田信長が美濃を制圧して以降の音信であった可能性が想定される。であれば、織田信長の側にも三人衆方と関係を結びたい意欲があったとも捉えられよう。こうした可能性を前提として当該期の政治情勢は読み解かれる必要があるだろう。

おまけ・「尾州」の解釈について

 三好長逸が問題にするような「尾州」(尾張守)は織田尾張守信長以外に畠山尾張守高政も可能性がある。畠山氏は永禄9年(1566)三好三人衆との戦いに敗北した後、同年に和睦、翌永禄10年(1567)に再び三人衆と干戈を交え、その戦いは義昭上洛まで続いた。長逸が永禄11年(1568)での事態収拾に向けて、畠山高政と交渉を持とうとすることはあり得る。
 ただし、畠山高政との交渉仲介を遠国の稲葉一鉄を通じて行う(永禄11年(1568)段階だと一鉄は織田家臣なので織田家臣が畿内情勢の仲介を行うことになる)のは効率的ではない。稲葉氏と畠山氏にコネクションがあるのかという別の問題もある。 こうした点を踏まえると「尾州」は織田信長と考えるのが至当である。