志末与志著『怪獣宇宙MONSTER SPACE』

怪獣monsterのコンテンツを中心に興味の赴くままに色々と綴っていくブログです。

三好義継はなぜ自ら死を選んだのか―「天下人」継承者たちの戦い

 天正元年(1573)は濃尾の大名織田信長がそれまで共に室町幕府を運営してきた将軍足利義昭を追放し、織田政権を樹立した年である。また、この年には信長がそれまで戦ってきた有力大名の死が相次いだ。4月には甲斐の武田信玄が死に、8月には越前の朝倉義景、北近江の浅井長政が信長によって滅ぼされた。多くの政敵たちの死が織田政権の成立にもたらした影響は大きい。武田信玄は最強の戦国大名として名高く、朝倉義景は元亀の争乱の火蓋を切った反信長大名で、浅井長政織田信長の妹婿にも関わらず裏切った鮮烈さで著名な存在だ。しかし、畿内に織田政権が樹立するにあたって最もインパクトを残したのは三好義継の滅亡ではなかったか?なぜそう考えられるのか、三好義継が象徴する三好本宗家滅亡の事態とは何だったのか語って行く。

※2 「中央政権主宰者」という言葉が頻発する割に、「中央政権主宰者」が何なのか説明がありません。これは私にとっても、その地位をどのように規定すれば良いのかピンと来る言葉がないためです。3割くらいの誤解を含みますが、「中央政権主宰者」「天下人」と読み替えて下さる方がわかりやすいと思います。じゃあ最初から「天下人」で良くないか?と思われるかもしれませんが、個人的に「天下人」は手垢に塗れすぎていて結局再定義が必要なので、それっぽい「中央政権主宰者」という言葉で誤魔化してみた次第です(でもタイトルが「中央政権主宰者」じゃ締まらないのでそっちは「天下人」になってます。無茶苦茶だな!)。この記事は学術論文ではないので、お見逃しくださいませ。

※3 長くて読んでられるかよって人向けに結論だけ先に言ってしまうと(以下反転)三好義継が中央政権主宰者としての誇りを胸に死にその死に様がインパクトを残したことで、織田信長も中央政権主宰者意識に目覚めたのではないか、室町幕府に代わる織田政権が構想されたのは義継の死がきっかけではないかということです。

三好政権と三好義継

 そもそも三好義継って誰?と思われる方も多いだろう。義継の来歴を語るには三好政権に至る過程について語る必要がある。畿内戦国史細川政元が将軍足利義稙*1を廃立した明応の政変に始まる(明応2年、1493)。「半将軍」の異名を取り幕政を牛耳った政元であったが、後継者争いを収められず暗殺されてしまう(永正4年、1507)。以来幕政の主導権は阿波細川家の系列である細川澄元とその子晴元、畿内国人のまとめ役であった細川典厩家の出身である細川高国とその養子氏綱により争われた。この「両細川の乱」で畿内に勢力を伸張したのが阿波細川家の家臣であった三好氏である。三好長慶は主君細川晴元への下剋上の過程で将軍足利義輝とも戦い、晴元と義輝を京都から追い払った。こうして室町幕府に代わる中央政権として三好政が姿を現した。後に長慶は将軍義輝と和解し京都に保護したものの、室町幕府の復活を狙う将軍義輝の存在は三好政権の潜在的政敵と言えた。
 さて、三好政権の主宰者である三好長慶の後継者はどうなっていたのだろうか。長慶には息子が一人しかいなかった。それが三好義興であったが、義興は長慶に先立ち永禄6年(1563)に死去した。長慶は義興に代わる後継者の指定に迫られた。長慶が選んだ後継者は四弟・十河一存の遺児、十河重存であった。この十河重存こそが三好義継である。なぜ、長慶は三好名字を持ち子沢山の次弟・実休の子ではなく、一存の子を選んだのか。それは重存の母親が摂関家九条稙通の娘であったからである。戦国時代の摂関家近衛家が足利将軍と結び、九条家は反足利勢力と結んで抗争していた。九条稙通は公家でありながら、婿である一存の軍に手勢を率いて加わるなど三好政権との結びつきが強かった。長慶は九条家の血を引く人物を後継者に据えることで、足利将軍に引けを取らない貴種性を確保し三好政権の中央政権としての格を上げようと考えたのだろう。貴種性と中央政権主宰者意識―これは義継の性格を形作るにあたり決して無視できない要素であると私は考えている。

室町幕府を滅ぼした永禄の変

 三好長慶が永禄7年(1564)に死んだとき、重存(義継)は数え年14歳にすぎなかった。政権主宰者として振舞うにはまだまだ若く、信望はなかった。三好政権の首脳は長慶の死を伏せ、集団指導体制によって乗り切ろうと考えたようだが、気がかりなのは京都にいる将軍足利義輝の存在であった。義輝が長慶の死を察知して策動を開始すれば厄介な事態になる。そう考えた三好長逸らの三好政権首脳は重存と義輝の関係構築を急いだ。永禄8年(1565)5月1日、重存は三好長逸や松永久通(久秀の息子)を引き連れて上洛し、義輝に謁見、義輝から偏諱を賜って「義重」に改名し、左京大夫に任官された。ひとまず義重(義継)は室町幕府の秩序に組み込まれる形で穏便に義輝と関係を構築したと言えるだろう。
 ところが、その18日後の5月19日三好義重は三好長逸や松永久通を伴い今度は義輝の二条御所を包囲して襲撃した。義輝とその側近たちの多くは衆寡敵せず殺害されてしまったのである。22日には生き残った室町幕府の吏僚たちも義重に従い、三好長逸が参内して朝廷の承認すら得てしまった。室町幕府は首長、政権機構、構成員、正統性を全て失った。驚くほどあっさりと室町幕府は滅亡し消え去ったのだった。これを見届けると三好義重は義継と改名、三好義継となった。義継は未だ15歳であった。
 なぜ三好義継は将軍足利義輝を殺害したのか。これには様々な要因があり義継の個性という点だけで測れるものではないが、義継の視点から見れば足利将軍を殺害するのに後ろめたさを持たなかったことは言えるだろう。義継が後に見せて行くプライドの高さから考えれば、5月1日に義輝に従ったこと自体が腹に据えかねた可能性もある。とにもかくにも、室町幕府が消え去ったことで三好政権が唯一の中央政権となり、長慶以来の懸案は克服された。
 だが、三好政権は室町幕府を滅ぼしたことを切っ掛けに自壊していくという裏腹な結果に向かっていく。

三好政権の内戦

 なぜ最大の敵であった室町幕府を滅ぼし唯一の政権となったことで三好政権は崩壊したのだろうか?
 室町幕府が滅びたと言っても全ての関係者が三好政権に従ったわけではないし、室町幕府再興運動は滅亡の直後から開始されていた。三好政権に対立する畠山氏の重臣安見宗房は変直後の6月4日にはすでに越後の上杉輝虎(後の謙信)に義輝の弔い合戦への出馬を要請している。ただこの段階では幕府再興運動は諸大名から理解はされたもののその実現に動く大名はいなかった。何よりも幕府再興の旗印となる人材を欠いていたからであろう。
 足利義輝には弟が二人いた。京都にいた一人は義輝と共に殺されたが、もう一人の一乗院覚慶は奈良におり、三好政権下で大和国の統治を担当していた松永久秀によって保護されていた。永禄の変に直接関与しなかった久秀は覚慶を自分の手元に確保することでカードにするつもりだったようだ。この松永久秀三好政権の未来を占うキーマンになっていく。
 7月28日義輝側近であった細川藤孝らの手引きで覚慶は奈良から脱出し、近江の国人和田惟政の保護下に入った。さらに8月3日久秀の弟で三好政権下で丹波国の統治を担当していた内藤宗勝が萩野直正と交戦し戦死して、三好政権の丹波領国は崩壊した。この2件は明らかに久秀の手落ちであった。三好政権内における松永久秀の地位は悪化していった。もっとも義継には久秀をどうこうしようとする意志はなかったようである。
 11月16日、松永久秀の排除に動かない義継に業を煮やした三好政権の重臣たちは直接の威圧に及んだ。三好長逸三好宗渭石成友通三好康長らの幹部は義継の居城・飯盛山城に軍勢を率いて入城し、義継の奉行人である長松軒淳世らを殺害、主君である義継に久秀討伐を迫った。自分の手足である奉行人を殺された義継に拒否する選択肢はなかった。ここに三好長逸三好宗渭、石成友通による三好三人衆が結成されて三好政権の運営を行うことになった。自身が政権主宰者と自覚する義継にとっては痛恨の処置であったろう。
 三好政権から排除されることになった松永久秀はやむなく畠山氏と結んで三人衆に抗戦を開始した。一方で覚慶は織田信長などの協力を取り付け、永禄9年(1567)4月に還俗して「足利義秋」を名乗り(義秋から義昭に改名するのは後だが以降義昭とする)、左馬頭にも任官されて室町幕府再興への動きを活発化させていく。切羽詰まってきた久秀はこの室町幕府再興運動に乗った。久秀は同じく室町幕府再興を目指す織田信長から援軍の約束を取り付け、『多聞院日記』によれば久秀方には「尾張国衆」が加わっていたようだから実際に援軍が派遣されていたらしい。だが久秀は軍事的劣勢を跳ね返せず、永禄9年(1567)5月に義継の軍勢に敗れると失踪してしまった。久秀に与同する国人たちは畿内で散発的に抵抗を続けていたが、三好政権は政権からの松永久秀の排除という目標をとりあえず達成した。
 戦争が一段落したためか、6月24日には義継は養父長慶の死を公表し、河内国真観寺で長慶の葬儀を行った。義継を始め、参列者は皆長慶を偲んで感涙にむせんだという。義継にとっては、前政権主宰者であった長慶の葬儀を自らが行うことで、後継者アピールをしたいと考えたのだろう。
 だがこの頃、三好政権には三好三人衆以上に義継の政権主宰者の地位を脅かす者が現れていた。6月11日、三好三人衆から援軍要請を受けていた阿波三好家の重臣篠原長房が摂津国兵庫に上陸してきたが、長房は阿波公方の末裔足利義親(義親が義栄に改名するのは後だが以降義栄とする)を伴っていたのである。義継や三好三人衆は義輝の殺害後に後継将軍を立てる構想など持ち合わせていなかった*2義継はその名がそうであるように、自らこそが中央政権の主宰者を「継ぐ」と思っていた。だが、長房は三好政権の意図を上手く読めていなかったのか、対抗勢力が義昭を担いでいる以上自らも将軍候補者を担ぐ必要性があると認識していた。
 長房が勝手に足利将軍家の連枝を連れてくるだけならまだしも、義継にとって耐えがたかったのは、自身の部下のはずの三好三人衆までが義栄擁立に妥協しはじめたことであった。義継は義輝の殺害以降、中央政権の主宰者であり、三好三人衆はその権限を規制したものの義継の「主君」の地位を否定することはなかった。しかし、三人衆までが義栄を主君に仰ぎ始めると義継の存在は完全に埋没してしまう。三人衆までもが義栄の将軍就任に動いた結果、永禄10年(1568)ついに三好政権にとって驚天動地の事態が訪れることになる。

三好政権の崩壊と室町幕府再興

 永禄10年(1567)2月28日、畿内の国人たちに一斉に檄文がばらまかれた。2月16日に義継が河内国高屋城から脱出したニュースはすでに知れ渡っていたであろうが、この日の檄文はさらに過激であった。

同名日向・下野・石成以下構悪逆無道、前代未聞所行候、松少事対家大忠候者、依難見放、令一味候、此間粉骨之由感悦候、弥馳走可為神妙候、恐々謹言、
    二月二十八日      義継(花押)

 何と、三好政権で義継を支えてきた三好三人衆(「日向」=三好日向守長逸、「下野」=三好下野入道宗渭、「石成」=石成友通)「悪逆無道」であり、三好政権の敵として排除された松永久秀(文中「松少」は「松永弾正少弼」の略)こそが「大忠」であるというのだ。三好政権の主君の突然の変節に多くの人が驚いたに違いない。しかし、当然ながら誰もがこの義継の檄文に応じたわけではなかった。義継に従ったのは一部の側近たちだけであり、三好三人衆三好政権の大部分を確保していた。三好政権の主だけが反三好政権勢力に加わり、三好政権は主なき政権となった。また、行方不明になっていた松永久秀は義継に呼応して再び姿を現した。こうして義継と久秀は手を携えて共同軍事行動に当たって行く。久秀は2年前名目上は義継によって排除されたにも関わらず、義継を怨んだり害しようとは思っていなかったようである*3
 三好三人衆対義継・久秀連合の戦いは、前年のような久秀の完全敗北には至らなかった。その意味では三好政権の名目的首長であった義継が久秀に加わった効果はやはり大きい。しかし、戦争の長期化は他勢力の侵入をもたらした。三好三人衆はすでに阿波三好家と結んでいたが、美濃斎藤氏や六角氏とも同盟を結んだ。久秀と義継は室町幕府再興を目指す足利義昭を担ぐ勢力と連携した。足利義昭を担ぐ勢力の代表は織田信長であったが、三好三人衆と同盟した斎藤竜興によって上洛を阻害されている状況だったのだ。だが永禄10年(1567)夏に信長は斎藤氏の重臣を味方に引き入れて竜興を放逐し美濃を掌握することに成功した。織田信長が義継と久秀を助けに畿内に現れる瞬間は近付いていた。
 永禄11年(1568)7月、織田信長美濃国足利義昭を招き、室町幕府再興に力を尽くすことを誓った。信長は9月に入ると三好三人衆を敵に睨み上洛戦を開始する。しかし、三好三人衆方でまともに抵抗したのは勝竜寺城に籠った石成友通と池田城池田勝正だけであった。三人衆は実にあっさりと退散し、9月末には信長と義昭は三好政権の政庁であった芥川山城に入り、従属してきた大名たちの参賀を受けた。久秀と義継も芥川山城に出向き、義昭に従う態度を示したようである。義昭は芥川山城で新しい人事を発し、久秀には大和が、義継には河内北半国が与えられた。摂津は義昭の上洛に最も献身的であった和田惟政が管轄し、摂津国人の伊丹忠親と池田勝正に領域が保障される。義昭と信長が10月14日に京都に入ると空になった芥川山城は和田惟政が一時預かった後廃城となった。義昭と信長は三好政権の政庁であった芥川山城を象徴的に利用することで三好政権からの継承と否定を同時に行ったのだった。
 こうして三好政権は崩壊した。一発逆転を狙い三好三人衆から離れて松永久秀と結んだ三好義継は織田信長畿内に引き入れたことで自身が主宰者たるべき政権を失った。それどころか成り行き上とは言え、自分が滅ぼした室町幕府の再興に結果的に協力してしてしまった。養父長慶が勢力を扶植した三好政権本国の摂津も他の大名に奪われてしまい、義継の手元に残ったのは河内の北半国という往時の勢いからすればスズメの涙ほどの領域にすぎない。
 ただし義継は再興室町幕府に組み込まれたものの、信長に臣従したわけではなかった。義継はようやく20歳、三好政権を取り戻す戦いもここから始まるのである。

本圀寺の変とその影響

 ところで、畿内から退散した三好三人衆はどこへ行ったのだろうか。織田信長が上洛すると畿内に跋扈していた三好三人衆は実にあっさりと消え去り、決戦らしい決戦はまるでなかった。これを見た織田信長足利義昭もあっけなさに油断したことであろう。その証拠に信長は上洛して1ヶ月も滞在せず、10月24日には京都を立って岐阜に帰ってしまった。畿内はもう俺がいなくても大丈夫だと確信していたのではないか。だが、これはとんでもない落とし穴だった。
 決戦らしい決戦がなかったということは、三好三人衆の勢力はほぼ温存されていたということである。三人衆の狙いが戦力消耗を抑えつつ信長に油断させることだったのならば、実に高い戦略眼である。なお、この後の三好三人衆勢力を三好政権の残党、三好残党軍と呼んで義継とは区別することにする。信長が京都から去って2ヶ月しか経っていない永禄11年(1568)12月末三好残党軍1万の大軍はに上陸し、義継の部下が守る家原城を攻略、翌永禄12年(1569)1月4日には上洛して京都を封鎖した。上陸から入京まで約1週間の速さであった。狙うは足利義昭の首一つ、残党軍は義昭の御所となっていた本圀寺を取り囲み永禄の変再来かと思わせた。
 しかし、本圀寺の変は結局失敗した。三好残党軍を追って畿内に配置されていた和田惟政池田勝正、そして義継の軍勢も6日には上洛してきた。残党軍はこれを迎え撃つために手勢を割き、桂川で戦ったが敗れてしまった。本圀寺を攻めていた部隊も明智光秀などの京都駐留軍によって撃退され、残党軍は得るところがないまま帰らざるを得なかったのである。
 織田信長が本圀寺の変を報を受けたのは1月6日だったが、10日にはすでに手勢を引き連れて駆け付けたというのだから、信長の慌てぶりがよくわかる。本圀寺の変が残した衝撃は信長には大きかった。完全に油断していた。いつまた三好残党軍が現れ京都を襲うかもしれない。そう考えると信長は早い。松永久秀や三好義継からも家臣を出させて畿内に残る三好残党軍与党を討伐する部隊を結成し軍事に当たらせた。本圀寺に代わる二条御所を急ピッチで建造させ、行政法規「殿中御掟」を作成した。また、三好残党軍が上陸し兵站基地となった堺の責任を問うて矢銭を要求し服従させた。全ては三好残党軍の根を断つため、室町幕府を正常に運営するためである。
 この中で問題として浮上したのが義継の処遇であった。信長が義継についてどう思っていたのか、どのような人物と見なしていたのかは明らかではない。しかし、信長は三好残党軍対策を練る中で、義継の存在に気付いたと思われる。よく考えれば義継は将軍殺害の主犯の一人であり、三好政権の主宰者であった。このような人物が万が一にでも三好残党軍に主君として仰がれることがあれば、三好残党軍は残党ではなく正統な中央政権としての資格を持ってしまう。一方で義継は来歴を見るとその地位にふさわしい処遇を要求しているように見えた。織田信長足利義昭は義継を再興室町幕府に留め置く策、それも「旧政権主宰者」にふさわしい地位を考えなくてはならなかった。
 その結果実現したのは永禄11年(1569)3月27日の義継の結婚である。義継に正妻がいないことに目を付けた信長は自らが媒酌人となって、義昭の妹を義継に嫁がせた。三好氏は足利将軍の血縁に組み込まれ、義継は政権主宰者の「弟」となった(信長が義昭から「御父」と呼ばれたことを思うとこの三人の擬制的家族関係は示唆的に見える)。「弟」というのは微妙な地位で劣位かつ対等性もあるという位置である。しかし、実に奇妙な婚姻である。義継も義昭妹もその心情はわからないが、義昭妹が義輝妹でもあることを思うと、義昭妹は兄の仇に嫁がされたことになる。
 幸いにして、永禄11年(1569)中は三好三人衆の一人であった三好宗渭が死去し、義継の調略によって淡路の安宅神太郎が三好残党軍から離反したこともあって、残党軍のそれ以上の攻勢はなかった。この時期の義継は再興室町幕府のために仕事をしている。「将軍の弟」という立場に満足していたのか、あるいは自身の権限を制した三好三人衆への憎悪が未だに消えなかったのか。

再興室町幕府の挫折

 永禄12年(元亀元年)(1570)織田信長はいよいよ再興室町幕府の内実を固めるべく精力的な行動に出る。1月に信長は全国の大名に上洛と将軍義昭への出仕を呼びかけた。さらに4月からはこれに従わない大名たちの討伐を開始する。武力によって再興室町幕府の統治を実現する態度を明らかにしたのである。信長の最初の狙いは越前の朝倉義景である。畿内近国の武士を組織して悠々と朝倉攻めを実現するかに見えた信長だったが、4月末同盟者の浅井長政に裏切られてしまった。信長はすぐに反攻して浅井・朝倉連合軍を6月28日には姉川で破ったものの、北からの攻勢に畿内への影響力は弱まった。
 三好残党軍がこのゴタゴタを見逃すはずはなかった。三好残党軍は7月21日に畿内に上陸し、室町幕府方の城郭への攻撃を開始した。また、これに先立って6月には池田家中の荒木村重にクーデタを起こさせ、足利義昭に味方する池田勝正を追放する。残党軍は優勢に戦いを進め、京都に迫る山崎にまで勢力が及びつつあった。流石に信長も捨て置けなくなり、8月20日織田信長は三好残党軍を討つべく出陣した。
 織田信長の出馬に対し三好残党軍は野田城・福島城への籠城を選択した(それゆえにこの戦いを野田・福島の戦いという)。信長は戦いを有利に進め、8月28日には残党軍の幹部である三好為三三好宗渭の弟)と香西越後守が織田方に内通してきた。さらに信長は9月3日に足利義昭の出馬を仰ぎ、この戦いが室町幕府による畿内平定戦だとアピールした。戦況は三好残党軍に不利になり、城内からは和睦の提案もあったが信長は一蹴した。いよいよ三好長逸以下、三好残党軍を根絶する絶好のチャンスと信長は確信していたのではないだろうか。義昭まで戦場に担ぎ出した以上、信長には勝利する選択肢しかなかった。
 だが、三好残党軍は一発逆転に成功する。9月12日夜、突如として鳴り響いた鐘の音に信長たちは仰天した。野田・福島に隣接していた本願寺の軍勢が織田軍を襲ったのである。本願寺には三好残党軍からの調略の手が伸びていたのだ。これと連動するかの如く、浅井・朝倉連合軍は9月16日近江国坂本を襲撃し比叡山の助けを得て、信長も義昭も不在の京都に迫った。こうして見ると本圀寺の変以来の三好残党軍の「上げて落とす」戦略は優秀である。結局9月23日には信長も義昭も大坂から撤兵せざるを得なかった。一方でこれを追撃しようとした残党軍を食い止めたのは三好義継という皮肉な巡り合わせとなった。
 北からは浅井・朝倉・比叡山、南からは三好残党軍と本願寺という幕府包囲網が形成され、織田信長が中心的役割を果たしてきた再興室町幕府は年初の威勢の良さからは一変して最大の危機を迎えた。結論を言うと、この戦いは痛み分けに終わった。信長も包囲網側も決め手を欠き、両陣営は和睦した(和睦せざるを得なかった)。この時三好残党軍との和睦を取り持ったのは松永久秀と義継であった。三好残党軍とのコネがあるのはこの二人なのだから当然の処置であろう。だが、この和睦に二人が噛んだことが三好政権復活への伏線になろうなど、足利義昭織田信長も予測していなかった*4。元亀元年(1570)は再興室町幕府の前途多難を予感させる年になった。

甦る三好政

 元亀2年(1571)には早くも再興室町幕府と三好残党軍の和睦は壊れ始めた。阿波三好家は畿内に兵力を振り分ける必要がなくなったことで備前国に進出し毛利元就と戦い始めたのである。再興室町幕府が三好残党軍と和睦したことで中国方面の平和は壊れ、義昭と信長は顔に泥を塗られた。しかし、義昭と信長は毛利氏からの抗議にだけ目を向けるわけにも行かなかった。5月には松永久秀が突如として河内国南反語句を支配する畠山秋高を攻撃し始めた。秋高は義昭・信長側の守護であった。さらにこれと連動して義継と三好残党軍も秋高攻撃に動いた。義継と久秀、三好残党軍は手を結んだのである。契機としてはやはり前年の和睦に義継と久秀が関わったことが挙げられる。交渉を重ねる中で三好残党軍は二人を説得したのではないか。義昭と信長にとっては最悪の事態であった。
 三好長逸が代表していた残党軍と義継・久秀はどのような構成にあったのか、端的に判明する書状がある。

今度無事珍重候、仍此表之儀、所々無一着候之条、可及行候、急度渡海之儀、馳走肝要候、於様体者申含藤林五郎大夫差下候、猶松永山城守・日向入道可被申候、恐々謹言、
    卯月十六日     義継(花押)
  安宅監物丞殿

 大事なのはこの義継の書状には松永久秀(「松永山城守」*5三好長逸(「日向入道」*6が副状を出していたということだ。これはつまり、久秀と長逸が対等の立場で義継を主君に仰いでいたことを意味する。彼らを三好残党軍と呼ぶのはもはや適切ではない。永禄8年(1565)以来義継・三人衆(長逸)・久秀に分裂した三好政権は全てのパーツが再び一か所に集まり復活したのだ。残党軍改め新三好政権はもはや足利将軍も細川氏も擁立していなかった。義継は三好政権の当主、中央政権の主宰者に返り咲いたのだ。この時には義継は22歳になっており、戦争経験を積み、また北河内行政を恙なく行ってきた。このような実績が中央政権主宰者と認められたことに繋がっているのだろう。
 畿内三好政権が甦る中、再興室町幕府最大の支持者織田信長は何をしていたのかというと、北にかかりきりで畿内には来なかった(佐久間信盛柴田勝家といった重臣を何度か派遣するに留まった)。何せ北の朝倉・浅井・六角・比叡山といった勢力は信長の本拠地・岐阜と京都を結ぶ通路を脅かしていた。信長としてはまずは北の脅威を何とかしなければ京都に行くことすらままならないのであった。さらに本国尾張の隣接地帯では本願寺が指揮する長島一向一揆が蜂起しておりとても畿内に精力的に関わる余裕などなかったのである。
 将軍足利義昭は信長の援助がほとんどないまま三好政権に対処せざるを得なかった。固有の軍事力に欠ける義昭が成果を挙げられるのは調略くらいであった*7。義昭は大和国においては長年松永久秀と戦ってきた筒井順慶を自らの陣営に引き入れることに成功した。元亀2年(1571)8月4日筒井順慶は義継と久秀の連合軍相手に大勝したため、大和における三好政権の領域は久秀の多聞山城だけになってしまった。大和では三好政権が劣勢となったが、三好政権は摂津では戦いを優位に進め8月28日には義昭の無二の忠臣で摂津守護でもあった和田惟政を戦死させた*8。幕府派の守護である畠山秋高も守護代遊佐信教と対立したために身動きが取れなかった。三好政権は義昭しかいない室町幕府相手に着実に領域を広げて行った。元亀3年(1572)8月には義継や久秀は京都の寺社に禁制を発給している。三好政権が京都を奪うのは目前に迫っていると認識されていたのだ。

織田信長、中央政権主宰者となる

 織田信長三好政権相手に有効な手を打てない将軍足利義昭に業を煮やし始めた。一方義昭も四面楚歌の中信長と共倒れすることを恐れはじめた。こうした二人の関係をさらに悪化させたのがこれまで再興室町幕府を遠方から支持していた武田信玄が、信長の同盟者である徳川家康の領域に攻め込んできたことであった。信長にとって信玄は苦境の中最後に残っていた有力同盟者でもあった。元亀3年(1572)10月5日に比定される信長から信玄への書状は信玄へ最高の書礼を用いて、上杉謙信との和睦に従ってくれたことを感謝している。しかし、信長がこの書状を書いたその2日前の10月3日信玄は朝倉義景に書状を発し、信長包囲網に加わることを表明していた。信玄に裏切られた信長の失望と絶望、そして憎悪はいかばかりであったか*9。信玄は12月22日に三方が原で家康を破り着々と西に向かい始めた。なお、松永久秀が元亀4年(1573)1月2日付けで六角承禎に信玄勝利を伝えているから、信玄は当然三好政権とも結んだようである。
 信玄離反のもたらした影響は軍事的なものに留まらなかった。信長は元亀3年(1572)冬に義昭に異見17か条を突きつけた。内容をいちいち述べないが、要するに再興室町幕府がまともに運営されない(こんなにも敵が多い)のはトップである将軍に問題があるからだという不信任宣告である。この中で興味深いのは足利義輝の殺害が朝廷への出仕を怠ったがゆえの天罰だと正統化されていたことである。織田信長室町幕府が滅んだ永禄の変を契機に幕府再興のために京都にやって来たのではなかったか?その信長は今幕府滅亡の永禄の変を正統化し義昭を廃しようとしている。この17か条は信長正統化のためにもばらまかれたらしいが、これを読んだ三好義継や三好長逸はどのように感じたことであろうか*10
 義昭と信長は決裂した。義昭にとっては幸いにして、四面楚歌ということは将軍である自分が反信長陣営に身を投じれば信長は正統性を失いさらに苦境に立つ。義昭は元亀4年(1573)2月に反信長の兵を挙げた。しかし、この時は信長によってすぐ鎮圧され人質を差し出して和睦している。信長は不信任宣告を突きつけたものの、現職将軍である義昭との全面戦争には踏み切れず、義昭の側近に責任を被せることで事態を収拾しようとしていた。
 一方の三好政権は義昭と縁深い松永久秀を通して義昭と結んだようだ。しかし実際としてはそれまで敵であった相手との提携は簡単ではない。3月6日には大乗院尋憲が松永久秀に来たるべき上洛を祝している。三好政権は相変わらず畿内の制圧に動いており、京都奪還の動きも進めていていきなり利害が一致したわけではなかった。かと言って積極的に織田信長と戦うでもなかった。結局義継が義昭を助けるために京都に出兵することもなかったし、義昭が義継に援助を求めた形跡もない。実に曖昧な態度とも言えよう。再興室町幕府ではこれまで一体であった義昭と信長の分裂は三好政権にとっての敵を見失わせたのである。
 象徴的なのは3月29日に上洛した織田信長細川藤孝荒木村重が出迎えたことである。細川藤孝は義昭に伺候してきた幕臣であり、荒木村重は池田家中の三好政権派として活動してきた重臣であった。彼らが共同で信長に味方すると表明したこと自体が勢力抗争の錯乱ぶりを示している。この頃には和田惟政の遺児和田惟長が重臣高山右近によって追放され、畠山秋高が重臣遊佐信教に殺害された。これまでの畿内政局は親三好・反幕府、親幕府・反三好を基調に動いてきた。しかし幕府が分裂した今、新たに親義昭・反信長、親信長・反義昭の絵踏が迫られていた。こうした中親三好・反幕府あるいは反三好・親幕府であった者たちは大いに動揺していたのである。
 織田信長足利義昭の和睦は決裂し、4月と7月にも義昭と信長は戦うが、信長は両方ともに義昭を屈服させた。こうも信長に対して攻撃が続くと信長は義昭の中央政権主宰者としての地位を否定せざるを得ない。足利義昭は7月18日に京都から追放されてしまったのである。ただし、この時点では信長は義昭の息子を手元に確保し、義昭との和解をちらつかせるなど幕府を完全に否定するつもりもなかったようである。ともあれ、元亀2年(1571)より始まった三好義継と足利義昭の中央政権主宰者を巡る戦争は、いつの間にか足利義昭織田信長の争いになり勝利したのは織田信長であった。三好義継は情勢の急激な変動に対応しきれず取り残されてしまい、存在感を埋没させてしまった。これが義継の命取りとなっていく。

三好政権の成功と失敗

 思うに、三好政権は成功しすぎた畿内近国の反幕府勢力を結集し、幕府包囲網を形成、再興室町幕府を支える最大の大名・織田信長を北に釘付けにして将軍足利義昭を孤立無援に追い込んだ。これは明らかに三好政権の戦略の「成功」であった。しかし、100年にも及ぶ戦国時代の中で生き残ってきた足利将軍の「生存力」は伊達ではない。足利将軍は究極的には「勝ち馬に乗る」ことでその地位を確保してきた。義昭が信長との提携を打ち切り、幕府のトップが幕府包囲網に加わるという選択をしても何ら不思議ではなかったのである。
 しかし、三好政権の意図は将軍を推戴することにあるのではなかった。これまで見てきた通り、三好義継には自分こそが中央政権主宰者である強い自覚があった。足利義昭が自陣営に加わった時もっとも困惑したのはむしろ義継ではなかったか。幕府包囲網に加わっている他の大名たちには、義継のような「中央政権」の意識は欠けていた。武田信玄などは義昭を旗頭にすることで「当敵」である徳川家康織田信長の打倒を目指していた。松永久秀三好政権の幹部でありながら、逆に積極的に義昭や信玄との提携に動いていた。本願寺も元来義昭には宥和的であった。足利義昭織田信長を共通の敵とすることで成り立っていた幕府包囲網は、足利義昭織田信長を分裂させ一方の足利義昭が包囲網に加わることで、統一目的を失い包囲網としての内実を急速に崩壊させていったのである。

三好義継の滅亡

 三好政権の内情も悪化していった。2月を最後に三好長逸は記録から消えた。戦死したとも言われるが、長逸ほどの大物が首級を取られたのなら喧伝されるであろうし、実際はこの頃に病死したのであろう。頼みの松永久秀大和国に多聞山城一つ守るのにいっぱいで助けには来られない。義継は三好政権の双璧たる二人の重臣を有効に使うことが出来ない状況に置かれていた。8月2日には淀城を守っていた石成友通が細川藤孝に討たれてしまった。4月12日には武田信玄が死に、8月20日には朝倉義景が、9月1日には浅井長政が滅ぼされた*11三好政権が築いてきた幕府包囲網は瓦解したのだった。
 ところで織田信長三好政権をどう考えていたのだろうか。4月19日に信長が柴田勝家に発した書状中に構想が垣間見える*12「十河」「松肥」が義継を滅ぼせば、義継の領地をそっくり与えることを約束したという内容である。「十河」とは十河存保、「松肥」は松浦光のことであろうか。十河氏は三好政権に属していたために信長と通じていることに若干疑問は残るが、この書状で重要なのは義継個人ではない三好氏の領国(永禄11年、1567段階で保障されたもの)はそのまま三好氏のものとして信長によって保障されている点である(十河存保は義継の従弟、義弟、松浦光は義継の実弟で両者とも義継の「弟」という三好本宗家に最も近い一門であった)。信長は三好氏が自らに「臣従」する限り、三好氏という氏族を滅ぼそうという意図はなかったのだ。しかし、それは中央政権としての三好政権は否定するということでもあった。
 さて京都から追放された足利義昭が向かった先は何と義継の若江城であった。信長の家臣木下秀吉*13に護送された義昭は7月21日に若江城に入城し義継と共に暮らすことになった。信長、義昭、義継という中央政権主宰者の争いの当事者の三人が合意した末の処置ではあろうが、どのような意図だったのだろうか。まず、信長にとっては義昭が東に向かうことを避けたのだろう。近江や美濃は信長が制圧していたためそこに義昭を移せば軟禁の誹りを受けることを免れない。かと言ってさらに東に行けば武田氏の領国となり強敵に神輿を渡してしまう*14。「追放」と言っても流罪にしたわけではなく、信長は義昭が「自由」であることに配慮する必要もあった。さらに「格」の問題がある。義昭を寒村や寂れた寺院に移してしまい野盗に命を狙われてはやはり監督責任が問われてしまう。現職将軍が拠ってもおかしくなく、保護責任を委託することが出来るのは、「将軍の弟」である義継の居城がもっともふさわしい、ということになる。だが、信長には別の意図もあったのではないか。これに関しては後述する。
 義継と義昭の若江城での同居生活がどうであったのか窺い知ることはできない。ただ、義継は義昭を厚遇も冷遇もしなかった。若江城から義昭が発した諸大名を糾合する書状は義継の意向が反映されているのか、それすらもよくわからない。信長と義昭はこの頃義昭の帰京に関して交渉していたが、義継の居城で行うのは居心地が悪かったのか、義昭は11月5日若江城から出て堺に移っていった。
 義昭の代わりに義継の若江城に迫ったのは織田信長重臣佐久間信盛の軍勢であった。11月10日信盛は若江三人衆と呼ばれる義継の三家老を内通させると、若江三人衆は義継の腹心である金山信貞を殺害した上で佐久間軍とともに若江城「天主」に迫った。11月16日義継は妻子を殺害した上で壮絶な切腹を遂げた(ここでいう「妻」は前述した義昭妹であろうから、義継は奇しくも足利兄妹を三人も殺したことになる)。ここに三好政権の「主君」たる三好本宗家は滅亡した。

なぜ三好義継は討たれたのか

 現象だけ見ると、三好義継は織田信長に討たれたことになる。これだけ見ると「まあそうか」となってしまうが、この事件にはいくつもの疑問点がある。以下に整理していこう。
 まず、織田信長に義継を討つつもりがあったのかという問題がある。信長が河内三好氏の存続を許すつもりだったのは、4月19日付柴田勝家宛書状を例に確認した。実際に信長は義継亡き後の北河内佐久間信盛の監督下に置きつつも、統治は若江三人衆に任せた。信長は河内の現地支配を否定するつもりはなく、むしろ尊重したのだった。信長は朝倉義景滅亡後の越前でも現地国人を登用しており、三好政権側だった摂津国人の荒木村重は摂津の支配者に抜擢した。後述するが、この後降伏した松永久秀も家臣となることを許している。このような例を見ると、義継が信長に「臣従」すれば、信長も義継を殊更に罰するつもりはなかったのではないか*15
 次に若江三人衆は本当に裏切ったのかという問題がある。いきなり出てきた若江三人衆って誰だよと思う方もいるだろうから、プロフィールを紹介しよう。若江三人衆の一人は池田丹後守教正である。その名の通り摂津池田氏の一族と考えられ、長慶に登用され越水城に勤めていた。河内キリシタンの代表格でもあった。
 二人目は多羅尾常陸介綱知である。多羅尾氏は近江の豪族だが綱知の系譜的位置は不明である。元々は細川氏綱の家臣で綱知の「綱」は氏綱からの偏諱であろう。三好長慶細川氏綱を主君に戴き、その権力を吸収する中で綱知も氏綱から長慶の家臣に編成されたと思われる。一般には義継の妹婿とされているが、年代に不審があるため長慶の娘婿ではないだろうか。どちらにせよ義継とは縁戚関係を有していた。
 最後の一人が野間左橘兵衛尉康久(長前とも言われる)である。野間氏は摂津の国人であったと見られるが、長慶以前の動静は不明で、野間長久は長慶に抜擢された叩き上げの家臣であった(長久の「長」は長慶からの偏諱であろうか)。康久は長久の子で三好氏に仕える二代目ということになる。康久は池田教正の妹を妻としていた。
 こうして見ると若江三人衆の経歴はてんでバラバラで、三好氏の譜代と言えそうなのも野間康久くらいである。ただし、このような雑多な連中を束ねていたからこそ、三好政権に中央政権の資格があったということも言える。本来接点がない池田教正と野間康久が縁戚関係を結んでいるのも、彼らの主君である三好氏の意向が大きく働いていると考えられる。ここで重要なのは若江三人衆は三人とも三好氏に20年以上仕えており、その中で一度も裏切ったことがないということである*16。池田教正は将軍殺しの永禄の変でも義継に従ったし、多羅尾綱知は義継の妹婿とされ、忠義心や縁戚関係に欠けることもなかった。もちろん織田信長という最大の脅威に対してそれまでの経歴を覆す変心が起こった可能性はある。ただ、義継を裏切る決断を三人同時に行い、誰一人これに反対しなかったというのはいくら義継が暗君であったと認めるにせよ、不可解である。
 三つ目の問題は、金山信貞はなぜ殺されたのかである。金山信貞は義継に最も近しい奉行人で義継の書状にも頻出する。信貞は義継の乳母子とも言われるからそれだけ紐帯が深かったのだろう。また、信貞は松永久秀と親しく、永禄10年(1567)に義継が久秀と結んだ際に手引きしたのも信貞であった。義継の家臣団でのポジションとして松永派だったというのは興味深い点である。
 ここで問題にしたいのは、寵臣と主君を6日という時間差で殺すのは不自然ではないかということだ。主君の寵臣を奸臣呼ばわりして排除するのは主君を守るためである。主君の排除が目的ならば、寵臣は自動的に力を失うわけで殺す必要はない。仮に両方を始末するにしても同時になるか、主君が死んだ後に寵臣が殉死する方が自然である。寵臣が先に殺され、その後主君が死ぬのはやはり不自然である。
 以上の問題を解決するのに最も整合的な見方は織田信長は三好義継を滅ぼすつもりはあまりなく、そのため若江三人衆は義継に信長へ降伏し「臣従」することを勧めた*17。これを実現するため若江三人衆は忠義心から松永久秀とコネがあった金山信貞を始末し、佐久間信盛の軍勢を引き入れて早期の幕引きを図った。しかし、義継は「臣従」を拒否したためやむなく討つことになった」であろう。若江三人衆は義継を裏切ったのではなく、むしろ義継の保身を図ったが、これが義継の容れるところとならなかったために後世からは「裏切った」ように見えてしまったのではないか*18
 ちなみに義継の罪状は「義昭を匿ったこと」であった。これも理不尽である。義継の若江城に義昭を送ってきたのは信長ではないか。そこで信長が義継に対し怒りを覚えたのだとしたら、狙いは「義昭を匿わないこと」にあったとしか考えられなくなる。信長の異見17か条は冒頭から義輝の死を正統化していた。信長は義継に義昭殺害を期待していたのではないか。信長本人が義昭を殺すのは流石に経緯からして問題がある。しかし、すでに前科がありその時は場を収めた義継ならば、義昭を殺す「資格」があるのでは…。信長がそのように思った可能性もないとは言えない。
 だが、義継にとっては永禄の変の時とは状況が違う。信長から(表面上は)義昭の保護を依頼され、義昭が信長と和睦交渉さえ行っている中で義昭を殺すのは無謀というか責任放棄である。それこそ義昭殺害を信長に追及されるかもしれない。義継にあった選択肢としては義昭と共に若江城を枕に無理心中するくらいであっただろう。ただ、義昭は戦争直前に若江城から脱出してしまったのは述べた通りである。

なぜ三好義継は死を選んだのか

 三好義継は助かる可能性を捨てて、死を選んだことになる。端的に言えば、織田信長への「臣従」を拒否したのが原因である。思えば、義継と信長の関係には微妙なものがあった。義継の前に信長が最初に現れたのは松永久秀を媒介とした同盟者としてであった。この時は義継は信長と対等な関係にあった。だが、室町幕府が再興されるとだんだんと信長の地位は高くなる。しかし、義継が出仕したのはあくまで将軍義昭であって、信長は再興室町幕府内でもっとも有力な構成員であり、義継の軍勢を指揮することがあったとしても、それは義昭が信長に「成敗権」を委ねたゆえで主従関係によるものではなかった。あくまで信長は再興室町幕府体制の秩序の下に畿内の大名を動員していた。義継が再興室町幕府から離反し、三好政権を復活させると、信長と義継は敵同士になり、当然ながら主従関係ではない。
 しかし、天正元年(1573)は織田政権成立の決定的な年となった。織田信長は再興室町幕府の主宰者足利義昭を屈服させ追放、自らが幕府の主導者となった。年号が義昭政権の「元亀」から天正に代わったのが象徴的である。信長はもはや「同僚の第一人者」ではなく明確に「主君」としてその存在の認知を迫ってきた。媒介主君であった義昭はもう力を失っている。畿内の大名たちは新しい政権主宰者になるであろう人物への「臣従」を求められたのである。
 もともと幕臣であった細川藤孝池田氏重臣にすぎない荒木村重、あるいは後述する松永久秀や三好康長は「臣従」にストレスを覚えることはなかっただろう。彼らは本質的にそれまで「部下」として動いており、自らが「最高権力者」として振舞うなど思いもしない者たちであった。三好義継は違う。三好政権は畿内の最高権力者の地位を手にし、そうして振舞って来たのだ。義継の高貴な血統もこれを後押しし、支えるものだった。義継が誰かに「臣従」するにはあまりにも中央政権主宰者の心構えを叩きこまれおり、実際に断片的ながら振舞って来た実績があった。義継は一個の大名権力ではなかった。信長や義昭と同格の立場として、中央政権主宰者の地位を抗争していたのである。
 また、対象があくまで足利将軍や細川京兆家であるならば、義継も100歩譲れば納得できないこともなかっただろう。三好政権が足利将軍と細川氏下剋上を仕掛ける中で、足利将軍や細川氏の秩序の一部は取り込まれていた。これに比べると、濃尾の大名織田信長はあまりにも「異物」で、三好氏とほとんど関わりがない。このような人物を「主君」に仰ぐことは足利将軍すら殺した義継のプライドが許さなかったに違いない。
 義継の態度は徹底していた。妻子を生かすことすらしなかった*19。義継は義昭妹との間に男児を儲けていたが、三好本宗家を継ぐべき男児*20が若江三人衆に擁立され、織田信長に傅くことすら許せなかったのだ。中央政権たる三好政権が来たるべき織田政権に従属するなどあってはならなかった。

義継の死の影響

 義継が三好政権を消し去った影響は直後に現れた。12月織田軍に多聞山城を包囲されていた松永久秀は信長に降伏した。久秀は三好政権の構成員であり、一時三好三人衆と対立し排除された際も受け身の姿勢であって本人が積極的に三好政権から離反したわけではなかった。それどころか、永禄10年(1567)に三好義継が自分の懐に飛び込んできてからは、常に義継と歩調を合わせて行動してきた。永禄11年(1568)信長が上洛し、義昭によって大和国を与えられ、義継と別個の大名となって独立しても、元亀2年(1571)には義継の配下として働いているように義継を軽んじることはなく、久秀にとって三好政権との主従関係は生き続けていた。その義継が死に、三好政権がなくなった以上久秀も戦う理由がなくなった。久秀は信長に許され「臣従」した。久秀にとって30年以上仕えた主君がいなくなった以上当然の選択であった。
 三好政権の当主が死んだため、三好政権は再び三好残党軍になった。しかし、阿波三好家が内紛によって混乱し*21三好長逸を始め三好三人衆が全て消え去った残党軍は往時信長を脅かした勢いを持つことはなかった。河内に散発的に活動する三好残党軍は天正3年(1575)織田信長によって屈服させられ、三好康長は許された。康長は信長への「臣従」の代償として南河内の支配権を獲得し、織田政権の四国政策のキーマンになっていく。
 三好政権の同盟者であり、残党軍の調略によって織田信長と戦っていた本願寺は三好氏の衰退に戦略の再考を迫られた。隣国の同盟者(三好義継)はすでになく、阿波三好家からの補給も覚束ない状況に本願寺は新しい「隣国同盟者」海上補給者」を開拓していく。その新しい「隣国同盟者」が摂津を支配する荒木村重であり、「海上補給者」は毛利氏であった。本願寺は三好残党軍を受け入れてもおり、その後も三好政権の後を継いで織田信長畿内支配を脅かしていくことになる。
 一方信長によって義継領国を継承した河内三好氏は存続していた。義継は自分の妻子を殺害したが、若江三人衆は多羅尾綱知と義継妹との間の男子を「三好孫九郎生勝」と名乗らせて、長慶以来の河内三好氏の当主に据えたのである。三好生勝は女系で義継に連なっていたが、血筋としては弱く義継の後継者扱いはされたものの力を持つことはなかった。義継の死で政権主宰者の格は消滅しており、生勝に受け継がれたのは名族であるこというだけだった。生勝と若江三人衆は織田政権下でずっと北河内を統治したが、豊臣秀吉によってバラバラに分封されその後は由緒がない場所で武士としての生業を送った。生勝は黒田長政に仕えた後広島藩浅野氏に仕え、子孫は広島藩士として続いている。

称えられた義継の死

 義継が死を選んだことは何よりも織田政権関係者に驚きを以て受け止められ称えられた。太田牛一信長公記織田信長研究の一級一次史料として名高いが、義継の死に様を次にように描写する。

三好左京大夫殿、非儀を相構へらるゝに依って、家老の衆、多羅尾右近・池田丹後守・野間佐吉三人、別心を企て、金山駿河、万端一人の覚悟に任せ候の間、金山駿河を生害させ、佐久間右衛門を引き入れ、天主の下まで攻め込み候のところ、叶ひがたくおぼしめし、御女房衆・御息達みなさし殺し、切つて出で、余多の者に手を負はせ、其の後、左京大夫殿、腹十文字に切り、比類なき御働き、哀れなる有様なり。御相伴の人数、那須久右衛門・岡飛騨守・江川、右三人、追腹仕り、名誉の次第、此の節なり。若江の城、両三人御忠節に付いて、あづけ置かる。

 「比類なき御働き、哀れなる有様なり」とは「見事な戦いぶりにとても感動した」という意味で基本的に信長ageな信長公記』において最大の賛辞である*22。もちろん義継が実際にそのような死に様を見せたこともあるのだろうが、太田牛一は義継に敬意を払い、その最期を飾りたてたのだ*23
 また、安国寺恵瓊は信長と義昭の和睦を仲介する毛利氏の使者としてこの頃堺に来ていた。その恵瓊が義継の死の直後の12月12日毛利氏の国元にあてた書状中には以下の文が見える。

一、今度左京大夫内衆なりかわり候て腹を切候、代々如此候と申候か、さりとてハの腹を仕候と申候、

 「左京大夫」(義継)が「さりとてハ」切腹をしたことを伝聞形で記している。奇しくもこの書状中には別の箇所でも「さりとてハ」が見える。

一、信長之代五年・三年者可被持候、(略)左候て後、高ころひにあをのけにころはれ候すると見え申候、藤吉郎さりとてハの者ニて候、(略)

 おそらくこの書状の中では最も有名な箇所で、知っている方も多いだろう。恵瓊が信長の転落と秀吉(「藤吉郎」)の栄達を「予言」したとされる箇所である。恵瓊が予言者であったかどうかはどうでもいいことで、秀吉と義継の切腹同じ「修辞」が使われているのが示唆的である。
 また、恵瓊が義継の切腹を伝聞形で記し、太田牛一が義継の死を賛美していることから、義継の死への讃嘆は織田政権の関係者が発していたことがわかる。
 なぜ、織田政権は義継の死を称揚し、喧伝するような真似さえしたのか?
 まず、三好政権の主宰者が死に三好本宗家が断絶したことを近国に周知させる必要性があったからであろう。義継の死を知った松永久秀が信長に「臣従」したのは先述した通りで、義継の死を喧伝することで三好残党軍の帰服を狙い、また三好残党軍の勢いを削ぐ効果を期待したのではないか。
 次に、織田信長天正元年(1573)に見てきた滅亡の中では義継の滅亡は「特異」であり、これに単純に驚いたということがある。朝倉義景は敗走に敗走を重ね、最期は一門に裏切られる形で「惨め」な最期を遂げた。浅井長政はじわじわと織田信長に勢力を浸食され小谷城一つ維持できなくなったところで自害に追い込まれた。六角義治足利義昭は何度も反抗した上に降伏し追放された。これに比べると、義継の死は敗北が重なったわけでも、統治を維持できなくなったわけでも、何度敗れても立ち向かった末に追放されたわけでもない。信長に義継を生かすつもりはあったのではないかと述べたが、その場合義継にはずいぶんと「余裕」があったはずである。にも関わらず、義継が中央政権主宰者の誇りを胸に「臣従」ではなく名誉の自害を選んだことに織田政権は驚いたのではなかったか。
 一方で三好氏側の記録では義継の切腹を動的に描くことはなかった。これは主体となるべき三好政権とその残党がその後勢力として霧消してしまったことにもよるが、何より生き残った河内三好氏と若江三人衆が宣伝を避けたからであろう。彼らにとっては「これから」織田政権に従っていくのが重要であった。織田信長に反逆したまま死んだ義継を称揚するのは都合が悪い。若江三人衆が義継の助命を意図していたという「真実」も織田政権下で働く上では邪魔な実績で、最初から織田信長に内通し信長に反逆した当主義継を討つ、の方が生きやすいではないか。
 織田政権側は義継に中央政権主宰者の資格があることを認識していたと思われる。これを強烈に自覚させたのが、義継の死とそれによる三好政権の瓦解であった。織田信長天正元年(1573)段階では足利義昭を追放しても義昭の息子を手元に確保し、また義昭の帰京交渉を継続するなど、足利氏の室町幕府を尊重する姿勢を持っていた。織田信長は実質的に政権主宰者になったが、名目上はまだそうではなく、「将軍の第一のパートナー」にすぎないというポジションを堅持していた。これが転換するのが天正2年(1574)であり、信長は従五位下に任官すると同時に東大寺が持つ名香・蘭奢待の切り取りを申請した。蘭奢待の切り取りは足利将軍の先例があり、信長は明確に自身を「将軍」に擬し始めたのだ*24なぜ信長は足利氏ではなく自身に名目的な中央政権主宰者の資格ありと自覚するようになったのか。従来問題にされて来なかったが、三好義継の自死が足利氏ではない中央政権主宰者の存在意識を呼び起こしたのではなかったか。皮肉にも義継は自らが三好政権を断絶させることで、信長の覚醒を導き室町幕府ではない織田政権の誕生に一役買ったのである。義継の意志をいで信長は中央政権としての織田政権を整備していくことになる。

参考文献

戦国遺文 三好氏編(第3巻) 元亀2年~寛永8年

戦国遺文 三好氏編(第3巻) 元亀2年~寛永8年

  • 発売日: 2015/11/11
  • メディア: 単行本
戦国遺文 三好氏編(第2巻) 永禄5年~元亀元年

戦国遺文 三好氏編(第2巻) 永禄5年~元亀元年

  • 発売日: 2014/11/25
  • メディア: 単行本
足利義昭と織田信長 (中世武士選書40)

足利義昭と織田信長 (中世武士選書40)

  • 作者:久野雅司
  • 発売日: 2017/10/25
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

*1:この時は足利義材を名乗っていた

*2:永禄の変直後は多くの人間が三好政権は阿波公方を新将軍に擁立するのだろうと予想していた。しかし、義継ら三好政権の首脳陣は阿波公方を呼び寄せることはしておらず、奇妙に思われていた

*3:もっともこの頃の久秀は先述したように勢力として瀕死の状態で義継をどうこうできる「余裕」はなかった

*4:もっとも武田氏の下で徳川氏との「取次」を担当していた穴山信君徳川家康に内通して武田勝頼から離反したように「取次」という立場は主家の趨勢によって離反することはままあった

*5:松永久秀の官途と言えば「弾正」がメジャーだが永禄12年(1569)からは「山城守」を名乗っていた

*6:三好日向守は永禄11年(1569)に出家し「北斎宗功」を名乗っていた。本コラムではめんどくさいのでずっと「長逸」で統一する

*7:義昭直属の奉公衆として上野秀政・三淵藤英・細川藤孝らがいたが彼らの動員能力には限界があった

*8:和田惟政は永禄12年(1569)に信長が結成した三好残党掃討軍において、信長や義継の重臣を抑えてリーダーを務めており、義昭直属家臣として再興室町幕府内部での扱いは別格であった

*9:元亀3年(1572)11月20日織田信長上杉謙信に送った書状では「信玄所行、寔前代未聞之無道、且者不知侍之義理、且者不顧都鄙之嘲弄次第、無是非題目候、」「信玄既如此之上者、(略)永可為義絶事勿論候、」「信長与信玄之間事、御心底之外ニ幾重之遺恨更不可休候、」などと信玄への激怒感情を罵倒とともに伝えている。逆に言えばそれだけ信長は信玄を信頼していたつもりだったのである

*10:第1条から義輝のことを語っているのであるいは三好政権へのメッセージであった可能性もある

*11:なお、三好残党軍に加わっていた斎藤竜興は長島一向一揆に参加した後、朝倉氏の客将となり義景と滅亡を共にした。竜興の転戦ぶりを見ると、竜興は三好政権が幕府包囲網を形成するための連絡員だったのであろう

*12:該当箇所を引用すると「十河為存分、自松肥申越候趣、先以得其意候、若江之事即時ニ乗執ニ付てハ、河内半国義継分並欠郡之儀可契約候、」

*13:秀吉はこの年義昭の処遇についての交渉を担当しており、義昭と信長の仲介役であった毛利氏と接点を持つことになり、これが後の「中国方面軍司令官」への抜擢に繋がって行く

*14:なお、天正2年(1574)には信長の同盟者である徳川家康足利義昭の引き取り先として手を挙げている

*15:信長が義継に同情的、宥和的であった場合、その理由としては永禄10年(1568)以降義継は信長の同盟者であり、室町幕府再興後も元亀2年(1571)までは共に働いてきた「実績」があることが挙げられる。信長本人は義継が復活させた三好政権と戦っていないため、義継個人あるいは河内三好氏に対する悪感情はそこまで増幅しなかったのかもしれない

*16:これは若干誇張があって、池田教正は三好三人衆松永久秀が争った際、久秀側に与している。この時は義継と三人衆が結んでいたため、義継の下からは離れていたと見られる

*17:無論、義継本人は許されず、悪ければ出家に追い込まれた可能性くらいはある。その場合は義継の子を三好家の当主に立て存続を図るつもりだったのではないか

*18:ただし、そうだったとしても若江三人衆は主君の承諾を得ずに独断で佐久間信盛の軍勢を若江城に引き入れたことになるので、その点は間違いなく「裏切り」であはるだろう

*19:なお、系図類や伝承によれば、義継の子孫は存在する。義継の遺児は伊吹島に逃げたという伝説があるが、信長の積極的に三好氏を滅ぼそうとは思っていない態度や義継自害の理由を思うに義継遺児が生きたまま逃げる必要性があったとはあまり考えられない。おそらく三好政権の残党が伊吹島に逃れたのが事実でその中で自分たちの箔を付けるために義継の子孫を名乗ったのではないだろうか。

*20:この男児は三好、足利、近衛、九条の血を引いており血筋的にはスーパーサラブレッドであった

*21:元亀4年(1573)阿波三好家の当主・三好長治は重臣であった篠原長房を攻め滅ぼした。単純に長じた幼君が目障りな老臣を消したと説明されることも多いが、長治と長房の間に路線対立があったという説もある。長治は阿波三好家の中央集権化を推進したかったようだが、これは国人衆の離反を招き、天正5年(1577)反発する一宮成相らは阿波細川家の末裔・細川真之を擁立して長治を討った。阿波国は戦国時代にも関わらず、阿波細川家→阿波三好家によって統治されてきたが、これ以降戦乱の時代に突入していく

*22:他には長篠合戦の際の「馬場美濃守(信春)手前の働き、比類なし。」や武田勝頼滅亡の際の「武田勝頼若衆土屋右衛門尉、弓を取りて、さしつめ引きつめ、散々に矢数射尽し、能き武者余多射倒し、追腹仕り、高名比類なき働きなり。」などがある。

*23:信長公記』ではこの直後の記事が有名な朝倉義景浅井久政・長政父子の髑髏を薄濃にする記事で、義継の最期とは好対照をなしている

*24:このような中で信長が義昭の「将軍」をどう考えていたかは明らかではない。天正8年(1580)に毛利氏との間で行われた和睦交渉では義昭を「西国之公方」として承認することが見えるため、逆に言えば信長は自身を「東国之公方」と思っていたのかもしれない