志末与志著『怪獣宇宙MONSTER SPACE』

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(年未詳)3月2日牧郷宛池田教正・多羅尾綱知連署状の年次比定について―「御家門様」とは誰か

 日本史を素描していくための史料として基礎となるのは、やはり当事者がその時々に遺した文書や手紙、日記ということになる。こうした史料にはリアルタイムの認識が直に反映されていると見られるからである。ところが、こうした史料の「素性」というのはすぐにわかるものとは限らない。例えば、手紙にしたところが、月日が記されていても年次が記されていないことはままある。こうした場合、通常だと内容から年次を推定するしかないわけだが、これも解釈の問題になることがあり、研究者によって年次比定が定まらず、違った歴史が素描されることもある。近年では、使われた紙質や花押の推移から年次を特定しようという努力もあるようで、ある意味隔世の感もある。しかし、それでもナマの史料に触れられる人はそこまで多くないので、やはり古典的・伝統的な方法がまずは第一と言えよう。
 前置きがやや長くなったが、要するに「文書の年次比定には未だ客観的な方法がなく、比定次第で解釈も推移する」のである。そこで今回取り上げたいのが、「池田教正・多羅尾綱知連署状」(『戦国遺文 三好氏編』一六八五)である。以下に引用する。

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(異筆)
「申下刻ニ請取申候、」

就普請之儀、
御家門様被 仰出子細候之条在之にて、一両人宛年寄并郡夫、明日自未明至八尾可越候、不可有油断候、謹言、
   三月二日        教正(花押)
               綱知(花押)
  牧郷
   惣中

 「で?」という感じだが、この文書もマイナーながら、数奇な運命(?)を辿っているのである。一体何が問題なのだろうか。
 本題に入る前に文書の概要を述べておく。「普請之儀」について、「御家門様」の命令によって、年寄や郡夫を八尾に寄越すように、牧郷に伝えたものである。「教正」は池田丹後守教正、「綱知」は多羅尾常陸介(左近大夫)綱知のことで、両名ともに三好義継の重臣であったが、天正元年(1573)に義継から離反し、以降は織田政権下の若江三人衆として河内国北部を統治した(三人衆のもう一人は野間康久)。
 説明を聞いても「で?」という感じが拭えないだろうが、この文書は何のための文書だったのだろうか。また、池田教正と多羅尾綱知が仰ぐ「御家門様」とはいったい誰なのか。それによって文書の意義も変わってくるはずである。

※ちなみに多羅尾綱知は細川氏綱重臣であったので、東寺百合文書にその時代の発給文書が大量に残存している。基本的に花押は同形なので見比べると面白い。

hyakugo.kyoto.jp


遊佐氏の文書から三好氏の文書へ

 中世文書の残存率は高くはない。全体の1割以下しか現存していないという説もある。現代の我々もそうだが、日々用いている文書というのは不要になればすぐ廃棄してしまうからだ。また、自然災害や放火などによって紙というのものはすぐに失われてしまう。よって、中世文書そのものが現在伝来しているのはそれ自体相当に貴重なのである。
 逆に言えば現存する中世文書は一際大事にされてきた文書ということにもなる。件の書状はなぜ生き残ってきたのだろうか。この書状がどのように享受されてきたのか探ることが大きな手掛かりになるだろう。件の書状が後世活用されたことを直接的に示すのが「招提寺内興起後聞記并年寄分由緒実録」(明和8年、1771)である。長いので「由緒実録」と省略することにするが、内容としては河内国交野郡の招提寺内と寺内の有力家の歴史を語ったものである。この「由緒実録」にはいくつかの中世文書が引用されており、引用されている文書の一部は実際に河端家・片岡家といった寺内有力者の家に現存している。「池田教正・多羅尾綱知連署状」もこの文書の一つであり、河端家に伝来したものである。
 それでは「由緒実録」は件の書状をどのように用いているのか。「由緒実録」が描き出す招提寺内成立とは次のような内容であった。すなわち、将軍足利義晴の側近に河端綱久と片岡正久という者がいたが、近江出身であったため畿内に所領がなかった(2人とも佐々木六角氏の一族ということになっているが、言うまでもなく偽系図と見られる)。綱久と正久が主君義晴に所領の給付を望んだところ、河内国牧郷が無主であったため、義晴はこれを両人に与えることにした。義晴は河内国守護代遊佐長教にこのことを申し付け、長教は八尾において牧が無主の地であることを確認した。これが天文12年(1543)のことで綱久と正久は牧に入り、同時に寺内が作られたという。「由緒実録」は天文13年(1544)に細川晴元が「招提道場」に下した禁制を引用する(この禁制は現存せず)が、この禁制も寺内設立に伴う権利保護のためのものであるとする。
 この中で件の書状は遊佐長教から牧郷への連絡ということになる。教正と綱知の2人は遊佐氏の奉行人であり、「御家門様」は足利義晴のことである。「普請」は招提寺内建立を指す。八尾で調べがついたので、牧郷から人が来るようにと命じた文書なのである。
 なかなか鮮やかな文書の使い方である。この文書一つで寺内の成立から寺内の有力者である河端家と片岡家の由来まで語ってしまうのであるから。実際「由緒実録」の説明だけ見ると目立った矛盾点がないせいか、『枚方市史』のような自治体史においても招提寺内の設立はこの説明が踏襲されてきた。
 ただ、これはあくまで地域に伝来したよくわからない文書を地域史・共同体史の中に上手く落とし込んで使って見せた好例というだけで、「由緒実録」は事実を伝えているわけではない。しかし、「由緒実録」が描く事情の虚飾が指摘されたのは存外遅い。小谷利明「戦国期の河内国守護と一向一揆勢力」『佛教大学総合研究所紀要』1998年1号がそれである。小谷氏は綱知と教正は花押の形状から多羅尾綱知と池田教正であると看破し、初期の寺内有力者として「由緒実録」では端役である小篠氏を見出された。まことに慧眼である。
ci.nii.ac.jp
※機関リポジトリによって公開されている。

 小谷氏は直接触れていないが、さらに言えば、天文12年(1543)には細川氏綱が畠山稙長の後援を得て蜂起しており、遊佐長教は畠山氏の重臣として氏綱に与していた。氏綱が挑戦していたのは将軍足利義晴細川晴元の勢力であったので、遊佐長教と足利義晴細川晴元はこの時敵対していた(ただしこの時の長教本人としては決定的対立に踏み切れない心境ではあったようである)。かかる状況下で義晴が長教に所領調査を依頼し長教が請け負うことは考えられない。これさえわかっていれば「由緒実録」の世界は砂上の楼閣であることがすぐに理解できたはずである。
 そういうわけで件の書状は遊佐長教の家臣の文書から三好義継の家臣の文書へと転換を遂げた。だが、小谷氏にしても本文書にのみ焦点があるわけではないので、どのような事情で発給され現存していたのか明らかにはしていない。また、「御家門様」も正体不明になってしまった。

※ちなみに、招提寺内の設立が天文12年(1543)で小篠兵庫→野尻治部→遊佐氏(長教?)→畠山氏(稙長?)と認可を受けていったのは近世初期の「誓円ノ日記」(誓円は片岡正次)にも記載があるため、事実性が認められると考えられている(もっとも遊佐氏を信高、畠山氏を高政とするなど初歩的な誤謬もある)。「由緒実録」の趣意は近世初期に招提を去った小篠家の役割を過小に評価し、河端・片岡両家を寺内の両輪に位置付けることにあったようである。

「御家門様」は三好義継か織田信長

 本文書の発給者が多羅尾綱知と池田教正なのはもはや揺るがない。そこで問題になるのは「御家門様」とは何者かということである。小谷氏はとりあえず三好義継か織田信長を提示していたが、仮に2人のどちらかを「御家門様」とした場合どのような解釈と問題があるだろうか。
 まず、「御家門様」が三好義継の場合。三好義継は元亀の争乱において松永久秀とともに反幕府・反織田勢力として畿内争乱の主役を演じた。義継の主な敵対勢力は河内の畠山氏であり、何度か畠山秋高の居城である高屋城を始め河内国内の畠山方の城を攻撃している。こうした環境下において、本文書の位置づけはとても理解しやすい。八尾周辺で畠山方を攻撃するための付城を築く機会はいくらでもあり、牧郷の人夫徴発もこれに伴うものと理解できる。『戦国遺文 三好氏編』では「御家門様」を三好義継に比定している。
 最大の問題点としては三好義継には「御家門様」と呼ばれ得る権威はないということである。「御家門様」とは何より「家門」を重視した呼び方であり、代々公卿クラスに登る名家であることが必要条件となる。義継の官位は左京大夫で養父の長慶は修理大夫であったから、義継時代の三好家は四職大夫を世襲できる家格に実質的になっており、これは室町幕府体制下の武家としては高ランクである。また、義継は足利義昭の妹を妻に迎えているため、自意識が足利将軍と同列レベルに向上していた可能性もある。しかし、それらを以てしても義継は文書上主に「左京大夫(殿)」「大夫殿」「殿様」という呼称が尊称としていっぱいいっぱいで「御家門様」と他称される地位にあったとは言えない。
 それでは「御家門様」が織田信長ではどうか。織田政権下では多羅尾綱知と池田教正に野間康久を加えた3人が「若江三人衆」として旧三好義継領である河内北部の統治を任された。ただ、天正8年(1580)本願寺織田氏に屈服すると、若江三人衆が拠っていた若江城は廃城となり、3人は八尾城へ移った。この移転に伴って八尾城で「普請」があり、牧郷から人夫を徴発した可能性がある。『新修八尾市史』ではこのように考え、本文書を天正8年(1580)以降の発給としている。
 しかし、この理解にも問題点がないわけではない。まず、三好義継同様織田信長も「御家門様」と呼ばれたかは確信がない(『家忠日記』の「御家門様」が信長に比定されたこともあったが、近年別の人物だと論証された)。織田信長は公卿クラスに官位を昇進しているため、義継よりは「御家門様」と呼ばれた可能性はあるため、この問題点は留保したい。
 次に織田政権下の発給であるのなら、なぜ野間康久が連署していないのかという問題がある。若江三人衆は基本的に一体であり、1人が個別に発給した文書もあるが、統治権を担う場合発給にしても受給にしても3人連名となる。若江三人衆が新たに居住すべき八尾城の普請は河内国の行政権の行使となるはずであり、3人連署でなければ十全ではない。康久がこの時病気か不在で連署し得なかった可能性ももちろんあるが、なぜ2人なのかは問題として残される。
 また、若江三人衆とは多羅尾綱知、池田教正、野間康久の3人と述べたが、常にこの3人固定というわけではなく、天正7年(1579)頃から多羅尾光信が綱知に代わって三人衆に加わる。光信は恐らく綱知の息子で綱知が老齢になったため代替わりしたのではないだろうか(ただし、天正9年(1581)の馬揃えには「多羅尾父子三人」が参加しているため、綱知の地位がなくなったわけではない)。よって、天正8年(1580)以降教正が多羅尾氏と連署するとしたらそれは光信であるべきということになる。仮に綱知が再度呼び出されるとしたら、光信が病気か不在である事情を想定しなければならない。
 宛先にも問題がある。この文書は牧郷に直接文書を出している。牧郷はもともと畠山氏の被官である野尻氏が権益を持っており、野尻氏を取次とすることで権力と繋がっていた。しかし、永禄12年(1569)に野尻氏は金欠から牧郷への権限を失ってしまう。そして、織田政権期には津田重兼という人物が牧郷の支配者として現れる。重兼は明智光秀の家臣である津田重久と同じく伏見津田の土豪出身と考えられている。織田氏重臣佐久間信盛はその重兼に招提の人夫について申し付けており、一次的に人夫徴発権を有していたのは重兼であった。単なる軍事的寄親でしかない佐久間氏と統治権を握る若江三人衆とでは立場が異なるが、牧郷に動員を図ろうとするなら、領主の重兼宛に書状を出すのが自然である(牧郷から朝廷へ寄進が行われた際、若江三人衆と三好康長が河内公権者として寄進状を発給している。現存はしないがこれにも津田重兼の書状が付属していたようである)。
 つまり、織田政権下で牧郷への人夫徴発があったと仮定するなら次のような書状が発給された方が少なくとも「自然」ではある。

就普請之儀、 上様被仰出子細之条在之にて、両三人宛年寄并郡夫、明日自未明至八尾可越堅可被申付肝要候、恐々謹言、
         多羅尾玄蕃
   某月某日      光信判
         野間左橘兵衛尉
             康久判
         池田丹後守
             教正判
    津田主水佑殿 御宿所

「御家門様」とは誰なのか

 以上見てきたように、「御家門様」を三好義継と見るにせよ、織田信長と見るにせよ、双方に得心可能な事情がありつつも、不自然な点が看取された。他の人物である可能性も探ってみるべきだろう。
 「御家門様」は通常、将軍か摂関家クラスの名家の当主の呼称である。このあたりから該当者を絞れないか。
 当該期の将軍といえば足利義昭である。しかし、足利義昭と見るには無理がある。元亀2年(1571)以降三好義継と足利義昭は対立しており、元亀4年(1573)に手を組むが、義昭が義継を赦免した日付は3月7日であり、その後織田信長によって義昭が京都から追放されると7月に義継は若江城へ義昭を引き取ることになる。ところが、11月に入ると義昭は堺へ移り織田氏との帰京交渉に臨むことになる。義昭と義継が一体であった期間は存外短く、赦免が3月7日である以上、3月2日に発給された文書に義昭の意志が示されるはずがない。
 仮に元亀元年(1570)以前の文書と見ても、義昭幕府の下三好義継と畠山氏は並立しており、八尾周辺で「普請」を行う理由はなかった。以上の点から「御家門様」とは足利義昭ではない。
 もうそろそろ誰の名前が出てくるのか、察しがついてきた方もいるのではないかと思うが、ここで本文書をめぐる状況をおさらいしておこう。牧郷から三好家の家臣が八尾まで人夫徴発を行うべき状況とは…
・河内南部で普請を行う切迫した事情がある(三好氏の畠山氏への攻撃)
・牧郷に代表的な領主が不在である(永禄末期に野尻氏が権益を失い、天正年間に津田重兼が入部するまでの間隙を突いている)
・署名者が池田教正と多羅尾綱知のみなのは未だ若江三人衆が成立に至っていないからである
 「御家門様」とは三好義継ではない、が三好方にいる上級の公卿であり積極的に軍事作戦にも参画できる存在と見なすのがとりあえずの結論ではないだろうか。そんな都合のいい存在っていますかね?誰やろなあ…























 そういえば、近衛前久の「麒麟がくる」出演がめでたく決定し、中公新書の前久本に再販がかかったようです。まことにおめでたいので皆さんも買いましょう。

おまけ 近衛前久の動向
永禄11年(1568)11~12月 近衛前久、大坂へ出奔、京都の近衛邸は足利義昭によって破壊され、関白を解官される
元亀元年(1570)9月 近衛前久、大坂に居留しており本願寺から連絡を受ける
元亀2年(1571)1月19日 近衛前久本願寺顕如から新春の音信を受ける
元亀2年(1571)11月15日 近衛前久、三好義継・三人衆から守口に3000石を給付される
元亀2年(1571)11月23日 二条宴乗、大坂で近衛前久に面会
元亀2年(1571)11月27日 近衛前久松永久秀・金山信貞とともに「下ツジ」(下つ道?)へ出陣
元亀3年(1572) 近衛前久、大坂から若江へ移る。また、この年か前年に越前へ下向するともいう
元亀4年(1573) 近衛前久丹波赤井城へ移る。足利義昭から提携の打診を受ける

※ちなみに『二条宴乗記』で近衛前久は常に「御家門様」と呼ばれている。

参考文献

畿内戦国期守護と地域社会

畿内戦国期守護と地域社会

戦国期の石清水と本願寺

戦国期の石清水と本願寺

由緒・偽文書と地域社会―北河内を中心に

由緒・偽文書と地域社会―北河内を中心に

  • 作者:馬部隆弘
  • 発売日: 2019/02/28
  • メディア: 単行本