志末与志著『怪獣宇宙MONSTER SPACE』

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荒木村重って元亀3年(1572)に何してたの?

 最初に言っておきますが、この記事は疑問を噴出するだけのもので、記事タイトルの回答要素はありません。荒木村重研究会、何とかしてくれー!ってやつです。
 荒木村重まあまあ有名な戦国武将なのではないかと思います。通説だと織田信長に取り立てられて摂津の旗頭になったけど、不可解な謀反を起こし、その後逃亡した人ですね。あんまり評判は芳しくないですが、近年は研究に即したフォローの声もあります。まあそれはそれとして。
 何が問題なのかと言いますと、荒木村重の経歴を追うと「何があった?」と思う部分があるわけです。簡単に書くと次のようになります。

元亀元年(1570) 荒木村重池田知正らとともに主君池田勝正を追放し、池田氏を掌握する
元亀2年(1571) 荒木村重幕臣和田惟政を討ち取る
天正元年(1573) 荒木村重織田信長に従属し摂津を平定する

 何がおかしいのか気付かれたでしょうか?まあこれだけだとわかりにくいかな。この時期、すなわち元亀の争乱における畿内は、畿内再進出を目指す三好三人衆室町幕府織田信長の戦争最前線だったのです。元亀の争乱畿内方面は大概影が薄いのですが、これがなかなか重要な局面でして、村重の動向もこれに規定されるところが大きいのですが…。
 もっと具体的に見て参りましょうか。話は織田信長もとい足利義昭の上洛から始まります。それまでは畿内は将軍足利義輝を殺害した三好氏により支配されておりました。ただ、幕府に連なる人間たちはこれを快く思わず、幕府再興に動き出します。経緯は端折りますが、そうして擁立されたのが義輝の弟・義昭であり、織田信長が義昭に協力することになりました。永禄11年(1568)に義昭の上洛戦が開始され、織田信長の力を借りてあっという間に幕府は畿内を制圧します。荒木村重はこの頃摂津池田氏重臣でした。村重の主君・池田勝正は三好氏に従って信長と戦いますが、降伏後許されています。それどころか、義昭幕府は畿内の守護を任命するのですが、摂津国には守護が三人置かれ、勝正は和田惟政・伊丹忠親とともに守護の仲間入りを果たしております。直前まで敵だった人物への扱いとしては計り知れない厚遇であり、さらに池田氏は富裕の国衆とはいえ、守護職補任は初めてです。いかに足利義昭織田信長池田氏を重く見ていたのかが知れますね。
 そういうわけで池田勝正摂津国守護の一人として新生義昭幕府で任を果たしていきます。荒木村重も勝正の下でそれなりに仕事を果たしていたのだと思われます。しかし、摂津池田氏に転機がやって来ます。元亀元年(1570)の義昭幕府による朝倉征伐です。当然のように池田勝正にも従軍が命じられて、織田信長とともに越前に赴きます。ところが、信長の同盟者である浅井長政が突如朝倉氏に合力して離反、信長は命からがら逃げ帰ることになります。この時信長は金ヶ崎城に殿(しんがり)として兵を残し、追撃する朝倉軍に備えましたが、ここに池田勝正が率いた3000の兵も含まれていました。構成を考えれば、この勝正の軍が金ヶ崎城の最大兵力と言えるでしょう。勝正は見事に兵を指揮して朝倉軍をある程度退け、信長を逃がすことに成功しました。
 しかし、この頃から池田氏は当主勝正と家臣団の乖離が激しくなっていきます。池田氏はかなりの富裕な国衆でありましたが、守護となったことで将軍の警護や御所の普請、たびたびの軍事行動など財政的に疲弊していっていたのです。さらに金ヶ崎で殿を務めたことで人的消耗も激しかったと想像されます。また、義昭幕府が畿内の所領を整理していくと、池田氏が知行していた土地を「押領」であるとして返還を求める声も上がって来ます。その結果池田氏は土地を手放さざるを得なくなります。池田氏摂津国守護という高位に就きましたが、それで何が起きたかと言えば負担は増えつつ、新しい実入りは何もなし…このまま幕府に従うことに意味があるのか?そのような声の中心にいたのが荒木村重でした。
 さて目を外に広げますと、義昭の上洛によって畿内から追い出された三好氏はそのままフェードアウトしたわけではなく、本拠地の阿波に引っ込みつつも虎視眈々と畿内再上陸の機会を窺っておりました。早くも永禄12年(1569)正月には義昭を強襲する本圀寺の変を起こしていますが、この時は池田勝正らがすぐ京都に駆け付け、すぐに退いています。その後は畿内勢力を調略しつつも実を結ばずに渡海も控えておりましたが…。義昭幕府の朝倉征伐が浅井氏の離反によって失敗したことは目に見えるチャンスなわけであります。当然の如く、調略は池田氏にも及び、荒木村重はこれに乗ることを決意します。
 元亀元年(1570)6月19日金ヶ崎の戦いから2ヶ月も経たぬ間、ついに事件が起こります。池田正泰、池田正詮といった重臣が殺害され、池田勝正は池田から追放されます。首謀者は荒木村重池田知正で、当主として池田民部丞*1を擁立して事実上池田氏を掌握してしまいます。7月には池田城三好長逸が入城し、村重と知正の「下剋上」が三好勢力との共謀であることを示しています。義昭幕府はすぐに池田に出兵しようとしますが、すると三好氏の軍勢が畿内に上陸、野田城・福島城に籠って新しい戦争が勃発します。義昭幕府は織田信長足利義昭までが出陣する力の入れようでしたが、9月には本願寺が蜂起し、義昭幕府は勝利することが出来ず、義昭も信長も撤兵を余儀なくされました。12月には松永久秀の仲介で和睦が結ばれますが、結果として三好氏は摂津西部を勢力圏として確保することに成功しました。
 この結果に不満を持ったのが和田惟政でした。和田って誰や…?と思うかもしれませんが、もうすでに名前は出ています。義昭幕府によって摂津国守護に任命された三人の一人ですね。ところで和田惟政は本来摂津には何ら関係ありません。元は近江国の国人です。それがなぜ摂津守護になっているのかと言いますと、惟政は将軍になっていない義昭を保護し、幕府再興に尽くしたからです。義昭は惟政に大いに報い、摂津国守護という巨大な地位を与えました。惟政は三好氏の本城であった芥川山城を与えられ、摂津西部でも行政権を行使するなど、摂津守護の中ではリーダー格でありました。それだけに摂津西部への三好氏の浸食は自身の利権への侵犯であり、さらに三好氏が勢力を盛り返してしまったら、それが即摂津からの追放となってしまいます。自然、惟政は三好氏を仇敵と見なすことになります。
 一方の池田氏もとい荒木村重としては、対幕府戦争の最前線にいるわけで、和田惟政を倒せば、その利権を自分の物に出来るわけです。和田惟政池田知正荒木村重も士気は高かったと思われます。この両者が元亀2年(1571)8月28日に激突したのが白井河原の戦いです。この合戦の結果として和田惟政は戦死し、義昭幕府は畿内最大の支持勢力を失うことになりました。この戦いも三好氏の動きに連動しており、敗戦した和田氏が高槻城に逃げ帰ると、三好氏の家臣である松永久秀と篠原長房が高槻城を包囲することになります。村重はこの後茨木城に入ったようで相変わらず三好氏の一勢力として行動していたと考えられます。
 と、ここまでが元亀2年(1571)までの荒木村重です。行動原理が三好氏と提携しつつ、摂津池田氏のさらなる勢力拡大を図ることなのがご理解いただけるのではないでしょうか。
 しかし、村重の動向はここからしばらく見えなくなります。再登場を果たすのは、元亀4年(1573)の織田信長の書状の中においてです。村重は織田信長の敵陣営にいました。その信長が村重をどう語るのか注目したいですね。

一、摂州辺之事、荒木対信長無二之忠節可相励旨尤候、(2月23日細川藤孝宛)

荒木・池田、其外いつれも対此方無疎略、一味之衆へ才覚簡要ニ候、…(2月26日細川藤孝宛)

 ん?んん?何だか語り口がおかしいですよ(わざとらしい)。荒木や池田は信長に対して忠節であり、疎略がない…?何と村重は信長と友好関係を築いていたのです(少なくとも信長サイドはそう見なしていた)。実際に織田信長がこの後、3月25日に上洛してくると、村重は細川藤孝とともに信長を出迎え、以降信長の家臣として動いていくことになりました。村重は主君である池田氏の仕組みを破壊し、摂津一国の支配者に上り詰めました。村重の行動原理は織田家の忠実な家臣・協力者として、畿内支配の一翼を担うに転換したのです。
 しかし、ここまで見てきたように村重はもともと三好氏と協力していたはずです。どこでこの転換がなされたのでしょうか。

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荒木村重研究序説―戦国の将村重の軌跡とその時代より

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荒木村重 (シリーズ・実像に迫る10)より

 研究書でも、一体何があったのか、元亀3年(1572)だけ何も事績がありません。いやいやいや、何があったらこうなるんだ?
 厳密に言えば、元亀4年(1573)3月時点でも村重が信長に忠実かどうかはグレーなところはありました。信長は上記2月23日付細川藤孝宛書状で和田惟政の遺児・惟長について次のように述べていました。

一、和田事、先日此方へ無疎略趣申来候、若者ニ候之間、被引付、御異見専一候、

 このように和田惟政以来の和田氏と信長の友好関係もまた生きていました。しかし、3月11日村重は和田氏に仕えていた高山右近と内通し、惟長を襲撃、追放してしまいます。こうして東摂津の権力であった和田氏は惟政以来たったの5年で消滅し、高槻は村重の勢力圏に入りました。同時期には三好氏が上洛を期して盛んに行動しており、村重のこの行動も三好氏と提携しつつ池田氏もとい自分の勢力拡大を図るという原理に一致していると見ることも出来ます(結果的に信長は村重のこの行動を咎めることはありませんでした)。
 こうなるとなかなか難しいですね。村重は一体いつ三好氏から離れて織田信長に従う意志を固めたのか。三好氏は積極的に軍事行動を起こしており、池田氏や村重が表だって離反したとはあまり思えません。その後も村重は特に裏切り者と名指しもされていません(もっとも史料の残存の影響でそういったものもあったのかもしれませんが)。
 固より私に答えがあるわけではないですが、やはりこの時期の畿内方面の動きは侮れません。後考に待ちたいですね。



 さて、冒頭では回答要素はないと書いたが、若干の思いつきはあるので、一応書いておくことにする。天野忠幸氏は上にも挙げた『荒木村重 (シリーズ・実像に迫る10)』において、元亀4年(1573)の池田氏では将軍足利義昭に味方する池田正秀(池田紀伊守)と織田信長に味方する荒木村重池田知正とで対立があったとしている。元亀3年(1572)11月6日付けの上野秀政宛足利義昭御内書によれば、この頃池田正秀は活動が見えなくなっていた池田氏当主・池田民部丞を立てて義昭に協力しようと申し出たことが確かめられる。この前後ではまだ義昭と信長は完全決裂していないが、武田信玄が信長との同盟を破棄し西上し始めている。畿内では三好氏が優位に勢力を強めており、池田家中が分裂する原因として、義昭と信長の対立というファクターを重く見ることは出来ない(もちろん、最終的には義昭と信長の対立という色分けに合流することになったのだろうが)。つまり、池田家中における対立は、三好氏の勢力拡大の中で何らかの矛盾が生まれたのが直接的な原因であると考えられよう。
 ここで気になるのは三好為三の動向である。三好為三は三好三人衆の一人・三好宗渭の弟で、永禄12年(1569)の宗渭の死後はその地位を受け継いだと思しい。しかし、為三は元亀元年(1570)8月三人衆を裏切って、幕府に投降した。ただし、三人衆の幹部の一人であった為三の寝返りは、為三をいかに処遇するかという点で足利義昭織田信長を大いに悩ませた。為三は父・三好政長の遺領である榎並の他に、池田氏が治めていた摂津国豊島郡を要求していたのである。義昭幕府は三人衆に味方した池田氏を滅亡させるつもりはなく、追放された池田勝正復権させる方針を取っていた。為三を寝返らせたはいいが、為三の要求は池田勝正の利益と並び立たない。
 結局、義昭幕府はこの問題を解決できなかった。為三は元亀3年(1572)4月、今度は幕府から離反して三好氏に合流した。しかし、為三の豊島郡への権利要求はどうなったのだろうか。おそらく、三好氏は池田氏に対して為三の要望を汲んだ何らかの申し入れを行ったのではないだろうか。その結果として池田家中に何らかの争点が生まれ、三好氏から離れて義昭や信長に接近する下地が生まれた…というのは考えられないか。
 ただ、三好為三の動向は元亀3年(1572)4月以降、実に文禄年間に至るまで直接的に確認できなくなる。よって、為三の豊島郡への意志がどれほどあり、三好氏の首脳部はどこまでそれを認め貫徹させられたのかというのは全くの不明と言えよう。あくまで一つの可能性である。

*1:この人物は池田知正と同一人物扱いされることが多いが、知正が「民部丞」を名乗ったことはなく別人である