志末与志著『怪獣宇宙MONSTER SPACE』

怪獣monsterのコンテンツを中心に興味の赴くままに色々と綴っていくブログです。

なぜ織田信長は三好康長(康慶)を重用し続けたのか?

 三好康長どちらかと言えばマイナーな三好一族の中ではそこそこ名前が知られている武将ではないかと思われる。なぜなら、康長は織田信長重臣となっており、近年は本能寺の変の原因として四国説がクローズアップされる中、四国説のキーマンとなる人物だからである。来年放映予定の大河ドラマ麒麟がくるでも、主人公が明智光秀であるからには、康長も登場することは間違いなく、ドラマの中での役割やキャストには今から期待している。…ってそういうことを言いたいのではないのだが。
 しかし、三好康長は織田信長の家臣としては新参であり、それまでの長きに渡って明確に信長の敵であった。康長を一転して重用するに至った信長の判断は興味深く思われるが、あまり説得力のある説明は聞いたことがない。しかも織田家臣としての康長は目立った戦功を挙げていないようにも見えるが、信長からの重用は信長が死ぬまでいささかも揺るぐことはなかった。これこそ四国説の鍵を握る事象であるが、これまたなぜそうしたのかという説明は聞かれない。
 ここでいう説明はされているのではないか?という方もいるだろう。例えば、長宗我部氏との取次である明智光秀と康長と結んだ羽柴秀吉重臣同士の対立であるとか、信長は長宗我部氏の勢力伸長を喜ばず、対抗馬の三好氏に肩入れするようになったとか。
 しかし、こう言ったところで説明になっているだろうか?例えば、長宗我部氏は織田政権の四国攻めが迫る5月下旬段階でも、基本的には信長の意志に従う姿勢を見せている。明智光秀こと惟任光秀が信長の無二の重臣であり、政権の中で重職を担ってきたのは今更言うまでもない。対して阿波三好氏は、天正以降畿内でも四国でも滅亡しかかっており、わざわざ肩入れする勢力としては心もとない限りである。信長の「上意」に基本的に忠実で、後継者信親に偏諱を与えている長宗我部氏を穏当に政権内に取り組む手段などいくらでもあるのであり、四国政策から光秀を排除してまで三好氏と結ぶ理由は実は乏しいのではあるまいか。秀吉と康長の関係を設定し、秀吉・光秀間の対立を見るにせよ、織田政権下での秀吉は四国政策に積極的関与はしておらず、そもそも秀吉と康長に関係があったとしてそのコネクションは何が狙いなのかなど*1、種々の新たな疑問が浮かぶ。しかして、それは三好康長がどのような役割を担っていたのかで説明可能なのではあるまいか。
 ちなみに三好康長は出家名の三好咲岩(笑岩)でも知られ、信長の家臣に転じた後は還俗して三好康慶を名乗るようになるが、この記事中では三好康長で呼称を統一する。

1 三好康長が織田信長に従うまで

 三好康長を紹介ついでに信長に従うまでをざっと追ってみよう。三好康長は周知の通り三好一族で、仮名は「孫七郎」、官途名は「山城守」である。康長は一般的に三好長慶の叔父、系図で言うと長慶の父・三好元長の弟とされている。しかし、三好元長の父・三好長秀は永正6年(1509)に亡くなっている。つまり、康長が長秀の子(元長の弟)とするなら、永正6年(1509)以前の生まれということになるが…。三好康長の文書上の初見は永禄2年(1559)で、この時すでに重臣に列してはいたが、未だ「三好孫七郎」であった。こうしたところを見るに康長はこの時せいぜい30歳前後と推測され、長秀の子というのは成り立ちにくく考えられる。康長の官途名である「三好山城守」は、康長の活動初見に遡る30年ほど前、三好之長の弟・一秀が用いたものでもあり、康長は一秀の子孫ではないかとも考えられるが、確証はない。
 さて、三好康長は「阿波三好家」に属していた。三好政権と一口に言っても、内実は畿内を支配する「三好本宗家」と四国を支配する「阿波三好家」の二元体制であったとは天野忠幸氏の研究成果である。要するに康長の直接の主君は三好長慶ではなく、その弟の三好実休(一般には「三好義賢」として知られる)であった。「阿波三好家」の本来の任務は四国の支配にあったが、長慶は河内侵攻に四国勢を動員し、畠山氏の分国であった河内国南部の支配を「阿波三好家」に任せた。これは私の造語だが「阿波三好家河内支部が誕生したのである。支配の拠点であったのは守護所である高屋城で当初は実休が高屋城主となっていた。
 しかし、永禄5年(1562)河内奪還を目指す畠山氏との戦いの中、三好実休は戦死する(久米田の戦い)。直後の教興寺の戦いで畠山氏を撃滅したため、「河内支部」は命脈を保ったがトップが消えてしまった。こうした中永禄5年(1562)11月29日「河内支部」の重臣たちは、「若子様」(実休の子・三好長治)への忠誠と協力して統治に当たることを誓った。署名者は篠原長秀、加地盛時、三好康長、矢野虎村、吉成信長、三好盛政、三好盛長、市原長胤、伊沢長綱である。彼らは原則として対等の立場であった一方、康長が財務を管轄するなど、康長が若干突出するものであった。康長は実休生存時も単独で禁制を発給しており、当初より河内支部の中では別格の存在でもあったのである(事実上、康長が高屋城主の地位を引き継ぐことになった)。
 その後の永禄7年(1564)三好長慶が亡くなり、永禄8年(1565)に長慶を継いだ三好義継や三好長逸らが将軍足利義輝を殺害する(永禄の変)。康長ら「河内支部」は永禄の変に直接加担はしなかったようである。しかし、この後三好長逸松永久秀が対立すると、11月康長は長逸ら三好三人衆とともに飯盛山城を襲撃し、三好義継に松永久秀の排除を脅迫した。三好三人衆と康長の間には同盟が成立し、協力することになった。ただ、康長の目的は「河内支部」の維持で、中央政治を担当する三人衆との役割分担は厳然としており、康長が三人衆より上位となることもなかった。
 康長と三人衆は松永久秀とその同盟勢力に対し戦いを優位に進めた。だが、永禄11年(1568)足利義昭が幕府再興を掲げ、織田信長とともに上洛してくると、三人衆は敗退して阿波に退去した。康長も「河内支部」を放棄し、阿波に下ったと見られる。「河内支部」の支配領域には畠山氏が復活し、畠山秋高が守護となって高屋城に入った。
 康長と三人衆は畿内支配を諦めたわけではなく、早くも翌天正12年(1569)正月に上洛して、将軍足利義昭を襲撃した(本圀寺の変)。この襲撃は失敗に終わったが、康長の畿内反攻は始まったばかりであった。翌元亀元年(1570)に幕府の朝倉氏征伐が浅井長政の離反によって失敗すると、康長と三人衆は活動を活発化させ、本願寺と結ぶことで摂津西部を確保した。康長の狙いは「河内支部」の再興であった。精力的に軍事行動を展開し、畠山氏と戦うなど河内南部奪回を目指した。
 しかし、徐々に三好方は旗色が悪くなっていく。天正元年(1573)になると、織田信長の勢力伸長が著しく、朝倉義景浅井長政、三好義継が滅ぼされ、三人衆の活動は確認できなくなり、足利義昭は京都から追われた。織田信長の政権が樹立されたのである。一方で、河内南部では畠山氏の重臣・遊佐信教が畠山秋高を殺害し、康長は信教と手を組むことで高屋城主に返り咲いた。康長にとっては、同盟相手がいなくなる一方「河内支部」の再興に成功していた。
 だが、織田信長本願寺と結んでいる「河内支部」を放置するはずもなかった。天正3年(1575)4月、信長は本願寺攻めと見せかけて、河内南部への進撃を開始し、香西越後守と十河重吉が守る新堀城を落城させた。守りの要と位置付けていた新堀城の陥落に、康長は戦況の不利を悟り、松井友閑を通じて織田信長に降伏した(この時旧主実休秘蔵の茶器である「三日月」を献上している)。すると、信長はあっさり康長の自身への帰属を認め、河内南部の支配を認めた。背景としては武田勝頼が東方で軍を起こしており、信長としても同盟者である徳川家康を救援せねばならず、康長に掛かりきりではいられない事情があった(この直後に有名な長篠の戦いが起こることになる)。
 三好康長としては願ったり叶ったりの待遇だった。康長は「河内支部」を再興したとはいえ、すでに信長に従っていた畠山旧臣たちもおり、河内南部を総じて支配できていたわけではなかった。それが信長に降伏することで、逆に信長から南河内を与えられて、旧畠山分国をそっくりそのまま手に入れることが出来たのだ(逆に「阿波三好家」としては畿内の支配地域を全て失ったが)。康長はいきなり織田家重臣に列したのである。

2 三好康長の織田家家臣としての活動

 織田家臣としての三好康長の最初の活動は本願寺との和睦を、松井友閑とともに仲裁したことである。天正3年(1575)12月康長は友閑とともに和睦を保障する起請文に署名している。しかし、この和議は信長に敵対する将軍足利義昭本願寺を調略したことで、翌天正4年(1576)2月には早くも壊れた。4月に信長は本願寺を討つべく再び出陣し、原田直政(塙直政)、惟任光秀、長岡藤孝、荒木村重らを包囲陣として配置した。康長は河内衆を率い、原田直政の軍に属していたようだ。
 しかし、5月3日織田軍は先陣を三好康長、2番手を原田直政として木津砦に攻撃をかけたところ、本願寺からの猛襲を受け、直政が塙一族らとともに奮戦して討死する傍ら、康長は逃亡して織田軍は崩壊した。この敗報を聞いた織田信長は急遽出陣し、光秀の籠る天王寺砦の窮状を知るや、5月7日兵数が揃わないうちに本願寺軍に突撃し勝利した(天王寺の戦い)。本願寺の軍勢の鉄砲によって信長自身が負傷して手にした勝利であった。
 この戦後処理において、信長が原田直政の塙一族を粛正したことは、近年有名になってきたところである。信長は敗北した直政の責任を重く見たのだろう(直政が死んで粉飾決済がバレたという話もある)。しかし、そもそも敗戦時の先陣を務めていたのは三好康長で、康長がとっとと逃げたのに比べると直政は奮戦したぶん頑張ったとも言えるのではないだろうか。この後康長が本願寺外交に関わることはなかったので、取次更迭というペナルティはあったのかもしれないが、康長はその後も重臣の地位を失わず、責任を問われることはなかった。
 康長はその後も本願寺攻めに動員されつつ、領国となった河内南部の統治を進めていたらしい。こうした中、康長の旧主である「阿波三好家」は激変していく。天正4年(1576)三好長治はかつて阿波を治めていた細川讃州家の子孫・細川真之や一宮成助、伊沢頼俊に離反され戦死した。一方で阿波の勢力全てが真之らに従ったわけではなく、三好越後守や矢野駿河守らは「阿波三好家」の統治を維持せんと、本拠地である勝瑞城を確保した。この内紛は基本的に阿波の国内問題で、どの勢力がどの外部勢力と手を結ぶのか、各方面から注視されていた。
 織田信長の四国政策とは上洛以来、三好氏征伐にあった。阿波三好家も基本的に三好三人衆を支援する側で、この文脈から本願寺を支援し、篠原長房らを畿内に派遣していた。これは信長と足利義昭が決別しても、阿波三好家が義昭方に組み込まれることで継続した。信長は阿波三好家を討つべく、細川信良に命じて讃岐国の香川氏を調略もしていたが、最も大きな施策は土佐国長宗我部元親の支援であった。長宗我部氏への取次となったのは惟任光秀で、これは光秀が斎藤利三石谷氏を通じて、長宗我部氏と縁戚にあるからだった。信長は元親の子に「信親」の名乗りを与えるなど、長宗我部氏を厚遇したのである。
 長宗我部元親織田信長の後援の下、三好氏討伐という大義名分を獲得して、阿波へ侵入していくことになった。元親が提携相手として選んだのは三好式部少輔である。勝瑞城を本拠にする三好越後守らは堺から三好存保十河存保)を招聘して「阿波三好家」を再興した。細川真之や一宮成助らは長宗我部氏や「阿波三好家」と組んだり離れたりして第三勢力としての位置を保った。戦国時代でも細川氏、三好氏によって穏便に統治されてきた阿波は真の意味で戦国時代に突入した。
 織田信長はもちろん長宗我部氏を支援する姿勢を崩さない、と思いきやこの頃から織田・長宗我部間外交は徐々に隙間風を生じ始める。かつて「阿波三好家」の重臣であった三好康長が故郷・阿波の内紛に当初から主体的に関与したかは定かではないものの、天正8年(1580)石山合戦終結に伴い阿波にやって来て勝瑞城を奪った畿内紀伊の牢人衆が織田信長の「御朱印」を標榜していたことと康長が近く讃岐に派遣されるという噂は元親を刺激している。前者は牢人衆が勝手に自称しただけという可能性もある*2が、康長は天正9年(1581)2月に讃岐経由で阿波に入国し、長宗我部氏に通じていた三好式部少輔を調略して織田氏の味方に付けている。これを受け、織田氏と長宗我部氏の利益調停を図るためか、信長と康長は式部少輔と長宗我部氏の融和を図った。信長朱印状には以下のような康長の副状が付けられた(宛名である「香曽我部安芸守」は元親の弟である香宗我部親泰のこと)。

爾来不申承候、仍就阿州表之儀、従信長以朱印被申候、向後別而御入眼可為快然趣、相心得可申旨候、随而同名式部少輔事、一円若輩ニ候、殊更近年就忩劇、無力之仕立候条、諸事御指南所希候、弥御肝煎、於我等可為珍重候、恐々謹言、
    六月十四日      康慶
   香曽我部安芸守殿
          御宿所

 この頃は「上様」と尊称されるのが定着していた織田信長「信長」と呼び捨てに出来る康長の地位が偲ばれる(一応この頃でも家臣による「信長」呼び捨ては例がないわけではない)。内容としては丁重に同族・式部少輔*3の地位確保を頼むもので、康長が長宗我部氏を敵視するようなニュアンスはない。ただし、長宗我部氏が勢力伸長する中でも三好一族の権利維持を訴えたものと見る事もできよう。この頃信長周辺に長宗我部氏のことを讒言する者がいたらしく、讒言者が康長である可能性もあるが、確証はない。
 そして、三好康長が織田政権の讃岐・阿波担当者であることがより明確化されていく。天正9年(1582)11月の松井友閑書状では「就其阿・讃之儀、三好山城守弥被仰付候」という表現が出ている。阿波・讃岐両国は康長が統括するという方針が示されたのである。しかし、この方針は同時に、ここまで自力で阿波に勢力を拡大してきた長宗我部氏を認めない意志をちらつかせるものでもあった。
 天正10年(1582)1月織田信長甲斐武田氏征伐に出陣するが、同時に康長に四国渡海を命じた。甲斐武田氏征伐が終わると信長は三男・信孝に次のような朱印状を与えた。

 就今度至四国差下条々、
一、讃岐国之儀、一円其方可申付事、
一、阿波国之儀、一円三好山城守可申付事、
(略)万端対山城守、成君臣・父母之思、可馳走事、可為忠節候、能々可成其意候也、
 天正十年五月七日
  三七郎殿

 長宗我部氏が進出していた阿波国は「一円」三好康長に与えられることになり、信長の眼中にもはや長宗我部氏はなかった。さらに自身の子である信孝に対し「康長を親とも主君とも思え」と訓戒している。実際信孝はこの後康長の養子になったようだ(全然関係ないが、信孝の仮名「三七郎」は見事に信長の「三郎」と康長の「孫七郎」の合体名になっている)。信長は将来的な信孝の継承ありきではあるが、「阿波三好家」再興に大きく方針を転換させたのである。
 康長は2月以降すでに阿波に渡り、織田の大軍来襲を宣伝しつつ、勝瑞城に入っていた。「阿波三好家」の看板を持っていた三好存保とも結んだ康長には雪崩を打つように阿波三好家の残党が加わり、一宮城や夷山城を攻略するなど織田軍渡海への準備を進めている。長宗我部元親もこの勢いの前に、5月21日付けで海部城と大西城を残して阿波から撤退するという譲歩を示す書状を認めた。神戸改め三好信孝を主将、惟住長秀を副将とする大軍が四国渡海を前に堺に続々集結し、織田政権による「阿波三好家」再興の時は目前に迫っていたのである。
 ところが、6月2日京都に滞在していた織田信長・信忠父子を惟任光秀が襲撃し、両者を討ち取った(本能寺の変)。この事件が伝わった堺ではパニックで軍勢が離散してしまい、康長も信長という後ろ盾を失ったとあっては阿波に留まり得ず、畿内に逃亡した。こうして、信長の重臣としての康長のキャリアは、主君の死によって突然終わった(もちろんそれで織田家臣ではなくなったわけではなく、康長は羽柴秀吉との提携に活路を見出していくことになる)。
 以上、織田家重臣としての三好康長を概観した。織田信長の人材登用と言うと信賞必罰というイメージのある方もいるだろう。しかし、康長は何か取り立てて役立ったと言えるのだろうか。もちろん積極的な活動が見られない天正5年(1577)~天正8年(1580)も史料が残っていないだけで精力的に活動していた可能性はある。しかし、天王寺の戦いでの康長の行動は明らかに失態であり、責任を負わなかったのは奇妙にも映る。康長の上司とも言い得る原田直政の塙一族や佐久間信盛が粛清された時も康長には全く累が及ばなかった。
 また、天正8年(1580)まで康長は目立った活動がないが、以降の信長は長宗我部氏に冷淡になり、康長を通じて阿波三好家再興にのめり込んでいく。そして康長は讃岐・阿波の統括者になり、信長の子・信孝をして親や主君に比される存在となる。このような存在としては織田家譜代や叩き上げである河尻秀隆や羽柴秀吉がいるが、康長が長らく信長の敵であった新参であることを思えば、この待遇は破格と言えるだろう。しかし、重ねて言うが康長の何の行動が、彼の織田政権でのかくも高位を与えているのだろうか?
 何を訝しがっているのかわからない人もいるだろう。要するに順序が違うのではないかということである。「三好康長が実際に大きな功績を挙げる→信長が康長を役に立つと思い重用する」の因果関係なら自然であるが、天正8年(1580)以降の信長はそれまで特に役立っていない康長の重用ありきで人事を動かしている(ように見える)のである。しかもその過程で佐久間信盛長宗我部元親、惟任光秀は織田政権で約束されかけていた地位を失っている。換言すれば、織田信長は三好康長に重臣や従来の外交を排除してまでも将来的にものすごく役に立つ」何かを見出していたということになるだろう。

3 甲州征伐に見る織田信長の軍事観

 ところで唐突であるが、織田信長の軍事とはどういうものであったか、簡単に見てみたい。素材にするのは天正10年(1582)武田勝頼をあっという間に滅ぼした、いわゆる甲州征伐」である。
 織田信長と武田氏は本来同盟者であったが、元亀3年(1572)に武田信玄が信長を裏切ったことで以降敵対していた。武田勝頼は長年よく織田氏・徳川氏と戦い、領国維持に努めてきたが、天正9年(1581)3月高天神城を救援し得ず、高天神城の武田軍が全滅したことで「天下の面目」を失った。武田勝頼に従っていては、もしもの時に助けてもらえないという感情が勝頼旗下の国人たちに喚起されたのだ。この効果はすぐに現れ、天正10年(1582)1月西信濃の国衆・木曽義昌は勝頼から離反し、織田方に鞍替えした。そこで信長はいよいよ勝頼を叩くべく、東国への出陣を決めた。
 しかし、ここで見たいのはいかに織田軍が武田勝頼を滅ぼすかという道程ではない。信濃に侵入した織田軍の主将は信長の嫡男・織田信忠であり、信長より一足先に出陣していた。もちろん信忠の単独行ではなく、河尻秀隆・滝川一益といった老臣が信忠の補佐役として信長から付けられていた。ただ、信忠軍は信長出陣を待つことなく、武田領国に先行していったのである。信望を失った武田勝頼旗下からは多くの部将が離反し、信忠軍はどんどん深入りし、3月11日には勝頼を討ち取った。あっという間に武田領国は崩壊し、織田軍の占領するところとなった。
 結果だけ見れば、織田信忠の大戦果であった。しかし、織田信長は先行し続ける信忠軍の動きを常に危惧していた。

…城介わかく候て、此時一人粉骨をも尽之、名を可取と思気色相見候間、(略)我々進発候て可打果候、如此申出候上、万一楚忽之動候て、聊も越度候者、縦自身命いき候共、二度我々前ヘハ不可出候条…(2月15日滝川一益宛)

一、城介事、是も如言上、信長出馬之間ハ、むさとさきへ不越之様、滝川相談堅可申聞候、此儀第一肝要候、(2月23日河尻秀隆宛)

一、城介其外、滝川・小川・刈屋・高橋衆陣所之儀も聞届候、其よりさきへハ不可出候、猶様子可□(見届)候也、(3月1日河尻秀隆宛)

…我々事、近々出馬候間、示合手間不入可打果候、先剋河尻与兵衛かたへも此旨具申聞候き、可被成其意候也…(3月3日織田信忠宛)

 すごい執拗さである。信長は自身が出陣するまで、信忠軍がそれ以上の深入りをしないことを、織田信忠・河尻秀隆・滝川一益といった幹部に数日置きに厳命している。しかし、なぜ織田信長はここまで信忠軍の突出を戒めているのであろうか?武田勝頼が急に逆襲してくる危険に怯えていたのだろうか。あるいは、武田滅亡の戦功を信忠に独占されるのが気に食わなかったのだろうか。
 もちろんそうではない。織田軍が前進し続けること自体に問題があったと見るべきである。その問題の端緒は、実は出陣の条々にすでに記載があった。

…在陣中兵粮つゝき候様にあてかい簡要候…

 織田信長が常に危惧していたのは、信忠軍が先行し続けることで補給が追い付かなくなることであった。この信長の危惧は杞憂ではない。事実、織田軍は3月中旬に兵糧の欠乏に陥り、脱走兵が出始めた。信長は接収した武田軍の兵糧を分配し、また徳川家康北条氏政から兵糧の支給を受けることでこの危機を乗り切った*4が、もしも勝頼がもう少し粘れていたなら、織田軍は兵糧問題から快進撃を続け得なかったと考えられる。そうなれば、あるいは取り残された織田軍は犠牲になり、信長にとっての「高天神」になることもあり得た。信長が「信忠が下手な動きをしたら、生きて帰ってきても二度と会わないからな」とまで言った背景とはこのようなことであった。
 兵站への意識から前線の際限ない拡大を危ぶむ信長の軍事センスは、80年ほど前のどこかの島国の首脳にも聞かせたいところだが、それはともかくとして。織田信長は常に兵站への意識が高く、同時にそれを実現できる軍事システムは完成していなかったことが理解できる。

4 四国への直接介入の方法とは?

 ここで再び目を四国に転じよう。さて、畿内から四国へ行くにはどうすればいいのだろうか?戦国時代には明石海峡大橋大鳴門橋もない。裸一貫大阪湾を泳げばいいのだろうか?いやそれにしても武具は携行できるのか?なんてアホな話をするのではない。普通は船を使うものである。
 謎のボケをかましてしまったが、畿内から四国に行くにはどうやっても船を使うしかない。船と言っても、大船団を形成するには、大量の木材と職人が要る。通常の安宅船であれば、乗員は100人単位だし、武具や兵糧の支給も考えれば、万の軍勢を送るには3ケタを超えるレベルの船舶数が必要なのである。さらに船があればそれで終わりではなく、航路の把握や安全の確保、船で行く先の最低限の治安維持も含めるとクリアすべき条件は多い。
 要するに四国・畿内間を大軍が移動するハードルは高い。兵站への意識が高い織田信長であればこそ、妥協は出来ない。例えば、軍勢を四国へ送り込むとしても、途中で海賊に襲撃されるかもしれない。上陸を果たしても補給が追い付かなくては、軍勢は四国で飢えてしまう。もしも三好氏の軍と交戦し敗北を喫したら、帰りの船はないかもしれない。そのためにも両岸に有力与党勢力がいなければならない。せっかく派遣した軍勢が助けもなく全滅などという事態に至れば、織田信長は「天下の面目」を失うことになるだろう。
 そういうわけで実際、織田信長は四国へ織田の軍勢を送ることはついぞなかった。織田信長は上洛以降、幕府秩序の中で播磨や但馬に援軍を送り、何度も阿波三好氏討伐を訴えた。しかし、阿波三好氏討伐のために義昭幕府および信長がとった手段は常に調略だった。軍事動員による「成敗」こそ効果的であろうに、信長は一度も四国に軍勢を派遣しなかった(出来なかった)。別に信長を侮っているわけではなく、制海権すらないのだから当然のことである。
 ところで、ここからが本題である。何と戦国時代には畿内・四国間に自由に大軍を移動させることが出来た勢力がいた(前振りである)澄元系細川京兆家と三好氏である(ババーン!)。彼らは畿内で苦境に陥った際、常に四国勢を渡海させ、その合力でもって対抗勢力に勝利してきた。その規模は記録類にもよるが、5000~2万くらいで、だいたい1万人ほどが来ていたと考えて良い。四国勢の有無で戦局が左右されるのだから、小勢なはずがあるまい。四国勢は細川氏・三好氏の要請があると、基本的にそれを拒否することはなく、大軍を送り込めた。関係史料が少なく滅多な事は言えないが、その動員はシステム化されていたと見られる。では、三好氏(と細川氏)はどうやってこの動員を可能にしていたのか。要因としては以下のものが挙げられよう。

  • 大阪湾に面した摂津・和泉と対する讃岐・阿波という両岸に勢力を有していた
  • 淡路の水軍の棟梁・安宅氏に養子を入れ(安宅冬康)、淡路の水軍を傘下とした
  • 四国は木材の産地で船を作る資材に事欠かない(撫養には舟座があった)
  • 尼崎、兵庫、堺といった港湾都市を掌握し、三好氏の政商を作って利害関係を一致させた

 最近、三好政権を「環大阪湾政権」、織田政権を「環伊勢湾政権」と規定して、両者の共通点と差異を語る説に出くわしたことがあるが、「環伊勢湾政権」と「環大阪湾政権」の違いとしては、後者は海上の大軍輸送を伴っていたことがあるだろう。三好氏は人的ネットワークによって、大阪湾・東瀬戸内海の制海権を握り、これが海上の大軍動員を可能にしていたのである。
 そして三好氏が掌握し続けてきたこの海上優位性は、義昭幕府や織田政権が生まれてもすぐに失われたわけではない。信長上洛の際、三好三人衆や篠原長房は阿波へ退避したが、幕府軍は阿波から出撃する三人衆や康長を撃退することは出来ても、逆に阿波に攻め入ることは出来なかった。三人衆や篠原長房は阿波に逃亡したり、阿波から畿内に出撃したりしているが、畿内の勢力は一度も四国と畿内を往来できなかったのは真に対照的である。信長は尼崎を放火したり、堺から矢銭を献上させて屈服させようとしたが、堺は実際には矢銭献上後も自治性を保ち、三好氏の要人が滞在するなど、織田方に完全に組み込まれたわけではなかった。本願寺が信長に長年抵抗できたのも、織田氏が大阪湾を制し得なかったために、海上補給が自由に出来たという側面もあった。
 三好氏が約50年かけて築いた大阪湾での地位は、新参の織田信長がすぐさま奪ってしまえるものではなかった。さらに信長の「環伊勢湾政権」は大軍の海上輸送の経験が乏しいもので、畿内で登用した家臣団もノウハウがあるわけではない。織田人脈が大阪湾に食い込んでいくには、本来様々な試練を伴うものであった。

5 三好康長の役割

 そろそろ結論が見えてきた人もいるのではないだろうか。天正8年(1580)本願寺が屈服し、織田政権はようやく大阪湾の支配に乗り出す。翌天正9年(1581)11月には羽柴秀吉池田恒興が淡路の反織田勢力を駆逐し、淡路をようやく織田氏の勢力圏に入れた。もっとも淡路の統治機構は三好一族の安宅神五郎(実休の子で存保の弟にあたる)がリーダー格である体制が存続したようである*5。こうしてようやく織田政権は四国へ派兵可能な条件を揃え、天正10年(1582)5月に準備された四国攻めに繋がって行く。
 だが、天正9年(1581)も暮れになって織田政権が渡海派兵の準備をしたのを余所に、織田家臣としての三好康長はそれ以前から畿内と四国を往来できていた(2次史料出典なので確証に欠けるが、一度ではなく複数回行ったり来たりしている)。単に使者として一人で移動すればいいわけではなく、康長の渡海は長宗我部元親が警戒したように、数百レベルかもしれないが軍勢を伴っていたはずである。すなわち、康長は織田政権が大阪湾に進出する前から、大阪湾を軍勢で往復していたということになるだろう。
 一体どういうことなのか。これこそが康長に期待された三好ブランドだろう。茶人として名高い康長は堺の商人にも顔が利いたし、阿波にも基盤があった。何より康長は永禄から天正まで信長の敵としてではあるが、何度も軍勢を伴って大阪湾を移動し、そのノウハウを熟知していたのである。織田信長にとって、三好康長は四国に介入するための切符のようなものだった。
 そして、この切符を持っているのは康長だけだった。原田直政や佐久間信盛が持っていないのはもちろん、松永久秀も持っていなかったし、長宗我部氏の取次であった惟任光秀にも大阪湾に大軍を動かす術はなかった。信長は三好康長の経験と知識に頼らざるを得なかったのであり、その過程で四国政策に関係する可能性のある重臣は姿を消して行った。彼らとて、じゃあ四国へ大軍を送ってくれと言われても困ったであろう。
 これは長宗我部氏とて同じことであった。元亀2年(1571)に土佐一条氏の一条兼定が将軍足利義昭に鷹を献上したことがあったが、そのルートに介在したのは阿波三好家の重臣・篠原長房と三好義継だった。土佐の勢力も基本的に阿波三好家の四国・畿内間流通を用いて畿内と連絡していたのである。さらに長宗我部元親の阿波進軍ルートも陸路によるもので、その四国統一に最後まで抵抗したのが阿波三好家旗下の経歴を持つ森水軍であったのが象徴的であるが、勢力拡大といっても阿波沿岸の制海権を握れたわけではなかった。つまり、長宗我部氏がどれだけ阿波に侵入しても、その成果として織田の大軍を迎え入れることには繋がらなかった。
 織田信長が軍事動員を以て四国介入を成すには、どれだけ畿内の戦争で役に立たなかろうが、三好康長(の持つ三好氏の伝統的な兵站)を用いるしかなかった。これが歪な人事になってまで、康長が優先された理由と考えたい。信長が長宗我部氏に冷淡になって行くのも、本質的にはその勢力拡大が織田軍の四国直接介入に直結しないという事情が本質に近いのではないだろうか。もちろん信長がただ康長に引っ張られたわけではなく、康長も織田政権の威光があってこそ、四国介入に内実が伴った(本能寺の変後、康長がとっとと畿内に引き揚げたのも信長の威光なくては四国にいるのが危険だったからである)。
 こうして考えると、康長の最後の動向が豊臣政権によるいわゆる四国征伐に見えるのは象徴的である(康長が降伏した長宗我部元親を出迎えたという)。四国征伐以降、三好康長はいつ死んだのかもわからず、記録から消える。三好政権に代わる中央政権が、海上での大軍輸送と補給が可能となったその時を境にして、康長の存在意義は消えたのである(もちろん康長ら三好氏の家臣経歴を持つ者たちは少なくない数が豊臣大名の家臣に転じており、その流通・貿易に関する技能はその後も陰に陽に命脈を保った)。

(どうですか?ゲームとかでも康長ら三好氏人脈を雇わないと四国介入できないみたいな縛り作ってみない?(現実の康長贔屓が本能寺の変の一因になったみたいに、絶対どっかで既存の家臣に裏切られそう))


参考文献
ci.nii.ac.jp

論集戦国大名と国衆 10 阿波三好氏

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徳島発展の歴史的基盤―「地力」と地域社会―

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南近畿の戦国時代 (戎光祥中世史論集第5)

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本能寺の変 史実の再検証

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*1:論者によっては秀吉と康長の関係を織田政権時代からとする人もいるが、私は秀吉と康長が関係を構築していくのは信長死去後であると考えている

*2:ただ、織田信長の性向的にあまり相手のことを考えず、自分の利益のみの拡大を図ってしまうのはよくある

*3:式部少輔は康長の息子ともされるが、書状中では「同名」すなわち同族という言及しかないので実際息子なのかどうかは不明である

*4:ちなみに『信長公記』は兵糧のk欠乏には一切触れず、信長が兵糧を分配したので皆喜んだという記述に終始している。なぜ喜んだのか、背景がないとわからんとも思うが、太田牛一は書きたくなかったらしい

*5:仙石秀久の入国がこの時であるというのは後世の編纂記録のみでしか確認できない