志末与志著『怪獣宇宙MONSTER SPACE』

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黒嶋敏『天下人と二人の将軍:信長と足利義輝・義昭』(平凡社)の感想

 ここ10年ほど畿内戦国史を彩る風景はだいぶ様変わりしている。信長上洛以前の権力(室町幕府細川京兆家・六角氏・畠山氏・三好氏)の実態解明が進んだことで織田信長の上洛、あるいは織田政権の成立を画期と見なす時代観は大きく動揺し、再考を迫られている。逆に信長以前の権力の担い手が注目され、プレ信長としての評価を受けるようになった。同時に別角度からであるが、織田信長の人物像も見直しが進み、日本史の教科書に書いてあるような「天下統一の野望を抱き行動に移した」という人物像はもはや成り立たないと言って良い。二つの流れは通説「織田信長」の相対化という点で一体化する。
 ただし、この流れが「定着」していくのか?というのはまだまだ不分明である。畿内戦国側の問題としては権力研究がセレクション化していることがある。それぞれの分野で深化はしているものの、各分野の深化を共有しきれていない面もあり、各分野で違った見方が発生している相違点のすり合わせを微妙に欠いているのである。マクロな畿内戦国史はまだまだ描かれていないと言え、享受者の度量に任されている現状なのである。その上で三好長慶の偉大性が再確認されれば言うことナシです。

直接関係ないけど、今度また畿内戦国史通史っぽい本が出るので期待したいですね。

 織田信長研究にしても、近年の研究は織田信長がむしろ標準的な戦国大名でしかないことを明らかにした。であれば、そのような信長がなぜ暫定勝者、または足利将軍に匹敵する地位に登れたのかという点が改めて問われるべきであろう。通説は相対化されたが、新しい通説が生まれるにはまだまだ距離がある。
 こうした問題がある中で出されたのが本書『天下人と二人の将軍:信長と足利義輝・義昭』である。著者黒嶋敏氏は畿内戦国史の研究者でも織田信長をメインに据える研究者でもない。過去の論文を全てチェックしたわけではないので、瑕疵があるかもしれないが、東北や九州・琉球についてそれぞれの中央との関係に興味を持たれている。中世日本国家における中央と地方、都鄙関係について造詣が深い研究者なのである。畿内戦国史研究の課題としてミクロな深化をマクロに統合できているかということを前述したが、黒嶋氏はまさしくマクロな視点を備えた研究者であり、その中でどのように畿内戦国史の一局面を描くのか注目されるところ大であった。

 果たして内容としては…。本書の一つの目玉には足利義輝の再評価が挙がってくるだろう。足利義輝という将軍は巷間には剣豪将軍として知られるが、その政権像についてはまだまだ不明である。その一端に三好氏の存在があり、三好氏が一時将軍を擁しない政権を立てたこともあって、その後の義輝再推戴をどのように評価するかも含め、「三好氏との関係」というのは義輝政権を考えるうえで切り離されないファクターである。実際、これまでの研究では義輝を評価するにせよ、三好氏の傀儡であった無力な将軍⇔三好氏を従属下に置いた英邁な将軍の間に針が振れてきた。
 しかし、本書ではこのような義輝評価観からも離脱してしまうような「再評価」の趣きがある。畿内政権の最高権力者が誰であるかを抜きにして、中世日本国の元首は足利将軍であったのであり、その枠組みの中で義輝がどのように位置付けられたのか、義輝は何を行ったのかを明らかにする。近年「天下人」とは何かという言論が活発化しているが、「地方との関係性を無視して「天下人」を論じることはできない」という考え方は一石を投じるものではあろう。
 特に義輝論の中で目を引いたのは二条城の位置付けについてである。義輝二条城が城砦化されていたことは過去にも検討されたことがあり、本書は特にその規模や実態について推測を交えつつではあるが、義昭二条城や安土城まで睨んだ近世城郭の祖として高く評価している。同時期に松永久秀が奈良に多聞山城を築いたように、洛中に一定規模の城郭が存在し、その主が将軍であることが持つ意味は重たい。指摘が妥当なのか、その意義が何であるのかも含めてこれからの議論を楽しみにしたい。
 他にも義昭幕府や織田政権についても近年の研究成果を咀嚼された上での野心的な解釈が多い。噛み砕いた上での解釈がなされているのは重要で、口に入れると同時に鵜呑みにもしていないわけで、あの先生はこう言っていたが、黒嶋氏はこう捉えるのかという物の見方がかなり明瞭になる。評価の尺度が生まれるのであり、理解の一助になる(詳細については読んで確かめられたい)。
 本書の基本線として義輝の都鄙外交を高く評価する一方、義昭・信長は義輝の中立的路線を継承できず、敵対者の軍事的打倒に走ったとする。こうした見方自体が独特で興味深いものではある。しかし、この点については長々と申し上げたいことがある。
 足利義輝は言うほど中立な裁定者であっただろうか。あまり指摘されていないが、永禄2年(1559)以降の足利義輝は三好氏べったりの姿勢である。例えば、永禄3年(1560)三好氏が河内・大和に侵入し、両国を領国化、畠山氏は放逐されるに至る。義輝はこの時畠山氏の重臣紀伊国衆の湯川直光に三好長慶に従うよう指示している(『戦三』参考62・参考77・湯川氏は幕府奉公衆でもあったので将軍からの命令が有効であった)。また、永禄4年(1561)閏3月以前に足利義輝朝倉義景三好長慶・義興と松永久秀の指導を受けるように命じる御内書を出している(『戦三』参考67)。永禄3年(1560)より丹波の松永長頼(久秀の弟・内藤宗勝)は若狭武田氏の御家騒動に介入し、長頼は武田氏家臣・逸見氏を支持するのに対し、朝倉義景武田義統を支持しており、両者は断続的な交戦状態にあった。その朝倉に三好・松永に従えと言うのは、義輝はこの争いに三好氏サイドで臨んだということである。武田義統は義輝の妹を正室に迎えており、義輝とは義兄弟にあたる。にも関わらず、義輝は義統(を支援する朝倉)を支持しなかったのである。
 三好氏が河内や大和を領有するのも若狭へ進出するのもどちらも本来正統性は欠片もない。畠山氏や若狭武田氏・朝倉氏は三好氏の侵略を咎めないどころか後押しする足利義輝に公平性・中立性を看取できたであろうか。この後、三好氏の要人が亡くなるため、領国拡大路線は停滞してしまうが、たらればを許してもらえれば、この後毛利氏との敵対が昂じて瀬戸内海を舞台に交戦した可能性もある。こうなると完全に様相は都鄙戦争となるが、足利義輝が三好氏に不利益を飲ませる形で和睦調停、停戦調停を行い得るのかどうか、大いに疑問である(ちなみに三好氏の和睦案件として永禄4年(1561)の細川晴元との和睦、永禄5年(1562)の六角氏との和睦、永禄6年(1563)の根来寺との和睦などがあるが、幕府の具体的関与はあまり確認できない*1)。
 確かにこれらの事例は都鄙関係と言うよりは畿内近国の「都」限定の姿勢とは言えるかもしれず、義輝のバランスの取れた(と評価される)都鄙外交には直接影響しないかもしれない。しかし、後の織田信長はともかく、足利義昭の義輝路線不継続については、織田・朝倉の講和に義昭からも人質を出す事例が挙げられている。言わば直接的関係性を有しない地方との外交において、幕府が第三者的に振舞い扱われるのは幕府にバランス感覚があろうがなかろうが当然であり、逆に畿内・近国において幕府に「敵か味方か」という目を向けられるのも至当なのではないだろうか。こういった点に義輝と義昭に「落差」があるように捉えられるのか疑問なしとはしない。
 そもそも本書でも指摘されているように義輝期の政治スタンスは義昭・信長にとって必ずしも継承されるべきものではなかった。足利義輝を再評価できたのは大いに買える観点ではあったが、同時代に近い評価も含めて考えられるべきであろう(二条城増築にせよ、本来朝廷に出仕すべき務めより優先されていては本末転倒と言える)。
 全体的な引っかかりとして、上記のように義輝をマクロ的に評価する一方で、義昭・信長についてはミクロ的な記述がむしろ目立ち対比されていくという点がある。義昭→信長の政権交代のそれぞれの思惑も面白かったが、どうしても二条城の解体や安土城築城など画期性を与えられる事象について、マクロな日本国の中でどういう位置づけなのかという点が捨象されているため、居心地の悪さを覚える。それ自体が都鄙論理の不継承と言えばそうなのだが、そうなってくると織田信長の再評価されるべき画期性もまた後景に退いてしまうのではないだろうか(ちなみに織田信長豊臣秀吉の武威が日本列島を覆って行く様については『秀吉の武威、信長の武威』がある)。

秀吉の武威、信長の武威:天下人はいかに服属を迫るのか (中世から近世へ)

秀吉の武威、信長の武威:天下人はいかに服属を迫るのか (中世から近世へ)

  • 作者:黒嶋 敏
  • 発売日: 2018/02/23
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

 以上のように野心的な取り組みであり、畿内戦国史織田信長研究において新しい視座を投入したのは間違いない。この本が存在することによって、新しい「通説」には確実に近付いている。どのような反応が現れ、成果となっていくのか、これからも注視していきたいと考えている。

PS 論旨を展開する際に史料を現代語訳的に引用し、それでいて巻末に原文(書き下し)を掲載するスタイル良いですね。昨年の『六角定頼』でも史料引用を多用していましたが、「本当はどういう表現なのか?」という点は歴史書を読み解く際に重要なのでありがたいです。

おまけ 武家秩序内における三好長慶織田信長の違いについて

 通説として織田信長は義昭幕府下において、管領や副将軍といった役職を固辞し、義昭の下に明確に位置付けられることを嫌ったというものがある。そしてこの点について三好長慶は義輝幕府において相伴衆になっており、将軍の下に位置付けられる長慶、位置付けを拒む信長を対比的に見るのである。本書においてもこの観点は継承、明文化されている。
 しかし、近年こうした見方も見直しを迫られている。義昭幕府において義昭と信長が元亀3年(1572)まで基本的に協調・協力していたことが明らかになったが、水野嶺氏はさらにその見方で研究を進め、永禄13年(1570)以降の織田信長は義昭幕府下の「准管領として位置づけられ、信長もこれを自認していたと主張する。水野説が支持を集めて行くのかどうかはこれからだが、水野論文では諸記録や文書における信長の表現から、永禄13年(1570)年初を境に位置付けが変わるのを明瞭に示されている。水野説は明快であり、否定するにも新しい論理が必要になってくるだろう。今回の機会に触れられなかったのは残念であった(なお、本書でも水野論文は参考文献に挙げられているので信長「准管領」説をスルーしてしまったのは、水野氏著書の出版が今年の年初であったため反映が間に合わなかったことによるのだろう)。

戦国末期の足利将軍権力

戦国末期の足利将軍権力

  • 作者:嶺, 水野
  • 発売日: 2020/01/31
  • メディア: 単行本

 なお、仮に信長が「准管領」でなかったとしても、織田信長本人が足利義昭と対立した際、「君臣の間のことであるが~」という表現を用いているように、当時の社会通念上義昭と信長の関係は君臣上下関係であった。信長が義昭の下につくことを嫌ったというのはこの点からも成り立たない。
 また、三好長慶相伴衆となったことで幕府による武家秩序の内部に位置付けられたのは間違いないが、それだけを以て義輝との上下関係が確定したというのも個人的には不審を抱いている。上で挙げた信長の例や「天下諸侍御主」のように将軍は社会通念上武家のトップなのであり、相伴衆であろうがなかろうが、長慶引いては日本国の全武士とは上下関係が成立する。こうした名義的な君臣関係と実態面とは切り離して考える必要がある。さらに松永久秀幕臣として幕府行政に関与する一方で、三好長慶・義興・義継といった三好氏の当主は幕政の中での役割は見出せない。この点は幕府行政文書に関与者として名前が見える織田信長とは明確に相違点であり、場合によっては「幕政から距離を置く三好長慶、幕政に参画・補完する織田信長」という通説とは真逆な結論が導かれる可能性すらある。
 もっとも義輝幕府と三好氏の関係性については未だ解明されていない点が多く、後考に俟ちたい部分も多い。しかし、「幕府の下にある三好長慶、幕府の下を避ける織田信長」という観念もまた現在進行形で再考されるべき問題であるとは言えるのである。

*1:六角氏の和睦に関しては、『河野文書』(永禄5年)6月9日付上野信孝書状写に「左京兆・筑州間之儀、被仰調儀候」という文言がある。また、永禄6年の多武峰松永久秀の争いは『御湯殿上日記』から義輝が和議に動いていることが確認できる。ただし、これは久秀に有利な和睦であり多武峰からは拒否されている。