志末与志著『怪獣宇宙MONSTER SPACE』

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「松田氏家蔵古文書」所収畠山稙長感状の年次比定について

 近日、『大阪の歴史』96号にて「【史料紹介】宮内庁書陵部所蔵『久留米諸家古文書』所収「松田氏家蔵古文書」」が掲載された。詳しくは同論文に譲るが、この「松田氏家蔵古文書」は細川氏綱十河一存に仕えた松田守興およびその子孫の受給文書が中心で、守興の正体や子孫の動向について大きく解像度が上がるものとなっている。一方で、同文書はようやく紹介されたばかりで、これらをどう評価・活用していくかは今後の諸氏の研究が期待される部分だ。実際、史料紹介でも文書の年次比定は幅を持たせており、今後の研究による年次比定によって、各勢力の評価も変わってくる。
 そうした一通の文書として、以下の畠山稙長感状が挙げられる。

  • 畠山稙長感状写

去月廿日稲田口合戦之時、心懸之段、尤祝着候、弥馳走肝要候、猶丹下可申候、恐々謹言、
   十一月五日   稙長(花押影)
    松田孫三郎殿

 畠山稙長が松田孫三郎に対し、10月20日の稲田口合戦における「心懸」を賞し、さらなる馳走を求めた感状である。稲田口は現大阪府東大阪市の稲田に比定できる。受給者である松田孫三郎は「松田氏家蔵古文書」に収められた以下の史料から素性が判明する。

去廿日於顕本寺被疵戦功無比類候、弥忠節肝要候也、
   七月三日  (花押影)
      松田孫三郎とのへ

 署名が記されていないが、花押の形状は堺公方足利義維と一致する。また、6月20日顕本寺における戦闘を賞しているので年次が享禄5年(1532)に確定できる。受給者の松田孫三郎は堺公方奉行人に松田孫三郎光致がいることから、同人と見られる。よって、稙長感状の受給者である松田孫三郎は堺公方崩壊後に稙長に従う松田光致と見て間違いない。

 というところで、稙長感状に戻ると、これは堺公方の残党と稙長が同陣営となっていることを示す史料と言える。よって、この感状の年次比定は重要な意味を持つ。どのタイミングで光致が稙長と同陣営となったのか、その時の光致の位置付けはどのようなものだったのか、年次比定によって評価がガラリと変わるのだ。
 そこで史料紹介を見ると、年次は天文3年(1534)か11年(1542)とする。偉く幅があるが、紹介者の意図を再現すると、天文3年には以下の史料がある。

  • 『私心記』天文3年10月11日条

河内丹下備後森河内へ陣取候、早々也、見物スル也、

 丹下盛賢が10月11日に森河内へ陣取を行っている。また、19日から付近で合戦に及んでいることも確認できる。森河内と稲田は隣接しており、月日から見ても感状に記された条件と非常に合致する。
 一方で、天文11年は追放されていた畠山稙長が木沢長政の乱に乗じて復帰した年である。復帰した稙長は精力的に軍事活動を展開するが、木沢残党は飯盛城に籠城を続け、稙長は和泉にも出陣するなど南方では広く戦闘が続く。こうした中で稲田で戦闘が起きていても不思議ではない。というところで、紹介者は天文11年の可能性を排除しきれず、天文3年か11年という微妙な書きぶりになってしまったのであろう。ちなみに稙長感状には副状もあるが、署名が難読で誰なのかはわからない(丹下盛賢ではない)。丹下盛賢は一時期出家していたので「備後守」か「備後入道」かで時期を特定できたかもしれないが、稙長感状では「丹下」としか書かれないのでこの方法も使えない。よって、これ以上の深入りは新たな史料や解釈がない限り無理だろう。
 ただし、活字にならないものとして可能性の提示くらいはしておきたい。まず、足利義維御内書から考えたい。周知のように義維御内書は残りが悪く、これまで3通しか発見されていなかった(今回のもので4通目)。これは義維御内書の発給が制限されていたと評価されることもあるが、そもそも義晴と異なり後世に残しておこうという意図が働かなかったことが大きいと思われる。実際、光致は堺公方奉行人として働き、その中で権益を得ていた(「壬生家文書」に光致に松田英致の遺跡を与える堺公方奉行人奉書がある)が、現存の「松田氏家蔵古文書」に堺公方から利権を付与された文書は皆無である。ということは、義維御内書は堺公方派の経歴とは無関係に残された可能性が高い。
 それではなぜ義維御内書がわざわざ残されたのか。ここでは内容面に注目したい。義維御内書において賞されているのは6月20日顕本寺での戦闘、すなわち一向一揆に追い詰められた三好元長らが顕本寺へ逃げ込みそのまま戦死した戦いなのである。この戦いで活躍したという証明になる文書を保持していることは、光致およびその子孫が十河一存、三好義継に仕える上で大きな効果を発揮したに違いない。特に一存は三好兄弟の末弟でありその被官にも三好家からの出向が見えないので、兄たちと異なり、父元長の記憶は少なかったはずだ。そうした中で光致が語る元長や顕本寺合戦の記憶は一存にとって実父のゆかりを大きく感じられたのは想像に難くない。ここまで行くと流石に妄想レベルだが、義維御内書の内容が三好家に自身を売り込むにあたり有利に作用したと見るのは外れてはいないだろう*1
 なぜ長々と義維御内書について語ったかと言えば、「松田氏家蔵古文書」では上記の足利義維御内書、畠山稙長感状、某副状が上包によって一括されていた形跡があるからだ。もちろんこれがいつ一括されたものなのか、特定の意図によるものなのかは不明である*2。しかし、仮に松田光致によってなされた意味のある一括であったならば、稙長感状にも義維御内書と同じ意図が含まれている可能性がある。すなわち、三好家へ売り込むに値する記憶が稙長感状にも備わっている可能性である。
 ここで天文3年の稙長の軍事行動について見ると、これは稙長の独自行動ではなく天文の一向一揆(享禄・天文の乱)の中の戦乱である。すなわち、晴元方と本願寺の戦いに、後者には高国残党の頭目である細川晴国が結ぶことで両細川の乱延長戦の様相を呈していた。稙長は晴国の同盟者兼支援者で、大きく見れば本願寺方となる。また、この頃細川晴元は将軍足利義晴と結び義晴―晴元体制を成立させようとする。これに反発する三好元長残党である三好連盛・長逸も一時的ではあるが本願寺へ与することになる。つまり、天文3年段階では大きく見れば畠山稙長と三好元長残党の共闘体制が成立していたのである。
 これを踏まえて、稙長感状を天文3年に比定すれば、10月の軍事行動は「三好氏との共闘」という点で享禄5年の顕本寺合戦と共通することになる。この解釈は天文11年に比定すると難しいので、個人的には年次比定は天文3年に軍配を挙げたい。しかし、真正な文書でも由緒によって偽の伝承が生まれるのが世の常で、光致がここまで踏まえて天文11年の文書を天文3年に偽装し「いやーこの時も三好長逸さんたちと共闘していたんですよ~」と講釈を垂れた可能性も…などと考え込んでいけばやっぱり関係史料がもう少しないことには確定できないのだった。両論併記となった史料紹介からそうしたジレンマを再現してみた次第である。

*1:ちなみに三好義継は切腹の際に「代々如此候と申候か」とする。義継の周囲には元長の切腹の様子を知っている人物がいたのであろう

*2:現物が残っていればなあ~