志末与志著『怪獣宇宙MONSTER SPACE』

怪獣monsterのコンテンツを中心に興味の赴くままに色々と綴っていくブログです。

松山重治―境界の調停と軍事

 松山重治とは一体何者なのか?松山重治なんて初めて聞いたという人にも、三好氏を齧っていて名前を知っている人にとってもこの問題は深淵なものを孕む。三好氏家臣の中での出世頭と言えば松永久秀である。近年では三好長慶の家臣団編成の特異性が指摘されており、松山重治という男が長慶に取り立てられていたということもそれなりに知られてきた。しかし、現状では出自不明から取り立てられた、ということが重治のイメージの全てと言っても過言ではないほど、重治の実態を知らずに「松山重治」という名前のみ漂っているのではないだろうか。それでは、松山重治とはどのような人間であったのか、この記事が新しいイメージを喚起する一助になれば幸いである。
 なお、松山重治にフォーカスした論は、管見の限り織田信長高野山攻めに関するものの中で断片的に触れられるに過ぎず、依るべきものは少ない。よって、この記事には不確定なものが多く含まれている。よく気を付けて読まれたい。

※本記事は松山重治および松山一族に関する情報を募集しています。また事実の誤謬などありましたら遠慮なくご指摘くださいますようお願いします。

謎の松山一族・人名比定

 さて、この記事では松山重治について語って行くわけだが、そうなると避けては通れない道がある。松山重治の活動時期と松山名字を共通させる三好家臣と重治の関係性の問題である。例えば、一部では「松山安芸守重治」と言うように、三好氏の内紛の中で活動した松山安芸守と松山重治を同一視する見解もある。これは妥当なのだろうか。
 まずは、一次史料ということで『戦国遺文 三好氏編』によって、松山重治とその一族に関する呼称を採り出してみることにしよう。以下がその表である。なお、年代比定は基本的に『戦国遺文 三好氏編』の比定に依拠し、出来る限り年代順に並べている。

『戦三』番号 文書名 年次 呼称(比定)
三三四 藤田忠正書状 (天文21年カ)3月12日 松新
三三五 藤田忠正書状 (天文21年カ)4月13日 松新
三三六 清水寺寺中書状案 ナシ 山新介殿
四七七 三好長逸奉書 弘治3年8月7日 山新
四七九 藤岡直綱書状 (弘治3年)8月22日 山新
五一一 藤岡直綱書状 (永禄元年)5月7日 松山
五一四 三好長慶書状 (永禄元年)5月10日 山新介、松山与兵衛殿
五一六 藤田幸綱書状 (永禄元年)6月13日 松山
五一七 藤田忠正書状 (永禄元年)月13日 松山
五二三 松山重治書状 (永禄元年)閏6月10日 重治(花押1)
五二四 松山重治書状 (永禄元年)閏6月15日 松新重治(花押1)
五三一 藤田忠正書状 (永禄元年)7月5日 松新
五三五 藤田忠正書状 (永禄元年)8月28日 松新
六八一 松山重治・斎藤基速連署 (永禄3年)10月22日 松新重治(花押)
参考80 大館晴光書状案 (永禄5年)5月26日 松山
二一二四 松山重治書状 (永禄5年)10月16日 重治(花押)
八六二 松永久秀書状 (永禄5年)10月28日 松山
八六九 松永久秀書状 (永禄6年)1月29日 松山
参考84 竹田尚清書状 (永禄6年)4月12日 松新殿
九二三 興福寺目代連署書状案 永禄6年9月16日 松山
二〇八〇 松山重治書状 (年未詳)2月7日 山新介重治(花押1)
二〇八一 山新介書状案 (年未詳)7月11日 重治(花押1)
二〇八二 松山重治書状案 (年未詳)12月6日 重治(花押1)
二〇八七 松山守勝書状 (年未詳)1月19日 同名新介、守勝(花押)
二〇八八 水尾貞隆・松山守勝連署 (年未詳)3月25日 松新、守勝
二〇九〇 水尾貞隆・松山守勝連署 (年未詳)9月18日 重治、松山与兵衛尉守勝(花押)
九四〇 松山重治書状案 (永禄6年)11月23日 松新入宗治
九四五 松山重治書状案 (永禄6年)12月12日 松謙斎新入
二〇八九 松山守勝書状 (年未詳)3月30日 新入、松山与兵衛尉守勝(花押)
一二一八 喜多定行等連署 永禄8年12月15日 松山広勝(カ)(花押)
二〇九一 松山守勝書状 (年未詳)10月2日 松山与兵衛尉守勝(花押)
二〇九二 水尾貞隆書状 (年未詳)9月15日 重治、松与兵衛、松新
二一三四 松山彦十郎書状写 (永禄9年カ)10月18日 松山彦十郎重
一三一二 三好宗渭・同長逸連署 (永禄9年)12月7日 松安
一五二四 三好為三書状 (元亀元年)10月13日 松山
一五八二 松永久秀書状写 (元亀2年カ*1)2月4日 山新介殿
参考141 金剛峯寺惣分一臈坊書状 天正10年)2月4日 松新
二〇八三 松山重治書状 (年未詳)6月21日 新入斎、松山新介重(花押2)
二〇八四 松山重治書状 (年未詳)6月21日 新入斎、松山新介重(花押2)
二〇八五 松山重治書状 (年未詳)6月30日 山新介重(花押3)
二〇八六 松山重治書状 (年未詳)11月8日 山新介重(花押3)
一六七五 石成友通書状 (年未詳)12月25日 松村(山カ)新介
一八一二 松永久秀書状写 (年未詳)12月21日 松新

 こうして見ると、松山重治の文書から見る活動は永禄7年(1564)頃から天正10年(1582)に「松新」(松山新介)が突如再登場するまで空白期間があることがわかる。また、松山守勝が重治を「同名新介」と呼ぶことから、重治と守勝は親族であろう。松山安芸守と松山彦十郎も各1点ながら、存在を示す文書があり、実在性が確かめられる。特に彦十郎は「重」を名乗っているため、重治と近しい関係性にある可能性が高い。
 さらに安芸守と彦十郎は重治の具体的な活動が見えなくなる永禄8年(1565)以降から入れ替わるように活動を開始する。これをどう見るべきなのだろうか。内容としては若干フライング気味だが、『細川両家記』によって安芸守と彦十郎の活動を見よう。『両家記』によれば、永禄9年(1566)年初、松山彦十郎は松永久秀に従って芥川山城を奪った。三好三人衆はこれに対処すべく、起請文を出した上で彦十郎に尼崎を与えるとした。彦十郎はこれを受けて、三人衆方に寝返ったが、その後伊丹氏の婿になり再び松永久秀に従った。この有様に世間の人々は「言語道断、若気の至」と嘆息したという。一方、松山安芸守と中村新兵衛は三人衆方に起請文を提出して従属した。
 官途だけを見ると受領名を名乗る安芸守の方が高位に思えてしまうが、安芸守は三人衆に起請文を提出するのに対して、彦十郎は芥川山城を占領している前提があるとは言え、三人衆から起請文を提出される側であることに留意したい。三人衆は彦十郎に大阪湾の港湾商業都市である尼崎を宛がうとして釣り、松永方は彦十郎を伊丹氏の婿にするとして釣っており、両陣営ともに彦十郎を自らの陣営とすべく、活発に勧誘していたのである。その結果として彦十郎の動静が定まらなかったことは「若気の至」として非難されている。
 こうしたことから考えると、松山重治は法名を名乗り出す永禄6年(1563)末頃には引退の意向を持っており、彦十郎は若年の後継者であったと考えられる。
 それでは松山安芸守とは一体誰なのか。安芸守は大身ではないとは言え、一軍の将でそれまで無名であったとも考えにくい。ここで注目されるのは『多聞院日記』が他の記録類では松山安芸守を指す人物を「松山与兵衛」と呼んでいることである。「松山与兵衛」とは松山守勝に他ならない。単なる誤記かもしれないが、与兵衛尉を名乗る松山守勝も永禄8年(1565)頃から姿を消すことから、安芸守は守勝の後身であり、そのために誤って改名前の「与兵衛」と記した可能性は高い。よって、本記事では松山安芸守=松山守勝として記述を進める。
 また、『戦三』二〇八三~二〇八七文書は「聚光院殿」という表現などから、永禄9年(1566)以降の発給である。ただ、重治の法名である「新入斎」と俗名である「松山新介重」という署名が並列されるのには違和感も残る。花押も異なるこの「松山新介重」とは元亀年間以降の重治の新しい後継者ではなかろうか(彦十郎の改名である可能性もある)。想像が強い仮定ではあるが、この「松山新介重」を松山新介として重治の後継者として記すことにする。
 長々と書いたが、ここでようやく広勝以外の松山一族のプロフィールをまとめよう。
 松山重治は仮名「新介」であり、官途名は名乗ったことがない。永禄6年(1563)11月を初見として法名「新入斎宗治」あるいは「松謙斎宗治」を称しており、この直前に出家したのだろう。通時的に言えば、永禄7年(1564)以降は「松山宗治」と書くべきだが、本記事では松山重治に表記を統一する。
 松山守勝は官途名「与兵衛尉」を称し、永禄9年(1566)頃より受領名「安芸守」を称したようだ。ただし、重治に従属していたわけでもないようで、『戦三』五一四でも三好長慶によって重治の旗下に加わるよう命じられている諸将に名前が入っている。三好氏の内紛においても守勝は他の松山氏(彦十郎・広勝)の動向とは基本的に無関係に動いており、独立性を有していた。
 彦十郎は先述の通り、重治の後継者であり、息子であろう。幼名は「慶千代」である可能性がある。『言継卿記』では「松永彦十郎」という呼称もあり、単なる誤記かもしれないが、事実とすれば松永一族出身であるか、あるいは野間長久の子・左馬進や多羅尾綱知の子・久三郎が松永名字を称しているように、久秀から松永名字を与えられていたのかもしれない。なお、『細川両家記』では野田・福島の戦いの三人衆方の武将を記す際に彦十郎に続けて「同舎弟伊沢」を記している。「伊沢」が名前なのか、阿波国人伊沢氏なのか、「伊丹沢○」といった名前の略かはよくわからない。単なる誤記であろうか。

松山重治の登場

 松山重治の出自は不明である。『和泉名所図絵』では堺出身、『紀伊風土記』では備中国松山出身とするが、どちらも信の置ける情報とは言えない。ただし、堺には様々な縁があったことが推測され、あるいは本当に故郷であったかもしれない。細川氏・三好氏・畠山氏の三好政権以前の家臣や幕府奉公衆にも重治の出身母体と見られる松山氏は確認できず、松山氏は重治の代に急速に成長した氏族であることは間違いない。太閤記』によれば、当初は本願寺の番士であったという。以下、『太閤記』に依拠するが、重治は「小鞁・尺八・早歌」に通じていたため、堺で武士の慰問を行なっていた。こうしたところを見ると、芸能者としての側面を有していたのかもしれない。「堺の名物男」と称される由縁だが、『堺鑑』にはこのような表現は見えない。
 なお、小野恭靖氏は堺の文化に人脈を有した重治の「早歌」が、堺の町人高三隆達による戦国時代の流行歌謡・隆達節のルーツとなっていったのではないかとする。
 重治は35、6歳の頃に三好氏に仕えはじめ、摂津有馬の南の「山田崩れ」という戦いで首を取って称賛されたとする。山田は摂津国の地名に実在する(現代でも山田川が流れる)が、実際のどの戦いを指すのかは不明である。ただ、登場時期を考えると細川氏綱の乱の渦中ではないだろうか。『太閤記』による年齢を信用するなら、重治の生年は永正4年(1507)~永正9年(1512)頃となる。松永久秀三好政長、三好長逸などと同世代ということになるだろう。
 重治の存在が記録上に最初に確認されるのは『天王寺屋茶会記』である。天文20年(1551)11月21日、津田宗達の茶会に松山新介、「岩成力介」(石成友通)、中西宗如、宗好が出席している。この時点で重治はすでに三好長慶の一部将に数えられ、茶会に出席できる教養、堺商人との人脈も備えていたことがわかる。
 重治と茶の湯に関しては松永貞徳が著者ともされる『寒川入道筆記』にも逸話がある。

一、天下にかくれなき初花の茶入立売。大文字屋栄甫所持。是を三好方にて出頭の松山殿へ申て。権柄にてさかひ衆拝見する時に。其路地口に。
  物しらぬ人のしわさよ初花にまつ山風をふかせ来ぬるは

 大文字屋所蔵の初花肩衝が三好氏の出世頭「松山殿」に差し出されたという。この話は笑い話であり、末尾の狂歌のように松山氏に対してネガティブなイメージがある。それでも松山氏が三好政権で台頭し、松山氏も茶の湯に造詣があったこと、その権勢が初花肩衝を入手できるほどだったという認識が前提になっていることは興味深い。
 また、『四座役者目録』には次のような似た話がある。

一、黄連ノ筒ハ、三好殿内松山新入ト云侍、京新在家ニ、池上ト云町人持居タルヲ、相国寺ニテ嗣堂銭ヲ借リ、右ノ筒価、鳥目百貫ニ買イ出サルヽ也。

 こうした話も松山重治に芸能の造詣があり、「成金」という認識が基礎となっているものである。
 それではこの頃の重治は何をしていたのだろうか。ヒントになるのが、『戦三』三三四~三三六である。この一連の文書は重治の家臣・藤田忠正と播磨国清水寺との交渉の過程を示している。反三好の丹波国人・大野原氏が追討されたため、松山重治は清水寺大野原氏が預けていた財物と、清水寺が匿った大野原氏に与した摂津国有馬郡の牢人を要求したのである。清水寺大野原氏の財物や牢人を寺中に隠していないことを松永久秀と松山重治相手に誓約しており、重治の要求を受け入れたのだろう。清水寺は後に有馬郡の牢人が寺域周辺に出没しているとして、忠正に治安維持を求めている。忠正は重治の家臣であるので、実質的には重治を軍事力として恃んでいることになるだろう。
 ここからは重治が摂津国有馬郡に何らかの権利を有しており、ここを基盤として丹波の反三好国人を追討したり、その処理を巡って播磨の寺院と連絡していたことが読み取れる。有馬郡は丹波にも播磨にも通じている「境目」であった。「境目」は国境であるために軍事的緊張が高い地域でもある。三好長慶は「境目」である有馬郡に重治を配置することで、有馬郡の治安維持と機を見た丹波・播磨への軍事干渉を行なわせていたと考えられる。また、有馬郡は重治が最初に戦功を挙げたとされる山田に隣接する地域でもあるから、直接的な恩賞であったのかもしれない。
 松永久秀との連携が見られることも特筆される。天文22年(1551)以降、松永久秀三好長慶より摂津国下郡の「一職支配権」を委ねられた。有馬郡を含む下郡は一個の行政単位として、久秀にその権利が与えられたのである。重治も久秀の与力となったと見られる。久秀は与力になったであろう越水衆の野間長久や池田教正などと縁戚関係を結び、関係を強化したが、松山氏からは松山広勝が久秀の私城である滝山城を管理する滝山衆となっている。与力関係を通して、それ以上に松永氏と松山氏も提携を深めたのである。
 なお、重治の確認できる最古の事績が、大寺院に敗者の財産と牢人の引き渡しを要求し、それを実現させたことであることは、意識の片隅に留めておいてもらって損はない。

軍事に活躍する松山重治

 天文22年(1551)三好方の内藤国貞が戦死する大敗があった時に「松山」の戦死の噂も流れていた(『言継卿記』)。ここから、重治も丹波攻めに従軍していたことがわかる。重治は「境目」である有馬郡に勢力を持ちつつ、丹波攻めや播磨攻めに動員されていたと考えられる。天文22年(1551)12月24日の本願寺の三好方への音信では松永久秀、塩田氏に加えて「松山」に梅染三端が贈られており(『天文日記』)、三好家臣として一定の認知があった。
 しかし、重治がその名を天下に知らしめるのは永禄元年(1558)の足利義輝との戦争においてである。永禄元年(1558)京都への復帰を目指す将軍足利義輝六角義賢細川晴元の援助を頼んで挙兵した。5月には京都防衛のため三好軍が続々入京したが、長慶はある決断を下した。西岡国人を中心とする武士たちを松山重治の旗下としたのである(『戦三』五一四)。重治の軍勢は石成友通・寺町左衛門大夫とともに2000の軍団を形成した(『言継卿記』)。6月9日には白川口の戦いが起こった(『言継卿記』)が、この戦いで松山勢は首級を53あげ、三好軍の勝利に貢献した(『戦三』五一六・五一七「一番合戦ニ無比類働」)。この勝利は喧伝されたようで、藤田忠正は6月13日付で戦果と「奥之儀」が依藤氏によって解決されていることに満足していることを播磨清水寺に報じている。「奥之儀」については未詳だが、依藤氏は播磨国賀東郡に基盤を持つ有力国人で、何らかの調略を行ない、それが上手く行っていたのだろう。清水寺はこの後、重治に祈祷の巻数を贈っており(『戦三』五二三)、重治を支援する態度を明確化している。長慶による編成と重治による戦功は効果を挙げていたのだ。
 もっとも、6月9日の戦は松山方にも30人ほどの戦死者が出たらしい(『長享年後畿内兵乱記』)。重治は閏6月5日・6日にも河原に出張してきた義輝方を撃退した。この時、林源八が小牧氏を、土山氏が栗生新介という幕府方の勇士を討ち取る手柄を挙げている。林源八は重治の部下であったようだが、土山氏は重治の部下(『長享年後畿内兵乱記』)か、寺町氏の部下(『細川両家記』)か一致しない(土山は摂津国下郡に地名があるので、重治に編成された可能性もある)。
 最終的に三好長慶足利義輝は和睦に至るが、畠山氏が三好氏に援軍を出さず、四国勢の到着が遅れる中畿内の三好勢力のみで幕府軍を退けた意義は小さくない。6月9日の戦いに敗れた幕府軍は以後河原に小勢を繰り出すだけとなり、まともな合戦は出来なかった。足利義輝や六角承禎は自身の不利を悟り、和睦を求めたのである。
 そして、三好氏が将軍足利義輝を迎え、推戴するようになったことは新たな効果を生んだ。反三好勢力には奉戴する名目がなくなったのであり、精神的打撃となった。抵抗を続けていた三好政生(後の宗渭)は長慶に帰順し、波多野氏の有力一族である波多野秀親も内藤宗勝に属した。有馬郡周辺の軍事的緊張は低下し、重治を転戦させることが可能となったのだ。
 永禄2年(1559)以降三好長慶は畠山氏の家中対立に介入して、河内・大和を領国化していくことになる。河内へは三好実休、大和へは松永久秀を派遣し、両国を征服したのである。本願寺は永禄3年(1560)1月18日河内国十七箇所に在陣中の重治に音信を遣わしている(『私心記』)。本願寺は永禄3年(1560)1月14日、7月7日、永禄4年(1561)1月8日、10月21日にも贈り物をしており、この扱いは松永久秀に次ぐものだった。本願寺は重治を重視しており、こうしたことを見ると本願寺の番士であったという経歴(『太閤記』)もあり得るのかもしれない。
 また、こうした扱いから松山重治は松永久秀の被官に再編されたのではなく、あくまで三好長慶の直臣で久秀への与力として大和侵攻に加わっていたこともわかる。久秀の大和征服・統治は成功し、この過程で重治は大和にも所領を獲得していた(『二条宴乗記』)。重治はこの後も久秀に従い、戦功を重ねた。永禄4年(1561)の六角氏との京都攻防戦では、松永久秀に属した中西権兵衛が六角氏の重臣・永原重澄を討ち取っている。教興寺の戦いでは石成友通、寺町氏、吉成信長とともに活躍し(『大館記』)、小泉山城を攻めた際に数人を討ち取り(『戦三』八六二)、多武峰との戦いでは半竹軒、池田猪介とともに首を52、3挙げた(『戦三』八六九)。これらはいずれも幕府、三好政権の首脳部に報告された戦功であった。
 松山重治はまさに三好氏の軍事力の中核であり、その覇権に最大限貢献していたのである。

※唐突な松山重治マップ
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松山重治に従った勇士たち

 松山重治の家臣についての情報は多くない。重治本人にまつわる文書から直臣であることが確かめられるのは、藤田忠正と梶村某(与左衛門尉?)のみである。

  • 藤田忠正

 松山重治の家臣としては、最も発給文書が多い。というか摂津時代はほぼ忠正が副状を出している。藤田氏は播磨国美嚢郡の国人である。吉川荘に起源を持ち、毘沙門城(現兵庫県三木市)主を務めた一族であった。重治が摂津国有馬郡を基盤とし、丹波・播磨との関係を構築する中、被官となったのだろう。忠正の官途名は「久兵衛尉」である。
 一族には受領名「河内守」を名乗る藤田幸綱がおり、忠正は幸綱の副状も発給している。ただし、幸綱は永禄元年(1558)の戦いを「公方様」と「三好方」の戦いとして客観視するような表現をしており、三好方に属する存在ではなかったようである。官途から見る限り、幸綱が藤田氏の嫡流で、忠正は庶流であると考えられる。なお、幸綱本人かその後継者と見られる「藤田河内守」は羽柴秀吉による三木城攻めの際、別所氏に与したため、秀吉によって滅ぼされた。

  • 梶村与左衛門尉(カ)

 弘治3年(1557)8月「松山新介被官梶村」が東寺と何かの問題を起こしたらしく、相論となっていることがわかる(『戦三』四七七)。松山守勝の被官として名前が見える梶村与左衛門尉のことかもしれない。三好氏の勢力圏近郊における梶村地名は河内国に存在するため(現大阪府守山市)、与左衛門尉の出身地に比定される。

 また、斎藤利三も松山重治に仕えたとされる。

 明智光秀重臣として有名な斎藤利三その人である。『寛永諸家系図伝』によれば、「はじめ三好修理大夫にしたがひ、其先手松山新助に属し、京都白河の軍事をつとむ。三好これを褒美す」とある。利三が三好氏の旗下となったことは一次的な史料からは確かめることが出来ないが、わざわざ架空の経歴を創出する意味も薄いので事実と認めても良いだろう。同書では、利三が斎藤義竜の部下として道三と戦った時軍功を挙げたことを記すので、三好氏(松山重治)に仕えたとしても、天文末年~弘治初めまでの短い時期と思われる。ただし、永禄11年(1568)稲葉一鉄三好長逸に槍を贈った際に利三は長逸への使者となっており、三好氏に一時期仕官していた経歴が重視された可能性はある。

 さらに『太閤記』では松山重治の家臣として以下の人名を挙げる。

  • 郡兵大夫

 摂津国郡村(現大阪府茨木市)出身と思われ、同地の郡山城主である。三好家臣としては、永禄10年(1567)法隆寺領弓削庄の代官となっているころが確かめられる(石成友通に属していたようだ)。摂津出身の兵大夫が同地の代官となっているのは、三好氏による大和・河内領有の成果と想像できる。三好三人衆畿内から退散すると、新たに摂津の領主となった和田惟政重臣に迎えられ、軍奉行を務めた。元亀2年(1571)白井河原の戦いにおいて、惟政とともに討死したが、姉妹が伊丹氏に嫁いでおり、その子である甥の郡主馬(宗保)は荒木村重豊臣秀吉、秀頼に仕え、大坂の陣では豊臣方となって戦死した。

※郡一族については中西裕樹「郡主馬に関するノート」がPDF公開されている
http://www.city.takatsuki.osaka.jp/ikkrwebBrowse/material/files/group/104/ck_shiroato-dayori-13.pdf

  • 林又兵衛

 『太閤記』は「鑓林」としてさも有名人であるかのように記しているが、伝未詳。『細川両家記』によれば、永禄元年(1558)閏6月5日足利義輝方の「槌小牧」を「松山方内林源八」が討ち取り、名を挙げて知行も賜ったという。源八と又兵衛の関係は不明。林氏も一般的な名字であるため特定は難しい。松永久秀の家臣として林通勝がいる。

  • 中村新兵衛

 菊池寛『形』の主人公としても有名な武士。新兵衛の実名は「高次」あるいは「高続」ともされるが、同時代に三好家臣として存在した中村高続は受領名「美濃守」と官途名「左衛門尉」を名乗っている。中村高続は三好長慶の「上使」となって、相論の実検を担当したが、不正があったものか、長慶の勘気を買い、永禄初年頃からは松永久秀の家臣に転じている。新兵衛とこの中村高続は官途名から見て別人である可能性が高いが、経歴から見て近しい関係にはあるだろう。あるいは、中村新兵衛の「新」は重治の新介から賜ったものかもしれない。
 『細川両家記』によると、永禄9年(1566)2月17日の三好三人衆松永久秀との戦いで、中村新兵衛の手の者が17つ首を取っていることが記されている。新兵衛は松山安芸守(守勝)とともに三人衆方に起請文を提出し、三人衆に属して一軍の指揮官になっていたようだ。永禄10年(1567)10月10日の東大寺の戦いで戦死した。新兵衛の死はニュースになったようで、『言継卿記』・『多聞院日記』において、東大寺の戦いで「鑓中村」が討死していることを載せている。同時代から著名な戦士であることが確かめられよう。
 『甫庵信長記』では新兵衛について「かくれなきゆうしにて、みよしが一たう四国より打てのほり、京都畿内のたゝかひに、毎度くわいでんのはたらき、くはをもつて多くにかち、ばん死一生をいつる事おほかりければ、やり中村とぞ申しける」とし、東大寺の戦いの際に、三好三人衆側の大将の一人で戦死したと伝えているが、概ね正しい情報と言えるだろう。

  • 三田弥九郎・九郎三郎兄弟

 摂津国三田(現兵庫県三田市)出身か。伝未詳。

  • 中西権兵衛

 中西名字もどこにでもいるので、出自の特定は難しいが、播磨国中西(現兵庫県加古川市)か山城国中西であろう。永禄元年(1558)松山重治に編成された国人である中西備後守と同一人物あるいは一族か。『舟岡山軍記』によると、権兵衛は「隠レナキ大力」であり、永禄4年(1561)六角氏の家臣・永原重澄(永原安芸守)を討ち取る軍功を挙げている。その後の動静はしばらく不明だが、織田信長馬廻に転じたようで、天正7年(1579)森乱丸とともに摂津の有力国人塩川長満への使者となり、天正8年(1580)には安土城下に屋敷を拝領している。

  • 成合又大夫

 摂津国成合(現大阪府高槻市)出身か。又大夫については伝未詳であるが、後に中村一氏の家臣に見える勇士として名を馳せた成合平左衛門は後身か同族と考えられる。

 摂津国神谷(現兵庫県神戸市)出身か。伝未詳。

 山城国井内村出身か。伝未詳。『太閤記』では「いのなか・かいるのすけ」と読む「井中蛙助」とするが、永禄元年(1558)松山重治に編成された国人に「井内蜻介」が見られる。「蜻」は単体では特定のコオロギやセミを意味するが、単体で訓じるには不向きでおそらく「蛙」の誤記と考えられ、この人物の名前は「井内蛙介」とするのが正しい。地名「井内」は「いのうち」と読み、近世初期においても「井の内の蛙」と「井の中の蛙」は表現として混在するために『太閤記』は名字を誤ったのであろう。井内村は西岡に属しており、応仁の乱の際に東軍が井内館を焼き討ちするなど、在地武士が存在したことは確実である。蛙介もその一族であろう。それにしても「いのうち・かえるのすけ」なんて尼子十勇士でもこんな酷い名前は…。

 山城国市田(現京都府久御山町)出身か。鹿目は「かなめ」と読む。『信長公記』によると、本圀寺の変の際に三好三人衆に従って戦死している。

  • 小河新右衛門尉

 『信長公記』によると、本圀寺の変の際に三好三人衆に従って戦死している。三好長慶細川晴元への謀反に与同しつつも、その後長慶に反抗して没落した摂津国人に小川式部丞がいるが、新右衛門尉もその小川一族かもしれない。

  • 林源太郎

 『信長公記』によると、本圀寺の変の際に三好三人衆に従って戦死している。「林又兵衛」の項目で触れた林源八と名前が近いが、あるいは同一人物か親族であろうか。

  • 桑原久井之助

 『新日本古典文学大系』の注釈では中村一氏の家臣・桑原大和守との関係を記すが、『武辺咄聞書』による限り桑原大和守は寺田氏、松浦氏と同類の和泉の国人のようである。おそらく、大和守の出身地は和泉国桑原(現大阪府和泉市)であろう。摂津国における桑原という地名は現大阪府茨木市と現兵庫県三田市にも存在する。久井之助の出身地はこのどちらかであろう。なお、三田の桑原には室町期、桑原城があり、城主を務めた桑原氏が存在したが、荒木村重の謀反に伴い没落した。

 『太閤記』の上記家臣団リストの中で、実際に重治の旗下への編成が確かめられるのは井内蛙介のみである。ただし、郡兵大夫、中村新兵衛、中西権兵衛、市田鹿目介、小河新右衛門尉、林源太郎は実際に三好氏の軍団に属していたことが他の史料からも確認できる。さらに郡兵大夫、中村新兵衛、中西権兵衛の3人は状況証拠から重治に編成されていた可能性も高い。また、三田兄弟や桑原久井之助は重治に縁深い摂津国有馬郡周辺の武士と見られる。こうしたことから、太閤記』による情報もまんざらデタラメというわけでもなさそうである。もちろん全てが信じられるわけでもないだろうが、本記事では基本的に信用することにする。
 上記以外にも、三好長慶の命により、永禄元年(1558)の足利義輝細川晴元との戦いで、中沢猿法、野間又三郎、能勢左近大夫、物集女久勝、中沢継綱、寒川運秀(?、修理亮)、中路光隆、柏原源介、木村杢左衛門尉、中西備後守、井内蛙介(前出)、石原伊豆守、松山守勝、小野孫七郎が重治の編成下に入っている(『戦三』五一四)。
 なお松山守勝は水尾貞隆とともに大和国平群郡の松山氏所領について法隆寺と折衝していたようである。

松山軍団の編成と三好長慶の狙い

 こうした松山軍団の編成の特徴とは何であろうか。
 まず、彼らの出自がその氏族の中で傍流なのではないかという点がある。それを示すのが官途である。官途名は基本的に受領名の方が格が高く、藤田忠正、中村新兵衛、中西権兵衛などは受領名を帯びた一族が確認される。そもそも重治自体が一貫して仮名「新介」を帯びており、松山守勝(与兵衛尉・安芸守)より官途から見れば低位である。彼らは一族の家系の中で重視される位置にはなかったと推察できる。
 次に、それまで登用が目立たなかった名字が散見される点がある。具体的には梶村氏、郡氏、神谷氏、成合氏、井内氏、市田氏などは、管見の限り(これは本当に管見なので普通に史料を見落としている可能性が高いことを留意されたい三好政権以前には名前が特筆される存在として編成され得なかった氏族である。さらに彼らの名字の地はいわゆる「境目」の地名であることが多い。松山重治にはそうした境界の国人を重点的に取り込む役割があったのではないか。
 さらに、『戦三』五一四が示すように重治旗下に編成された者たちの多くは与力であったことが推測できる。一族の傍流や零細国人とは言え、出自も詳らかではない重治の直臣となることには不満があったと想像されよう。しかし、そのような消極的なもの以外の理由もあったのではないだろうか。
 庶流や零細といった属性を持ち、あるいは「境目」を本拠とする武士たちには安定的な基盤がない。彼らが武士という生業を維持して行くためには、武功を立ててのし上がっていくことしかないのである。そして、三好政権は身分秩序を超えた登用をすることが出来た。例えば、松永久秀は出自が詳らかではないところから、三好政権を運営する宿老となり、大和一国の大名となった。久秀の弟・長頼(内藤宗勝)も丹波守護代内藤氏を後見することで、丹波一国の統治権力化した。松永兄弟の立身は、彼らに「夢」を与えたに違いなく、士気も上がったことだろう。
 こうした士気の高く、武芸に優れた人間たちを散在させるのではなく、一軍団として編成するのが三好長慶の狙いであったのではないか。零細国人や庶流国人を編成するのは長慶が嚆矢ではなく、堺公方期に柳本賢治も行っていた。柳本賢治の方法は彼らに柳本名字や「治」字偏諱を与えて、その組織化を図るものであった。柳本賢治の時代は室町幕府の身分秩序・格差がまだ機能していた。そのため身分が低いが有能な人間を取り立てるには、細川京兆家有力内衆である柳本名字を与えることが有効であり、望まれていたと言える。しかし、それは役割が硬直化した体制の中に、他人を埋め込んで行くもので、有能さを生かすための柔軟性を欠いていたと言える。ただ、賢治を貶めるのは外れである。武田信玄重臣真田幸綱の三男・昌幸を登用する際に武田一門の武藤名字を与え、斎藤義竜が一色に名字を改めた際、家臣団にも一色家臣の名字を付与するなど、既存の体制を生かしつつ登用を行う方が「常識的」であったからだ。
 これに対して三好長慶は父元長時代の三好家中の秩序や、細川京兆家における家格秩序からは距離を置いた。長慶は新規に登用した家臣に対し、三好名字や三好家譜代の名字を付与することなく、政権に取り込む道を選んだのである。長慶が積極的・意図的に既存の秩序を無視したのかどうかは定かではないが、新規に取り込んだ庶流国人や零細国人たちを家格秩序によって束縛しなかったことは編成における柔軟性を生んだ*2。武勇に優れ、あるいは士気の高い人間たちを個別に把握して、有能な司令官の下にまとめて配置すれば強力な軍隊を生み出せる。
 その軍団に据えられた有能な司令官が松山重治であった。太閤記』によれば、重治は「一人当千共いはれつべう覚えたる兵共数多抱へ置、腹心之養に愛せし故、相随ふ事恰骨節之相救ふが如し」と評されている。重治の人間的な魅力で雑多かつ有能な武士たちを束ねていたことが想像できる(立場が与力であっても、実質的に直臣となる者もいたのかもしれない)。記録が残っていないだけかもしれないが、松山軍団が荘園の押領を行なった形跡は少なく、境界における大規模紛争も起らなかった。いずれも重治が自身に付けられた軍団を確かに統率し、部下同士の諍いを正しく調停できていたであろうことを思わせる。そして、実際に松山重治の軍団は戦功をあげて行ったのである。長慶の構想に重治は見事応えたと言うべきだろう。

三好政権の内紛と松山一族

 永禄7年(1564)7月三好長慶が亡くなった。長慶の死は秘匿され、重治がいつ頃訃報に接することが出来たのかはわからない。ただし、長慶は自分の死を予測して世代交代を進めようとしていた。自身は飯盛山城に引き籠り、養嗣子三好義継を上洛させた。松永久秀も永禄6年(1563)12月家督を息子久通に譲っているが、これも一代で成り上がった松永氏を三好氏の譜代として定着させるためであろう。永禄6年(1563)11月までに行われた松山重治の出家も恐らくこれに連動するものだろう。
 ここで注目される史料が『戦三』二〇八九である。年未詳ながら3月30日付で松山守勝が慶千代なる人物の元服について、法隆寺徳蔵院・宝光院から「新入」を名乗る重治へ両種弐荷の贈り物があったことを謝している。守勝へも贈り物があったようで、この慶千代は重治の保護下にある松山氏にとって重要な人物であろう。とするならば、この慶千代とは重治の後継者で松山彦十郎にあたる人物ではないだろうか。年次は永禄7年(1564)か永禄8年(1565)と推定できる。重治は代替わりを急ぎ、若年であった慶千代を元服させたのであろう。
 それにしても慶千代とはなかなかな名前である。おそらく主君三好長慶より一字を戴いた幼名なのであろう。重治の長慶への斟酌が知られよう。
 重治は出家と彦十郎の元服で以てすぐに引退したわけではなく、永禄8年(1565)5月19日の三好義継による足利義輝殺害(永禄の変)にも従軍していたようだ。変のターゲットであったのは義輝側室の小侍従であったが、『言継卿記』によれば、小侍従を捕えて処刑したのは重治(「松山新入」)であった。そして、これ以降重治の名前は一定期間見えなくなることになる。フロイスの書簡によれば、小侍従を処刑した兵士は処刑に疑問を抱いており、重治も将軍弑逆にショックを受けたとも考えられる。または、長慶の死を知り、自分の主は長慶のみという思いもあったのかもしれない。重治は元々根無し草であったから、三好政権で得た権益や地位を放棄してしまうことも容易であったに違いない。
 しかし、重治の引退は後継者である彦十郎には重荷としてのしかかることになった。平時であれば、松山軍団の継承もスムーズに行ったかもしれない。だが、永禄8年(1565)11月16日三好長逸らのクーデタによって、三好政権からの松永久秀の排除が決まると、三好氏は内紛状態へ突入した。三好氏は、新たに三好政権執行部として成立した三好三人衆三好長逸三好宗渭、石成友通)と失脚した松永久秀の二派に分裂したのである。松山氏の軍事力がどちらに味方するかは、両派にとって重大な問題であった。
 松山氏は先述したように10年以上松永久秀の与力として働いてきたので、彦十郎も松永派と見られていたようである。そこで三好三人衆は松山軍団の切り崩しを図った。松山守勝中村新兵衛が起請文を提出して三人衆に従った(『細川両家記』)のも、三人衆が彼らを一軍の大将として遇すると約束したからだろう。一方で、滝山衆の松山広勝は松永孫一らと連署して、松永久秀に味方することを明確化していた。彦十郎は当初は三人衆が尼崎を宛がうと約束し起請文を出したのに釣られたが、直後に伊丹氏の婿となって松永方となり、世間から失笑された(『細川両家記』)。しかし、経歴が浅いことを考えれば判断に迷って当然と言えよう。
 彦十郎は苦悩の末に松永方となったが、久秀は永禄9年(1566)6月三好三人衆に敗れ、行方不明となった。これによって、彦十郎も没落して尼崎の大物道場に逃れた。また、松山広勝が籠城していた滝山城も8月17日に篠原長房によって攻略されている。松山守勝と中村新兵衛が独立し、彦十郎と広勝が敗れた松山軍団は守勝や新兵衛の軍団に吸収されるか、離散したと見られる。郡兵大夫や中西権兵衛は別の主君を探していった。
 こうして守勝がかつての重治の所領や利権を継承していったのではないだろうか。『戦三』一三一二によれば、下河内中田庄(現大阪府河南町)を「松安」(松山安芸守)が「存知」しているとする。守勝は官途名を帯びており、重治より本来格上であった。重治に従いつつも内心は穏やかでなかったのかもしれず、ここで受領名「安芸守」を名乗り出すのもそうした嫡流アピールなのかもしれない。彦十郎を排除した守勝は自身こそが松山軍団の新たな担い手を自負していてもおかしくない。守勝の実際の動向は不明な部分が多いが、三人衆の軍事に基本的に従っていたと思われる。
 ただし、一時は壊滅したと思われた松永久秀方は永禄10年(1567)2月三好義継が三人衆から離反し、久秀に味方したことで復権を果たす。三人衆は奈良に出陣し、4月より市街地を舞台とした危険なにらみ合いが続いた。守勝は奈良には出陣せず、三好氏の本城である河内国飯盛山城の守備を任されていたようである。
 ところが、守勝が奈良にいない中新たな事態が起こった。8月16日興福寺に潜伏していた松山彦十郎と松浦孫五郎が三人衆に従ったのである。守勝は激怒し、8月23日飯盛山城にいながら松永久秀方に寝返った(『言継卿記』)。彦十郎が三人衆方となることに守勝に相談がなかったことが理由という(『細川両家記』)。恐らく、守勝は「重治後継者」としては正嫡の彦十郎と同陣営になることで、自らの「重治後継者」としての地位や利権が侵害されると恐れたのだろう。26日には三人衆方の石成友通、中村新兵衛、三好為三が守勝の離反に対処すべく河内へ向かっている(『多聞院日記』)。9月6日には和睦が成立したので、何らかの合意にこぎつけたのだろう(『多聞院日記』)。
 それでは、なぜ三好三人衆はこの局面で松山彦十郎を復権させたのだろうか。正確な理由は不明である。ただ、彦十郎のもので現存する唯一の文書(『戦三』二一三四)が、別所安治宛に軍事連携を確認するものであることを思えば、あるいは別所氏との関係が鍵になったとも思える。永禄2年(1559)別所氏は依藤氏を没落させた。依藤氏は永禄元年(1558)三好氏に属して何らかの調略を行なっていたはずだが、この動きに三好氏が反応した形跡はない。ということは、依藤氏没落は三好氏による暗黙の了解のうちになされ、その際松山氏と別所氏も関係を持ったのではあるまいか。別所氏は三人衆に従って、奈良まで来ていたが、この軍事動員、あるいは在陣の維持において彦十郎のみがなし得る役割があったのかもしれない。
 それはともかく、守勝は結局不満が解消されなかったものか、9月16日には再び三人衆から離反し、飯盛山城を占拠した。今度は松永久秀も家臣の山口氏を飯盛山城に派遣して、守勝を支援すると同時に勝手な動きを掣肘したものと見られる。ついに10月10日奈良の市街地を舞台に三人衆と久秀は激突し、久秀は勝利を収めた(東大寺の戦い)。この過程で東大寺大仏殿が炎上したのは著名だが、中村新兵衛が戦死している(『言継卿記』・『多聞院日記』)。三人衆は奈良から放逐される格好になった一方、飯盛山城攻めは優位に進み、10月21日篠原長房の手によって飯盛山城は落城し、守勝は堺に逃れた(『多聞院日記』)。松山守勝はこれ以降二度と歴史の表舞台に立つことはなかった。
 こうして、松山軍団から分離独立し、その看板を奪いつつあった松山守勝と中村新兵衛はともに姿を消した。結果的に彦十郎は松山軍団の内紛を清算できたと言える。しかし、一度離散・崩壊・再編した松山軍団はかつての威容を取り戻すことはなかったのではないか。彦十郎は三人衆に従っていたと見られるが、特筆される戦功を挙げることもなかった。永禄11年(1568)9月松永久秀と結び、足利義昭を擁立する織田信長の軍勢が畿内に迫ると、三人衆方は阿波に去るか、足利義昭の名の下に帰服することになったのである。
 重治は松山軍団が分裂・離散し、彦十郎や守勝が独自に動く中全く姿を現さなかった。実は永禄8年(1565)に死去していたのではないかとも思えるほどである。実際、重治が確実に生存していたと言える史料もない。だが、後に「松山新介」が再登場を果たすことを思っても、重治が死去していたとは考え辛い。重治は全てを捨てて引退したために、内紛に際しても権力を発揮することが出来ず、あるいは彦十郎が迷ったように、重治もまた三好氏の内紛についていけず、静観するしかなかったのかもしれない。重治は恐らく、堺か久秀に保護されて奈良のどこかにいたのではないだろうか。

三好政権と松山軍団の「再興」と終焉

 足利義昭織田信長の助力で上洛し、室町幕府は再興された。義昭幕府の下、松永久秀は大和守護となり、三好義継は河内半国守護となった。一方、彦十郎は三人衆とともに阿波に退去したようだ。三人衆は永禄12年(1569)本圀寺の変、元亀元年(1570)野田・福島の戦いで義昭幕府に挑戦するが、どちらでも彦十郎の名前が三人衆側に見えている(『信長公記』・『細川両家記』)。彦十郎は三人衆に従って、畿内に復帰することを目指していたのである。一方、『紀伊風土記』には、松山重治の息子が義昭幕府(織田信長)の越前攻めで戦功を立てたことを載せている。この重治の息子は松永久秀に従軍していたのだろうが、仮に事実とすれば、彦十郎ではない「息子」がいたことになる。
 義昭幕府も順風満帆であったわけではない。特に元亀元年(1570)朝倉氏、浅井氏、六角氏、三好三人衆本願寺の包囲網を受けた足利義昭織田信長は各勢力との間に妥協を余儀なくされた。松永久秀の仲介で三好三人衆とも和睦が成立し、三人衆は摂津西部を取り戻すことに成功した。さらにこの和睦交渉は三好義継の居城・若江城で行われた。分裂していた三人衆と松永久秀はこの過程で急速に接近していったと見られる。
 結局、元亀2年(1571)から翌3年(1572)にかけて、三好義継と松永久秀は幕府から離反し、三人衆と結んで、和田惟政、畠山秋高、筒井順慶といった幕府に従う勢力と戦うことになる。この中で三好義継は三人衆を従えることに成功し、三好一族による分国支配(三好本宗家の義継が摂津と河内を押さえ、三好長治が四国を、安宅神太郎(後に神五郎)が淡路を、松浦孫八郎が和泉を統括する)と三好長逸松永久秀が三好本宗家当主(義継)の意を奉じて行政を執行する体制を復活させた。長慶の最盛期の体制に復帰する形で三好政権は再興されたのである。
 こうした中で松山軍団もまた復活したと思しい。『二条宴乗記』によれば、元亀2年(1571)3月22日若江に三人衆が礼に罷ったとして、三好康長、三好長逸、石成友通、加地久勝に並んで「松山」を挙げている。また、『戦三』一五二四において、三好為三は松永久秀と十河氏に加え「松山」が牧・交野に出陣していると述べている。ここでいう「松山」はおそらく彦十郎のことだろうが、一軍の将、三人衆方の要人としての認識が知られよう。
 『戦三』二〇八三~二〇八六が示す、重治を強く意識した「松山新介」も、三好政権の「復古」に合わせて登場したのだろう。二〇八三・二〇八四では新介は「新入斎納所借屋」を法隆寺に申し付けている。重治の処遇について、何らかの要求をしており、この新介は重治の存在を強く意識している。想像だが、この新介は重治が後見していたのではないか。新介が彦十郎の後身であるにせよ、そうではないにせよ、あるいはこの新介は重治が還俗した可能性もあるが、新介の名義を重治に諮らずに使用できるものではあるまい。三好政権は再統一されており、重治が参加する障害もなかった。松山軍団は重治を新「松山新介」の後見として、表舞台に復帰させ、軍団を再興させたと見られる。
 また、『戦三』二〇八五・二〇八六では新介が河内国内において、軍事行動や行政を執行したことを示す。元亀年間の松山軍の行動は同時代の記録に欠けるが、記録の残りやすい摂津・山城・大和ではなく、南河内での対畠山戦争に従軍していたのではないか。なお、『戦三』二〇八五において、松山新介は真観寺を「聚光院殿(三好長慶)御墓所」として保護しており、長慶への特別な思いを知ることが出来る。なお、本記事ではこの新介と重治を同体の存在として、新介の動向も重治のものとして記述する。
 しかし、歴史は三好政権復活に向かわなかった。天正元年(1573)将軍足利義昭織田信長の対立が先鋭化すると、畿内の政局・戦局も幕府方と織田方という区分に二分されることになり、三好氏も幕府方に組み込まれた。ところが、織田信長は義昭を屈服させ、京都から追放した。また、朝倉義景浅井長政らも滅亡し、11月には三好義継も織田家臣・佐久間信盛によって滅ぼされた。義継領であった北河内は若江三人衆に与えられることになり、織田信長に従わない勢力は結集核を本願寺や三好康長、遊佐信教としていった。松山氏は後者の道を選び、池田勝正、香西越後守、三宅氏、雑賀衆とともに天正2年(1574)4月本願寺に入っている(『永禄以来年代記』)。天正2年(1575)9月には大坂衆と一揆を結んだ「松山」が北河内で長岡藤孝らと交戦しているが、これも重治か彦十郎のことではないか(『細川家文書』)。
 ただし、天正3年(1575)三好康長は織田信長に従属し、逆に河内南部の支配を認められている。この時、松山氏とともに本願寺に入った香西越後守は信長に討たれ、雑賀衆天正5年(1577)信長に攻められて屈服した。松山重治の動向は不明であるが、康長や雑賀衆のように、天正2年(1574)から本願寺と信長が和睦する天正8年(1580)までの間に織田信長に従うことになったと見られる。『続紀風土記』によれば、重治は河内国水分(現大阪府千早赤阪村)を知行していたと言うが、河内国南端に位置する水分を安定的に統治できたのは、この時期だったと考えられる(先に松山守勝が存知していた「下河内中田庄」は水分に隣接しており、元から関係性があったかもしれない)。重治は信長より水分を与えられた(実効支配していたのを追認された)のだろう。
 重治は織田政権からは河内南部の国人扱いされたのではないだろうか。天正元年(1573)には三好三人衆は消え、天正5年(1577)には松永久秀も滅んだ。かつて重治が編成した勇士たちも多くは亡くなった。織田政権は畿内の覇権を確固たるものにしつつあった。重治が活躍する土壌はもはやなく、松山重治の存在は河内南部という畿内の片隅に埋もれて行くかに見えた…。

織田信長高野山攻め

 ところが、重治のキャリアは終わらなかった。織田信長高野山攻めの大将に松山重治を起用したのである。
 織田信長による高野山攻めの経緯を見よう。事の発端は信長に謀反した摂津の荒木村重が滅ぼされ、天正8年(1580)閏3月村重の残党が高野山に保護を求めて逃げ込んだことである。お尋ね者となった残党は池田三郎右衛門、中西小八郎、渡部八郎、伊丹新七、坂中主水の5人である。織田信長は彼らの引き渡しを求めて、7月前田利家と不破光治を派遣したが、交渉は不発に終わった。さらに8月17日には松井友閑の兵として細川源五郎ら32人が荒木残党捜索と称して高野山に踏み込んだので、これを過干渉と見た高野山は32人を皆殺しにした(『高野春秋編年輯録』)。織田信長が怒り心頭に発してもおかしくはないが、信長は9月21日付けで高野山大和国宇智郡の所領を返還している。高野山が強気であったため、まずは懐柔しようとしたのではないか。
 だが、事態は好転しなかった。高野山は荒木残党を匿い続けたのである。また、信長によって追放された佐久間信盛高野山に財産を預けており、天正9年(1581)7月信盛が亡くなると信長は信盛の財産を接収するように高野山に働きかけたが、これも拒否された(『多聞院日記』)。信長はいよいよ高野山に武威による圧力をかけるべく、天正9年(1581)8月17日高野聖600人ほどを捕えて処刑した(『信長公記』・『当代記』)。8月17日という日付からも前年松井友閑の兵が殺されたことへの強い報復の意志が読み取れよう。
 こうして信長と高野山は9月より戦争状態に突入したと思しい。高野山は動員体制を8月末より硬め、信長は9月11日根来寺の戦功に感状を出している。ところが、戦争状態は活発化しなかった。根来寺はそれ以上高野山攻めに関わった形跡がないし、高野山仁和寺を通じて和睦の道を探った。信長も12月には一雲斎針阿弥を高野山に派遣しており(『宇野主水日記』)、交渉を必ずしも否定していなかった。このような状態で、織田信長天正10年(1582)1月松山重治を高野山攻めの大将に任命したのである。
 なぜ、織田信長は松山重治を起用したのか。単純に考えれば、重治の領地が河内国南端にあり、軍事的才覚が認知されていたから…ということになるだろう。敵地に接する土地の国人が先方となるのは当然だし、重治は織田氏譜代でもないから、失敗しても更迭しやすい気安さもあったかもしれない。しかし、それだけであろうか。
 織田信長高野山攻めと言うと、高野山を滅亡させるのが目的と思ってしまうが、そうではない。信長は高野山が信長に歯向かった荒木残党や佐久間信盛の財産を引き渡さないことを咎めているに過ぎず、天下の静謐の守護者を自認する信長が高野山を滅ぼすのは、自家撞着に陥る危険がある。また、この時織田政権には四方に敵があり、高野山にばかり構っていられない。高野山としても織田信長の軍事力を敵に回し、一山滅亡となるのは避けたく、穏当に済めばそれが最善であった。信長も高野山も戦争状態とはなったが、どちらも妥結を求めていたのだ。信長が当初、高野山攻めに根来寺を用いたのも、根来寺高野山の関係を鑑み、交渉の窓口となることを期待したのだろう。しかし、根来寺は仲介役となるどころか強硬に反応して、高野山を攻撃した。信長は根来寺を用いることが戦禍を拡大すると感じて、根来寺高野山攻めから外したのではないか。
 要するに、高野山攻めの大将に求められた任務は、高野山を攻め滅ぼすことではない。武威をチラつかせながら、交渉に引きずり込み、荒木残党と佐久間の財産を接収できればそれで良かったのである。ここで思い出されるのが、重治はかつて播磨国清水寺に対し、敗者の残党と財産を要求し、接収していたという過去があることだ。信長がこれを知っていたかどうかは不明としか言いようがないが、重治の交渉力に期待していたのではないか。高野山に逃げ込んだ荒木残党は皆摂津国人であり、重治の知己であった可能性もある。こうした重治の持つ人脈やキャリアが信長が高野山攻めの大将に重治を起用した理由だったのだろう。
 さて、高野山攻めの経過は史料が『高野春秋編年輯録』といった高野山側のものに限られ、さらにこの史料では織田軍が計13万、総大将は神戸信孝堀秀政とする。しかし、数は明らかに過大で信孝や秀政は別の戦場に出撃しているため事実とは考え難い*3。一次史料や当時の状況、伝承から織田軍の全容を復元すると、総大将は松山重治で、与力として南河内の烏帽子形衆と高野山周辺の国人である生地氏、牲川氏が付けられ、多く見積もっても数千の軍勢であったと思われる。また、織田軍には三好政(新丞・新允)が加わっていた。政定は筒井順慶の侍大将とされ、実際に永禄11年(1568)には三人衆方として筒井順慶とともに行動していた(『多聞院日記』)が、その後順慶の家臣となったのだろうか。重治とは知己であったかもしれず、順慶が気を利かせたのかもしれない。
 なお、『高野春秋編年輯録』には松山重治が登場しないが、名古曽(現和歌山県橋本市)に布陣した武将として松山庄五郎の名前を記している。現地には今も庄五郎が戦勝を願って堺から勧請したという伝承を持つ住吉神社があり*4、堺との関係を有する松山名字の伝承が興味深い。
 重治に立ち向かった高野山側の大将・花王院快翁(快応)花王院は畠山氏と関係が深く、南蓮上院弁仙は「遊佐子息」とされ、遊佐氏の血族であった。高野山側も河内・紀伊の守護家・守護代家の血を継ぐ二人を用いて士気を高めようとしたのかもしれない。
 さて、戦いの経過を見よう。重治は天正10年(1582)1月伊都郡に入り、拠点として多和(現和歌山県橋本市)に築城した。この城は菖蒲谷城とも重治から採って松山城とも呼ばれる(本記事では菖蒲谷城と呼ぶ)。菖蒲谷城は側面に高野山参詣道が通っており、織田方である銭坂城や長藪城とともに高野山を包囲し、流通路を遮断可能な位置にあった。重治としては、菖蒲谷城を中核にした包囲網で高野山を干上がらせることを狙っていたのだろう。重治はこの菖蒲谷城を拠点に九度山に昼夜出兵した。
 高野山としても菖蒲谷城は目の上のタンコブで、2月14日奇襲をかけて三好政定を討ち取った。その後も戦いは続いたと見られるが、結局高野山も菖蒲谷城を落とせず、織田方の出兵も決め手を欠いた。重治は別に高野山を滅亡させることを狙っているわけではないので、決め手を欠いたと言うよりも挑発的出兵を繰り返しただけと思われる。今後他方面の戦争が片付いた信長が大軍の派兵に踏み切るか、疲弊した高野山が和睦を請う可能性もあり、重治の当面の目標としては高野山包囲網を維持できれば良かったのである。
 しかし、重治の行動が実を結ぶ瞬間は来なかった。6月2日織田信長は惟任光秀に急襲されて横死した(本能寺の変)。変の情報が伝わった6月3日高野山を包囲していた織田軍は引き揚げた。織田政権の中枢が消えたことで、戦争目的であった敗者の残党と財産の接収の意義が失われたことも大きいが、河内や紀伊の国人たちも本拠地に帰り、政治情勢を見極めねばならない中、軍を維持することは不可能であった。
 かくして、松山重治最後の戦いは終わったのである。

その後の松山重治と評価

 その後の松山重治の動向を一次史料から辿ることは出来ない。ただ、『紀伊風土記』が記す伝承によれば、重治、あるいはその息子は藤堂高虎に仕え、粉河村(現和歌山県紀の川市)に移った。恐らく、豊臣秀吉による畿内直轄化に伴って河内の所領から追われ、高野山攻めの実績から豊臣秀長紀伊入部に従ったのだろう。高野山攻めの天正10年(1582)の段階で重治は70歳前後に達していたと見られ、その後10年以内に天寿を全うしたのではないか。子孫は鈴木名字に改めて粉河村に居住し続け、地元の名士として続いて行った。
 松山重治は軍事に大きな才幹を有した。しかし、三好政権の内紛と崩壊を食い止めることは出来なかった。と言うよりも、重治の引退によって、松山軍団は弱体化、分裂し、これが三好政権の内紛と連動してしまったことで、その崩壊に拍車をかけたということだろう。なぜ、松山軍団は分裂してしまったのか。
 これは松山軍団の編成のデメリットによる。庶流国人を取り立て名字を変えないまま台頭させることは、嫡流から見れば不快であることは間違いない。官途名において重治に優越する松山守勝が離反、自立を企てたのも根底にある感情としてはこのようなものであろう。零細国人は大した基盤がないゆえに、自らの利権の維持に敏感で陣営の移動も容易である。郡兵大夫が石成友通(三好三人衆)→和田惟政(義昭幕府)と渡り歩いたのが典型だろう。与力として付けられた三好家臣も多くは三好家の直臣という意識が生きている。同族の中村高続が長慶の上使であった中村新兵衛も重治に付随するよりも独立した一将として評価されたかったのではないか。松山軍団は確かに強力な軍隊であったが、その基盤は三好長慶のカリスマと松山重治の指導力を両輪として成り立つものだったのである。
 元亀年間、三好義継は三好政権を再興しようとする。義継は永禄の内紛では三人衆と激しく対立したが、この時は三人衆を配下に組み込むことに成功した。この中で重治の復帰もなされたものと見え、松山軍団は長慶のカリスマを義継のカリスマに置き換えることで、一軍として甦ったと思しい。だが、義継による三好政権再興は道半ばで織田信長によって壊滅させられた。三好氏の残党は信長に討たれるか、その家臣化されていくことになるが、重治は後者の道を辿ったようである。
 しばらくは捨て置かれていた松山重治であったが、織田信長高野山の対立が深まるとともに、高野山攻めの大将として起用された。重治が河内国南部にいたのも大きな要因だが、かつて国境の軍事と調停を行っていた過去と大将としての起用は陰に陽に関係があったのではないか。だが、高野山攻めはその途中で、本能寺の変が発生してしまい、成果を挙げることなく終結した。
 永禄8年(1565)の永禄の変から天正9年(1581)の高野山攻めまでの重治の動向は謎が多い。重治の後継者と見なした彦十郎がいつまで活動しているのかもよくわからない。松山重治は松山新介として著名であるが、永禄7年(1564)以降は出家している。そのため、「新入」「新入斎」「松謙斎」「宗治」といった名前で史料上に登場しているのが見逃されている可能性もある。是非とも注視してもらいたい。
 最後にまとめると、松山重治は三好長慶によって抜擢され、境界の調停と軍事を司る人物であった。その存在意義は一時消えたが、織田信長は重治の才を見逃さず、高野山攻めに起用した。重治の人生が幸福であったかどうかは定かではないが、見出された役割を全うできたと評価できるのではないだろうか。忘れて去られてしまうには惜しい人物と言えよう。

史料紹介:『太閤記』『紀伊風土記

太閤記』十八 ○松山新
 永禄年中に松山新助と云し、三好家にをひて爪牙之臣に備りし者は、其初本願寺に番士などつとめ居たりしが、素性ゆうにやさしく、毎物まめやかに、万の裁判もおさ〳〵しう、小鞁・尺八・早歌に達し、酒を愛して興有し者なり。其比泉州堺之津にして、三好家或方々之勇士、或其家々にをひて司有者共、此新助を呼出し、酒呑で浮世忘ん。互に戦場に可赴身なり。寔に無は数そふ世に在て、何を期せんや。唯暇々求め遊び戯れんと云つゝ、敵味方堺の南北に打寄酒など愛し興ずる時は、必松山をいざなひ出し慰しなり。かやうの次で〳〵に戦場の物がたりを好んで聞しが、行年三十五六之比、武者修行して見んと思ふ心初て出来、三好家へ奉公に出、摂州有馬之南、山田くづれと云しをくれ合戦に、追付首一討捕し也。是より武家を経て駆挽之達者は松山なるべしと誉を得、其後は五千石余之地を知侍るに因て、名士を求め傍輩のやうに寵愛し、二千余人之勢を進退せし也。其中に畿内にをひて隠れなき者を且記すに、郡兵大夫・林又兵衛(鑓林と謂れしは此者也)・中村新兵衛(鑓中村是なり)・三田弥九郎・其弟九郎三郎・中西権兵衛・成合又大夫・神谷甚八郎・井ノ中蛙助・市田鹿目介・小河新右衛門尉・林源太郎・桑原久井之助など云し、一人当千共いはれつべう覚えたる兵共数多抱へ置、腹心之養に愛せし故、相随ふ事恰骨節之相救ふが如し。凡新助志の程を老人語りしは、自他共に戦功あらん事を思ひ入、貧士には取分親しみ深かりし也。

小瀬甫庵は歴史家としてはたいがい評判が悪いが、簡略とは言え松山重治の伝記と評価を記していることには感謝の念が絶えない。この情報が全て正しいかは不明だが、「だいたいあってる」レベルにはあると思われる。
 なお、この伝記文は『堺鑑』や『和泉名所図絵』にもコピペされている。
 『太閤記』には巻二十一にも松山重治が見える。

 或問、何れの人か宜しからん。対曰、尾州にては、織田酒造丞、中条将監。於三州、榊原小平太。於濃州、浦野若狭。於畿内、松永弾正少弼、松山新介。於丹波赤井悪右衛門尉。於雲州、山中鹿助たるべしや。此外、遠国に猶も有べし。

 『太閤記』は名将として、織田造酒正、中条家忠(尾張)、榊原康政三河)、浦野若狭守(美濃)、松永久秀、松山重治(畿内)、荻野(赤井)直正(丹波)、山中幸盛(出雲)を挙げる。現代の目線だと「おお、あの!」となるような人物と「…え?誰?」というような人物*5が並列されているが、とにもかくにも重治が評価されていることがわかる。
 これらの大将の戦いぶりへの評価も後に続くが、重治は「松山はかゝるにも退くにも、打死せんと極ぬれば、却て生侍る事有物と思ひもし、又人をも諌しが、自然に其利をあまたゝび〳〵得たる者なり」とされている。配下の者たちが次々亡くなったのを尻目に生き延びていた重治の境遇を思うと、若干皮肉めいた感もある評価である。

紀伊風土記』那賀郡粉河荘猪垣村 古士・鈴木兵三郎
其祖を松山新助といふ。備中松山の城主・松山丹後守の二男なり。畠山家につかへて河内国水分にて三万石を領す。新助武術に達し、武者修行に出て帰国の後、松山新入と改名す。新助の子・伊之助、畠山紀伊守に仕ふ。永禄年中畠山家、三好家と合戦の時、河内国佐々山にて軍功あり。其後、粉河村に来たり。藤堂家に属し当村に住す。松山を鈴木と改む。所々に戦功あり。織田家より越前金崎の城主・朝倉氏を責られし時、伊之助一番槍をせしかは、織田家より十文字の槍を与へられ、畠山家より鉄刀木の鉄砲を与へらる。槍・鉄砲、今猶家に蔵む。伊之助、後浪人となり鈴木与四郎と号す。其子・少三郎、又浅野家に仕へて伊織と改む。子孫世々当村に住す。

※原文には句読点がなく、句読点は私に足したものである。

…全体的に当たらずとも遠からずといった伝承である。松山城主・松山丹後守や畠山紀伊守は実在しない大嘘だが、松山新介から新入(新入斎)に改名したとか、水分周辺に領地があったといった情報は正確性が高い。三好氏ではなく畠山氏に仕えたことになっているが、『紀伊風土記』では祖先は畠山氏に仕えたと称する名士が多いため、重治の子孫も経歴の溶け込みを図ったのだろう。ただ、元亀元年(1570)の越前攻めに畠山高政、秋高ともに出陣した形跡がないので、戦功の物証として記す槍と鉄砲は実際には松永久秀とともに従軍し賜ったものではないか。

松山重治の図像

 松山重治はまだまだネームバリューが足りないのか、図像らしい図像はゲームやカードにも全くない。『信長の野望』シリーズにも早く参戦してほしいところである。もしかしたら、『形』の挿絵か何かでしれっとイラスト化されている可能性もないわけではないが。
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 というわけでまた描いてみました。「ええ~?」って気もしますが、普通の猛将を書くよりも、元は慰安の芸能者という側面がどこかに欲しいなあという意図があります。まあこれはこれで麻呂顔な気もするけど。

参考文献
岩倉哲夫「織田信長高野山攻め」『『南紀徳川史』研究』(7)
ci.nii.ac.jp

中世の播磨と清水寺

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戦国時代の流行歌 - 隆達節の世界 (中公新書)

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【図解】近畿の城郭IV

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平成31年4月11日 『四座役者目録』、天正2年の松山氏動向追記

*1:「松永弾正少弼」名義なため元亀2年ではなかろう

*2:正直自分でもここらへん何を言ってるのかわからなくなってるので、わかりやすく松永久秀を例に話そう。久秀が三好政権の重臣であり、大和国の統治者であり、幕臣であったのは知られている。久秀は三枚の草鞋を履いていたのである。ところで松永氏は摂津の零細国人で家格秩序からすると本来はどの地位にも就くことは出来ない。「常識的」な判断だと、三好長慶が久秀を三好氏の重臣とする際には三好氏の「年寄」を務めた塩田名字などを授けることになるだろう。大和の大名となる際には筒井名字や古市名字を名乗ることになるだろう。幕臣となるには細川名字や一色名字を名乗ることになる。つまり、松永久秀が塩田久秀になったとしてもその後筒井久秀になれば、三好政権の重臣たる資格を欠くになる。これを避けるためには松永名字のままである方が複数の重職を兼ねられる。「柔軟性」とはこういうことを言っているつもりなのだが、何分間違ってるかもしれないので、違う考え方があるならご教示願いたい

*3:神戸信孝天正10年(1582)四国攻めに赴く前の動向がよくわからないので、高野山攻めの最高責任者のような地位で関わっていた可能性はある

*4:ただし、名古曽には室町時代中期から住吉社があったことが確認される

*5:ちなみに織田造酒正は冗談みたいな名前だが『信長公記』首巻において主に活躍する人物である。菅谷長頼の父でもある