志末与志著『怪獣宇宙MONSTER SPACE』

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元亀の争乱における細川昭元(細川信良)―織田信長に天下を取らせた男

 何となくリアルっぽさがある人気戦国歴史漫画センゴクを読んでいて思わず吹き出したシーンがある。『センゴク』第一部第五巻(だったか…)には比叡山織田信長包囲網を代表する大名たちが参会する、漫画らしさ重視の場面がある。ここに現れたのは朝倉義景浅井長政顕如光佐、斎藤竜興、そして細川昭元であった。

 センゴク』における三好氏陣営の描写の薄さはそれこそ一つ記事を書いていちいち突っ込みたいレベルだが、まあやめておこう…。これは想像だが、作者はたぶん三好氏をスルーも出来ず、三好三人衆という名前は登場させたが、三人衆の立ち位置や人物像がわからず、誰が三好氏代表なのか迷ったんでしょうな。そこで三好三人衆が擁立していた盟主細川昭元に目を付けたわけだが…細川昭元ってそんな三人衆の首魁と言えるような行動したっけな?と笑ってしまったわけである(今後歴史創作に三好三人衆・三好勢力から代表者を出したいのなら三好長逸をお勧めする)。
 しかし、よく考えているとこれも単なる思い込みなのかもしれない。名目上の盟主として擁立されるからには昭元が実は三人衆に指令していた形跡があるのかもしれない。そう思い、三好氏の傍ら昭元の動静について調べていたら…当初の思いからすると意外な行動が見えてきた。

1 細川昭元の来歴

 そもそも細川昭元って誰だよということでプロフィールを確認しておこう。
 戦国時代の摂津室町幕府三管領家の一つである細川京兆家によって支配されていた。しかし、天文17年(1548)細川京兆家の当主・細川晴元は臣下である三好長慶に謀反を起こされ、翌年には摂津から逃亡した。晴元には将軍足利義輝が与同しており、三好長慶は晴元を追った勢いそのまま京都から義輝を追放し、畿内を支配していく。晴元はその後も三好長慶相手に抵抗を続けたが、何度か和睦の機会はあった。天文21年(1552)に長慶と義輝が和睦し、義輝が帰京した時には晴元も長慶と一時和睦し、息子の聡明丸を人質として長慶に差し出した。もっともこの和睦は晴元が出奔したこともあって長続きしなかった。この時人質となった聡明丸が後の細川昭元だった。
 長慶への晴元の抵抗はまだまだ続くが、長慶は人質となった昭元を殺さず、三好氏の下、芥川山城で養育した。人質になった時の昭元は5歳で、父の記憶がどれほどあったのかもわからない。芥川山城の昭元は単身保護されていたのではなく、父晴元の奉行人でありながら晴元の逃避行に従わなかった飯尾為清茨木長隆が出仕していたようだ*1。昭元は永禄元年(1558)細川典厩家の当主・細川藤賢によって加冠されて元服*2、以後祖父の代から名乗り続けてきた仮名「細川六郎」を称することになった。この頃の昭元に実名はなかったようだが、一字名「元」を名乗っていることが確認される。細川京兆家の歴代当主のようにいずれは足利将軍から偏諱を受けるつもりだったのだろう。ともあれ昭元は「御屋形」*3と呼ばれる身分になった。
 しかし、三好氏が昭元に好意的であったのはここまでで、昭元はどこかの城主になったことも確認されなければ、政治に関わることもなく、軍勢を率いて戦うこともなかった(昭元の奉行人ともされた飯尾・茨木両名は三好政権でも一定の役割はあったようだ)。将来三好政権が勢力を拡大したとして、昭元に摂津を返還する、あるいは芥川山城主にするという発想はあったのだろうか?長慶には何かの構想があったかもしれないが、少なくとも三好政権内の昭元は「旧主に連なる貴人」の枠を出なかった。永禄6年(1563)には長年に渡る抵抗の末ついに三好政権に屈服して摂津国普門寺で隠居させれていた*4父晴元も、三好政権が名目的に京兆家家督としていた細川氏綱も亡くなったが、昭元は京兆家家督の証である右京大夫に任官されることも、時の将軍足利義輝から偏諱を受けることもなかった。一方で晴元の側近であった高畠甚九郎や平井氏は晴元の死後は昭元に近侍し、昭元は父の人脈を継承できていたようである。
 永禄7年(1564)には三好長慶が死去し、翌永禄8年(1565)には三好義継・三好長逸・松永久通が将軍足利義輝を誅殺し、三好政権は三好長逸松永久秀の対立から長い内紛を迎えた。しかし、この中でも昭元が存在感を発揮することはなかった。昭元は三好長逸によって芥川山城に身柄が確保されていた。永禄10年(1567)には昭元が今村氏の跡職である禁裏御料所の大原口と粟田口を押領し、山科言継が三好長逸と石成友通に制止を求める事件が起こっている。昭元の行動は長逸ら三好三人衆によって規制を受けることが期待されていたとわかる。永禄9年(1566)には篠原長房が連れてきた足利義栄が将軍候補として普門寺に入ったが、昭元は義栄に出仕するでもなく*5偏諱を受けて「栄元」となるでもなかった。
 やがて織田信長足利義昭を奉じて上洛戦を起こすと、昭元は長逸に連れられて阿波に退去した。昭元の祖先は阿波細川家であったが、昭元は畿内の生まれで阿波の地を踏んだのは恐らく初めてである。従兄弟であり名目上の阿波守護であった細川真之と会うこともあったのかもしれない。昭元が阿波でいかに遇されたのはわからないが、後年の行動を思うと、昭元は四国に好感触を持ち、自分の故郷であると認識したのではないだろうか。

2 元亀の争乱

 昭元とともに阿波に逼塞した三好残党軍は永禄12年(1569)正月に将軍足利義昭の本圀寺御所を強襲した。織田信長畿内を平定し、義昭幕府が成立してまだ3ヶ月も経っていないこの軍事行動には、足利義昭織田信長も驚愕し、未だ畿内平定が真の意味で完了していないことを自覚させられた。一方で三好残党軍も電撃戦を仕掛けたものの、義昭幕府によって任命された畿内の守護たちを呼応させることが出来ず、京都から退散して再び阿波に逼塞せざるを得なかった。三好残党軍はこの後調略によって摂津を取り戻すことを目指していく。
 細川昭元の政治活動が行われるのもこの頃のことで永禄12年(1569)閏5月7日と永禄13年(1570)3月20日丹波荻野直正に忠節を求めている。従来丹波国細川京兆家の分国で昭元はその権威を受け継いで(名目上とは言え丹波守護を自認していたのかもしれない)、有力国人を三好残党軍に内応させようとしていたのだ。思えば昭元は元亀元年(1570)には23歳になっていた。本来であれば政治や軍事にもっと意欲があっても良い。ただ、萩野直正の主君であり甥である赤井忠家は織田信長から丹波支配の朱印状を獲得していて、三好残党軍に通じることはなかった。
 三好残党軍の畿内勢力への調略は続いた。元亀元年(1570)義昭幕府の朝倉氏討伐が浅井長政の離反によって失敗すると、義昭幕府は大きく動揺し、6月には摂津三守護の一人池田勝正が三好残党軍に通じた荒木村重によって追放され、池田氏は三好残党軍に属した。これを好機と見た三好残党軍は摂津西部に進出し、野田城・福島城に陣取った。残党軍の勢力が伸びると、織田信長足利義昭も捨て置けず、摂津に出陣した。野田・福島の戦いである。
 『信長公記』に記された三好残党軍の構成はまさに残党軍オールスターの様相があるが、先頭に挙げられているのが細川昭元である。昭元は何とここに来て三好残党軍の盟主に擁立されていたのである。三好残党軍としては、摂津を支配する由緒を持つ細川京兆家の権威を欲したのだろう。これまで昭元をほとんど捨て置いていたのに勝手な話である。実際、昭元を盟主としたからと言ってそれで三好残党軍に加わる国人が増えたわけでもなかった。権威としては心もとない限りであった。
 さらに三好残党軍が劣勢に陥ると昭元は義昭幕府に通じる動きを見せた。残党軍の幹部であった三好為三香西越後守はすでに義昭幕府に投降していた。昭元が三好氏をどう思っていたのかはわからないが、この頃から反三好の思いを強くしていったように見える。昭元はずっと三好氏の籠の鳥として暮らしてきた。しかし、父祖の地の四国で歓待され、政治活動も行うようになり、名目的盟主にまで立てられた。昭元の自意識は徐々に肥大化していったのではないだろうか。義昭幕府も昭元を内通させるのに、右京大夫に任命するなど細川京兆家当主として遇することを約束していたのだろう。昭元にも自分をより高く見てもらう方に移る権利があろう。
 ただ、この時は昭元は義昭幕府に投降はしなかったようだ。9月12日には本願寺が三好残党軍に加わって幕府軍を攻撃し、16日には浅井・朝倉の連合軍が京都に迫った。織田信長は摂津を後にして帰京せざるを得なかったのである。三好残党軍の外交的勝利であった。結局12月に義昭幕府と三好残党軍は和睦し、三好残党軍は摂津西部を勢力圏として確保することに成功した。小康を得た昭元は三好残党軍から離脱してか、保護されてか、細川藤賢の居城・摂津国中島城に入った。
 三好残党軍は元亀2年(1571)6月より河内の三好義継、大和の松永久秀と同盟し、三好政権再興に動いて行くが、昭元はもはや必要とされることはなかった。すでに残党軍は三好氏の当主である義継を確保していたのだから。昭元は元亀2年(1571)12月上洛して将軍足利義昭に出仕し、右京大夫に任命され、義昭から偏諱を受けて実名「昭元」をようやく名乗った。昭元はやっと細川京兆家当主としての外面を備えたのである。昭元はすでに24歳、元服から13年が経過していた。

3 三好勢力と戦う細川昭元

 さて、三好政権再興を目指す三好義継、三好長逸松永久秀らは摂津・河内・大和・山城の勢力を席巻していた。義昭幕府も手をこまねいて見ていたわけではなかったが、元亀2年(1571)畿内における最大の幕府支持者である和田惟政が討ち取られ、頼みの織田信長は北の浅井・朝倉に手を取られてまともに畿内に軍勢を派遣できない*6など*7、後手に回っていた。元亀3年(1571)4月の本願寺の下間正秀の書状によれば、三好勢力は和田惟長(惟政の遺児)や伊丹忠親を味方につけ、もはや摂津を統一しつつあった(実際には和田や伊丹は日和見をしていたのだろう。ただ、義昭幕府の構成員たる彼らが三好勢力と積極的に戦おうともしなかったことは大きな意味がある)。
 しかし、三好勢力の摂津統一を阻む者がいた。それが何と細川昭元だったのである。細川昭元は和田氏や伊丹氏と違い、細川藤賢とともに摂津国中島城に籠って三好勢力と戦ったのである。拠点となった中島城は堀城とも呼ばれ、あるいは堀城と中島城は別の城郭という説もあるが、本記事では同一視して「中島城」と呼ぶ。中島城がいつからあるのかは謎が多いが、細川藤賢が城郭として整備したらしい。藤賢は永禄の変後の三好政権の内訌の際には松永久秀に通じ、中島城に籠って戦ったが永禄9年(1566)8月篠原長房によって城を落とされ堺に退去した。しかし、義昭幕府成立とともに中島城主に返り咲いたようである。元亀元年(1570)の野田・福島の戦いでは将軍足利義昭の御座所となった。おそらくこの時にさらなる改造を加えられたのであろう。
 元亀3年(1571)4月14日細川昭元は三好義継と和議を結び、人質を交換した。これは昭元が三好勢力に属したと見られたようで、昭元は中島城に留まっていた。この時昭元とともに幕府方として中島城に籠っていた三好為三香西越後守*8は三好勢力に帰順している。と言うより為三と越後守が三好勢力に内通したため、昭元は和議を結ばざるを得なかったといったところであろうか。
 昭元が和議に不本意であっただろうことはすぐにはっきりした。和議派の三好為三と香西越後守が退城したせいか、昭元の意志を三好勢力として制御できる者は中島城から消えた。昭元は5月までは三好勢力の「一味」と見られていたようであるが、8月18日三好義継と本願寺の2万の大軍によって中島城を攻められた。6~7月に三好勢力に反対する意志を明らかにしたのだろう。特に本願寺の軍勢を指揮したのは下間頼充・下間頼純・下間頼廉下間頼照・下間頼竜といった本願寺が誇る軍事指揮官たちであった。しかし、昭元は籠城して打って出ず、逆に義継や本願寺の軍勢に損害が出たという。
 中島城に反三好の細川昭元が籠城する事態は三好勢力にとって深刻であった。本願寺は大軍勢を繰り出したことからもわかるが、すぐ隣に反旗の勢力がいるのは安全保障上重大な懸案と認識していた。中島は交通の要所でもありここが敵方となると、三好勢力が摂津において連絡を取る上でも円滑を欠く。そういうわけで、三好氏と本願寺は中島城攻略を最優先課題とせざるを得ない。
 力攻めでは損害を出したため、三好勢力は中島城を包囲し兵糧攻めに切り替えた。しかし、兵糧攻めは長期戦を見込む。12月には松永久秀の軍勢も参戦し、中島城は三好義継、三好長逸松永久秀本願寺という錚々たる大軍勢によって囲まれた。元亀4年(1573)2月25日*9中島城はついに落城し、昭元と藤賢は堺に逃れた。ついに三好勢力によって摂津が統一されたのである*10昭元は気概を見せたが*11、彼の抵抗は無意味であったのだろうか?
 一方で孤軍奮闘する中島城の状況を興味深く見ていた武将がいた。誰あろう、織田信長である。織田信長は3月7日付の細川藤孝宛書状で次のように述べた。

一、中島之儀、去廿七日ニ退城之由、さても〳〵おしき事ニ候、公方所為ゆへニ候、右京兆御心中令察候、質物出ニ付てハ、進上候て尤候、猶巨細口上ニ申渉候、

 織田信長は中島城が落城したことを「おしき事」と悔やみ、「右京兆」すなわち細川昭元に同情を加えている。信長は元亀3年(1572)3月昭元に会っており、昭元を「味方」と認識していた。そして、信長にとって昭元は三好勢力によって席巻された畿内において数少ない「戦って抵抗した」味方であった。
 摂津を統一した三好勢力は3月いよいよ上洛戦を行おうと大軍を率いて京都に向かおうとした。三好義継や松永久秀は京都内外に禁制を発給し、大乗院尋憲は久秀に早くも上洛を祝している。しかし、三好勢力の軍が入京することはなかった。元亀3年(1572)12月より義昭幕府では将軍足利義昭織田信長が対立しており、2月から信長と義昭は戦っていたのである。三好義継と松永久秀は3月7日将軍足利義昭より赦免され、義昭方に組み込まれたようだが、敵であった幕府の内戦に戸惑い積極的に行動できなかった。三好勢力の上洛は遅きに失していたのだ。
 こうなってくると半年間、三好の大軍を中島城で一手に引き受けていた昭元の功績は大きい*12。昭元が抵抗しなければ、元亀3年(1572)のうちに三好勢力は摂津を統一して上洛を果たし、義昭を討つにしろ推戴するにしろ、織田信長は面目を潰しただろう。三好政権が真の意味で再興されたかもしれない。信長がもしこれを防がんと京都に出兵すれば、今度は近江の戦場が手薄になり浅井長政が勢力を盛り返すとも考えられた。だが、昭元が抵抗したためその可能性は阻まれた。それどころか織田信長は義昭を追放し、三好義継を滅ぼし、織田政権を整備せんとしていく。昭元はまさに歴史を動かしたのだった。

4 織田政権で役割を果たす細川昭元…改め細川信良

 こうして見ると織田信長細川昭元を重用したのは細川京兆家の権威に目を付けたからだけではない。昭元が意地を見せたことはダイレクトに信長の天下取りに役立ったからである。冒頭で『センゴク』を論ったが、昭元が信長包囲網の首魁の一人であるなどとんでもない。昭元こそ信長が天下人となる上で最大のキーマンの一人だったのだ*13
 信長に堺から呼び戻された昭元は天正元年(1573)義昭が去った槇島城に入った。槇島城は山城国の守護所でもあり、信長は昭元に山城守護であることを形の上で認めたことになる。さらに天正3年(1575)には信長によって昭元は丹波国船井郡桑田郡を与えられた*14三好政権や義昭幕府では実現しなかった細川京兆家の大名としての復活が認められたのである。また、天正4年(1576)昭元は信長の妹・お犬の方を娶り織田一門に列した。時期は不明だが、信長より偏諱を受け「信元」ついで「信良」を名乗った。昭元はこの頃は信長軍に従軍していたこともあり、軍事的役割も期待されていた。また、織田政権の四国政策にも関与し、阿波三好家を討つべく、讃岐の香川氏を調略している。信長は昭元を厚遇し、昭元も自身を最大限買ってくれる信長によく尽くしたと言うべきであろう。昭元は信長と蜜月関係を築き得たが、全てのルーツは中島城での抵抗にあった。
 細川昭元こそ「織田信長に天下を取らせた男」*15と言っても過言ではない人物だったのである。


参考文献
 大日本史
ci.nii.ac.jp
ci.nii.ac.jp

足利義昭と織田信長 (中世武士選書40)

足利義昭と織田信長 (中世武士選書40)

*1:彼らは三好政権下でも「評定衆」と見なされていたようだが、文書への署名はしていない。ポジションとしてはアドバイザーくらいの立ち位置だったのだろう

*2:加冠したのは三好長慶とするものもある

*3:『続応仁後記』によれば「細川の屋形」

*4:永禄4年(1561)晴元が降伏すると昭元は9年ぶりに父と再会を果たした

*5:阿波守護家の末裔である細川真之は義栄に出仕していた

*6:佐久間信盛柴田勝家を和田氏や畠山氏の援軍として派遣するに留まった

*7:義昭幕府に従う畿内の勢力としては南河内の畠山秋高もいたが、重臣の遊佐信教と対立して身動きが取れなかった。信教は三好勢力に通じていた

*8:二人の先代である三好宗渭と香西元成はコンビを組んで晴元与党として戦った経歴があった

*9:後の書状に触れるように27日とするものもある

*10:厳密に言えば摂津から反三好勢力がとりあえず消えた

*11:もちろん昭元がここまで抵抗できたのには、中島城が将軍御座所にふさわしい改造を受けていたであろうことと、30年前から大勢力と戦うことに手練れた細川藤賢の存在を軽視するべきではない

*12:関ヶ原の戦いの際の大津城に籠城して立花宗茂らを引きつけた京極高次に役割は似ている

*13:私は三好氏贔屓なので「昭元、てめえ!」って感じですね

*14:同年から開始された明智光秀丹波平定戦も本来は丹波の反織田派を討つもので昭元の丹波支配を補完するものであった。しかし丹波平定は順当には行かず、結局光秀が丹波全域を獲得することになった

*15:一応言っておくがここでの「天下」はもちろん日本全国という意味ではない