志末与志著『怪獣宇宙MONSTER SPACE』

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松浦光が死んだのはいつか

 以前の記事(松浦光(孫八郎)―和泉国の戦国大名 - 志末与志著『怪獣宇宙MONSTER SPACE』)では松浦光が亡くなったのを、織田信長が光に進物の返書を宛てた天正3年(1575)12月から、『兼見卿記』に「泉州松浦後室」が出現する天正4年(1576)8月までの間とした。松浦光は天正初年当時和泉国最大の武家権力であったのだが、その死は同時代史料にも記されることはなかったため、このように漠然とした年次になってしまう。その後、いつだったのかという反応もあり、個人的にももうちょっと突き詰められないものか…と思ったので、考察を加えたのがこの記事である。

天正3年3月~4月 岸和田池が造立される
  • 松浦光条書

       岸和田池建立事
一、有子細彼所之儀、乞請名岸之池令造立事、
一、彼池江之指分八方池也、従水際二町之間八方何時も土を取可普請事、
一、樋之下ヨリ岸和田井口迄河筋不可有別儀事、
一、樋之指抜之事、岸和田池番頭可進退事、
一、河原田水之事、岸和田之田地同前以計木彼田養程可入置、其外少も不可漏事、
右条々定所如件、
天正三年乙亥二月九日   肥前守光(花押)

  • 寺田生家奉書

コセノ上
 壱段          新屋
辻堂ノ前南方ノ田
 三百卅歩并卅歩     左近衛門
牛ノ田南方
 壱段六十歩       大屋
ハセテ         スミ
 壱段          助太郎
ハラ          米屋
 壱段          次郎衛門
津田ノ上
 壱段          畠中
城ノ前
 壱段          彦九郎
マワリタヲ
 壱段          奥助
カモタノ内
 壱段          又五郎
ハントカヘ
 壱段          窪
ハラ
 壱段          素麺屋
エチコノウラ
 壱段大内壱段      助左衛門
右此池之番頭之事、此者共ニ被仰付候、則為給田壱段宛被遣候上者、随分見舞不可有油断候、若於無沙汰者、可為曲事由候也、仍如件、
天正三年乙亥三月廿四日  寺田又右衛門尉
                  生家(花押)

・松浦光掟書

      掟        岸和田庄
一、用水之分者水入次第、其外為作人不可水入事、
付、水入拾人之儀、諸役等可為免許事、
一、惣田地如何様共水を越入可申事、
一、毎年惣普請入目田作次第、段別ニ可出事、
 付、公私共ニ可出置事、
一、小池共も河水も、岸之池水可為同前事、
一、水入給之事者、段別ニ作人可出事、
右条々相定所、自然於違犯之輩者為過怠、一段付而参拾疋可出、万一於難渋之族者、速可加成敗者也、仍如件、
天正三年卯月吉日
       肥前守(花押)

 岸和田に池を造立することになり、その造立認可や使用時のルール、権利の分配を松浦光が定め、寺田生家が奉書を出している。掟書を発給したのは光本人で花押もあるため、この頃に光が健在であったのは確実である。また、この件に関して光は自身を最高権力者として臨んでおり、少なくとも岸和田周辺の地域権力であったと評価できるだろう。一連の行政処理に「四人之者」からの系譜を継ぐ寺田生家も関与しているため、光と松浦氏の家中が一体であることも確認できる。

天正3年4月 和泉国の破城

和泉一国一揆寺内之事、悉可令破却之旨、今度於陳中根来寺惣山・松浦かたへ雖遣朱印、猶以自分其方検使差下各相談、何之分領候共、可引崩候、聊不可有用捨之状如件、
   四月廿二日      信長(朱印)
    柴田修理亮とのへ

 織田信長和泉国本願寺系の城郭を破却するのを松浦氏と根来寺に命じ、柴田勝家にその検使を派遣するよう求めた文書である。直前に信長は三好康長を攻撃、許容して、河内南部の支配を認めているが、それに伴って本願寺の出城を畿内から一掃する目的があった。この文書の年次は書かれていないが、柴田勝家が関与していることと和泉の破城が求められる経緯から天正3年に比定される。この時点で織田信長は松浦氏と根来寺和泉国の行政主体と認知していたことがわかり、単に「松浦」と称することから、これは松浦氏家中ではなく松浦光を指す可能性が強い。

天正3年5月 某三郎が根来寺と松浦光の対立について記す
  • 三郎書状(部分)

又申候、寺家ハ先時参候、たゝし半済不渡候て、然者くタいニ可申候、肥もしと之間事、いかゝ御入候哉、京事委承度候、いそき候間、委不申候、廿日無御上候者、其内ニ可申候、

 『板原家文書』に某三郎が「まへ」に宛てた書状が収載されている。根来寺が半済を渡さないことへ「肥もし」との間のことがどうなるだろうかと述べている。「肥もし」とは松浦前守光を指す表現と考えられ、光が健在であることと根来寺と対立していることがわかる。

天正3年10月 織田信長和泉国五社大明神の所領を安堵する

「信長様御朱印
当国五社大明神領事、如近年有来可有社納之、次山林竹木等一切不可伐採候也、仍状如件、
  天正
    十月廿日        信長(朱印)
   泉州五社府中
        神主

  • 昨間敬久書状

御朱印之儀、以原田備中守殿令直談申調進云々、目出度奉存候、并塙喜三郎殿を以申候、前時見候可良列候也、尚辻村方可被申候、恐々謹言、
              昨間左兵衛
   十月廿日         敬久(花押)
  泉州符中
   在所田所殿
      御宿所

 織田信長が五社大明神の所領を安堵した文書である。この手の文書は在地の要望によって発給されるという側面があるが、信長朱印状の副状と見られる昨間敬久書状によると、原田直政の尽力で発給されたことが見える。なぜこのタイミングで和泉国五社が信長による安堵を求めたのか興味は尽きないが、和泉国五社が原田直政を取次として織田信長に繋がっていることがわかる。…ところでこの「昨間敬久」さんってここでしか見ない名前なんだけど誰なんですかね?

天正3年(?)12月 織田信長、松浦光に進物の返礼をする

其表之儀、無異子細之由、尤可然候、種々調略馳走旨簡要候、弥不可有退屈候、来春早々可令上洛候条、可相究候、依而鷂二羽伊予并鈴二大小送給候、懇慮之至自愛此事候、随而マナカツホ十祝着之至ニ候、将又身上之事、細六被申分在之由ニ候、於信長不相知候、更不可有別条候、猶柴田可申候、恐々謹言、
  十二月十三日           信長
   松浦肥前守殿
「信長譜曰、天正三年十二月
 右筆武井夕庵任二位法印 」
「御スヘ判筆者、肥後入道夕庵、筆札有リ」

 松浦光から伊予産の鷂と鈴、カツオが贈られたため、信長が返礼している。光の処遇について、「細六」(細川昭元)が意見を述べているが、信長は気にしないとも述べ、2人の信頼関係を窺わせる。ところで、この書状には年号がなく、天正3年への比定は後年の「信長譜」に拠っているらしい。だから、この書状の発給年次は実は天正3年ではない可能性もある。そこでもうちょっと考えてみたい。
 のだが、単なる返礼状ということもあって、年次を特定する手がかりは乏しい。細川昭元が「細六」と呼ばれていることを思うと、昭元が右京大夫に任官する元亀2年(1571)以前かとも思うが、昭元は直前まで足利義昭織田信長に敵対する三好三人衆の名目的盟主であったため、信長との親密さを前提にするような文言があるのは違和感がある。信長と昭元が親しくなるのは天正元年(1573)以降である。信長は家臣が官途成をしていても、仮名や幼名で呼ぶ癖があるため、「細六」もその癖なのかもしれない。
 「種々調略馳走旨簡要候」もお決まり文句だが、気になると言えば気になる。信長が光に「調略」を求めたと言うが、天正3年12月段階で光が調略を行う勢力とはどこなのだろうか。光は確かに十河氏を三好義継から離反させようとしたり、畠山氏を支援したりここまで調略にふさわしい働きをしてきた。しかし、この時点では信長と本願寺は三好康長を通じて講和の話が大詰めであり、康長が信長に従っている以上畿内に「敵」はいなかった。とは言え、阿波三好氏や紀伊方面に光が調略を仕掛けていた可能性はゼロではないのでやはり決め手を欠く。また、「来春早々令上洛候条」という文言もあり、これの主体を信長とすることも出来るが、元亀~天正初年の信長はほぼ毎年3月くらいに上洛しているため、やはり特定は出来ない。
 要するに天正3年(1575)に積極的に比定できる根拠があるわけでもないが、だからと言って別の年が想起されるほどの情報もない、といったところだろうか。現状では松浦光が登場する最後の文書にもなるわけだが、年次比定にはあまり信が置けるものではないことも確認しておきたい。

天正4年5月 天王寺の戦い

 原田直政が本願寺と交戦したところ、大敗を喫した。この戦いには和泉国人も参戦していたが、一次史料としてよく引用される『多聞院日記』は大和国関係者に関する情報しかなく、和泉サイドの戦死者への情報はない。だから、松浦光がこの戦いで戦死していた可能性もなくはない(あるいは、この戦いによる戦傷で時間を置いて死亡した、など)。
 ただ、一方でそれにしては光の死を匂わせるものが全くないのも解せない。例えば、この直後の6月20日付で日根野弘就は同族で和泉国人の日根野孫次郎に和泉国の統治体制について書状を発している。

(略)今度於天王寺表、原備不慮之仕合無是非儀共候、其刻御籠城殊雖被御手負候、早速御平愈之旨大慶此事候、然而御同名衆何も別条無之候由、是又珍重ニ候、将又当国之儀、弥堅固之儀候間、於御近者可心安、随而原備討死ニ付、貴国之儀、佐久右御取次之由候、如御懇礼可為御無案内候処、重御委曲令察候、(略)

 この2日前には堀秀政が孫次郎に戦傷を見舞う書状を発しており、孫次郎も天王寺の戦いで負傷していたようだ。日根野弘就の書状内容は、原田直政が戦死したため和泉国人への取次を佐久間信盛へ交代することや真鍋貞友の水軍の動きについての伝達である。本来的には日根野氏の主君であるはずの松浦光については全く出て来ない。前提としてはこの時点でも光は健在であったか、逆にこの世にいないことが自明であったかが考えられる。なお、日根野氏はこの後堀秀政と直結して、軍功を織田信長に注進してもらっていたり、それを通じて本領の回復を図るようになる。日根野氏は秀政を取次として織田家の直臣となったのであり、松浦氏を主君とする秩序が緩んでいる。

天正4年7月 織田信長、松浦氏の宿老に苅田を命じる

至大坂出馬以前、先切々相動、少々有之作毛以下可相散、此節別而可入勢事専一候、猶佐久間可申候也、
   七月九日          信長(朱印)
    沼間任世
    寺田又左衛門尉とのへ
    松浦安大夫とのへ
    佐野在城衆中

 本来的にはこれを松浦光死亡の下限にすべきなのだろう。信長の命令の宛名になったのは沼間任世、寺田生家(官途名は「又衛門尉」なのだが、文書中では信長がよく知らなかったのか翻刻ミスなのか「又衛門尉」になっている)、松浦家(安大夫)の3人で、いずれも松浦氏の宿老である。任世と生家に関しては本人が松浦光の下で働いた経歴が確かめられる。光が生きているなら、宛名は「松浦肥前守殿」で済む話なので、信長がそうしていないのは光がもはやこの世にいないからだろう。
 ちなみに宛名に「佐野在城衆中」があるので、この時までに佐野城には織田信張が入城していたようである。

天正4年8月 松浦光の未亡人が吉田兼見に祈祷を依頼する
  • 『兼見卿記』天正四年八月十九日条

泉州松浦後室書状到来云、悪夢之祈念之義申来、明日可調遣之由返事

 「泉州松浦後室」としか情報がないが、光の未亡人と見ていいだろう。祈祷の依頼は悪夢によるものらしい。穿って見れば、未亡人にはやましいことがあったのかもしれないが、よくわからない。ここに至って直接的に光の死亡が明らかになると言える。なお、『兼見卿記』の他の祈祷を依頼する人物や「泉州松浦」という但し書から考えると、この未亡人は少なくとも畿内周辺にいるのは間違いない。兼見は翌日「悪夢之祈念修行、天度御祓調遣了」と記しており実際に祈祷をすませている。

松浦光の死

 ここまで年次を追うことで松浦光がいつ死んだのかに迫ろうとしてきた。いきなり感想じみた話になってしまうが、天王寺の戦い以前に光はすでに亡くなっていそうである。原田直政の戦死などでゴタゴタしていたとは言え、この余波で光も死んでいたのなら、あまりにも文書上の反応がなさすぎる。織田信長堀秀政日根野弘就の文書に何らかの文言が出て来るはずではないのだろうか(実際、信長は畠山秋高が亡くなった際には畠山遺臣に秋高の死を悔やむ書状を出している)。
 そうなると、文書上は天正3年12月から天正4年4月くらいまでの期間か、ということになるが、前述の通り、天正3年12月比定の織田信長の返礼状を真に天正3年の文書と見なすには不審がある。10月に原田直政が取次となって、織田信長和泉国五社の権利を保障していることを思えば、これ自体が光の死に伴う松浦氏当主の消滅によるものとも考えられよう。よって、松浦光が死んだのは天正3年5月~9月とするのが妥当ではなかろうか。
 ちなみに上記の流れでは触れなかったが、実は天正3年9月に織田信長が発給した文書に「松浦」の文字は見える。

書状委細披見候、其面事弥如存分申付候、昨日も賀州奥郡者共始、大坂代坊主兵衛卿并松浦子共千余討捕之候、隙明候間、近日至岐阜可納馬候、其表之儀も本意不可有程候、尚々無由断馳走専一候、将亦嘉例之紙子□来候、殊当年者二越候、せい入候段喜悦候、猶見参之時可申候、謹言、
   九月五日         信長(黒印)

 越前一向一揆討伐に向かった信長の書状に突然「松浦子共」なる文言が出現している。これが誰なのかはよくわからないが、考えようによっては松浦光が討伐されたと解釈できなくもない。…が、やはりその解釈は無理筋に近い。松浦光だとすれば、5月には和泉にいたのに8月くらいには越前にいることになる。松浦光が仮に信長と敵対的になっていたとしても通常ならば近場の本願寺に味方するのではないだろうか(ちなみに足利義昭もこの時点では紀伊にいる)。「子共」という表現も、すでに20歳を超えている光としても光に子供がいたとしても不審な表現である。また、松浦氏家中はその後も和泉に温存されているし、光の未亡人も『兼見卿記』の記事から考えて畿内にいると考えられる。光は家族も家中も捨て単身越前へ出奔したのだろうか。光の死亡推定期間にすっぽり当て嵌まるのは気になるが、光を指すとするには無理がありすぎるとは言える。ただまあ一応念のため。
(「松浦子」であり得るとすれば松浦虎の後継者である可能性が考えられる。虎は永禄11年(1568)に戦死しているが、この時28歳となる計算が可能なので、天正3年(1575)に元服するかしないかの子供がいてもおかしくはない。虎に後継者がいた話は寡聞にして知らないが、本願寺畿内の敗者を自陣営に受け入れていたので虎の遺児が本願寺に庇護され、越前に転戦した一色義棟(斎藤竜興)のようにどこかの時点で越前に送り込まれた可能性はあるだろう。ってなくはないくらいの話やな…)
 松浦光は寺田生家と松浦家の「寺田兄弟」に殺害されたという説もある。これも気になっていたので出典を確認してみた。

  • 泉邦四県石高寺社旧跡并地侍

右安太夫事、泉州俗話ニ松浦肥前守殿家老役仕、或時岸和田浜辺ニ而遠矢給を、不意に殺害シテ自力テ松浦と号し岸和田城代と成者トモ国人不随由

 松浦家が岸和田の浜辺で遠距離射撃を練習していたら、思いがけず光を殺してしまった。要するに練習して放った矢がたまたま光に当たったのだろう。うーん、何だか思っていたよりマヌケな…。これだと寺田兄弟に悪意があったと言うより、野球に例えると選手が打ったファールボールが不幸にも監督に直撃し、監督は死んでしまった…みたいに読めてしまう。寺田兄弟が下剋上したなんて嘘やろと思って来たが、そもそもこれ「下剋上」と言えるんでしょうか?(家が俺が松浦氏の当主や!した下りがかろうじてかなあ。総スカン食らってますけど。)20代前半の光が突然見えなくなり家中は存続するといった事情とも微妙に整合してしまう。事故なんだから寺田兄弟の責任が問われないのは当然と言えてしまうし…。こ、こんな話で良いのか?
 なお以前にも述べたが、寺田生家の弟で寺田氏の出身である家が松浦名字を名乗っているのは、光の名跡を襲ったと言うよりも、「四人之者」である松浦俊(孫大夫)の後継者であると考えるのが自然で*1、光の死後松浦名字を名乗り始めたわけではないと思われる。もっとも、家は光生前に活動が確かめられないので断言はしかねる。
 寺田兄弟は某小説とそれを原作にした漫画によって、悪いイメージが生起してしまっているが、少なくとも主殺しという点については考え直す必要があるだろう(どうあがいても「不意に」ではわざとといったニュアンスは読み取れない)。

まとめ

  • 天正3年5月頃までは松浦光は確実に生存している
  • 天正4年7月までに松浦光は確実に亡くなっている
  • 天正3年12月比定の織田信長書状写の年次比定には不審があり重きを置けない
  • 天正3年10月に織田信長和泉国五社の権益を保障するためこの頃には光は死んでいた可能性がある
  • 天正3年9月に織田信長は「松浦子」を討っているが光の死と絡めるには無理がある
  • 松浦光は事故死した可能性がある(寺田兄弟の悪名冤罪説)

 これ以上はもはや結論が出る話でもない。和泉松浦氏に関する新出史料いつでもお待ちしてますということになる。墓石や過去帳や松浦氏の遺臣が追善してる文書でも出れば一発案件なんだけどな。まあ和泉松浦氏はいつ死んだのかわかる当主の方が少ないからよ…。
 最後に松浦光の死の影響について。天正3年10月以前に光が死んでいたかどうかは定かではないが、織田政権はこの頃から和泉国にコミットするようになっていく。織田信張が佐野城に入ったのも、和泉国人が織田政権と直結し信長の直臣化するのも天正4年からである。もっとも、織田政権の和泉への行政は執行を松浦氏家中に委ねており、信張も和泉国人と根来寺の対立を知りながら調停を行わないなど、当地には乗り気ではない態度さえ見える。このような姿勢も勘案して逆に言えば、光が健在であれば織田政権は和泉国統治を基本的に光に任せ、和泉国人も松浦氏を主君視する体制が存続したのではないか。このように考えれば、織田政権が畿内政権化するのは偶然という側面も大きい*2(もっとも光が生きていても織田政権に排除されたり、あるいは光が離反するという展開もあり得たかもしれない)。

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*1:一応『泉邦四県石高寺社旧跡并地侍伝』には松浦家とは別に「松浦孫大夫」が立項されているが、この孫大夫は大坂の陣で戦死したという人物なので俊と同一人物と見るには厳しい

*2:ちょっとした原因が大きな結果を生むことを「安大夫の矢」と言う(大嘘)