志末与志著『怪獣宇宙MONSTER SPACE』

怪獣monsterのコンテンツを中心に興味の赴くままに色々と綴っていくブログです。

芥川孫十郎は三好一族か?

 高槻市では昨年よりBOTTO高槻の企画の一環として「マニアック武将印」というのをやっている。高槻市に所在する芥川城(芥川山城)は三好長慶が居城としていたこともあり近年注目が集まっている。その芥川城に在城していたマニアックな武将たちを武将印にしてしろあと歴史館で枚数限定で売っているのである。
www.city.takatsuki.osaka.jp

 無名・マニアックといってもまあ細川京兆家の当主とか三好一族とか比較的知名度の高い大名級の武将で攻めてくるだろう…と思いきや第1弾は能勢頼則で、しかも能勢国頼、薬師寺元房と続くのだから「本気度」にたまげる。能勢や薬師寺なんて畿内戦国史ファンでもまあどこかで名前は聞いたかな?レベルの人物であろう。高槻的には地元武将とも言えるが、能勢頼則について詳細に説明できる高槻市民は2桁いたら多い方ではなかろうか…(かく言う私もよく知っているわけではない)。しかし、無難に大名級でセレクトするよりも、私みたいな歴史オタクは食いついてくるし、一般層への知名度アップにも少しは貢献するだろうから上手いやり方である。
 そして、4月下旬に登場する第4弾は「芥川孫十郎」!もうここまで来ると、芥川氏など来て当然といった感があって、感覚がだいぶ麻痺してしまっているが、孫十郎の武将印というものは前代未聞には違いない。

早速入手してきた。左の説明が現在の孫十郎の「通説」だろう。

 そういうわけで芥川孫十郎への意識が高まってきた時分であった。Twitterで開陳するネタにもなるだろうし、孫十郎の一生涯で何か言えることもあるのではないか…と改めて孫十郎について調べようとしたところ、意外なところで躓いた。
 芥川孫十郎は三好之長の子で芥川氏に養子に入った次郎長則の子とされてきた*1。ところが、実際に調べだすと、孫十郎の出自を直接的に語っている史料がなかなか見つからない。芥川孫十郎が三好一族の血を引いていることに確信が持てなくなっていったのである。しかし、孫十郎が三好一族であることはそれこそもう「常識」というか、所与の前提とされてきている。孫十郎は三好一族なのか?そうだと確言できないとしたらどこから三好一族説が発生したのか?これは小ネタとして調べる価値がありそうだったので、記事にしてみることにした*2

*1:ちなみに三好之長の子である孫四郎と芥川次郎の実名は長らくどちらが長光でどちらが長則なのか混同されてきたが、現在は三好長逸が父長光を追善していることから、孫四郎が長光で芥川次郎が長則とされている。過去の研究や著作では三好長則・芥川長光と記すものもあるが、この記事ではめんどくさいので引用以外は三好長光・芥川長則で表記を統一することにする

*2:ちなみに芥川氏は芥川氏と書かれることが多いが、史料上の自署では「芥河」と書かれており、他称でも「芥河」呼称が圧倒的である。そういう意味で言うと芥河氏と書くのが正しいということになるが、芥川氏とするのが通例なのでこの記事でも芥川氏で統一している

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石井伸夫・重見髙博・長谷川賢二編著『戦国期阿波国のいくさ・信仰・都市』(戎光祥出版)の感想

 四国東部の戦国史は常に畿内のそれと不可分な関係にあった。畿内で力を持った細川氏・三好氏は四国東部を勢力としていたし、織田信長も三好氏との関係を一つの軸として四国情勢に関与・介入した。一方で、畿内権力の研究が様々な角度から切り取られて進展しているのに対し、畿内権力の研究から四国の勢力が位置づけられることがあっても、四国側の研究の進展が畿内の歴史の見方に影響するということはそこまでないように見受けられる(四国の側は受動的に語られることが多い)。四国の研究への目線は、畿内権力の研究から一方的に多大な影響を受けていたとも言えるだろう。
 しかし、四国は畿内から一方通行で影響を受けている地域というわけではないはずだ。四国には個別の歴史があり、それが中央や他地域に影響・連関するという視点はあって当然である。とは言え、四国の戦国史研究も現状軍記ものなどに基づいた既存の歴史像を一次史料によって検証・更新していく発展途上の段階にある。
 そうした中で出たのが本書『戦国期阿波国のいくさ・信仰・都市』である。四国の阿波一国で論文集が出せる段階にあるとは正直思っていなかったが、現在の阿波戦国史研究のリアルを示している企みと論題になっているのは間違いない。今後どのように阿波の戦国史が発展していくのか、阿波の戦国史から何が得られるのか、そうした問題を示す紐解くものとして大いに期待するところであった。
www.ebisukosyo.co.jp

 ところで本書の論文には2つのタイプがある。どれも史料を用いて何らかの主張をしている点では同じだが、新しい歴史的事実を指摘するものと既存の歴史的事実を再構成するものがある。もちろん後者も論題に沿って既存の事実が再構成されることで、新しい視点を提供しているのだが、どうしても新鮮な驚きには欠ける。この記事では感想を述べやすい前者の論文に重点を置いて紹介していきたい。

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【ネタバレ有】『ウルトラマントリガー エピソードZ』感想

※この記事中には映画の内容に関するネタバレを大いに含みます。初視聴の驚きや感動を体感したい方にはおススメしません。

 令和4年(2022)3月21日『ウルトラマントリガー エピソードZ』を観てきました。本当は19日にドラえもんと2部立てで観るつもりだったんですけど、当日10時半に映画館に行ってみたらまさかの完売!今回上映劇場が少ない上にハコも小さいので、近隣都市圏丸ごと来てしまうとすぐに席が埋まってしまうんですね…。これは想定するべき事態でした…。ドラえもんは2週間遅れくらいでわざわざエピソードZに合わせたんですけど、このスケジュールじゃなかったら映画館まで出向いたのに全くの収穫ナシということになっていましたな。もちろん『映画ドラえもん のび太の宇宙小戦争2021』も面白かったのでおススメです。
 今述べたようにわざわざ映画館まで観に行ってきたわけです。今回はTSUBURAYA IMAGINATIONの配信作品でもあるので、入会すれば18日の日付が変わった瞬間から観られたんですが、やっぱり大画面で観られるなら大画面で観たいよねえという欲求は抑えられませんでした。
 振り返れば、新型コロナウィルスCOVID-19の感染拡大によって、映画という産業自体が打撃を受けました。これはウルトラマンでも『劇場版ウルトラマンタイガ ニュージェネクライマックス』の公開延期で辛酸を舐めましたね。正直それもあって劇場公開というもののハードルは上がっているように感じていました。『ウルトラマンZ』は『シン・ウルトラマン』との兼ね合いで当初から劇場版は製作されなかったようですが、『トリガー』も『シン・ウルトラマン』抜きに考えても劇場版を製作し、そこに集客するのは厳しいだろうなあと。また、ここ10年程のウルトラマンは『ギンガ』以来劇場スペシャルという試みから徐々に「映画」の格に戻してきましたが、『劇場版タイガ』では一つの天井が見えたといいますか、豪華さが頭打ちになったという印象もありました。今後もウルトラマンの映画は作られていくのか、作られるべきなのか、作ったとして未来を見せてくれるのか…そういった点には疑惑も持っていました。
 それゆえに今回の『エピソードZ』には企画に驚くと同時に唸りました。配信作品を劇場公開もするという形式!厳密には「映画」とも違いますが、劇場スペシャル的でありながら劇場に拘らない新しいスペシャルな新作の形が示されました。この形なら「映画」ではなくとも「映画的なもの」を今後も続けていけるかもしれない。それでいて無理にかつてのような「映画」を目指さなくてもいい。言うのもなんですが、『劇場版タイガ』もこのような形式なら結構満足してたかもしれません。
 とは言え、期待がないということではありません。『トリガー』のスペシャルな作品、あるいは「真の最終回」として何がやれるのか。具体的な点としては、ケンゴがどうやって復帰するのかやイーヴィルトリガーの正体などもありますね。今回はウルトラマンZ・夏川ハルキも出ますが、彼はTVシリーズでも出ているのでそこは新鮮味がなく期待感はあまり伴ってませんでした。特撮的にも見所はそこまで作る必要のない作品だろうなというのが前提なので、ここらへんはかつての「劇場版」よりハードル低めでした。
 そういうわけでここからは大雑把にストーリーを追いつつ(記憶があやふやで間違いもあるかもしれません)、あれやこれや述べていきたいと思います。

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乗馬体験に行ってきた!

 先日体験乗馬に行ってきました。ウマ娘にドハマりして以来、リアルホースに触れあいたいという思いがあったのですが、折り合い良く、安くで乗馬できる催しがあったので参加してきました!
 とは言え、実際の馬ってこれまでの人生ではあまり会った経験がないんですよね。遡れば、中学生の時に富士山に登った時に山麓にいた馬を遠目で見たところまで遡るかもしれない。しかもその時の馬が超巨大、2.5メートルくらいの大きさ、脳内イメージより1.5倍くらいに見えて、馬と言うのは思ったよりデカい(つまり危ない)というのが最新の原体験でした。ただ、乗馬自体は子供でもやれているわけだし、とりあえず体験してしまえ!のような心持ちでした。
 乗馬センターに到着するとすでに乗馬コースで馬が歩いたり走ったりしていて気持ちが上がっていきます。事前に説明ビデオを見せてもらいますが、馬に余計な刺激を与えないようにというような初歩的な内容で身構えるようなものではなかったです。ヘルメット、エアバッグベスト、ブーツを着ると、もうすでに心は非日常でした。

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永禄末期以降の摂津伊丹氏の当主は伊丹忠親である

 いやもうタイトル通りです。永禄末期以降の伊丹氏当主は伊丹忠親であって伊丹親興ではない。足利義昭の幕府に従っていたのも伊丹親興ではなく伊丹忠親である。元亀の争乱で戦ったのも伊丹親興ではなく伊丹忠親である。荒木村重によって伊丹を奪われ没落したのも伊丹親興ではなく伊丹忠親である。
 何でこんなにしつこく言っているのかと言うと、意外とこの事実が周知のものになっていないからだ。この可能性を最初に指摘したのは管見の限り『伊丹市史』(1971年)が最初なので、すでに50年以上も既知の情報のはず、だった。しかし、近年においても呉座勇一・馬部隆弘・平山優*1といった研究者たちが当該期の畿内史を論じる中で伊丹親興が相変わらず登場しており、御三方は他では精密な成果を叙述しているだけにまだまだ周知の事実ではないと思いを新たにさせられた。このままでは誤った説が再生産され続けるということになる。
 そういうわけで情報整理がてら、『伊丹市史』に倣いつつ永禄末以降の伊丹氏当主が親興ではなく忠親であると示しておきたい。
 『伊丹市史』の記述は単純明快である。天文18年(1549)の伊丹大和守親興の花押と永禄11年(1568)の伊丹兵庫助親の花押、元亀元年(1570)の伊丹兵庫頭忠親の花押を下のように並べるのである。


画像典拠は右の伊丹親興禁制、左の伊丹忠親禁制は本興寺文書、中央の伊丹親書下は離宮八幡宮文書

*1:御三方を挙げたのに他意はありません。ちなみに永禄末以降も伊丹親興が登場しているのは、呉座氏は「明智光秀本能寺の変」(『明智光秀細川ガラシャ』)、馬部氏は「細川藤孝時代の勝龍寺城」(『勝龍寺城関係資料集』)、平山氏は「図説 武田信玄」。

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「元関白・九条禅閤稙通、塩川長満の居城にあらわる!」の御紹介―稙通公記紙背文書「発見」の意義

 先日、「松浦光―和泉国戦国大名」に情報提供をいただいた。
monsterspace.hateblo.jp

 それを聞いて驚いた。永禄11年の九条稙通の動向を示す文書があるという。

shoryobu.kunaicho.go.jp

 それが上記リンクの天正13年(1585)の『稙通公記』の紙背に残された塩川長満の書状二点である(上記リンクの4頁と6頁にあたる)。

 情報提供者の利右衛門様は大阪府豊能町文化財保護委員を務めておられ、上記書状を近日豊能町教育委員会のHPにて紹介されている(今回の情報提供には当ブログの記事をリンクしても良いかという問い合わせもあった。実に恐れ多い限りであるが後述するように断る理由もないので掲載いただいている)。

www.town.toyono.osaka.jp

 内容の説明や論考はコラムとも合わせてかなり丹念なものとなっているので、私の方からあれやこれや言えることはほとんどない。以下、今回の「発見」の意義を交えつつ感想を述べることで紹介に代えさせていただくことにする。

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結城忠正の出自について

 結城忠正松永久秀重臣として、そして畿内の最初の日本人キリシタンの一人としてよく知られる。彼についてはそれ以上の情報があまりなかったが、近年木下聡氏が奉公衆結城氏の検討を進める中で忠正が奉公衆結城氏の系譜を継ぐことが明らかになった(「奉公衆結城氏の基礎的研究」)。すなわち、木下氏が忠正について明らかにしたのは以下の通りである。

  • 奉公衆結城氏には一番衆・二番衆・五番衆に三家が存在する(以下、この記事では所属によって奉公衆結城氏を~家と呼ぶことにする)。二番衆家が足利義満の寵臣で山城守護を務めた結城満藤の嫡流子孫であり、十郎→勘解由左衛門尉→越後守を称する。この家は代々作事奉行を家職とした。
  • 奉公衆結城氏は結城政胤・尚豊兄弟が足利義尚に重用されたが、兄弟への反発は強く義尚の死後兄弟は失脚、政胤の子・元胤は細川京兆家に接近する。
  • 結城元胤の子・国治(十郎)は長じて国縁(勘解由左衛門尉・左衛門尉)となる。国縁の事績は天文後期に途絶え、入れ替わるように天文末期結城越後入道忠正が登場する。忠正の子・孫七郎は長じて左衛門尉を名乗っており、忠正が越後守を名乗っていたことから、結城忠正とは結城国縁の後身にあたる。
  • 結城忠正松永久秀に仕えつつも、子息左衛門尉とともに幕府への出仕も継続しており、奉公衆の自覚を持っていた。

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