高槻市では昨年よりBOTTO高槻の企画の一環として「マニアック武将印」というのをやっている。高槻市に所在する芥川城(芥川山城)は三好長慶が居城としていたこともあり近年注目が集まっている。その芥川城に在城していたマニアックな武将たちを武将印にしてしろあと歴史館で枚数限定で売っているのである。
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無名・マニアックといってもまあ細川京兆家の当主とか三好一族とか比較的知名度の高い大名級の武将で攻めてくるだろう…と思いきや第1弾は能勢頼則で、しかも能勢国頼、薬師寺元房と続くのだから「本気度」にたまげる。能勢や薬師寺なんて畿内戦国史ファンでもまあどこかで名前は聞いたかな?レベルの人物であろう。高槻的には地元武将とも言えるが、能勢頼則について詳細に説明できる高槻市民は2桁いたら多い方ではなかろうか…(かく言う私もよく知っているわけではない)。しかし、無難に大名級でセレクトするよりも、私みたいな歴史オタクは食いついてくるし、一般層への知名度アップにも少しは貢献するだろうから上手いやり方である。
そして、4月下旬に登場する第4弾は「芥川孫十郎」!もうここまで来ると、芥川氏など来て当然といった感があって、感覚がだいぶ麻痺してしまっているが、孫十郎の武将印というものは前代未聞には違いない。
早速入手してきた。左の説明が現在の孫十郎の「通説」だろう。
そういうわけで芥川孫十郎への意識が高まってきた時分であった。Twitterで開陳するネタにもなるだろうし、孫十郎の一生涯で何か言えることもあるのではないか…と改めて孫十郎について調べようとしたところ、意外なところで躓いた。
芥川孫十郎は三好之長の子で芥川氏に養子に入った次郎長則の子とされてきた*1。ところが、実際に調べだすと、孫十郎の出自を直接的に語っている史料がなかなか見つからない。芥川孫十郎が三好一族の血を引いていることに確信が持てなくなっていったのである。しかし、孫十郎が三好一族であることはそれこそもう「常識」というか、所与の前提とされてきている。孫十郎は三好一族なのか?そうだと確言できないとしたらどこから三好一族説が発生したのか?これは小ネタとして調べる価値がありそうだったので、記事にしてみることにした*2。
芥川孫十郎の芥川長則子説はどこで出現したのか?
芥川孫十郎は紛れもなく実在の人物で、孫十郎の動向は記録類にも残っているし、発給・受給文書も現存している。しかし、そういったところで家族関係というものが明記されることは少ない。例えば、一次史料としては三好長慶が孫十郎に宛てた文書もある(『戦三』三六七)が、一族関係が窺える内容ではない。
とりあえずは、編纂史料である軍記ものと現代における三好氏研究での触れ方から孫十郎の家族関係がどう語られてきたか整理してみよう。
- 『細川両家記』天文22年8月25日条
同廿五日に長慶入城候也。芥川孫十郎方の無念推量申候。阿州へ被下候て三好豊前守方たのみ、堪忍の由に候也。芥孫は三豊の妹聟也。
『細川両家記』は奥書によると元亀4年(1573)に成立した軍記で、細川・三好の視点に偏重していることが指摘されるものの内容の信憑性は概ね高いとされている。引用箇所は孫十郎が長慶から芥川城を追われる部分で、孫十郎は三好之虎(実休、長慶の弟)を頼んで阿波へ没落していった。その中で孫十郎は之虎の妹婿であったと記されている。孫十郎は没落にあたって義兄を頼ったというのが『細川両家記』の理解であった。
しかし、ここでは孫十郎の縁戚関係は三好兄弟の妹婿であったということに留まっている。
- 『続応仁後記』天文22年8月19日条
同十九日城主芥川孫十郎城ヲ開ケ渡シ、其身ハ三好豊前守義賢ヲ頼ンテ阿波国ヘ落行タリ。是ハ孫十郎妻室ハ豊前守種替ノ妹ナルニ依テ也。
- 『足利季世記』天文22年8月19日条
同十九日、(略)芥川ハ三好豊前守姉聟ナレバ、阿波ヘ下リケル。
『細川両家記』より後出の『続応仁後記』や『足利季世記』では「種替ノ妹」や「姉聟」と違った情報を追加してはいるが、孫十郎が三好元長の娘を妻にしていたことには変わりがない。『続応仁後記』天文16年6月26日条には「長慶ノ縁者芥川孫十郎」という表記も見えるが、長慶の姉妹婿→「縁者」という表現も可能なので、孫十郎が男系の三好一族であることを意図した表現というわけではない。
他に三好氏の系図史料もいくつか見てみたが、孫十郎を芥川長則の子と位置付けるものは発見できなかった。もっとも長則は芥川氏に入っているので、三好氏の系図では長則の子に触れるということが求められないという事情によるものかもしれない。
つまり、芥川孫十郎が芥川長則の子であるという典拠史料は存在しない可能性が高い。私も全ての史料を抑えたわけではないので、実はあるのかもしれないが、『細川両家記』やそれを受け継いだ史料としては質の悪い『続応仁後記』や『足利季世記』にもそのような記述がないのは、もともと孫十郎が長則の子であるという認識が存在していなかったことを意味している。
それでは、芥川孫十郎が長則の子であるという説はいつどこで登場したのであろうか。代表的な三好氏研究を追いかけてみよう。
まず、三好長慶の古典的な概説書として、長江正一『三好長慶』(人物叢書)がある。長江氏の著作本文中では孫十郎を三好兄弟の姉妹婿とするのみで、芥川長則の子であるかどうかにはノータッチであり、軍記ものの記述を継承している。と思いきや、付録の三好氏系図では長則から下に線を引いて孫十郎を位置付けている。長江氏は本文にはわざわざ書かなかったが、孫十郎を長則の子とする認識を持っていた。長江氏の著作には長則や孫十郎とは別人として芥川豊後守も登場しているため、長則系の芥川氏に摂津芥川氏を収斂させているわけではないが、孫十郎は長則系と考えてしまったようである。
次に、今谷明の『戦国三好一族』。三好氏を統一政権の先駆と見る古典的な名著だが、ここでいよいよ芥川孫十郎が長則の子息であると明言される。「孫十郎は長慶の祖父長秀の弟長光の子で、かつ長慶の妹聟であり、長慶とは二重に姻戚関係がある人物だが、叛服常なく、長慶の頭痛の種であった」(洋泉社版173頁)というのがそれである。
以降、わざわざ本文で言及していない場合も多いが、三好長慶・三好氏に関する近年の著作でも付されている系図では孫十郎を長則の子と位置付けているのが定番となっている。そしていくつか論文も読み直してみたが、孫十郎を長則の子とする記述に典拠が付されている例は確認できなかった。中西裕樹「戦国期の摂津国人・芥川氏について」では孫十郎を「芥川長光(次郎)の子というが不詳」としており、これが現状ベターに思うが、そうした認識は広がることなく、中西氏も近年は孫十郎を長則の子とする説を受容しているようである。
(追記)『摂津志』の「芥川城」に「永正中三好希雲(※之長のこと)第三子孫二郎長則拠比、希雲為細川高国所殺、長則自殺于洛百万遍寺、其子孫十郎拠之」という記述が見えるので、孫十郎を長則の子とする説は江戸時代中期には発生・定着したようである。
芥川孫十郎と芥川氏
前項の検討によって、孫十郎が必ずしも芥川長則の遺児であるとは言えないことがわかった。ここからは一次史料と最新研究に導かれつつ、芥川氏の動向から孫十郎の位置を探ってみよう。
芥川氏は鎌倉時代から高槻で活動が確認できる摂津国人である。室町時代の摂津守護細川京兆家の下では文正元年(1466)に芥川豊後守が川辺郡代を務めている(「多田院文書」)。この前後にも豊後守を名乗る芥川氏の人物がいることから、受領名「豊後守」を世襲する系統が細川被官としての嫡流の地位にあったと思しい。ただし、応仁2年(1468)に豊後守に代わり幼少の後継者と思しい芥川宮一が現れたのを一つの区切りに一定期間芥川氏は姿を消す。
永正の錯乱が始まると芥川豊後守(出家して無為斎禅柏、実名不明なので以下禅柏と呼ぶ)とその養嗣子彦太郎信方(実父は薬師寺長盛)が活動を見せる。馬部隆弘氏はこの禅柏は宮一の後身であり、没落していた中薬師寺氏や細川澄元に目をかけられることで復権したとする。禅柏・信方は澄元との関係が強かったため、永正5年(1508)5月信方は舎弟の左衛門尉(馬部氏は左衛門尉を茨木氏の人物とする)とともに澄元に対立する高国に殺害された。これを見た禅柏は阿波への亡命を図るが、その途上船が転覆し溺死している(『不問物語』)。この時点で芥川豊後守家は一時断絶したと見られるが、馬部氏によるとその後も澄元書状に芥川氏が見えるため、他に仕えた一族がいたか澄元が新たな当主を擁立していたらしい。
永正17年(1520)に細川澄元は三好之長を大将として上洛戦を行うが、澄元が病床につくと之長の求心力は失われ、之長とその一族は高国に処刑される。この時父とともに死んだのが芥川次郎長則であった。長則は長らく摂津の芥川氏を継いだとされてきたが、近年馬部隆弘氏によって、応仁期の阿波に芥川次郎が活動していることが指摘され、長則が継承したのは阿波芥川氏ではないかと提起されている。もっとも、之長は澄元と芥川豊後守との間で取次を務めたこともあり(『戦三』二六)、この時の長則が摂津芥川氏の当主に擬されていた可能性もないとは言えない。その当否はともかく、長則の芥川名字がどのような意味を帯びていたのかはわからないまま長則は活動を終えることになる。
細川澄元の子・晴元が上洛戦を展開する中で、その配下には芥川中務丞が見えるようになる(『細川両家記』)。中務丞は享禄4年(1531)高槻を本拠とする入江彦四郎とともに摂津への復帰を企てており(『戦三』七三)、天文2年(1533)には足利義晴から池田氏や伊丹氏といった摂津国人に並んで御内書を受け取っている(「御内書引付」)ので、摂津芥川氏の当主格にある。その後、中務丞が見えなくなる代わりに晴元の重臣で義晴から御内書を受ける当主格として芥川豊後守が出現する(『親俊日記』)ので、中務丞が豊後守に通称を改めたと見るのが自然である。こうしたことから、中務丞=豊後守は一時断絶した豊後守家を再興した人物であろう。
この中務丞=豊後守の実名は先行研究では明らかにされていないが、以下の史料から特定できる。
- 芥川常清書状 勝尾寺文書
当寺事、従薬師寺備後守方種々被申越候条、致用捨候、可被成其意候、猶四宮蔵人方可被申候、恐々謹言、
芥河中務丞
正月十二日 常清(花押)
勝尾寺
年行寺
「勝尾寺文書」の刊本である『箕面市史』では発給者を「美河中務丞」と翻刻しているが、「美」と「芥」は崩し字が酷似するゆえの誤りであろう。
直接的な発給背景は不明だが、薬師寺備後守から申請があったので芥川中務丞常清が「用捨」したことを勝尾寺に通知している。恐らく常清が勝尾寺の権益を侵害したため、勝尾寺から薬師寺備後守を通じて抗議があり、常清は押領を停止したのであろう。取次者の四宮氏も薬師寺氏の与力なので、芥川中務丞と薬師寺備後守が協働しているのを前提とする。この条件に合致する時期と人物は享禄・天文初期の薬師寺備後守国長と晴元配下の芥川中務丞しか存在しない。よって晴元配下の芥川中務丞(→豊後守)の実名が常清だと判明する。であるので、以下享禄・天文前期の芥川氏当主を常清と呼ぶことにする。なお、取次者の「四宮蔵人」は四宮蔵人助正能で、芥川中務丞の摂津帰国は享禄4年(1531)、薬師寺国長の戦死は天文2年(1533)であることから上記史料の年次は享禄5年(1532)か天文2年(1533)に比定できる。
そして天文11年(1542)6月13日に足利義晴より「毛氈鞍覆」「白傘袋」の栄典を受ける芥川氏が芥川孫十郎である(『親俊日記』)。孫十郎の拠点は今一つはっきりしないが、天文16年(1547)6月に細川氏綱に与した薬師寺元房が籠る芥川城が落城すると、晴元方の孫十郎が城を受け取っている(『細川両家記』)。その後、孫十郎は晴元に反旗した三好長慶に与し、天文18年(1549)5月に三宅から晴元方の香西元成が高槻方面に進出した際には、「芥川衆・三好日向守衆」が迎撃している(『細川両家記』)。恐らく孫十郎はこの段階では芥川城を拠点にしていたと見られるが、三好長逸が共に活動しているように、「城主」ではなく共同での在城であった可能性もある。三好長逸との共同は天文19年(1550)10月にも見られ、「十河・芥川・三好日向守」が示威行為を行っている(『言継卿記』)。
孫十郎は江口合戦以来長慶に属していたが、天文21年(1552)4月晴元方の波多野元秀の調略を受け、小河氏や池田氏とともに長慶殺害を計画し反旗を翻した。しかし、晴元方との連携は不発に終わり、12月には長慶が戴く細川氏綱に帰参することになった(『細川両家記』)。なおこの間の7月に孫十郎は「右近大夫」の官途で禁制を出している(孫十郎と花押が一致する、『戦三』三四〇)が、軍記ものには改称が全く反映されていない。孫十郎はこの時長慶から人質を取られた模様だが、翌年7月に晴元が勢力を盛り返すと再び長慶から離反した。しかしこの時も晴元方があっさり京都から追われたため、8月下旬孫十郎が籠る芥川城は落城、孫十郎は没落した。上述した軍記では三好之虎を頼んで阿波へ逃れたとされているが、『厳助往年記』でも孫十郎は堺に向かったとされているので、堺経由で四国に落ち延びたのだろう。以降摂津国人としての芥川氏は確認できなくなる*3。
以上の動向を見ると、孫十郎は芥川常清と入れ替わる形で登場している。孫十郎が天文11年に幕府から受けた栄典も守護代クラスのもので、孫十郎が幕府直臣格となったことを意味している。こうしたことから、孫十郎は常清の地位を襲ったと幕府からは見なされていたとするのが自然である。しかし、孫十郎を常清の正統な後継者と見るのに不審がないでもない。それ以前の芥川豊後守家の仮名や官途が不明なこともあるが、芥川氏の通称として確認できるのは「彦太郎」や「中務丞」であるため、「孫十郎」長じて「右近大夫」を名乗る孫十郎はこうした伝統的な(?)通称とは距離がある。ただし、三郎五郎→弾正忠→筑後守と通称を推移した池田信正の子・長正は当初「兵衛尉」を称しているため、親子であっても別な官途を称することがないわけでもない。
三好一族との関係性で言うと、孫十郎は細川晴元と三好長慶という2人の間で動向が揺れ動いている。芥川豊後守家は熱心な澄元・晴元派であったが、孫十郎も長慶の姉妹婿であったからだろう。ただし、三好氏との関係は孫十郎段階で強くなったのではない。天文8年(1539)に長慶が晴元相手に挙兵すると、足利義晴は伊丹親興、池田信正、柳本元俊、三宅国村、木沢長政、芥川常清に長慶を説得するよう命じた。その結果、長慶は芥川常清を通じて幕府には異心がないことを示し、長慶と常清両名の書状が幕府に届いている。またそれを神妙とする義晴の意志は芥川常清と長慶の一門である三好連盛に伝えられた(『親俊日記』・「大館記」)。芥川氏は常清の時点で摂津国人の中では最も三好長慶に近しい人物であった。孫十郎が長慶の姉妹を娶ったことは原因ではなく結果である可能性もあろう。
孫十郎が三好長逸と共同で動くことがあるのも、三好長光・芥川長則兄弟に関係性が遡る可能性もあるが何とも言えない。また、芥川長則は永正17年(1520)に処刑されているため、その遺児がいるのであればこの年には生まれている必要がある。すると孫十郎はアラサーまで「孫十郎」であり、30歳を超えて官途を得たことになる。なお、三好長逸は永禄末期に55歳くらいとフロイスが記述しているので、永正10年(1513)前後の生まれということになり長光の子として整合的であると同時に文書発給を始める天文後期にはアラフォーなので受領名を称するのも自然である。30代での官途成もあり得なくはないが、孫十郎を長則の遺児であるとするにはやや厳しい材料には見える。
(あくまで推測となるが、孫十郎の通称推移や三好之虎の妹が妻であることを踏まえると、孫十郎は1520年代後半生まれと見た方が自然ではないだろうか)
以上を総合すると、孫十郎が長則の子・後継者であるとは確言できない。孫十郎が長則や阿波芥川氏の系譜を引いている可能性もあるが、状況証拠的には摂津芥川氏の当主・常清の後継者と見た方が良い。ただし、摂津芥川氏自体が三好氏と関係が強かったようで、その位置を準三好一族と見ても間違いはないと思われる。
まとめ
- 芥川孫十郎を芥川長則の子とする確たる史料は存在しない。
- 芥川孫十郎を芥川長則の子とする説は誰が言い出したでもなく、いつの間にか常識化していた。
- 芥川孫十郎の出自は確定できないが、少なくとも摂津芥川氏の常清の後継者である。
- 摂津芥川氏は常清段階から三好長慶に近しく、孫十郎の去就も三好氏の男系子孫であるよりもこうした家の動向によって説明可能。
- 芥川氏は三好氏に近く、孫十郎も長慶の妹婿であるため、芥川孫十郎を準三好一族とする理解が成り立たなくなるわけではない。
よって、記事タイトルでもある「芥川孫十郎は三好一族か?」の回答としては「芥川長則の子であるかは不明(否定より)だが、摂津芥川氏と三好氏は関係が深く、孫十郎は長慶の義兄弟なので準三好一族という理解は成立する」となる。三好氏の男系子孫ではないが、池田長正と似たような位置付けとは言えるだろう。
おまけ 芥川孫十郎の実名
芥川孫十郎は長慶に複数回離反したことや、その没落が長慶の芥川城入城の契機となったことから、三好氏のみならず畿内戦国史関連本でも言及されることは非常に多い。その一方で、孫十郎は軍記ものでも実名は特定されず、発給文書は全て通称で署名していることから、誤っている可能性のある実名すら比定されていないという状態にある。もっともこれは孫十郎の花押と一致する実名署名の文書が出てくるか、発給者を「芥川孫十郎(右近大夫)」とする実名署名文書が現れない限り確定できない問題である。とは言え、運のよいことに孫十郎の実名について状況証拠を積み重ねていくことはできる。
- 芥川常信書状案 鹿王院文書
仁木殿屋敷三条御蔵町壱町月地子事、芳松軒ニ被仰付候之間、如先々可納所候、若於他納者、可為二重成者也、謹言、
芥河
十二月十七日 常信
御くらちやう
百姓中
(私訳)仁木殿屋敷分である三条御蔵町の一町分の月の地子銭は芳松軒に(細川氏綱が)仰せ付けられたので、以前のように(芳松軒へ)納めるように。もし別のところにも納めたら二重成となる(ので別のところに納めてはならない)。
天文18年(1549)6月江口合戦で細川氏綱・三好長慶が勝利すると、氏綱は京都支配に乗り出す。その中で氏綱は闕所となった「仁木殿屋敷分」を芳松軒なる人物に与えた。これを受けて芥川常信なる人物は「仁木殿屋敷分」を芳松軒に納めるよう三条御蔵町に命じている。ところが…
- 芥川清正書状案 鹿王院文書
尚々申候、当知行鹿王院分者申事あるましき由申候、仁木殿之分申事候、
御折紙令拝見候、仍而仁木殿屋敷之事、万(芳)松軒ニ被仰付候、鹿王院分之儀者、何とも不存之由被申候、何も近日被罷上候間、有様ニ可申付との被申事候間、相替儀候者重而可被仰候、恐々謹言、
芥河美作守
十二月廿六日 清正 在判
鹿王院
御奉行
御返報
(私訳)御折紙を拝見いたしました。仁木殿屋敷分は芳松軒に(細川氏綱から)仰せ付けられておりますが、鹿王院分のことはノータッチと申されております。とにかく近日上洛されますので、現状維持ということを申されておりますので、また何かありましたら重ねて御連絡くださいませ。追伸…(三条御蔵町の件は)鹿王院分についてはイチャモンを付けたりはしておりません。あくまで仁木殿分の話をしております。
三条御蔵町の領主は鹿王院であった。「仁木殿屋敷分」も鹿王院の権益の一部であり、鹿王院は「仁木殿屋敷分」が芳松軒に与えられたことに抗議したようである。そこで芥川美作守清正は鹿王院に対し、芳松軒に与えられたのは「仁木殿屋敷分」のみであって他の鹿王院権益は侵害しないと弁解している。
芥川清正はこれ以前の天文18年(1549)10月にも西岡に段米を賦課しようとしている(『戦三』二五五)人物で、その際は四郎左衛門尉を称している。清正および先行して氏綱の意志を奉じた芥川常信とは何者だろうか。
下京三条之内鹿王院領地子銭事、号仁木殿分芳松軒違乱処、従寺家芥河方へ注進候、然処美作守方へ被申付、鹿王院領違乱無之由、放状被出候、然処寄事左右、百姓等拘置之由、不可然候、彼御寺之儀者筑前守寺奉行之儀候、早々任当知行之旨、可有寺納候、恐々謹言、
三好日向守
正月廿日 長縁(花押)
当院
百姓中
(私訳)三条のうち鹿王院領の地子銭について、芳松軒が「仁木殿分」と号してそれを侵害していたところ、鹿王院より芥川方に注進があった。そこで芥川清正に申し付け、鹿王院の権益を侵害しないように放状が出された。であるので、何だかんだ言い逃れをして町人たちが(鹿王院への地子銭の)納入を拒否することはあってはならない。鹿王院のことについては三好長慶が仕切っているので、鹿王院が支配している実態に合わせ、鹿王院に(地子銭を)納めるように。
細川氏綱は「仁木殿屋敷分」を芳松軒に与えたが、三好長慶は鹿王院の訴えに応じて別の判断を下した。芳松軒が「仁木殿屋敷分」を与えられたと称して地子銭を回収しているのは鹿王院権益の侵害であり、実際に鹿王院が支配している実態(当知行)に合わせて、地子銭は鹿王院に納めるようにと三好長逸が通知している。当初の芥川常信書状案では「二重成」を禁止し、芳松軒への納入を求めていたので、長慶・長逸による鹿王院への納入命令は明らかにそれとは合致しないものである。この氏綱の意志と長慶の判断の不整合はその後も二転三転していくことになるが、阿部匡伯「十河一存の畿内活動と三好権力」(参考文献参照)に詳しいので割愛する。
注目したいのは長逸が簡潔に記しているここまでの経緯である。鹿王院が芥川方に注進し、その結果芥川清正に申し付けられ、鹿王院権益の侵害を抑止する放状が出されたというのである(放状は芥川清正書状案に該当すると考えられよう)。この段階での芥川城は裁許の場として機能してはいないので、芥川方とは芥川氏を意味する。また、清正に申し付けられと敬語表現が見えるので、ここでの芥川方と清正はイコールではなく、芥川方が清正に対処を委任したという解釈が成り立つ(なお「申付」の主体を細川氏綱と見るのは、他の文書では氏綱の指令を「仰付」と呼ぶことから考えにくい)。つまり、この芥川方とは芥川清正の上位に位置し、通称を記さなくても誰なのかわかるレベル、すなわち芥川氏の当主格の人物である。三好長逸が内情を知ることからもこの芥川氏当主格の人物は長逸に近しい位置にあるとも言えるだろう。
そして鹿王院が注進を寄せた(抗議した)人物、清正の上位にあたる人物としては、芳松軒への納入を町に直接命じた芥川常信しか該当人物は考えられない。中西裕樹氏は芥川氏の通字を「信」と推定しているが、常信という実名は孫十郎先代の常清と「信」を合体させた実名である。常清は恐らく豊後守家を再興した人物なので元々は芥川氏の人物ではなかったため、「信」を実名に含んでいなかったが、その後継者は摂津芥川氏の正統な後継を自認して「常信」を称したと見れば整合的な実名となる。また、常信と清正は恐らく主従・一族関係にあるが、清正の「清」は常信の先代・常清から偏諱を受けている可能性が高い。
とは言え、芥川常信の発給文書は上記のみしか管見に触れず花押も据えられていない。この人物が孫十郎である可能性は非常に高いと睨んではいるが、確証があるわけではない(例えば、常清の死後その地位を襲った孫十郎は簒奪者で、排除された正統な後継者である常信は氏綱方に走り、江口合戦で復権したという想定も不可能ではない)ので、新しい史料の発見や解釈に期待したいところである。
参考文献
阿部匡伯「十河一存の畿内活動と三好権力」『龍谷大学大学院文学研究科紀要』41号、2019年。
opac.ryukoku.ac.jp
中西裕樹「戦国期の摂津国人・芥川氏について」『しろあとだより』3号、2011年。
https://www.city.takatsuki.osaka.jp/uploaded/attachment/12336.pdf
中西裕樹『戦国摂津の下克上』2020年。
馬部隆弘『戦国期細川権力の研究』2018年。(特に関わるのは「細川澄元陣営の再編と上洛戦」)