志末与志著『怪獣宇宙MONSTER SPACE』

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石井伸夫・重見髙博・長谷川賢二編著『戦国期阿波国のいくさ・信仰・都市』(戎光祥出版)の感想

 四国東部の戦国史は常に畿内のそれと不可分な関係にあった。畿内で力を持った細川氏・三好氏は四国東部を勢力としていたし、織田信長も三好氏との関係を一つの軸として四国情勢に関与・介入した。一方で、畿内権力の研究が様々な角度から切り取られて進展しているのに対し、畿内権力の研究から四国の勢力が位置づけられることがあっても、四国側の研究の進展が畿内の歴史の見方に影響するということはそこまでないように見受けられる(四国の側は受動的に語られることが多い)。四国の研究への目線は、畿内権力の研究から一方的に多大な影響を受けていたとも言えるだろう。
 しかし、四国は畿内から一方通行で影響を受けている地域というわけではないはずだ。四国には個別の歴史があり、それが中央や他地域に影響・連関するという視点はあって当然である。とは言え、四国の戦国史研究も現状軍記ものなどに基づいた既存の歴史像を一次史料によって検証・更新していく発展途上の段階にある。
 そうした中で出たのが本書『戦国期阿波国のいくさ・信仰・都市』である。四国の阿波一国で論文集が出せる段階にあるとは正直思っていなかったが、現在の阿波戦国史研究のリアルを示している企みと論題になっているのは間違いない。今後どのように阿波の戦国史が発展していくのか、阿波の戦国史から何が得られるのか、そうした問題を示す紐解くものとして大いに期待するところであった。
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 ところで本書の論文には2つのタイプがある。どれも史料を用いて何らかの主張をしている点では同じだが、新しい歴史的事実を指摘するものと既存の歴史的事実を再構成するものがある。もちろん後者も論題に沿って既存の事実が再構成されることで、新しい視点を提供しているのだが、どうしても新鮮な驚きには欠ける。この記事では感想を述べやすい前者の論文に重点を置いて紹介していきたい。

第一部 いくさと政治

 今回一番注目していた論文。何せ馬部先生は論文出しまくっている上に、注で「詳しい説明は今度出るこの論文で」と投げることも多いので、この論文だけはその存在が半年以上前からわかっていた。さらに個人的に注意を引いたのが、実は私が用意していたネタと丸被りしていたこと。以前「三好宗渭・為三」を書いた折に晴元残党としての宗渭(政勝・政生)の活動を記述したのだが、そこで晴元残党の人脈や動向を簡単に整理していく上で、「実は江口合戦後の晴元にも結構求心力があったのではないか?」と感じた。それ以来暇な時に晴元残党の文書を収集し、編年も行って、そのうちブログ記事のネタにしようかという目論見もあったのだが…。そうこうしているうちに論文が出てしまった。しかし一応ここまでも自分で考えたこともあったのだし、馬部先生の晴元像や文書編年と自分の考えがどう同じでどう違うか答え合わせにもなるので興味深いところではあった。
 そういうわけでまずは答え合わせパート。晴元発給文書については2・15・28・29・31・36・38・42が未確認であった(25は、写は知っていた(『戦国遺文 三好氏編』に入ってますしね)が、原文書が残っているのは知らなかった)。もっともここらへんは刊本に翻刻されていないものなので、史料編纂所などの所蔵機関に行けない身ではなかなか気付けない。晴元の署名と花押が晴元(花押2)→永川(花押4)→晴元(花押4)→晴元(花押2末)(花押の名前は馬部論文による)と推移することも気付いてはいたが、最初の晴元(花押2)と最後の晴元(花押2末)の違いには気付けなかった。ここは取次者の「波々伯部伯耆守」に惑わされたこともあり、波々伯部元継は入道するので取次者に「波々伯部伯耆守」とある文書は全て入道前にしてしまっていた。それでは編年がかみ合わないことも薄々勘付いたのだがどうしても妙案が思い当たらなかった(出家してはいるが取次文言では入道と書いてないとかか?)。波々伯部元継が還俗していたというのはまさにコペルニクス的転回的衝撃で「その手があったかァ~~~」だった。
 晴元部下の発給文書では香西元成と三好宗渭の発給文書も一覧になり編年となっていた。こちらは宗渭の文書は『戦国遺文 三好氏編』に収まっていることもあり、抜けがあったのはホのみ。編年もほぼ正解で特に宗渭の実名変更タイミングも私の想定と同じだったのでほっとした。また、ネが入っているのも隠れたポイントである。かつて馬部先生が松田守興の文書目録を作られた際にはネの典拠文書集にある守興の文書を見落としていたので、その後知る機会があったのであろう。反映が間に合って良かったですね。
 ここからがいよいよ本題。今回の論文で明らかになったのは江口合戦後の晴元がどれだけ支持されていたかという部分だろう。江口合戦から三好氏に降伏するまで実に10年以上の長きに渡って晴元は活動を続けていたが、なぜここまで抵抗できたのか。畿内とその周辺だけを見ていると基本的に三好方が圧倒しているように見え、足利義輝や六角氏も三好氏(とその与党)相手に渡り合えていたわけでもなかった。今回は晴元の足跡を実証的に辿る中、マクロな視点を導入することで三好方の「圧倒」を相対化することに特色がある。その結果、丹波や四国では必ずしも三好方が「圧倒」していたわけではなく、情勢が流動的であったことが示される。天文22年の足利義輝の晴元支持への翻意は、その後5年の追放の直接的原因になったことから判断ミスであるが、晴元を支持することの無謀さを過大に評価するべきではないとは言えるだろう。
 特に注目されるのが、晴元と北陸方面の大名との繋がりが明らかにされている点。個人的に山田康弘先生が提唱された本願寺足利義輝による三好包囲網に参画していたという説には懐疑的だが、本願寺も加賀の「戦国大名」(的存在)なので、若狭・越前・越後に晴元支援グループが存在したのであれば、「包囲網」ももっと巨視的に捉えられるのかもしれない。
 一方で本論文では晴元を再評価して言わば持ち上げた点と、結局晴元が屈服に至るという点があまり対応していない気もする。晴元の両腕が香西元成と三好宗渭であり、両者を失ったことで晴元は抵抗を断念したという趣旨は大いに首肯されると思う(私も「三好宗渭・為三」の記事ではそう書いたし)。ちょっと話がずれるけど、香西元成は出家していて道印と名乗っていたことを直接的に示す史料ってあったんですね。閑話休題、北陸に晴元支援グループがあったとしてそれはどこまで続いていたのか、それがなくなったから晴元は降服に至ったという側面が、他の関連論文(「六角定頼の対京都外交とその展開」「内藤宗勝の丹波・若狭侵攻と逸見昌経の乱」)と合わせても今一つ説明されていない感想を持つ。そもそも北陸の晴元支援の大名たちは晴元を排除しない一方で、軍事的な支援も特にしていないので、どこまで晴元支援の「実態」を評価できるかという問題もある。
 何にせよ、馬部論文は常に啓発的であるし、北陸の大名研究者も含めてどのようにこの成果が生かされていくかが楽しみですね。

 論文タイトルでは「西阿波の国衆」とあるが、実質的に大西氏の動向を再検討したもの。これくらいの規模の国衆を主役に据えると、論文の密度も上がり、焦点も定まるので読みやすいですね。中平氏の一次史料を基礎に、編纂物の記述を読み解きつつ、矛盾のない歴史像構築という丹念な仕事ぶりが堪能できる。大西氏の系譜や長宗我部の大西攻めや重清合戦の年次も書き換わったので、Wikipediaの記述がまた混乱するのかもしれない(「香川之景」の記事の脈絡のなさを念頭に置いている)。
 大西氏は阿波西部の有力な国衆なのだが、三好氏と長宗我部氏の間を移動するし、一族でも去就をめぐって分裂している。これは長宗我部氏の一方的に阿波を征服したわけではなく、在地勢力と協力しつつ勢力を扶植し、最終的に在地勢力を完全に傘下とするか排除してしまうというプロセスを考える上でも示唆に富む。また、国衆目線で言うと、生き残るための選択肢は複数あったことを意味しており、だからこそ去就にあたって重視されたものが何であったかが国衆論としては重要になってくるのではないだろうか。
 三好家目線で言うと、天正6年の三好義堅(十河存保)推戴によってそれなりに勢力を取り戻していたことが窺えるのは興味深い。当該期の阿波では三好氏はただ衰退に向かっていたのではないことを念頭に長宗我部氏や織田氏、毛利氏の動向も紐解かれる必要があるだろう。

  • 森脇崇文「天正七年阿波岩倉城合戦の歴史的意義」

 中平論文では基底に三好家の存在感があったように見受けられたが、その存在感が一つの転換を迎えるのが天正7年末の岩倉合戦だ。岩倉合戦が一つの転機であることは先行研究でも仄かに主張されていたが、その意義を直接正面から問う論文はこれが初めてとなる。こうした局地的ながら重大な意義を持つ戦闘に切り込めるのも、今回の論文集ならではと言える。
 中平論文とも通底するが、長宗我部氏の阿波侵攻は長宗我部氏の勢力が一方的に阿波を侵略しているのではなく、阿波に長宗我部氏と通じる勢力、三好義堅には従わない勢力がおり、それらの協力があってこそ侵入が可能になっていることが明らかにされている。
 ところで畿内で活動する阿波三好家の武将に大島助兵衛がいることは気付いていたが、三好式部少輔の周辺にいる大島丹波と同一人物とする理解には驚いた(大島丹波守の子孫の系図では丹波守およびその父が「助兵衛」を称していることになっているため)。森脇先生の年来の検討により、三好長治横死後、阿波の勢力が毛利氏と同盟する「勝瑞派」と織田氏との提携を志向する「反勝瑞派」に分裂したということが共通の前提として受容されつつある。また、森脇先生は先年の「天正三・四年の畿内情勢における阿波三好家の動向」において、天正3年の三好康長の織田氏への「降伏」は織田氏と阿波三好家の和睦であったと主張されている。畿内における東条紀伊守と阿波の東条関兵衛の関係など、畿内に三好康長らの勢力が残っている以上、阿波の「反勝瑞派」とは潜在的な関係性は維持されていたように見受けられ、阿波の在地勢力の動向と畿内側の思惑は不可分ではないのだろう。
 岩倉合戦自体は大きな目で見ると局地的な戦闘にすぎないが、その背後には様々な思惑が広がっている。一戦闘を注視することのダイナミックさを感じられる論文だった。

第二部 流通・信仰・都市

  • 重見髙博「勝瑞城館の池庭の栄枯とその背景」

 勝瑞城館には池庭があり、細川氏の示威施設として機能していたが、16世紀中葉に廃絶し、土器皿の焼成窯になるという。この論文ではそこに細川から三好への権力交代の影響を見ているが、それにどういう意味があったのかは保留されている。確かに時期的に細川→三好の権力交代によって池庭が廃絶した可能性は高いように見えるが、三好実休・長治は真之を保護・推戴しているため、わざわざ威信建築を廃棄し威信とは何の関係もなさそうな焼成窯を設けるのもよくわからない。ただ、それ自体が細川→三好の権力交代にはまだまだ謎が内包されていることを示していて啓発的である。両権力の性質についてもこうした考古学的知見を採り入れて考える余地はまだまだあるのだろう。

  • 長谷川賢二「四国遍路と熊野信仰の関係をめぐる再検討」

 正直宗教史についてはよくわかっていないのだが、四国遍路に熊野信仰が流入した、その流入は組織的であったという「通説」がこの論文では否定されている。この論文では丹念に史料を洗いつつ「通説」を解体していくが、その結果の再構成は途上にあるのが示される。何となく全体の解体はしたが再構築に至っていない流れにデジャヴを感じる。

  • 石井伸夫「戦国期の阿波における仏教系諸宗派の展開と武士・民衆」

 阿波では圧倒的に真言宗の力が強く、他の宗派は教線拡大を図る必要があった。この論文では曹洞宗細川氏と、日蓮宗が三好氏と結んで拠点を形成していることを指摘する一方で、浄土宗は絵解き説法によって信者を拡大していったことを示している。どうしても権力論とリンクする形での宗教史を念頭に置きやすいが、権力と関係せず民衆受けを狙う方法論もあったことは見逃せない視点に思った。

  • 福家清司「中世後期阿波国一宮氏の歴史的変遷」

 第一部に入っていてもおかしくはないような内容で中世の一宮氏の系譜について全体像を大まかに提示している。一宮氏も阿波以外にも京兆家被官や丹波国人として存在しており、それらの関係性について考察されている。この論文は率直に言って一宮氏について素描に留まっているが、まだまだ阿波の在地勢力でどのような歴史的背景を持ちどのような系譜で中世に活動していたのかという基礎的な事実が明らかになっていない氏族も多く、これからの発展に期したい。
 戦国期の一宮氏と言えば、一宮成相が突出して有名だが、結局彼が粛清されたのはいつなんでしょうね。成相の粛清は後世の編纂史料では天正10年11月の粛清で一致している。ところが、成相は「一民」を名字と官途のイニシャルにしており、天正11年3月には長宗我部元親・信親父子が「一宮民部少輔」に知行を宛て行っている上、天正11年っぽい9月3日の細川信良書状写で「成相が裏切ったので自害させたのは是非もないね」と触れられている。「一民」成相は天正11年3月に知行を宛て行われた「一宮民部少輔」の可能性がある上、11月の粛清から10ヶ月経った翌年9月に信良が「成相を始末したらしいね」とわざわざ言うのは不可解なので、成相の粛清は天正11年4月~8月に起きたという想定が可能になる。もっとも、それならなぜ後世に天正10年11月に粛清されたと一致して誤解されたのかという問題もあるが…。

  • 宇山孝人「阿波九城の成立と終焉」

 蜂須賀氏の阿波入部後、豊臣秀吉の指示で阿波九城に重臣たちが配置されたことは知っていたが、その意味付けについては思いが及んでいなかった。特に阿波九城に配置された「重臣」はほとんどが蜂須賀氏の与力であり、直属の家臣ではなかったという点に注意が引かれる。蜂須賀氏の入部を以て阿波の「近世」が始まるようなイメージがあるが、徳島の蜂須賀氏が国主でありつつも、九城に独立性の強い城主が存在するというあり方はある種細川・三好の体制を踏襲している部分なのかもしれない。そして、江戸幕府一国一城令によって、九城体制は終焉へ向かい、城主たちも蜂須賀氏の家老に転じていく。どうしても権力者の交代によって一気に体制が一新されると思いがちだが、変化というのは漸進的に起きる。この論文はもはや戦国期とは言えないが、図らずも近年の戦国史研究において主張されている漸進的な中世から近世への転換を想起させられた。

まとめ

 読後の印象としては『戦国期畿内の政治社会構造』の阿波バージョンである。『戦国期畿内の政治社会構造』は「戦国期畿内」と銘打ってはいるが、内容としては事実上和泉国を扱った論集となる。現在でも戦国期和泉について政治・社会・文化を探求するにあたっては必須な論文が揃っている。その一方で、各論文に擦り合わせがあまりなく、史料を重複して用いつつもその扱いは差異と言うより濃淡がある。また、一方の論文で明らかになったことが他方では反映されず、論集全体の前提というものがあまりない。ただし、研究途上で作られる論集はやはりこういうものになるだろうし、だからこそ一里塚としてこういう論集が求められるとも言える。

 読者に戸惑いを持たせるような各論文の相違点の一つとしては、長宗我部元親平島公方足利義助に発給した文書の評価がある。石尾論文ではこの史料を真正のものとして、長宗我部氏の平島公方への接近を評価する一方で、天野論文では偽文書としている。個人的には偽文書とするのが妥当と思うが、石尾論文は「通説」的に義助発給文書の写を扱っているので、なぜそれが真正のものなのかわからない分、読者に混乱が生まれるかもしれない。
 逆に見解の差で面白かったのは三好徳太郎と式部少輔の関係性である。いずれの論者も三好徳太郎が康長の子であることは認めているが、中平論文では徳太郎が死去した後に式部少輔がその立場を継いだ別人説、森脇説は徳太郎と式部少輔を同一人物とする可能性を指摘する。個人的には別人説ではないかと考えているが、森脇説もまた徳太郎と式部少輔を別人とする先行研究に反論しており、別人と考えるのであれば、再反論が必要になってくるだろう。個人的には以前にも述べたように、徳太郎がどこかの段階で死去したことが、康長が信孝・秀次を養嗣子に迎える契機になったと考えているので、康長の織豊政権における地位とも議論をリンクさせることが必要ではないだろうか(ちなみに岩倉城には三好徳太郎の天正8年の墓石が残るがこれもどう評価して良いか考えあぐねている)。
 構成としては、まず大まかに政治と文化の2部立てになっていることがうれしい。私自身どうしても政治関係であれやこれや言っているところがあるが、真に興味のあるのはその時代のどのような人物がどのように暮らしたかという部分なので、むしろ宗教や都市環境の方がそうしたところには関わる(ただしその前提として政治史が解き明かされなければならないと考えている)。阿波における文献史料は他地域に比べて多くもないので、なおさら遺構・遺物や思想面から何が言えるのかは重要だ。文献だけを見ていては限界があるが、その限界をどのように打破すればいいのかという方法論を2部構成が示してくれる(不案内な分野なので感想を書けなかった論文が多いが)。
 また、あまり言われないかもしれないが、論文の並び方も面白い。古野論文が細川氏・三好氏の研究価値を述べた後に馬部論文がそれを証明するように精緻な成果を上梓する。新見論文が阿波在地勢力の動向を注視した後に、山下論文が本願寺・雑賀、石尾論文が長宗我部との関係を述べ、中平・森脇論文が実証的に在地をクローズアップしていく。そして最後に全体を俯瞰するように天野論文が阿波公方の全体を示していく。第2部は逆に文化的な論文ながら並びが時代順になっていて政治権力の推移を意識しているようにも見える。論文と言うと実直なだけというイメージもあろうが、どのように魅せていけるのかが考えられているようにも思った。

以下 個別に気になったあれこれ

  • 古野貢「細川氏・三好氏の権力構造」

 見開きまるまる使って系図を引用しているが、天野先生の三好氏系図も適宜修正・更新がされていっており、細川系図10年前のものがそのまま成り立つわけもない。細川氏系図も庶流家の系図を一緒くたにまとめてしまうと、名前の多さに圧倒されてしまうものだが、だからこそ最新の知見で作られてたら価値があっただろうにと思わされる。

  • 新見明生「阿波国衆の中の三好氏の立場」

 『戦三』一二二〇「三好康長書状写」に出てくる「御屋形様」は三好長治でも細川真之でもなく、細川信良(昭元)ではないですかね。

  • 天野忠幸「阿波公方の成立と展開」

 阿波公方関係の史料をよく博捜されていて、長宗我部元親の足利義助宛の文書が偽文書なのも妥当だと思うが、気になるのは触れられていなかった以下の史料。

阿波国平島庄西光寺依被居御座、当寺領年貢諸公物等永代被免許訖、弥可被抽御祈祷精誠之由所被仰下候也、
   天文十六年四月十三日    沙弥善行
    西光寺参

 典拠の『阿州将裔記』自体史料としては信憑性に欠けるものであるし、この文書も「仍執達如件」のような奉書特有の書止が見えないが、完全に偽文書かと言うとそうとも言い切れないように思う。阿波公方の在地支配を示しているのかもしれないし、この文書への評価は気になる。

  • 須藤茂樹「阿波の戦国文化史」

 松永久秀が平蜘蛛の釜とともに自爆を図ったことはよく知られていると書いてあるが、事実無根です…。こ、ここは最低でも編集の方で訂正をしないといけないところだったのでは?