結城忠正は松永久秀の重臣として、そして畿内の最初の日本人キリシタンの一人としてよく知られる。彼についてはそれ以上の情報があまりなかったが、近年木下聡氏が奉公衆結城氏の検討を進める中で忠正が奉公衆結城氏の系譜を継ぐことが明らかになった(「奉公衆結城氏の基礎的研究」)。すなわち、木下氏が忠正について明らかにしたのは以下の通りである。
- 奉公衆結城氏には一番衆・二番衆・五番衆に三家が存在する(以下、この記事では所属によって奉公衆結城氏を~家と呼ぶことにする)。二番衆家が足利義満の寵臣で山城守護を務めた結城満藤の嫡流子孫であり、十郎→勘解由左衛門尉→越後守を称する。この家は代々作事奉行を家職とした。
- 奉公衆結城氏は結城政胤・尚豊兄弟が足利義尚に重用されたが、兄弟への反発は強く義尚の死後兄弟は失脚、政胤の子・元胤は細川京兆家に接近する。
- 結城元胤の子・国治(十郎)は長じて国縁(勘解由左衛門尉・左衛門尉)となる。国縁の事績は天文後期に途絶え、入れ替わるように天文末期結城越後入道忠正が登場する。忠正の子・孫七郎は長じて左衛門尉を名乗っており、忠正が越後守を名乗っていたことから、結城忠正とは結城国縁の後身にあたる。
- 結城忠正は松永久秀に仕えつつも、子息左衛門尉とともに幕府への出仕も継続しており、奉公衆の自覚を持っていた。
ところが、馬部隆弘氏は「足利義昭の城普請と奉公衆」(『織豊期研究』23、2021年10月)において結城貞胤の素性を明らかにする中で天文~永禄期の奉公衆結城氏について再検討を行った。その中で結城氏に関わる指摘は以下の通り。
- 結城国縁は『万松院殿穴太記』によると、天文14年~15年に死去し、実際に天文14年1月を終見とする(『言継卿記』)。同年10月には結城七郎が作事奉行に任命されており(『大館記』)、国縁の死去により弟で五番衆家を継承していた七郎貞胤がその地位を引き継いだと見られる。七郎貞胤は永禄前期に二番衆家で記されたり、五番衆家で記されたり位置づけが安定しないが、五番衆家から二番衆家に入ったため混乱が生じていたのではないか。七郎貞胤は作事奉行を務め続け、永禄の変後に民部少輔に任官している。永禄13年1月の「結城越後守」(『言継卿記』)も二番衆家継承を盤石にした貞胤ではなかろうか。
- 永禄期に見える結城彦七郎は実名を「信守」といい(「山内首藤文書」)、永禄3年(1560)8月直前*1に五番衆家当主となったと思われる。義昭期には見えないので永禄の変で戦死した結城主繕正も信守ではないか。彼が彦七郎を称していたのは、元五番衆家で現二番衆家の貞胤がなお七郎であったからと思われる(忠正子の孫七郎も同様であろう)。
- 一番衆家は天文末から永禄にかけて七郎四郎(宗俊)が常に当主におり存続している。
- 以上より結城忠正はどの奉公衆家にも位置付けられない。ただし奉公衆としては認知されている。貞胤が二番衆家の当主になるにあたって、五番衆家当主となったのが忠正ではないか。しかし、忠正は義輝から離れ松永久秀に接近したため、義輝は代わりに信守を五番衆家に擁立したと思われる。
- 「結城越後入道」は『言継卿記』に一度しか現れず(天文22年閏1月1日条)、その後の忠正は山城入道と呼ばれる。忠正を越後入道とする記述は山科言継の誤解か、忠正が義輝から離反した際に嫡流の受領名を僭称した可能性が考えられる(後者の場合、義輝に再出仕する際に貞胤に配慮して受領名を改めた可能性がある)。
以上の馬部説の出現により、結城国縁=結城忠正説は覆され、結城忠正は再び正体不明(どこからか五番衆家を継承した人物)となった。
しかし馬部説も疑問なしとしない。個人的に気になっているのは以下のようなこと。
- 結城忠正も弘治2年に御所の修理の奉行を務め(『厳助大僧正記』)、三好氏の下で作事奉行を務めている。また、子息の孫七郎は二番衆家の官途である左衛門尉を称する。こうした事実は忠正父子が二番衆家の人物として一定の正統性と実力を備えていた証左となる。
- 結城忠正子の左衛門尉は天文3年(1534)前後に生まれている(『フロイス日本史』)。また、忠正の妻は勧修寺尹豊の娘であった(『言継卿記』・『尊卑文脈』)*2。こうした人物が天文10年代にぽっと出の結城氏の庶流の庶流クラスにあるとは考えにくい。
- 結城貞胤を国縁の弟と見た場合、父元胤は永正17年(1520)が終見なのでその前後までに生まれている必要がある。しかし、すると貞胤は若く見積もっても40歳代になって初めて任官したことになり時期が遅すぎる。活動時期的に国縁より世代は一つ下ではないか。
- 結城信守の抜擢が永禄3年8月直前だとすると、この時期足利義輝と三好氏は和解しており忠正に向けて対抗当主を立てる意義を読み取るのは難しい。何より忠正は幕府への出仕も続けており、奉公衆としての地位は全く否定されていない。同様のことは忠正が越後入道を山城入道に改めたことについても言え、越後入道を名乗っているのは天文22年で前年に長慶と義輝は和睦し、この年に再決裂している。忠正が貞胤への配慮から受領名を改めたにしてはタイミングが整合しない。
以上より、結城貞胤は国縁の弟とは考えにくく、忠正が庶流の庶流クラスの人物とはとても思えない。結城信守の抜擢意図も不明となる。個人的にこの問題を実証的に解決する材料も持っていないが、試案として一つ考えを述べておきたい。
結城十郎国治と結城勘解由左衛門尉国縁は登場間隔に10年ほどの開きがあり実名も異なっている。木下氏・馬部氏ともに国治と国縁に連続性があると見るが、両人を同一人物と見る確証があるわけではない。もちろんだからと言って別人であることが主張できるわけもないが、あくまで試案なのでここでは別人と考えてみる。国治と国縁の間の10年は堺に足利義維が現れ、義晴幕府も揺れに揺れた。京都支配者は入れ替わり入れ替わり、その中で国治は足利義維方と結んで没落したのではなかろうか。そこで義晴は五番衆家から国縁を抜擢した。ただ国治が復帰する可能性も一応あったため、国縁は子息の貞胤に五番衆家を継承させ自身は二番衆家の中継ぎの位置を維持したのではなかろうか。しかし、国治が復帰しないまま国縁が死去したため作事奉行の家職を貞胤が継承した。そのため、貞胤が二番衆家当主なのか五番衆家当主なのかが曖昧になったのではなかろうか。
そして件の国治が三好長慶の下剋上に合わせて忠正として復権・再登場したと解せば、れっきとした奉公衆でありながら三好氏に非常に近しいのも理解できるのではないだろうか。越後入道から山城入道への改称も、二番衆家の受領名よりも遠祖満藤が守護職を務めた山城の方がより強い嫡流主張に繋がったからかもしれない。
しかし、すでに結城貞胤が幕府の作事奉行を歴任しており、永禄以降義輝と三好が提携すると、その地位を揺るがすのはもはや現実的ではなかった。そのため貞胤が正式に二番衆家当主として作事奉行を務めることが明らかになり、五番衆家が正式に空位となったため信守が抜擢されたのではないだろうか。
屋上に屋を重ねた空論との誹りは免れないが、私が思いつける整合的な筋はこんなところである。記して後考に待ちたい。
なお余談だが永禄13年1月の「結城越後守」は木下氏・馬部氏ともに貞胤の可能性を指摘するが、忠正である可能性もある。永禄12年に松永久秀が通称を弾正少弼から山城守に改めるため、久秀の配下としての顔も持つ結城忠正は山城守の通称を変更する必要に迫られたであろうからである。そうした場合、かつて称していた「越後守」に通称を戻した可能性も高い。いずれにせよ元亀以降忠正の活動は確認できなくなりこの頃に死去したと考えられる。
「ところでお前の結城忠正記事はいつ出来るんだよ?」
「まあ今世紀中には…」