先日、「松浦光―和泉国の戦国大名」に情報提供をいただいた。
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それを聞いて驚いた。永禄11年の九条稙通の動向を示す文書があるという。
それが上記リンクの天正13年(1585)の『稙通公記』の紙背に残された塩川長満の書状二点である(上記リンクの4頁と6頁にあたる)。
情報提供者の利右衛門様は大阪府豊能町の文化財保護委員を務めておられ、上記書状を近日豊能町教育委員会のHPにて紹介されている(今回の情報提供には当ブログの記事をリンクしても良いかという問い合わせもあった。実に恐れ多い限りであるが後述するように断る理由もないので掲載いただいている)。
内容の説明や論考はコラムとも合わせてかなり丹念なものとなっているので、私の方からあれやこれや言えることはほとんどない。以下、今回の「発見」の意義を交えつつ感想を述べることで紹介に代えさせていただくことにする。
これは本当に驚いた。九条稙通と塩川長満に提携関係があったとは!
まずは九条稙通だろう。馬部隆弘氏の研究成果により、九条稙通は天文期の出奔の後三好氏に接近することで復権、永禄8年(1565)から始まる三好政権の分裂後は松永方のフィクサーであったことが明らかにされた。具体的には十河一存の妻は稙通の娘(養女)であり、三好義継・松浦光は稙通の孫であった。稙通は婿の一存を用いて九条家領およびその周辺権益の確保・発展を図っていた。実際に代官や押領を行うのは一存なので一存にとっても美味しい話であり、両者は共存共栄関係にあった。ところが、一存が死去し義継が三好本宗家を継いだことで、十河氏は阿波三好家から存保が養嗣子になり、九条・十河の信頼関係は崩れる。さらに三好氏が根来寺と和睦した際和泉の土地を根来寺に引き渡したが、その替地は支給されなかった。稙通にとっては三好氏と近縁なことが不利に働く場面も出てきた。
そのために稙通は、クーデタによって政権を握り阿波三好家と結ぶ三好三人衆に反発し、自身が後見する松浦光を通して、松永久秀の陣営に与した。永禄9年に松永方が敗北し三人衆は畿内和平を求めると、稙通は所領を求める強気の交渉に打って出る。さらには永禄10年には三人衆が戴いていた三好義継をも松永方に取り込み、永禄11年には畠山氏出身の細川刑部大輔を和泉守護として畠山氏との連携を深めるなど、松永方の戦略を担った。稙通は戦乱の中右往左往していたのではなく、むしろその主導的な地位にあった。
しかし上記の馬部説にも弱点があった。松浦光の代理人として起請文や文書を発給している出家の人物の花押は九条稙通の花押とは一致しないのである。松浦光の後見人である僧が九条稙通その人である確証はなかった。もちろん状況証拠はある。光の後見人は起請神格に「多武峰大明神」を入れているが、稙通は多武峰大明神への信仰厚く、実際に多武峰大明神に起請したことが確かめられる。また後見人は畠山氏の家臣や細川刑部大輔に対し比較的薄礼の文書を出しており、身分としては守護格以上にある。そして戦乱の結果として九条家は三好義継より所領を返付されている。こうした状況証拠から見て、後見人が九条稙通以外の人物とは考えられない。馬部氏は花押の不一致について稙通が武家様の花押を用いたともされている。現段階ではそのように考えるしかないのであろう。
そうしたところ今回の文書である。長満の文書は九条家の家司に宛てて出されているが、これは身分差によって偉すぎる人物には直接文書を出せないことに由来するものであり、実質的な宛所は九条家の当主の稙通である。書状によると稙通の「当城」への御成や『源氏物語』・『古今和歌集』の講義があり、また「御国」や織田信長が近江まで出張ってきた話題がある。さらに伊丹忠親との連絡にも長満が関与していたようである。内容面から見て永禄11年の情勢でほぼ間違いないだろう。「御国」とは根来寺が関わることから和泉と見て間違いなく、永禄11年の稙通は確かに和泉を本拠地としつつ、伊丹氏・塩川氏と連絡し時に実際に出向きながら織田信長の上洛を待っていたことがはっきりしたのであった。松浦氏こそ出てこないが、稙通こそが光の後見人であるという馬部説はさらに状況証拠を強くしたと言える。
塩川氏の歴史にも大きな示唆がある。塩川氏は天文期の当主国満がそこそこ有名だが、国満は三好長慶によって没落させられていく細川晴元の与党であり、三好政権が強固になるにつれ活動が見えなくなっていく。「池田衆」や「伊丹衆」あるいは「三宅衆」は三好氏の軍事行動に動員させられており、永禄4年(1561)に足利義輝が三好義興邸に御成した際にも参加している。摂津の有力国人でも池田氏、伊丹氏は三好氏の旗下となることで国衆の立場を保持・発展させており、両者が対立した際には三好政権が上位権力として仲裁も行っている。これに対して塩川氏は三好政権下ではほとんど出てこない。塩川氏の文書が多く残る「多田神社文書」を見ても三好時代には弘治3年(1557)に塩川民部丞頼敦が田地を寄進しているくらいである。しかし、頼敦は通称も実名も塩川氏の嫡流とは全く見えず、言わばこの時期は一次史料的には塩川氏にとって暗黒時代となる。
ところが周知の通り塩川氏は織田政権の時期になると復活する。永禄13年(1570)1月に織田信長が諸国の勢力に上洛を促した触状に摂津国人の中では池田氏、伊丹氏、有馬氏に並んで塩川氏が入っている。そして実際にこの年の野田・福島の戦いに塩川氏も参陣している。ここに塩川氏は特筆される有力国人として復活を果たし、織田政権でも地位を保つこととなった。
これまでは塩川氏の歴史について細川時代も織田時代も有力国人であったのが、三好時代だけ活動がよくわからず、そのため織田時代になぜ復活できたのかもよくわからなかった。しかし、今回の「発見」によって少なくとも永禄末~元亀にかけての塩川氏復活は説明できるようになった。畿内の勢力は三人衆方と松永方(大きく見れば足利義昭方)に二分されていたが、塩川氏は松永方に与し、その戦略を支えていたからであった(『永禄九年記』にも松永方としての塩川氏の活動は見えていたがその具体的な内実は不明だった)。足利義昭・織田信長上洛後、三好義継・松永久秀はその領域を認められ、伊丹忠親には加増があったともいう。松永方の有力者たちはいずれも義昭・信長上洛の後援者として評価されており、塩川氏の「復活」もこの一環だったのであった。
以上のように今回の文書「発見」は畿内戦国史、また義昭幕府・織田政権における諸勢力の動向を考えるうえでとても意義深い。新たな時代像・歴史像の礎になるだろう。
以下、それ以外に興味深い点もいくつか。
まず文書が稙通の日記の紙背にあったということである。稙通の日記は天正13年(1585)のもので実に15年以上も経ってから再利用している。現存の九条家文書には三好氏の関係文書はそこまで多いわけではなく、往年の友好関係を想起させられる分量とは言えない。内容としても所領支配や松浦氏の支配を認めるもので幾分素っ気ない印象もある。なぜ三好氏との親交を示す文書が九条家文書に残っていないのか?単純に散逸しただけかもしれないがあまりに「日常」であったので、現存しない稙通の日記に再利用されたということも考えられる。
また、文書の存在自体は20年以上前に指摘があったのも重要だ。先年天文期の阿波守護家当主の実名が細川持隆から細川氏之に書き換わったが、その典拠となる史料は30年近く前に紹介・翻刻されていたものであった。とっくに使用環境にあった史料が30年もの長きの間埋もれていたのである。新聞では新出の史料ばかりがニュースになるが、存在が指摘されながらも使われていない史料がまだまだあるのもある種の希望を持たせてくれる。
なお上記では、抑制的ながら近世の編纂史料である「高代寺日記」を使用している部分もある。私は「高代寺日記」の史料的価値について未だ十分な判断材料を持っていないが、情報提供によると寺田生家・松浦家のいわゆる寺田兄弟から塩川氏への書状があったという旨の記載があるようだ。この点だけ言えば実名を含めて寺田兄弟を把握しているのは編纂に依拠史料があった可能性を窺わせる(「生家」という寺田又右衛門尉の実名は近世以降ほとんど把握されていないので)。「信用できるのか」「信用できる部分はどこか」「虚偽であった場合なぜそれが書かれたのか」といった次元を同時に駆使しつつ読み解いていこうと思う。
それにしてもこんな文書があったとは!ちゃんと情報求むと書いておくもんである。今後も何かしらありましたらどしどしお願いします。
↓ここからは文書や本記事とは直接関係ありません。
おまけ 本ブログのリンクフリー方針と歴史記事の内容
基本的に当ブログの記事は何であれリンクフリーである。流石に貼られた先で誹謗中傷を受けていたり犯罪行為に加担するようなものがあれば、リンクを止めるように宣告することもあるかもしれないが、基本的にこちらからどこにどう貼られているかを調べたりもしないし、自由に使えば良いと思っている(もちろん突然アクセス数が増えてたりするとどっかで晒されたのか?と思ったり、不安になって見に行くというのもわりとある。これらの感情は矛盾しない)。そういうわけなので今回のように御報告や御相談があればうれしくはあるが、無断でリンクを貼られてもそれ自体を問題にすることはありません。
ただし公的な機関にリンクされるとなると少々ビビっているところがあるのも事実である。この機会に歴史記事についての指針(というほどのものではないが)を述べておく。
歴史考察・書評系は真面目に書いているつもりだが、人物評伝系はどのようなキャラクターを持っていたのかを想起させるような書き方を心掛けている。単に事件を並べるのでもなく、それらの歴史的意義を示すでもなく、その人物がどのように思い考え行動したか、その人物の歴史的意義は何かを意識して、それが伝わるように書きたいと思っている。そうしたものを書けてこそ、人物像というものが無味無臭ではない魅力的なものになってくるのではないだろうか。
ただ、そういうわけで曲筆、とまでは言わないが、研究の蓄積や良質な史料に基づきながらも「そこまで言えるのか?」と内心思いつつも書いている箇所もいくつかある。事実関係の誤りなどは適宜修正もしているが、追い付いていない点も多い。よって、書かれていることを100%真に受けてもらっても困る…という思いもある(「三好長逸」や「三好宗三」は初期に書いたものであるためこの傾向がやや強い。今書き直したらかなり違う趣になるかもしれない)。
また、Twitterでつぶやいている歴史ネタもそうだが、独自研究めいた部分も多分にある。ほいほいつぶやいたり書いたりしても良いものかと思わないでもないが、精緻な論証を経る必要がある論文とはある種差別化はなされていると思っている。つまり、それを見た他人がヒントを得て他の媒体に同趣旨を著したとしても、いわゆるパクリにはならないと一応は考えている(考察系はそれなりに論証しているつもりだが一つの大きなネタにはならないような話を選ぶようにしている)。
まとめると、人物像のアピールと研究のヒントになるような文章を意図して書いているということになるだろう。そういった意図によって重大な誤解が発生した場合は文章を取り下げたり書き直す責任は生じる。誤謬があればブログのコメントやTwitterのDMなどで教えていただければ幸いである。