志末与志著『怪獣宇宙MONSTER SPACE』

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永禄末期以降の摂津伊丹氏の当主は伊丹忠親である

 いやもうタイトル通りです。永禄末期以降の伊丹氏当主は伊丹忠親であって伊丹親興ではない。足利義昭の幕府に従っていたのも伊丹親興ではなく伊丹忠親である。元亀の争乱で戦ったのも伊丹親興ではなく伊丹忠親である。荒木村重によって伊丹を奪われ没落したのも伊丹親興ではなく伊丹忠親である。
 何でこんなにしつこく言っているのかと言うと、意外とこの事実が周知のものになっていないからだ。この可能性を最初に指摘したのは管見の限り『伊丹市史』(1971年)が最初なので、すでに50年以上も既知の情報のはず、だった。しかし、近年においても呉座勇一・馬部隆弘・平山優*1といった研究者たちが当該期の畿内史を論じる中で伊丹親興が相変わらず登場しており、御三方は他では精密な成果を叙述しているだけにまだまだ周知の事実ではないと思いを新たにさせられた。このままでは誤った説が再生産され続けるということになる。
 そういうわけで情報整理がてら、『伊丹市史』に倣いつつ永禄末以降の伊丹氏当主が親興ではなく忠親であると示しておきたい。
 『伊丹市史』の記述は単純明快である。天文18年(1549)の伊丹大和守親興の花押と永禄11年(1568)の伊丹兵庫助親の花押、元亀元年(1570)の伊丹兵庫頭忠親の花押を下のように並べるのである。


画像典拠は右の伊丹親興禁制、左の伊丹忠親禁制は本興寺文書、中央の伊丹親書下は離宮八幡宮文書

 これを見ると確かに伊丹親興の花押と伊丹親の花押は異なる一方、伊丹親と伊丹忠親の花押は一致する。少なくとも伊丹親と伊丹忠親が同一人物であることは間違いない。
 それでは伊丹親興と忠親に連続性はあるのだろうか。この問題の前提として伊丹氏の通称について触れておきたい。伊丹氏の当主は15世紀後半頃から確認できるようになるが、その中で現れる元親、元扶、国扶などは「兵庫助」を称しており、元扶は「大和守」を称する。ここからは伊丹氏の嫡流は官途を兵庫助→大和守と遷移させると推測できる。
 伊丹親興は本格的に登場するのは天文0年代後半から見えるようになる*2。天文10年(1541)に塩川国満が波多野秀忠・三好長慶に攻められると、伊丹親興や三宅国村は木沢長政に塩川救援を訴え、この3人連名で幕府に三好宗三の排除を訴えている。こうしていわゆる木沢長政の乱に至るのだが、伊丹親興は長政と心中せずその後も細川氏に従った。それはともかくこの時の親興は「伊丹次郎」と言われている。
 その後天文17年頃になると伊丹親興は「大和守」を称している。「兵庫助」を挟んでいるかどうかは判断材料がない(『細川両家記』では晴元によって兵庫助、次いで大和守にされたとしている)が、嫡流官途を称したことは明らかである。この後の親興は江口の合戦に際して三好長慶には与しなかったものの、大局的には三好権力に属していくことになる。

   禁制    本興寺并門前
一、当手軍勢甲乙人乱妨狼籍事、
一、陣取事、付剪採竹木事、
一、相懸矢銭・兵粮米事、
一、諸役課役事、
一、国質・所質并請取沙汰事、
一、殺生事、
一、徳政事、
 右条々堅令停止訖、若於違犯族者、忽可加成敗者也、仍如件、
             伊丹大和守
  天文十八年卯月六日      親興(花押)

 上記『伊丹市史』引用にも引かれている禁制である。ここからは伊丹親興の受領名と実名が一次史料的に確認できる。

  • 伊丹貞親書状写 『武庫の川千鳥』所収西宮神社文書

就上分米、近年不熟未進に候、殊更当年同様之条、少分申付候、□□各当城□□種々承り、以後之儀は右様堅可申付候間、御同心可為祝着候、恐々謹言、
  天文二十二年十二月十一日 伊丹大和守貞親 花押
   西宮社家中御宿所

 ちなみに現物は残っていないが、『武庫の川千鳥』は上記の伊丹貞親の花押を親興と同一であるとする。通称から見てもこの貞親は親興の後身か後継者であることは間違いない。そうであれば、親興は天文18年(1549)から天文22年(1553)までに貞親に改名し、この後は貞親であったことになる。
 伊丹氏はその後も三好氏に従って軍事行動を展開し、松永久秀に従った玄哉が「伊丹弟」とされるなど人物も確認できるが、特定の誰が何をしたかということを示す一次史料がほとんど残らず当主の動向も今一つわからない。
 永禄8年(1565)に足利義輝殺害や三好三人衆によるクーデタが起きると、三好権力は三人衆と松永方に分裂する。その中で伊丹氏は塩川氏とともに松永方として戦うが、永禄9年(1566)9月5日両氏は攻め手の篠原長房に屈している(『永禄九年記』)。元亀4年(1573)の奥書を持つ『細川両家記』では永禄9年9月中旬に「伊丹大和守」が三好方に復帰したとしている。この時の伊丹氏の当主も「大和守」(貞親・親興)であったと考えられる。
 一方、永禄11年(1568)に入ると九条稙通と塩川氏の仲介者として「伊兵」が登場する(下記リンク参照)。
www.town.toyono.osaka.jp

 そして、同年足利義昭の幕府が成立すると、伊丹氏も幕府に従う。その中で事実上の禁制を出しているのが伊丹親である。

山崎中乱妨狼籍并陣取、為 上意被成御免除旨、信長判形上者、当手之儀、不可有別儀候、仍如件、
  永禄十一年     伊丹兵庫助
   十二月十一日       親(花押)

 同時期に和田惟政池田勝正も同内容の文書を出しているので、伊丹親がこの時期の伊丹氏の当主にあたる。よって、九条家と塩川氏の仲介者である「伊兵」も「伊丹兵庫助」のイニシャルだろう。翌永禄12年(1569)には「今井宗久書札留」に今井宗久畿内の権力者とのやり取りが残っているが、ここでも「伊丹兵庫助」が登場する。織田信長も曇華院領の押領を排除すべく「伊丹兵庫助」に書状を出している(「曇華院文書」)。
 そして、元亀元年(1570)に野田・福島の戦いが始まろうとする中、伊丹忠親は禁制を発給する。

   禁制    本興寺并門前
一、当手軍勢甲乙人濫妨狼藉事、
一、剪採竹木事、付陣取事、
一、相懸矢銭兵粮米事、
一、諸役課役事、
一、国質・所質并請取沙汰事、付殺生事、
 右条々堅令停止訖、若於違犯之族者、速可処厳科者也、仍下知如件、
            伊丹兵庫頭
  元亀二年七月十二日     忠親(花押)

 この伊丹忠親が伊丹親と同一人物であるのは花押の一致が示す通りである。参考のために挙げておくと、兵庫助から兵庫頭への改称は誤字ではなく、公的なもので、織田信長も元亀元年に比定される以下の書状で「伊丹兵庫守」(頭)を宛所にしている。

書状披閲候、去八日於其表阿州之者共与被遂一戦、随分之首数多討捕、京都へ被上之由候、誠外聞実儀可然祝着之至候、其方之事、不可及機遣旨心易候、さ候とて聊爾之行不可有之候、此表之儀、近々敵可為敗北候、属本意則其地可及手仕候、此節之儀、弥忠節簡要候、随而海月桶二懇切候、尚追々申候、恐々謹言、
   十月十五日    信長(花押)
    伊丹兵庫守殿

 さてここで当初の問題に戻るが、伊丹忠親を伊丹親興と同一人物とする解釈を採る場合、親興は永禄9年まで大和守を称していたのが、永禄11年より兵庫助に改めその後元亀元年から兵庫頭となったということになる。この通称遷移が兵庫助→大和守と遷移する伊丹氏嫡流の通称とは合致しないのは一見すれば明らかだ。花押の相違以外にも親興(次郎→大和守)と忠親(兵庫助→兵庫頭)は別人であると捉えた方が自然である。
 これを補強するのが、伊丹忠親が永禄11年時点では「親」の一字で署名していることである。一字のみの署名にも色々あるが、伊丹氏の実名はいずれも二字なので、ここでの一字署名は偏諱を保留するものによるものだろう。すなわち、本来はしかるべき上位者から偏諱を受けて「〇親」と名乗るべきであるが、適当な上位者が不在か偏諱を受けるタイミングを逸していることにより通字か親の一字を署名に用いるというやり方である。同時期に細川信良が「元」、遊佐信教が「教」の一字署名を用いているのもこれと同様である。よって、永禄11年時点の伊丹忠親は完全な実名を持たない若年であったと見られる。天文期から活動している伊丹親興がこの条件を満たさないのも言うまでもあるまい。
 そういうわけで永禄11年以降の伊丹氏当主に言及する場合は伊丹忠親と呼ぶのが蓋然性の高い記述、ということになる。

補足 伊丹兵庫頭忠親の誕生

 伊丹忠親がいつ実名を親から忠親に改めたのかよくわからない。上記では偏諱の保留と書いたが、その線で行くと忠親の「忠」は誰かからの偏諱ということになる。しかし、「忠」の字を含む有力者はこの時期見当たらない。誰からも偏諱を受けられなかったため、偏諱を戴くのをあきらめて忠親を名乗ったのだろうか。
 兵庫助→兵庫頭も通称の変更としては地味すぎる。ただ本来は「大和守」を名乗りたかったが、有力な幕臣・三淵藤英がすでに大和守であったため、大和守は名乗れなかったのかもしれない。兵庫頭は元亀元年から確認できるので、改称の契機はこの年初めに織田信長が諸国の勢力に上洛を命じるなど、義昭幕府の再興アピールにかこつけたものという可能性がある。

*1:御三方を挙げたのに他意はありません。ちなみに永禄末以降も伊丹親興が登場しているのは、呉座氏は「明智光秀本能寺の変」(『明智光秀細川ガラシャ』)、馬部氏は「細川藤孝時代の勝龍寺城」(『勝龍寺城関係資料集』)、平山氏は「図説 武田信玄」。

*2:ちなみに伊丹国扶の死後、伊丹氏には「左近将監」が当主格として見えるが、国扶や親興との関係性は不明