志末与志著『怪獣宇宙MONSTER SPACE』

怪獣monsterのコンテンツを中心に興味の赴くままに色々と綴っていくブログです。

三好氏居所集成・三好康長編

 『織豊期主要人物居所集成』の三好氏版。Twitterで毎日連載していたが、実休・存保(義堅)に続きこれまた記事として典拠付でまとめておく。

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三好康長の系譜上の位置

 三好康長は諸系図に元長の弟として一致して現れる。ということは元長の父長秀が没する永正6年(1509)頃までには生まれている必要があるが、すると史料上の初登場が永禄元年(1558)なのは遅すぎる上に、その時仮名(「孫七郎」)であったというのは不自然だ。実際には長慶兄弟と同世代(大永~享禄生誕)かやや下の世代ではなかろうか。康長の三好山城守という通称は三好元長の副官であり名代も務めることが出来た三好一秀と同じなので、実際に血縁関係があるかはともかく康長は一秀の系譜を引いていると考えられる(実休の重臣には加地氏や市原氏など元長段階の重臣の系譜を引く氏族が多い)。一秀は三好之長の弟ともされるが、系譜上の位置は確かな史料によっては不明。世代を勘案すれば、一秀と康長の間に三好山城守家の当主が一人挟まってもおかしくはない。

三好康長の活動経歴(1)~阿波三好家重臣

 永禄元年(1558)三好孫七郎康長は三好之虎(実休)の先鋒として1000の兵を率い阿波から8月4日に兵庫に到着、10日に尼崎、18日に芥川城に至って長慶と協議し之虎の到着を待って尼崎へ戻った(『細川両家記』)。之虎の名代として長慶と連絡できる地位の高さが知られる。その後康長は戦うことなく、12月10日には津田宗達とともに実休の茶会に出席し(『天王寺屋会記』)、22日に阿波・淡路勢が帰国の途につくと25日には康長も下国していった。初見事例からすでに茶会出席があるので康長は当初より茶道に耽溺であったと見ることもできる。
 永禄2年(1559)6月三好千鶴丸(長治)は塩屋惣左衛門尉の徳政免除特権を承認した(『戦三』五五七)。これについて篠原実長、加地盛時とともに三好孫七郎康長が奉書を発しており(『戦三』五五八)、康長発給文書の初見である。この時千鶴丸は6、7歳なので実質的な効力は奉書の方にあったと推察され、康長が阿波三好家の重臣だと文書上でも明らかになる。
 永禄3年(1560)3月5日三好孫七郎康長は阿波から難波へ渡海し、堺にいた三好長慶と会談、21日には阿波に帰っていった。長慶と実休が不仲となったためその和解を図っていたともいう(『細川両家記』)。4月には淡路洲本で長慶と実休が直接会談に及ぶがその前準備だろう。
 6月24日三好実休は四国勢を率いて尼崎に渡海、29日には十七ヶ所、7月3日に河内若井、7日に若林、19日には太田藤井寺に布陣し畠山氏と戦闘状態に入った(『細川両家記』)。三好康長は他の三好一族が7月に発給した禁制を6月に出しており(『戦三』六三四)、四国勢でも先陣を切っていた可能性がある。またこの時の禁制が康長の受領名「山城守」の初見であった。
 三好氏が河内の畠山氏を放逐すると実休は高屋城に入城し阿波三好家が河内南部を支配することになった。康長は永禄4年(1561)5月5日には実休の茶会に出席し(『天王寺屋会記』)、6月には富田林道場に特権を承認しており(『戦三』七六六)、基本的に高屋城に詰めていたと思われる。
 六角氏と畠山氏による三好氏挟撃の気運が高まると実休も畠山氏の北進を防ぐべく和泉方面へ出陣することになるが、永禄4年8月には三好康長が上洛している(『己行記』)。挟撃に関して対応の足並みを揃えるためだろうか。ちなみにこの時伊勢貞孝に三好実休相伴衆に加えられた返礼をしているが、康長が使者となっている(『己行記』・『戦三』八〇八)。11月には実休の軍勢は久米田に陣を敷いており(『己行記』)、康長も基本的に実休と同陣だったと思われる。
 永禄5年(1562)3月5日三好軍と畠山・根来連合軍は久米田で激突、康長らが攻めまくるものの、手薄になった実休本陣が強襲されて実休は戦死、三好軍は敗走した(『細川両家記』)。敗れた三好軍は堺に逃れ、さらに阿波へ帰国する。『昔阿波物語』では落武者狩りが酷かったが、堺の町人は三好軍を助けたとする。
 三好康長、盛政、加地盛時、篠原長秀、矢野虎村らは5月10日に尼崎に再渡海し、三好義長(義興)、松永久秀、安宅冬康らの軍勢と合流、三好長慶の籠る飯盛山城を攻めていた畠山・根来連合軍と20日教興寺で激突、大勝した。高屋城は畠山高政が奪っていたが、高政は没落し康長が高屋城を受け取っている(『細川両家記』)。5月25日三好康長は日珖に対し音信を謝しつつ大勢が本意に属したことを述べ、今は多忙なので近日堺に出た時に挨拶するとしている(『戦三』八二二)。この段階ですでに高屋城を再奪取していたと思われる。また、「コ」形の康長の花押の明確な初見はこの時なので実休戦死が花押の変更の契機になった可能性がある。
 真観寺の靖叙徳林は6月2日真観寺への特権について吉成信長を通じて三好実休へ承認を申請していたが、それが果たされていないので康長から仰せ付けてほしいと連絡した(『戦三』八二三)。康長が実休に代わる実力者として認知されていたと思われるが、康長は8日「我等不可有疎略」と家中を代表し書状形式で特権を承認する(『戦三』八二六)。三好康長は8月10日石川郡赤坂御堂から段銭を徴収する(『戦三』八三八)一方、同月聞名寺へ寺内特権を承認した掟書では康長だけではなく加地盛時、矢野虎村、吉成信長、篠原長秀、三好盛政、三好盛長らが総出で連署している(『戦三』八四七)。実休没後どのように南河内を支配していくのかが家中の課題となっていく。
 11月29日高屋城衆の篠原長秀、加地盛時、三好康長、矢野虎村、吉成信長、三好盛政、盛長、市原長胤、伊沢長綱は三好長治が幼少の間互いに協力して統治にあたると起請文に認めた(『戦三』八四六)。基本的に署名者は対等だが、康長が財務を統括することが明記され、権限が追認される形となった。
 高屋城衆による南河内支配はそれなりに安定したようでその後の一定期間は特筆されるべきこともなくなる。三好康長は永禄7年(1564)11月15日堺の津田宗達の茶会に出席している(『天王寺屋会記』)。この時期篠原長房も堺に来て三好氏の幹部が顔を揃えている(『細川両家記』)。世間には公表されていなかったが、この年7月に三好長慶が死去していたので、三好家の要人たちが集まっているのは、長慶の死という機密を共有し、事後対応を協議していた可能性が高い。

三好康長の活動経歴(2)~三好三人衆方として

 永禄8年(1565)三好義継が将軍足利義輝を討つと将軍位は空位となる。7月中旬までに堺で三好長逸、宗渭と康長の談合があり、三好氏が禁裏修理を請け負うこと、四国へは康長の協力によって馳走することが決まったようである(『戦三』参考94)。康長は高屋城衆の事実上の代表として動いていたらしい。
 11月15日三好長逸、宗渭、石成友通の3人は飯盛山城の三好義継にクーデタを起こし、政権内からの松永氏の排除を飲ませた(『多聞院日記』)。ここに三好三人衆が成立したが、康長もクーデタに同心しており、やがて義継は高屋城に移ることになる。
 翌永禄9年(1566)2月反三好かつ足利義昭による幕府復活を目指す畠山高政が挙兵、17日に三好義継は高屋城から兵を率いて上芝で畠山軍と戦い、大勝した。この戦いでは康長が阿波三好家の軍勢の大将となり、合わせて167もの首級をとったという。5月19日には松永久秀が畠山・遊佐らの牢人を糾合して堺に入るが、康長率いる阿波三好家の軍勢を含む三好軍1万5000が堺を包囲する。一触即発となったが会合衆が仲介し、久秀が没落することで決戦は回避された(『細川両家記』)。篠原長房が阿波勢を率いて渡海すると三人衆方の優位は確定し、各地の松永方を屈服させていく。
 時系列が前後するが、3月に山科言継は三好長逸、宗渭、康長の3人に押領されている禁裏御料の回復を訴えている(『戦三』一二五三~一二五六)。閏8月にも同じ訴えが繰り返され(『戦三』一二八九~一二九三)、言継は康長の申次である七条行秀にも取成を頼み康長に期待していた。その一方、実際に押領停止を行ったのは三人衆であって(『戦三』一三〇六)康長は文書を発給しなかった。この前後の年の8月康長は東福寺に乱暴狼藉の禁止を家中に申し付けると書状で伝えている(『戦三』一一九三)。恐らく東福寺からは禁制発給の打診があったと思われるが、康長は自身の禁制発給は見送ったようだ。康長は京都政界から三人衆方の有力者と見なされつつも主体的に京都近郊には関与しない位置であった。
 さて、永禄9年8月28日には三人衆や篠原長房も高屋城に集まった(『細川両家記』)。未だ多聞山城を中心に松永久通が抵抗を続けるものの畿内情勢は三人衆方優勢で決着しており、同日には矢島の足利義昭も若狭に逃れた。10月24日に康長は茶会に参加しており(『天王寺屋会記』)平和が回復した、かに見えた…。
 永禄10年(1567)2月16日堺で池田氏の一派が蜂起すると、三好義継は康長や三人衆、安見氏の軍勢を引き連れて対応に向かう。ところが義継は宿所を松永方に変更し(『言継卿記』)、28日には三人衆を弾劾する文書を畿内にばら撒き久秀を支持することを明確にした。ここに畿内での戦闘が本格的に再燃することになる。
 4月5日に松永久秀が大和に再入国し11日に多聞山城に入ると18日にはこれを追って三人衆方の軍勢1万が奈良に布陣する。5月5日には康長も池田衆とともに4000の兵を率いて番替として奈良にやって来ている(『多聞院日記』)。その後は奈良、特に東大寺を舞台に小競り合いが続くがその中での康長個別の動向はよくわからない。
 この頃高屋城衆は三好康長、盛政、矢野虎村の3人が連署することで意志表示を行っている(『戦三』一三三九)。三好一族2名に新参1名という組み合わせは三人衆に酷似しており体制を模倣したのかもしれない。この3人は3月より東寺から代官追放されていた玄竜卜安の復帰を図り東寺や三人衆らと諍いを起こしている。時期的に義継出奔の混乱の中で意志を通そうとしたと考えられる。
 永禄10年比定10月5日の三好盛政書状(『戦三』一三六七)に「同山入」と見えるのが三好康長の出家の初見で、実際10月下旬に文書から「三山入」「咲岩斎」の署名が登場する(『戦三』一三七一~一三七三)。9月には山城守なのでこの頃に出家の契機があったようだが何が契機かはよくわからない。
 10月10日東大寺大仏殿の戦いで三人衆方は敗退、奈良から撤退するもその後の動乱は収拾する。9月頃から畠山氏も再度挙兵しており、咲岩は河内方面に転戦したものだろうか、11月には篠原長房と連署して招提寺に禁制を出している(『戦三』一三七五)。
 永禄11年(1568)2月26日三好長逸、篠原長房、三好咲岩らは堺において主だった武将150人が参加する大宴会を催した(『天王寺屋会記』)。この月上旬に足利義栄征夷大将軍に補任されているため、その祝賀会だろうか。それにしてもそんなに人数収容できる屋敷があったもんだろうか(分散して開催?)。
 3月8日三好咲岩は厚誼を求めてきた十市遠勝に対し粗略にしない旨を返事で伝えた(『戦三』一三九一)。11日には咲岩と篠原長秀、十市遠勝で誓紙を交換して連携を強化している(『多聞院日記』)。この頃には咲岩は大和に在陣中だったようだ。21日には三好盛政や加地盛時が番替に来ている。
 6月29日三好咲岩は細川藤賢が籠る信貴山城を落城させる(『細川両家記』)。咲岩は引き続き奈良の行政にも関与していたが河内方面に転戦していたようで、7月26日に興福寺が奈良に一向宗の道場を作る計画に抗議した時は河内にいる康長に抗議がなされている(『多聞院日記』)。康長は抗議に理解を示しており、一向宗の道場計画を推進しようとした石成友通とは温度差があったようだ。
 9月2日から5日にかけて三好咲岩は3000の兵で奈良に繰り出し、東大寺や多聞山城に攻めかけた(『多聞院日記』)。しかし決戦としては不発で小競り合い程度に終始し咲岩は河内へ引き上げていった。すでに足利義昭を奉じる織田信長の上洛戦が開始されていたが、三人衆方は松永氏を最後まで仕留めきれなかった。
 9月末足利義昭織田信長の上洛軍が石成友通の勝竜寺城を落城させると、三人衆方は池田勝正池田城を除いて畿内の拠点城郭を放棄し、阿波へ撤退した(『細川両家記』)。阿波三好家の拠点であった高屋城も放棄され畠山秋高が入城、南河内への畠山氏の支配が復活することになる。

三好康長の活動遍歴(3)~反織田信長勢力として

 室町幕府が往年の形で復活したかに見えたが、三人衆方は撤退しただけで損害を出していなかった。織田信長が10月下旬には岐阜へ帰ってしまうと三人衆方は反攻へ動き、12月28日には堺へ渡海し家原城を攻略する(『多聞院日記』)。翌永禄12年(1569)1月4日には入京して東福寺に陣を敷き、東山に放火して足利義昭の退路を断つと、5日には義昭の御所である本圀寺を襲撃、各所に放火した。その一方5日には三好義継、池田勝正、伊丹忠親らが義昭の救援に出陣していた。6日には三人衆は三好咲岩の阿波衆と石成友通の軍勢を桂川に向かわせ義継ら後詰の軍勢と激戦となった(『細川両家記』・『言継卿記』)。三人衆方は敗北したが離脱には成功し再び阿波へと落ち延びていった。
 その後、淡路の安宅神太郎が三好義継の仲介により足利義昭織田信長に味方したため、永禄12年中三人衆や阿波三好家は四国に留まり反攻の機会はなかった。閏5月には淡路で喧嘩があり三好為三や矢野虎村が戦死したという誤報が流れており(『多聞院日記』)、三人衆や阿波三好家はまずは淡路を攻略することを目標としたようだ。永禄12年11月、そして永禄13年(1570)2月阿波三好の軍勢が淡路を攻撃するも安宅神太郎の軍勢が撃退している(「今井宗久書札留」)。一方、本願寺に三人衆方の加地久勝が逗留している噂があり(「今井宗久書札留」)、奈良の西大寺と三好為三・石成友通が音信を交わすなど、三人衆は畿内勢力を調略していた。
 元亀元年(1570)4月末足利義昭織田信長による越前朝倉攻めが失敗に終わると、反幕府勢力は活気づき南近江の六角承禎・義治父子は阿波勢の渡海を促した(「思文閣墨蹟資料目録」)。そして6月18日摂津池田氏内部で政変が起きて当主勝正が追放されると、クーデタを起こした荒木村重は三人衆方の勢力を呼び込んだ(『言継卿記』)。
 これを見た淡路の安宅神太郎も幕府から離反して三人衆方に与同し、阿波の軍勢が灘や和泉に渡海しはじめる。康長は息子の徳太郎とともに長治の名代として軍を率いている。7月27日には三人衆方の軍勢は中島・天満森に移り、野田城・福島城に籠ることになる。8月には伊丹周辺で安宅・池田勢と伊丹忠親が交戦、中旬には三好義継と畠山秋高の兵が籠る古橋城を攻略する(『細川両家記』)など実際の衝突も見られるようになっていく。これを重く見た織田信長が3万の軍勢で下旬に天王寺の布陣すると三好為三らは信長に降伏、9月には三人衆方は和睦を打診する(『信長公記』)など幕府・織田方が優位に立ったかに見えた。
 しかし9月13日に三人衆方として本願寺が挙兵すると形勢は逆転する。また、朝倉・浅井勢が京都に迫っており、信長は対応のため対三人衆戦線から離脱する。9月末には三好長治・篠原長房が万の軍勢で畿内に渡海し、幕府方は三人衆方の進出を防ぐものの劣勢に置かれることになった。なお、康長は出家していたが、署名を「康長」に戻している(『戦三』一五二〇)。
 最終的に松永久秀が仲介することで12月には織田信長と三人衆の間で和睦が結ばれる(『尋憲記』)。ここに三人衆方は畿内に再進出を果たした。12月28日三好康長は篠原自遁や伊沢右近大輔とともに津田宗及の茶会に出席(『天王寺屋会記』)、かつてのように堺商人と公然と結びつき始める。
 元亀2年(1571)3月5日三好康長は木村宗治を松永久秀・久通に派遣し、筒井方の処遇について交渉を持つ(『二条宴乗記』)。19日には池田一狐や十河了三とともに津田宗及の茶会に出席(『天王寺屋会記』)、22日には三好宗功、石成長信、松永久通らとともに若江城の三好義継に出仕し(『二条宴乗記』)、足しげく畿内で活動して存在感を示す。ここに三人衆方と松永氏が三好義継の下に再結合しはじめた。
 5月松永久秀は自身に同意しない安見右近を奈良に誘い出して誅殺すると、三好義継とともに右近の居城交野城を攻める。同時に5月末から6月にかけて三人衆方は畠山秋高が籠る高屋城を攻撃する。ここに三好義継・松永久秀は三人衆・阿波三好家と結び幕府に反旗を翻した。畠山の重臣・遊佐信教の感状(「武富保一氏所蔵文書」)によると、6月4日に誉田の市口で、6月6日に軽墓で、6月17日に誉田の河原で、10月20日に西浦で、11月18日に水守で合戦があったことが確認できる。全て高屋城周辺の地名であり、康長もこれらの戦いに加わっていたことだろう。
 一方、三好勢は8月に松永久秀筒井順慶に大敗するも、摂津方面では和田惟政を敗死させ、高槻城を久秀と篠原恕朴が包囲するなど一進一退の情勢が続く。10月に松永勢が山城に進出した際には篠原長秀とともに康長が奈良に布陣している(『多聞院日記』)。さらに康長は同月には篠原恕朴と連署して河内国久宝寺に禁制を発し(『戦三』一六一〇)、12月にも恕朴と連署して和泉国人田代氏に調略を試みている(『戦三』一六一一)。康長は篠原恕朴と合流して南近畿戦線を主に引き受けていたが、松永久秀とも軍事的に連携するなど多忙であった。
 元亀3年(1572)1月6日三好康長は十河了三とともに津田宗及の茶会に出席する(『天王寺屋会記』)。この年の康長や阿波衆の動向は今一つわからないが、閏1月4日には遊佐信教が主君畠山秋高の殺害を図り(『多聞院日記』)、足利義昭が必死に信教を宥めている(「相州文書」)ように高屋城方面での戦闘は三好勢が優勢だったと見られる。遊佐信教の感状は元亀3年以降見られず、信教は三好氏相手の戦争に意欲をなくしつつあったのかもしれない。
 8月15日には三好康長と篠原自遁が津田宗及の茶会に出席している(『天王寺屋会記』)。12月には篠原自遁、長重、三好康長が大山崎に禁制を出しており(『戦三』一六一〇・一六一一)、南方戦線を引き受けつつ上洛を睨んでいたものだろうか。この年には交野城や中島城などで三好義継・松永父子の軍事行動が見られるが四国勢の参加の有無は不明である。
 元亀4年(1573)に入ると幕府内で足利義昭織田信長が決裂し、情勢が一気に流動化する。義昭は三好・松永を赦免して与党に組み込み、三好勢は上洛を窺うが、四国勢の去就は微妙となる。4月には十河氏が信長と結び、5月には阿波の三好長治が篠原恕朴・長重父子を粛清してしまうのである(『己行記』)。
 こうした中、6月にはついに遊佐信教が畠山秋高を殺害する(「諸寺過去帳」)。足利義昭若江城に引き取った三好義継、織田への接近を図る阿波三好家、そして信教の方針は必ずしも一致できず、本願寺によって義継、康長、信教の連携が図られる(「顕如書札案」)が、対織田戦線の構築に至らなかった。11月に義継は織田勢に攻められ自害することになる。そして12月には高屋城に遊佐信教と四国衆が籠っている(『戦三』参考129)とされ、織田軍と小規模な交戦を持っていたようだ。三好康長と遊佐信教は手を結び、康長はある意味で高屋城を奪還した。
 翌天正2年(1574)4月には本願寺池田勝正や香西氏、松山氏らが合流し、畿内の反織田の動きが活発化する(『永禄以来年代記』)。8月から9月にかけて織田信長佐久間信盛明智光秀、長岡藤孝らを河内に派遣し、飯盛や萱振を舞台に松山氏や本願寺と交戦(「細川家文書」)。織田氏が優勢だったようだが三好残党を根絶するには至らなかった。12月には三好康長と遊佐信教被官草部盛政が連署して河内の寺院の所領を保障しており南河内への統治権は健在だった(『戦三』一七三一)。
 天正3年(1575)4月織田信長は10万にも及ぶ大軍を動員し(『兼見卿記』)、8日に三好康長が籠る高屋城に攻め寄せた。ここでは力攻めに至らなかったようで織田軍は周辺で刈田を行うと、17日には十河重吉・香西越後守が籠る新堀城を攻略した(『信長公記』)。ここに堺と高屋城を結ぶ連絡が途切れてしまい、四国との繋がりを生命線とする高屋城は窮地に立たされる。19日三好康長は松井友閑を通じて高屋城を開城し織田氏と和睦した(『信長公記』)。織田氏の側も徳川氏より救援要請が来ており、畿内のみに関わっていられない事情があった。しかし、信長は塙直政に命じて高屋城を含む河内の城郭を破却させている。以降も康長は南河内を支配するが、新たな拠点を設けたかは不明である。
 5月に武田勝頼を打ち破った織田信長は6月27日に上洛し、7月15日に下国するまで儀式や参礼といった慶事に追われた。この中で7月1日に三好康長も上洛して信長に謁見している(『信長公記』)。康長にとっては実に本圀寺の変以来6年ぶりの上洛であった。
 三好康長の織田との和睦、武田勝頼の敗北、越前一向一揆の壊滅によって本願寺も織田との和睦を選択する。10月から交渉が始まるが三好康長は松井友閑とともに交渉を仲介し、12月に和睦が成立すると起請文を出して和睦を保障した。本願寺との和睦が成立すると三好康長は「天下無隠」三日月の茶壷を織田信長に進上した(『信長公記』)。康長の織田への帰属と本願寺との和睦によって畿内からは反織田勢力が消滅し、織田信長による天下静謐が実現することになった。なお康長は山城入道から山城守に通称が戻っており還俗したようである。
 ちなみに康長と組んでいた遊佐信教がこうした局面でどう動いたのかは同時代史料からは全く窺えない。ただし、高屋城開城後康長や織田に属していた畠山旧臣らは信教の重臣の草部盛政と野尻実堯を攻め滅ぼしたという記述が後年に見える(『足利季世記』・『寛政重修諸家譜』)。実際草部・野尻の動向はこの頃より消え、信教は天正4年後も反織田陣営にあるので康長による信教の排除と草部・野尻攻めはどこかのタイミングで実際にあったのだろう。

三好康長の活動遍歴(4)~織田家重臣として

 天正4年2月紀伊にいた足利義昭は電撃的に備後国に動座した。織田氏と同盟関係にあった毛利氏は義昭の処遇に苦慮するも、4月に本願寺が義昭に協調して和睦を破り挙兵すると、5月には毛利氏も織田氏と断交する。ここに織田の天下静謐は数ヶ月で崩壊した。この中でも三好康長は4月南河内で行政権を行使しており(『戦三』一七四四)、摂津・和泉での知行を織田信長に保障されている(『戦三』一七四五)。康長は和睦崩壊にも関わらず織田氏に属し続けた。5月3日には織田軍が本願寺方の木津砦を攻撃し敗北するが、康長はその軍勢の先鋒を務めた(『多聞院日記』)。5月23日付で織田信長は淡路の安宅神五郎に毛利氏から本願寺への援軍を迎撃するよう要請する(『戦三』一七四六)が、この連絡も康長が取り次いでいる。織田氏にとって康長は三好系の勢力に繋がるための重要な媒介であった。しかし、神五郎は本願寺・毛利側に立ち、調略は失敗している。
 さて三好康長に離反されてしまった阿波三好家では天正4年12月当主の三好長治が細川真之・一宮成相らに殺害されたことで内紛の時代を迎える(『昔阿波物語』)。一宮成相は織田信長との提携を図るが、矢野房村ら阿波三好家の再興を目指す勢力は足利義昭・毛利氏と結び(「吉川家文書」)、阿波・讃岐もまた織田・足利戦争の最前線となる。天正6年(1578)初頭には堺から三好存康が招聘され矢野房村らによって阿波三好家が再興される。その一方この年8月に河内国牧郷の養父河原が朝廷に寄進された際、若江三人衆と三好康長が寄進状を出している(『戦三』一九〇三・一九〇四)が、康長は「康慶」と署名し改名している。康慶は阿波三好家が揺れる中自身を長慶に擬えはじめたのであろう。
 天正6年9月30日には織田信長が堺の津田宗及の茶会に出席する。信長は27日より若江を経由して住吉・堺に至り九鬼嘉隆が建造した大船を観覧。この時近衛前久や細川信良も引き連れ一種のデモンストレーションであった。これに若江三人衆とともに三好康慶も参加しており畿内要人として遇されていた(『信長公記』・『天王寺屋会記』)。
 なお年次比定に議論があるが、天正6~9年のいずれかの年の6月に織田信長は香宗我部親泰に対し阿波の三好式部少輔との協力を求めている。この時三好康慶が副状を付して、若輩の式部少輔への指導を親泰に求めており、対四国外交においても康慶が重用されるのは変わらなかった(『戦三』一九一六・一九一七)。
 畿内では天正8年(1580)まで織田氏本願寺の戦いが続き、これに連動して雑賀攻めや荒木村重の挙兵など戦乱が相次ぐ。三好康慶は本願寺攻めにおいて佐久間定盛の与力として働いていたと思われるが、具体的な戦功は不明。本願寺が屈服すると5年越しに織田信長の天下静謐が実現することになる。
 ところが本願寺の残党は四国に渡り、織田方の長宗我部元親が占拠していた勝瑞城を奪取、讃岐十河城に追い詰められていた三好義堅(存康)を復帰させる。このような情勢下で11月には三好康慶を安富氏の拠点である讃岐の雨滝城に派遣する話があったようだ(『戦三』参考139)。天正9年(1581)2月織田信長は京都で行う馬揃えに参加する人数について惟任光秀に連絡したが、三好康慶は阿波へ派遣するので参加を免除するとした(「板原家文書」)。馬揃えは28日に開催されたものの康慶が参加したかは不明で、阿波へ実際に行ったのかも明らかではない。織田氏による天下静謐が実現したため、織田氏は康慶を直接派遣することによる四国介入が選択肢として浮かび上がってきた。
 11月に羽柴秀吉池田元助が淡路を平定すると、織田信長の側近松井友閑は讃岐の安富氏に対して、阿波・讃岐のことは三好康慶が担当するので、両国の国人は康慶に従うように求めた(『戦三』一九一九)。天正10年(1582)2月織田信長信濃へ出陣するため軍令を発したが、その中で三好康慶は四国へ派遣するとした(『信長公記』)。信長は5月7日付で三男信孝に対し、信孝に讃岐を、康慶に阿波を与え、信孝は康慶を主君とも親とも思うように訓戒した(『戦三』一九二五)。ここに信孝に三好氏の名跡を継がせ、四国を支配させる構想が明らかとなった。
 三好康慶が阿波へ入国した正確な時期は確かめられないが、5月上旬には勝瑞城へ入城、長宗我部方であった一宮城と夷山城を接収する(『昔阿波物語』)。阿波の勢力も多くが康慶に帰順しはじめ、長宗我部元親織田氏と阿波からの撤退と条件交渉を始めようとしていた。織田軍の四国進発に向けた康慶の地均しは順調であった。
 ところが6月2日織田信長・信忠父子が惟任光秀に討たれると、同日に四国への渡海を予定していた織田軍は光秀討伐に動き、13日に光秀を敗死させる。結果的に織田軍が四国へ渡ることはなかった。この事態に対応すべく三好康慶も畿内に戻り、織田氏の四国政策は一転して白紙となった。
 その後の清須会議で河内は羽柴秀吉の勢力圏となった(『多聞院日記』)が、秀吉の直接支配が行われたわけではなく、若江三人衆と三好康慶の直接支配が継続した。阿波では三好義堅(十河存保)が復権し、親織田派を改めてまとめ、羽柴秀吉仙石秀久黒田孝高を通じて支援を続けることになる。
 10月羽柴秀吉五畿内の有力者から人質を取るが、三好康慶も人質を出していたようだ(『戦三』参考147)。その一方、明確な初見は天正11年4月となるが、秀吉の甥信吉(後の秀次)が「三好孫七郎」を称しており康慶の養子となっている(『戦三』一九四八)。秀吉と康慶は運命共同体となったが、秀吉の四国政策では康慶や信吉は用いられておらず、その目的は三好氏の影響力が未だ濃い河内の穏当な接収にあったようだ。
 11月25日三好康慶は津田宗及とともに松井友閑の茶会に出席している(『天王寺屋会記』)。
 天正11年(1583)であろうか、2月17日付で羽柴秀吉は三好康慶からの音信を謝し、康慶の所労を労わっている(『戦三』一九二一)。3月に秀吉は敵対していた織田氏重臣柴田勝家を滅亡させるが、その後の戦後処理では三好信吉が働いており、康慶に目立った動きはに。康慶は体調を崩しており、秀吉もこれに乗じて信吉への権限移譲が本格化させたのかもしれない
 柴田勝家の滅亡後、羽柴秀吉畿内の直轄化に動き、若江三人衆や三好康慶も移封されることになった。三好信吉の動きが本格化したことで康慶の動向は見えなくなっていく。康慶の明確な終見は天正12年(1584)8月28日津田宗及の茶会に出席したもの(『天王寺屋会記』)で畿内には留まってはいたようだ。『元親記』によると天正13年(1585)に長宗我部元親羽柴秀吉に屈服した後、三好康慶が元親と羽柴秀次(三好信吉から改名)を取り合わせたという。また、河内国安宿部郡の検地帳に2500石ほど康慶の所領が見える(『戦三』一九六六)。康慶は天正13年以降に完全に隠遁したか亡くなったと見られる。

感想・気付き

 三好康長については漠然といつの間にか出家している印象があったが、出家の時期を永禄10年(1567)9月~10月と特定できたのがまとめてみた収穫であった。また、康長の法名は「咲岩」と言われるが、署名に「咲岩」を用いるのは出家から永禄11年(1568)中までで、元亀元年(1570)からは「康長」に署名を戻している。よって、『戦国遺文 三好氏編』では年次比定がなされていなかった文書も、例えば六角義治から康長に宛てられた一九六八号文書は取次に「蒲生下野入道」が見え、宛所が「三好山城入道」であることから、永禄11年に年次が特定できる(「蒲生下野入道」こと蒲生定秀は永禄11年9月以降織田信長に仕えるため)。一四六五号文書も署名「咲岩」であるから、永禄11年に特定できるだろう。
 ちなみに康長の実質的な活動期間は30年ほど。三好一族はよく短命だと言われるが、康長の場合初登場時20歳だとしても50歳くらいまで生きていることになるので戦国武将としては標準的な寿命と言える。息子の徳太郎が元亀元年(1570)には活動していることや、初登場時から三好長慶・実休の連絡を担っているので、初登場時でアラサーな可能性もあり、そうなると寿命はさらに延びる。
 三好康長というと、三好氏の中では恐らく知名度はかなり高い方のはずである。そのため、私としても何となく知っているようなつもりになっていたのだが、実際にはよくわかっていなかったことが改めて意識づけられた。さらに康長の人物を推し量れるような史料や研究が現れてほしいものである。