最近「大河原家文書」という文書群があることを知った。正式には「寒川郡鴨部中筋村大河原家文書」と命名されており、その名の通り現香川県さぬき市の旧家に伝来した文書だ。それだけならふーんだが、何とこの「大河原家文書」、複数の中世文書を伝来している。しかもそれが讃岐の戦国史とは関係のない義就流畠山家の文書なのである。なっ…なななな何でだよ!どうやら義就流畠山家被官が戦国時代に四国に渡り、そのまま現地に留まって続いてきたということらしい。それにしても画期的すぎる…義就流畠山家被官の子孫が四国で続いていたとは…。
文書自体は香川県立文書館のデータベースで公開されているので中世文書をリンクとともに挙げていく。
- 永正17年5月30日付大河原助四郎宛遊佐(ヵ)道盛・木沢英治・平英正連署奉書
www.archives.pref.kagawa.lg.jp
- 3月24日付大河原宛畠山義堯書状
www.archives.pref.kagawa.lg.jp
- 7月17日付大河原助四郎宛畠山(ヵ)敦忠書状
www.archives.pref.kagawa.lg.jp
- 3月8日付大河原宛某・宗次連署状
www.archives.pref.kagawa.lg.jp
www.archives.pref.kagawa.lg.jp
数は少ないがどれも畿内・四国戦国史に大きな示唆を与える垂涎ものの文書だ。正直、こんな文書が発見・公開されていたにも関わらず、地元の歴史に直接関係しないためか、現時点でも特に存在がアピールすらされていないのは学界的にも損失と言える。何より、大発見なのに地元と関係ない・関係人物がマイナーということで死蔵されている例が他の地域でもあるのではないかと不安にさせられる。しかしながら、個人的にも縁のある香川県東部からこのような文書が出てくることからは、数奇さを感じられずにはいられない。
というところで本題はこの大河原氏。上記の文書を伝来した大河原家と直接関係があるのかは不明ながら、実は四国戦国史にも大河原氏が顔を出している場面が既存史料にも存在している。
- 三好長治書状写 阿波国徴古雑抄所収三好松永文書
於讃岐守申、佐渡守知行分事申付候、別而奉公可為肝要候、猶自遁可申候、謹言、
天正三
正月二十七日 長治(花押影)
大河原又介とのへ
発給者長治の花押の形状は三好長治の花押1と同じで、取次者の自遁も長治の寵臣・重臣である篠原自遁のことである。つまり天正3年1月27日に三好長治が大河原又介に対して「佐渡守知行分」を宛行った書状となる。書下形式ではないが、戦国期に書状形式+付年号で知行を宛行った例は畿内を中心に多く、書止「謹言」、敬称「とのへ」からも被官宛のものと見て良い。表現から見ても偽文書の匂いは感じ取れない。
さてその上で文書中に出てくる「讃岐守」と「佐渡守」について見て行こう。名字が略されている人物は発給者・受給者の一族か、名字を記す必要がないほどの高位の人物である。「佐渡守」については細川佐渡守・三好佐渡守という人物は確認できないし、大河原又介が受益者なので大河原佐渡守という人物がおり、その知行を一族に与えたと見れば自然だろう。なお、「亡父佐渡守」「親父佐渡守」などと言われていないことから、佐渡守と又介に直接の親族関係はなさそうである。
次に「讃岐守」だが…三好長治が言う「讃岐守」といえば、阿波守護家である細川讃州家の当主・細川讃岐守真之を置いて他に想定し難い。しかし、そうすると長治が元亀4年には「御屋形様」と敬称呼びしていた人物を「讃岐守申」と随分と素っ気なく敬意もない言い方をしていることになる。とは言え、他に讃岐守がいると想定しても細川讃州家の通称を帯びている時点で敬意がない奴がいることになってしまう。そういうわけで「讃岐守」一語だけで「実はこの文書は偽文書なのではないか」「いや長治の真之軽視を如実に示しているのか?」などと悩みの種になっていたのである。
ここで「大河原家文書」の大河原氏の存在を援用したい。大河原又介は義就流畠山家被官の大河原氏なのではないだろうか。これには何の根拠もないが、そのように捉えれば自然に解釈できないか?すなわち、三好長治が仮に「御屋形様」という表現を用いた場合、大河原氏にとっての「御屋形様」は義就流畠山家当主なので、それが細川真之とは確定できなくなる。だから「讃岐守」という第三者的表現を用いざるを得なかった。まあそうだとしても「申」は「被仰」にするべきだった気もするし、「任御下知之旨」みたいな表現も可能なはずなのでやっぱり長治の側でも真之を軽視していたのかもしれないが…。
ついでに言っておくと、冒頭の文書リンクでも見るように「大河原家文書」には堺公方の時期から天正8年まで約50年の間隔がある(なので四国に渡った事情も文書からはさっぱり窺えない)。この間、大河原氏が沈黙していた…なんてはずはないので、この間を埋める文書も本来はあったはずである。ところが現在ではこの間の文書は大河原家に残っていない。というか、現存する文書は希少…というか、発給者がマイナー人物ばかりだ(書札礼上めちゃくちゃ偉いはずなのに敦忠って誰やねん)。逆に言えば有名人の書状はどんどん流出していったのではないだろうか。『阿波国徴古雑抄』に収められた三好長治書状の原文書もそういった一通である可能性もある。という風にどんどん活用されてほしいので、紹介がてら少し書いてみた次第である。