三好長慶、斯波義銀と面会す
- 『雑々聞撿書』
一、武崎依御在城、大夫殿へ為御礼御出、申次ハ三向、仍武崎ハ十徳ヲ御着用、御髪ハヲツホロナリ、庭上マテ長慶被出被請之、太刀三向披露、手ヲソヘ御礼アリ、其後筑州御礼被申、同太刀被進之、織田 一人御供、両殿へ太刀ニテ御礼被申候、三献参、初献武衛、二献武衛御酌ニテ大夫殿へ被参、同太刀被進、三献目長慶酌ニテ太刀被進、相伴義長・斎越・貞助・織田、然ニ盃ノスワリ候、カクノ折敷織田前ヨリヲロシテ
被参盃ハカリ被持向之、然ニ匠作ヨリ被進、太刀取人無之間、貞助取テ織田ニ於次間渡之、帰路ニモ庭上マテ被送申之、庭上ニテ両度被送申之、然ニ越前朝倉御相伴ニ参勤之刻、大与州へ以一書尋申之、一巻大奥ヨリ斎越へ被遣、其一巻ニ庭上へ被罷出、三職之御衆ヲハ被請申之云々、
「武崎」という人物が誰なのか謎だったが、「武衛」と記されることもあるのでその誤記と見て良い。また、供に「織田」を連れていることから、これは斯波義銀と断定して良さそうだ。上記に年次はないが前後の記事が永禄3年5月20日と10月7日なのでその間の出来事だろう。同年6月下旬からは三好氏の河内・大和侵攻が始まり、10月下旬には長慶が飯盛城に入城してしまうので時期的には5月下旬から6月中旬までにさらに特定できそうだ。
さて、内容を見ると斯波義銀が「御在城」のため、三好長慶に挨拶に来たという。長慶のもとに訪れているので、長慶が主人、義銀が客という扱いになり、「御在城」は芥川城のことだろう。斯波義銀が何らかの事情で芥川城に滞在していたので、庇護してくれた長慶に礼をしようというのが上記記事だ。現れる人名は「三向」が三好長逸、「筑州」・義長が三好義興、貞助が記主の伊勢貞助、「斎越」は斎藤基速、「大与州」は大館常興、「大奥」は大館晴光のことである。斯波義銀・三好長慶・義興父子で太刀の贈答と酒の酌み交わしで儀礼は進行し、他に居合わせたのは斎藤基速・伊勢貞助、そして義銀が連れていた「織田」であった。義銀が来た時と帰る時は長慶が庭上まで出て迎えたり見送ったが、この儀礼はかつて越前朝倉氏が相伴衆になった際、大館常興に儀礼を尋ねた時の回答となる書物を大館晴光から斎藤基速に貸してもらってその通りにしたという。
かくして永禄3年5月~6月の時期に斯波義銀は三好長慶の厚意によって芥川城に滞在していたことが明らかとなった。義銀がいつ織田信長に尾張から追放されたのかはよくわかっていない。仮に追放前だとしたら畿内に何らかの用事があって上洛していたことになるし、追放後だとすると義銀は長慶を頼って来たことになるだろう(義銀が連れてきた「織田」も前者なら信長がつけてくれた一族、後者なら信長に追放された一族と合流していたことになる)。わざわざ芥川城に滞在したのは、京都の斯波氏の屋敷が足利義輝の手によって二条城にされていて、家がなかったからかもしれない。思えば、石橋忠義は松永久秀に仕え、吉良義昭も最期の地は芥川城というので、上位の足利一門が三好氏を頼ってくるのは珍しいことではなかったらしい。足利義輝が実力主義によって下克上大名を幕府の顕職に位置付けようとしていたことを思うと、コントラストを感じさせる部分でもある。
また、三好氏が儀礼にあたって朝倉氏を先例として意識していたことがわかるのも興味深い。
三好長慶、蘆名盛氏と通信す
- 『雑々書札』
一、蘆名修理大夫実返札
謹上 蘆名修理大夫殿 修理大夫長慶
同官ノ儀、如何然□先々モ必此在之由申之
佐世大和入道殿 打付書也
三好氏の外交範囲というのも議論のあるところだが、上記によって何と会津の蘆名盛氏と書状をやり取りしていたことが判明する。書札礼書にそれが記されたのはあくまで書札礼の問題で、蘆名盛氏の官途は「修理大夫」で、長慶の「修理大夫」と同じであったため、発給者・受給者が同じ官途を記してもいいのかという問題であった。結論は別に気にしなくてもOKであり、上記のように「蘆名修理大夫殿」と「修理大夫長慶」を同時に記すことになった。なお、長慶は「佐世大和入道」にも書状を送ったが、これは蘆名氏重臣の佐瀬種常である。これで内容も写してくれていれば、単に儀礼上の通信だったのか、もう少し深い話もあったのかわかったところだったが、いずれにせよ永禄初期に蘆名氏がわざわざ長慶に通信してきたことは三好氏の地位向上が東北まで認知されていたことを示すとは言えるだろう。
三好長慶と伊勢の国人
- 『雑々書札』
一、長野源次郎方へ打付書タルヘキ
- 『雑々聞撿書』
一、神戸事、御家国人ノ由古物ニ注置之、
一、書状ノ事、三好修理大夫殿参人々御中ト在之、
返書ハ打付書ニモ可在之歟ノ由申之、然共進之トアリ、裏書事勿論無之、 永禄四 正 十二
これまた、書札礼書における記述で、伊勢国人の長野藤定や神戸氏(時期的に具盛か)への書札礼を諮問した結果が書かれている。どちらも脇付のない打付書で良いという回答だったが、長慶は神戸氏に対しては「進之」という脇付を付けていて、ある種サービスしている。永禄3年以降、三好氏が河内・大和へ侵入し征服すると、伊勢側でも緊張が高まっており、実際に秋山藤次郎は三好氏の婿を称して北畠家に反乱したこともあったようだ。そうした中、長慶と伊勢国人が通信していた事実は決して軽くはないが、内容を記してくれないのでどういうやり取りだったのかはわからない。
それにしても長慶も神戸氏もこの約20年後に神戸氏を継いでいた人物(信孝)が三好氏を継ぐことになろうとは思っていなかっただろう。
朝倉義景から三好義継への使者、処刑される
- 『永禄以来年代記』元亀3年5月14日条
越前ヨリ三好方へ遣飛脚ノ僧ヲ召取、五月二日一条モトリ橋ニシテ両人アフリ殺ス、先代未聞ノ事也、信長下知也、
元亀年間の織田信長の苦境は一般に「信長包囲網」と呼ばれるが、北陸方面で信長と対峙していた朝倉義景と畿内で足利義昭と敵対していた三好義継が通じ合っていたのかどうかは謎が多い(ちなみに元亀元年段階では「江州南北・越州・四国衆悉令一味」と言われているので、この段階から朝倉義景と三好三人衆に同盟はあったようだ)。「信長包囲網」の連携は基本的に本願寺の史料に依っており、そのことが畿内における三好の動きを過小に記述することに繋がっていると思われるが…上記記事は確かに朝倉義景と三好義継の間で交渉があったことを示すものである(ちなみに本願寺顕如の書状案でも朝倉義景相手に「三好家と相談してくれ」という内容は複数出てくる)。もっとも使者は信長に捕らえられ、焚殺されたわけだが…。「先代未聞」という処置からは信長の強い憎しみが窺えるとは言えるだろう。