志末与志著『怪獣宇宙MONSTER SPACE』

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三好氏居所集成・十河存保(三好義堅)編

 『織豊期主要人物居所集成』の三好氏版。Twitterで毎日連載していたが、実休に続きこれまた記事として典拠付でまとめておく。
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十河存保の生年

 十河存保は信頼性の高い史料で生年を明らかにできるものはないが、系図では享年33歳とするものがよく見られ、これに従うと天文23年(1554)生まれ。兄長治が天文22年(1553)生まれとされ、存保の活動時期的にも不自然ではない生年とは言えよう。天文23年の年末に父三好之虎(実休)は畿内へ出陣するが、妻子を伴ったとは考えられず、存保の生誕地は阿波と見るのが妥当である。

十河存保の活動経歴(1)~十河氏の当主として

 十河存保の明確な初見は永禄8年(1565)3月30日と6月19日に十河千松とその母や内衆らが日珖より受法されたことである(『己行記』)。前年に十河重存(義継、一存の子)が三好長慶の養嗣子となっており、十河氏の家督の欠を埋めるべく三好実休次男の千松丸が十河氏に入って表舞台に出ることになったのだろう。実際に永禄7年(1564)11月には十河氏が請け負っていた九条家への年貢納入について既定の升が使われていないと報告が上がっている(『戦三』一一四四)。十河一存九条稙通の娘婿となることで培われた十河氏と九条家の信頼関係は、九条家の縁戚ではない十河氏当主の登場によって崩壊したと見られる。
 永禄9年(1566)2月に行われた三好義継と畠山高政の上野芝の戦いでは十河千松丸手も首級を4つ挙げている(『細川両家記』)。千松丸本人が戦場に出ていたかは定かではないが、十河氏の軍勢は三好義継・三人衆・阿波三好家と協働していたことがわかる。なおこの年の8月千松丸は慈父(一存?実休?)の供養のため諷誦文を作成している(「己行記紙背文書」)。
 永禄11年(1568)3月5日三好実休の7回忌のため三好長治と十河孫六郎、そしてその母たちが堺までやって来た(『己行記』)。『己行記』では長治の母と孫六郎の母が別人扱いなので両者は異母兄弟であったとわかる。千松丸だった存保の孫六郎はこの時が初見。13~15歳で元服なので当時としては標準的な元服年齢と言える。
 永禄11年10月に三好三人衆畿内から退去する。孫六郎や十河氏がどのような動きを見せたのかは不明だが、翌年には今井宗久が十河氏の畿内権益である堺での塩合物過料銭徴収権や西九条縄之内の年貢・地子銭徴収権を継承している(『今井宗久書札留』)ので、孫六郎も畿内から逃れ権益を失ったと見られる。
 元亀元年(1570)7月から三好三人衆の軍勢が畿内に渡海し足利義昭織田信長と対峙する。この軍勢に十河勢も加わっていた(『細川両家記』・『信長公記』)がどのタイミングで野田城・福島城に加勢したのかは不明。この年の6月孫六郎は上洛を見越してか東福寺に禁制を出しており(『戦三』一四九〇)これが発給文書の初見となる。
 元亀2年(1571)1月十河存康は南山城の国人狛氏に音信を謝した(『戦三』一五八〇)。狛氏は三人衆に通じており、前年の戦争で三人衆方が一定の成果を収めたことによるもので、存康も畿内にいたのだろう。実名「存康」はこの時が初見。常識的に考えれば元服時からこの実名を帯びていたと見られるが、一応ここではここまで孫六郎と呼んでいた。
 その後の元亀争乱の中で十河存康も軍事活動を展開したと思われるが、具体的にはよくわからない。元亀4年(1573)に入ると十河氏が和泉の松浦光を通じて織田信長と連絡し三好義継の若江城を乗っ取って義継領を与えられることを図っている(『戦三』参考125)。これが存康か別の十河氏かは不明だが、義継の三好一門への統制力低下を物語っているとは言える。
 天正2年(1574)8月三好孫六郎存康は穴山信君に連絡し、本願寺と相談して上意を奉じるよう求めた(『戦三』一七三〇)。この時点で存康が前年織田信長に追放された足利義昭と協力し反織田闘争を行っていることがわかる。また十河名字から三好名字に改めており、前年に滅亡した義継の後継者を自認していた可能性がある(であれば前年に義継の放逐を図った十河氏も存康である可能性が高いか)。
 天正3年(1575)4月には織田信長畿内の三好残党を討つべく出陣、新堀城の戦いでは十河重吉ら十河一族の多くが戦死し、高屋城の三好康長は信長に属することになった(『信長公記』)。十河一族に多数戦死者が出たことから存康も何らかの関与があったはずだが、史料では全く出て来ない。織田信長はこの直後武田氏の攻勢に苦しむ徳川氏救援に向かい武田氏に大勝を収める(長篠の戦い)。存康は前年武田氏と連絡していたが、武田氏から見て畿内の三好の動向はどのように映っただろうか。
 天正5年(1577)5月三好存康の母が亡くなったため、堺の妙国寺で日珖が談義を行い、存康も聴聞している(『己行記』)。前年末に存康の兄三好長治が横死し、この頃阿波・讃岐では動乱の最中だったが存康の関与は確かめられない。この頃の存康の居所はよくわからないが、母とともに堺に在住していたと見るのが穏当だろうか(『昔阿波物語』などでは阿波三好家家督相続の際堺から存康が来たと記している)。

十河存保の活動家経歴(2)~阿波三好家の当主として

 天正6年(1578)初頭(『三好記』では1月3日)三好存康は阿波勝瑞城に入城し阿波三好家の家督に据えられた。存康の入国に関して小早川隆景は祝いの使僧を派遣、離反していた篠原右京進(長房の子)も三好家に帰順した(天正6年には右京進が能の太夫方を務めたという)。天正4年末の三好長治の横死以来、阿波・讃岐では争乱が続いていたが、毛利氏・足利義昭と結ぶ阿波三好家の遺臣たちが阿波三好家を再興することで一定の決着を見た。天正6年の阿波は「国しつま」ったという(『昔阿波物語』)。
 そして、天正6年か7年の8月19日三好義堅は坂東河原合戦の感状を阿波・讃岐の国人に発給した(『戦三』一九五三~一九五五)。実名「義堅」と新しい花押の初見で、阿波三好家相続を機に実名と花押を改めたと見られる(「義堅」は足利義昭からの偏諱か)。この段階では既に長宗我部氏が阿波南部へ侵攻していたが、義堅は阿波・讃岐への軍事動員権を持っており、確かに両国を統治していたと言える。
 天正8年(1580)1月1日三好義堅は紀伊雑賀の穂出氏に岩倉表の敗戦を伝え反攻のための協力を求めた(「藩中古文書」)。岩倉での敗戦とは前年年末に義堅擁立主体である矢野房村や三好越後守らが長宗我部方の岩倉城・脇城に誘い出され殺害された戦いと見られ、義堅本人の出陣は不明だが、この時点では巻き返しの意欲があり国外勢力も動員して長宗我部への対抗を図っていたことがわかる。
 ところが同日には長宗我部方より篠原右京進に調略の手が伸び右京進が内通すると知った義堅は1月3日勝瑞城から脱出、讃岐へ逃亡した(『昔阿波物語』)。勝瑞城は長宗我部方に接収され、11月には長宗我部方は讃岐での敵が十河城と羽床城のみとアピールする(『戦三』参考139)など義堅(恐らく十河城在城)は急速に追い詰められていく。追い詰められた義堅は本来敵方の羽柴秀吉にも接触を図っている(「大阪城天守閣所蔵文書」)。
 しかし、天正8年11月下旬この年織田信長と和睦した本願寺の残党が渡海して勝瑞城を襲撃、占拠する(『戦三』参考139)。これを受けて長宗我部方だった新開道善が離反し、篠原右京進が義堅に帰順するなど長宗我部氏の阿波・讃岐攻略は一時頓挫し、天正9年(1581)早々に義堅は勝瑞城への復帰を果たすことが出来た(『昔阿波物語』)。
 天正9年(1581)三好義堅は紀伊の鉄砲衆3000(恐らく雑賀衆)を用い、淡路の田村氏200の援軍を得て長宗我部方一宮成相の一宮城を攻撃、9月8日に長宗我部家臣久武親直が救援に来たため敗退するも、追撃は篠原自遁2000の軍勢が退け、両軍ともに撤退した(『昔阿波物語』・「松家家文書」)。未だ不安定ではあったが、義堅は長宗我部氏に反転攻勢を仕掛けるほどには勢力を回復した。
 しかし、三好義堅の復帰によって阿波三好家の統治が十全に復活したわけではない。『昔阿波物語』によると天正8年~10年の阿波は「盗賊の代」であり、勝瑞の市には盗人が蔓延っていたが、勝瑞城の義堅の御前衆も盗人の同類であったため、義堅は対策を打たず町人は心静まることがなかったとされる。こうした盗賊の素性は義堅を推戴した本願寺の残党らではなかろうか。結局勝瑞町民にとって長宗我部氏は他国者だが、義堅が帰ってきても矢野房村・三好越後守らがいなくなっている以上、他国者に推戴されているだけというのは変わらなかったと推察される。
 天正10年(1582)5月織田信長が阿波に三好康慶を派遣すると、阿波国内の勢力は競って康慶に帰順した。康慶は勝瑞城に入城し、一宮城・夷山城を攻略、また勝瑞に蔓延る盗賊らを処罰し(『昔阿波物語』)、織田氏の四国遠征軍来着の下準備に勤しむ。この間三好義堅がどこで何をしていたのか全く史料に現れず、康慶に協力したのかどうかも直接的にはよくわからない。
 しかし、6月に本能寺の変が起き、織田信長が横死すると織田氏の四国攻めは中止となり三好康慶も対応のため畿内に帰ってしまった。すると三好義堅が再び阿波三好家のリーダーに返り咲く。8月下旬になると長宗我部元親は阿波遠征を開始、義堅は勝瑞城を拠点に迎撃の構えを見せる。8月28日の中富川での決戦で、数で劣る三好勢は敗北し矢野虎村ら多くの重臣・領主が戦死した。義堅は勝瑞城に籠って抵抗を続けるも敵わず、9月21日勝瑞城を明け渡すことを条件に助命され讃岐へ逃れた(『昔阿波物語』・『元親記』)。畿内では羽柴秀吉が三好方の自身の与党への編成と義堅の援助に動いていた(『戦三』参考146)が間に合わなかった。元親は次いで義堅が逃れた十河城を攻撃するが、冬になり雪が降ると撤退している(『元親記』)。

十河存保の活動経歴(3)~秀吉幕下の武将として

 天正11年(1583)2月十河存保興正寺別院の讃岐国香東郡から三木郡への移転・再興に伴い諸役を免除した(『戦三』一四九五)。3月には東村政定・三木通倫が連署で「殿様」の意としてこれを奉じている(『戦三』一四九六)。讃岐に逃れた存保が領国支配を展開しようとしていたことがわかる。この段階では織田氏に「上様」はおらず、信雄が「殿様」と呼ばれているので、存保の「殿様」には未だ織田氏から自立した地域権力たり得ようとする意志がある。なおこれが実名「存保」の明確な初見となる。
 4月には羽柴秀吉が派遣した仙石秀久が引田やその周辺を舞台に長宗我部方の香川信景らと交戦しているが存保の関与は不明。阿波では篠原自遁や森村春による長宗我部氏への抵抗が続くが、彼らも秀吉に個別に把握され存保の指揮権は失われていた。よって本人は未だ三好意識かもしれないが、本項では他称として使われる十河で統一する。
 12月には仙石秀久の取次下に長宗我部氏への反攻も行われ、十河存保や安富氏も阿波へ出兵したようである(『戦三』参考148)。この時の感状は秀吉が発給しており(『戦三』一九五六)、存保の自意識がどうあれ秀吉からの扱いは讃岐の一与党にすぎず、阿波・讃岐の勢力への上位性は現実には失われていた(『柴田合戦記』)。
 天正12年(1584)羽柴秀吉織田信雄徳川家康の抗争が始まると、長宗我部氏は織田・徳川と連携し四国の羽柴与党をより圧迫する。長宗我部氏の侵攻により6月11日には十河城は落城し、存保は脱出した(「香宗我部家伝証文」)。6月16日には羽柴秀吉宇喜多秀家仙石秀久に十河城への兵糧搬入を指示したが間に合わなかった(『戦三』参考150)。これによって讃岐の反長宗我部の拠点は大内郡の一城(虎丸城とされる)のみとなる(『戦三』参考151)。その後の存保は一城に籠って抵抗を続けたとも四国から逃れたともされる。
 天正13年(1585)6月羽柴秀吉は四国平定の軍を発し、羽柴・毛利・宇喜多の軍勢が阿波・讃岐・伊予に侵攻しはじめる。しかし讃岐侵攻勢はすぐ阿波に転戦し本格的な戦いの状況も十河存保がどのように関与したのかも不明である。8月には長宗我部元親は降伏し、土佐以外の三国は全て没収されることになった。讃岐は仙石秀久に与えられ、十河存保と安富氏は秀久の与力という形で大名の地位を確保した。同時に阿波は蜂須賀家政に与えられ阿波三好家の支配に公的にも終止符が打たれる。常識的に考えれば存保は御礼のために上洛、秀吉に謁見して臣従を公にしたはずだが史料がないのでいつどのように行ったのかはわからない。
 讃岐で十河存保が与えられた地域は十河2万石とも言われるが実際にはよくわからない。居城も不明だが、前田東城は文献に現れない、織豊期城郭の特徴を持つ、未完成のまま放置、廃城となったらしいことから、存保が新たな居城として整備しようとした城郭である可能性がある。
 天正13年~14年初頭豊臣秀吉徳川家康を討つために西国衆・四国衆も出陣させると東国の豊臣与党にアピールしている。どれくらい本気だったのかは不明だが実現していれば存保も従軍する予定であろうし準備をしていたのだろうか。結果的に秀吉と家康は和睦に向かい四国衆が出陣する徳川攻めもなかった。
 天正14年(1586)7月豊臣秀吉は九州の島津氏を屈服させるため、先遣隊として仙石秀久に四国人数を率いて出陣するよう命じる。もはや十河存保個人の名前は現れないが、秀久と共に行動していたのだろう。四国軍は9月には豊後国沖ノ浜に上陸。10月には秀吉の許可を得て妙見山に陣を移した。11月23日秀吉は秀久に補給に徹するよう命令する(『黒田家譜』)が、12月上旬鶴ヶ城島津家久に攻撃され窮地となると、秀久は11日救援のため戸次川に陣を移し、12日から13日にかけて島津軍と交戦。大敗を喫し、十河存保はじめ長宗我部信親、安富氏らが戦死、秀久や長宗我部元親は九州戦線から逃亡した。

十河存保の戦歴

 おまけとして存保の戦歴を羅列すると以下のようになった。
〇 上野芝の戦い
〇 野田城・福島城の戦い
● 新堀城の戦い
? 坂東河原の戦い(義堅感状しかないので〇?)
● 脇城外の戦い
△ 一宮城の戦い
● 中富川の戦い
△ 十河城の戦い(天正10年)
? 阿波派兵(天正11年)
● 十河城の戦い(天正12年)
? 虎丸城での抗戦
● 戸次川の戦い
 2勝5敗2引分3不明で、後半生はまともに勝ったことがない。しかし、そもそも劣勢の勢力を引き受けているので致し方ないと言ったところだろうか(プロスポーツチームで戦力が弱小なところの監督を責めても仕方ないような感じである)。それだけに戸次川の戦いは久々に大軍の一翼として働ける機会であったが、ダイレクトに命取りになってしまった。この点は勝者の島津家久の上手さを称えるべきなのだろう。

感想

 意外と前半生の動向が謎で、現れるのも飛び飛びだし、どこにいるのかもよくわからない。養父の一存が直接的に京都にいたり、実父実休が茶会などに参加していたことに比べると、存保は畿内に形跡を残せる記録類が『己行記』くらいしかなかった。この点については今後新出史料が出ると良いですね。特に存保が甲斐武田氏と連絡しているのは興味深い。
 今回の気付きは存保の改名について。存保が「三好義堅」を名乗っていたということは、知られているような知られていないような事実である。この問題を整理して提示されたのは天野忠幸氏である(『三好一族と織田信長』など)。まず、前提として、
(A)天正11年2月に興正寺別院の移転・再興を認可する書下には「存保」の署名がある
(B)8月19日に一斉に出された(と言っても現存3通だが)義堅署名の感状がある
の二種の文書がある(以下、それぞれ(A)(B)と呼称)。また、天正12年8月段階で本多正信は存保を「義堅」と他称している。よって、天野氏は(A)→(B)の順序とした。これによると、存保は天正2年から11年の間のいずれかに存康から存保と改名し、天正11年2月から8月の間に存保から義堅に改名したことになる。天野氏は前者の改名を三好康長との決裂によって「康」の字を捨てたこと、後者の改名は羽柴秀吉が甥の秀次(当時は信吉)に三好氏を継がせたことへの対抗(義興→義継と受け継がれた「義」字でアピール)と説明した。
 これに対し、中平景介氏は義堅改名の時期と契機を存保の阿波三好家家督相続に求めた(「天正前期の阿波・讃岐と織田・長宗我部関係」)。中平氏は(B)の内容について考察し、合戦が行われた「坂東河原」は阿波国坂東郡における吉野川流域と考えられること、受給者である讃岐の木村氏が天正7年末以降は長宗我部氏に与同することから、(B)の年次を天正6年か7年と再比定した。また、天野氏が触れなかった文書として、岩倉表の敗戦に触れた「義賢」書状写を義堅発給とし、存保の重臣東村政定に蜂須賀正勝が連絡した書状に「義方様」と現れるのを天正8年に比定するなど、存保が天正8年には義堅と自称・他称していたと論を補強されている。
 個人的には天野説よりも中平説の方が状況に整合的であると考えられる。一方で中平説でも天正12年に存保が義堅と他称されている問題が残っている。もっとも義堅から存保への改名が天正11年初頭であり、天正12年に義堅と呼ぶ人間が東国の本多正信であるならば、正信に改名情報が伝わっていなかっただけとも取れる(そもそも徳川と長宗我部の通交も天正12年からで両者自体が遠方でもありまともに意思疎通できなかった)。
 中平説自体は存保の義堅名乗りは阿波三好家相続を契機とする指摘に終始していた。ここで今回の気付きの話に戻るのだが、この指摘は結構な波及の可能性を孕んでいたということである。
 まず、存保→義堅改名が否定されたことで、天正2年の存康以降、天正6年頃に義堅を名乗るまで存保が存保を名乗っていた確証が消滅した。これまでは漠然と存保が義堅と改名したとされ、だからこそ天野氏も中平氏も「三好存保」なる表現も使っていたと思われるのだが、存保→義堅が否定された以上、存康と義堅の間に存保が挟まっていたと積極的に考えるのは難しい。現状では存康から義堅に改名したと考えるのが穏当なのだろう。
 次に存保名乗りの初出が(A)であり、それが東国方面では周知されていなかったことによって、義堅から存保への改名は中富川の戦いの敗戦に契機が求められる可能性が強まった。中富川の戦いによって阿波の多くの領主が戦死したが、阿波三好家そのものも否定されてしまったと推測される。そのため存保は義堅という名乗りもやめてしまったのではないだろうか。その後の存保は「十河」と他称されるが、自意識としても「十河」に落ちてしまった可能性もある。そうであれば「三好存保」はいなかったことになる。
 以上のように存保の改名事情についてはまだまだ論点がありそうである。存保は父実休に比べると文化面ではあまり触れられていないが、勝瑞城で能を見たくらいであろうか。父以来日珖に帰依しつつ、本願寺と組んだり、浄土真宗寺院の再興に関与するなど宗教面でも気になる事績が見える。存保をめぐる議論の活発化や史料の発掘に期したい。