志末与志著『怪獣宇宙MONSTER SPACE』

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天文11年(1542)の「三好康長」という虚像―「史料稿本」の追記から

 大日本史料』という史料集がある。平安時代中期から江戸時代までを対象にする、日本史の基幹となることを目指された史料集だが、如何せん日本史の史料は膨大である。明治から編纂が続いているが、このペースだとまず間違いなく今世紀中には完結しないだろう。しかし、『大日本史料』が刊行されるまで、その時期の基幹史料がわからないのはどう考えても不便である。そのために作成されたのが『史料綜覧』で、『大日本史料』の綱文となるべき文章とその典拠史料を示してくれている。これによって、とりあえず『大日本史料』未刊行でも当該期の事件とそれを調べるために当たれば良い史料の見当がつく。また、『大日本史料』には「史料稿本」という草稿があり、未定版『大日本史料』としての活用も可能になっている。ありがたいことに、『大日本史料』あるいは「史料稿本」は東京大学史料編纂所大日本史料総合データベースでネット公開されている。
 さて、ここまでが前置き。上記データベースで調べると、『大日本史料』天文11年3月15日条は興福寺學侶、春日社六方衆と爭闘し、閇門す、尋で、三好康長等、之を和せしむ」となっている。三好康長!?
 三好康長については以前動向をまとめたことがある。その時点から多少研究は進展したが、以下の「居所集成」を塗り替えるほどの成果はまだ出ていないので、この記事でも康長の基礎的情報はこれによるわけだが…天文11年(1542)に康長が確認されるとなると話が変わってくる。「三好山城守」という名乗りに注目すると、享禄5年(1532)に戦没した三好一秀から、永禄3年(1560)に三好孫七郎康長が「山城守」を名乗るまで約30年の間隔がある。これでもし天文11年に康長らしい人物が確認されるとしたら、この間を繋ぐミッシングリングだ。具体的には「三好山城守」が登場するのであれば一秀と康長の間の当主となるし、「三好孫七郎」であれば康長の初見や年齢がグッと引きあがることになるだろう。
monsterspace.hateblo.jp

 そういうわけで、早速『史料綜覧』の挙げられている典拠史料「惟房公記」・「多聞院日記」・「春日神社文書」などなどを確認してみたわけだが…。…三好康長どころか、天文11年の興福寺閉門問題に「三好」自体が全く出てこない!考えてみればそりゃそうだ。天文11年段階の三好長慶(当時は実名「範長」)は細川晴元の部将で、摂津下郡の守護代ではあったが大和との関係は特にない。強いて言えば、天文11年9月に山城に松永久秀が出兵してきた際、三好の軍勢が大和へ進出するのではないかと言われたが、すぐに撤兵しており危惧は現実にならなかった(『多聞院日記』)。大和から見て当時の三好は9月に入ってこの程度の存在感であり、三好一族が興福寺春日大社の宗教問題に口を挟んでくる状況にあったとは言えない。この一件に三好康長が現れないことは至極当然なのである。
 そうなると問題になるのが『大日本史料』はなぜ「尋で、三好康長等、之を和せしむ」と書いたか、である。ここで「史料稿本」を見ると、当該条は以下リンクのようになっている。
clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp

 これを見ると、当初史料の引用とともに挙げられていた綱文は「興福寺学侶僧、春日社社人ト諍闘ス」のみであり、この右に「尋テ三好康長等之ヲ調停ス」が追記されていることがわかる。…そりゃ『史料綜覧』の典拠史料を見ても三好康長なんて出てくるわけないわな。典拠史料から読み取れるのは「興福寺学侶僧、春日社社人ト諍闘ス」のみで、三好康長の関与は追記だったのだから。
 それでは、追記者はなぜ三好康長の関与を追記したのか。典拠史料がわからない以上、追記者本人に聞かなければわからないところだったが、「史料稿本」には他にも追記箇所があり、そのヒントになりそうな記載があった。
clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp

 「按」以下の部分の左にも追記がなされている。だいぶ殴り書いているので正確に読み取れないが、それでも「八月十六日」「三好」「笑岩」という文字が見える。実は、この条件に合致する史料が存在する。

今度者遥々被成御越、深重申承本望之至候、就其御開門之儀、於此方如申談候、伊右・宗也被罷越候、可然様御入魂干要候、恐々謹言、
         三山入
   八月十六日   咲岩(花押)
   吉祥院
   珍蔵院
     御同宿中

 8月16日付で三好山城入道咲岩は吉祥院と珍蔵院という奈良の寺院に対し、遠路来られたことを謝し、「開門」についてはこちらと相談した通りにするよう、また伊沢右近と木村宗也を派遣するので入魂を依頼している。何だ、何だ。三好康長が興福寺の閉門を問題視して、その解決である開門に関与してる史料あるじゃんか。三好が奈良にいないって言っても、吉祥院と珍蔵院ははるばる康長を訪ねて相談しており、奈良の寺院から康長が大きく頼りにされているのは明白だ。使者として具体的な人名も出てくるし、閉門問題について康長のリーダーシップが窺えるのも間違いない。
 しかし、問題はこの書状を天文11年に年次比定できるかどうかである。三好康長が出家し、法名「咲岩」で署名するようになるのは永禄10年(1567)10月からで、元亀元年(1570)からは出家には変わりないものの署名が「康長」に戻る。よって、署名に注目すれば、上記書状は永禄11年に比定できる(可能性としては永禄12年もあるが、この時の康長はそもそも畿内すらいないので除外)。
 そして、永禄11年にも興福寺の閉門問題は発生しているのである。永禄11年2月、三好三人衆の一人・石成友通の主導で大和の烏芋峰に一向宗の道場を築く計画が明らかになった。戦国時代の一向宗新興宗教な上、大和国興福寺が治めてきた南都仏教の地。さらに享禄・天文の一向一揆では暴走した一揆が大和に雪崩れ込んでおり、一向宗への心象は最悪だった。計画を知った大和の寺院らは興福寺を始め閉門することで、三人衆方に抗議したのである。その一方、三好康長は奈良の寺院に対し「不可有別儀」とし、理解を示した。こうして一向宗の道場を建てる計画を阻止すべく、奈良の寺院が頼るのは三好康長となった。康長は6月には信貴山城攻めに転戦しており奈良を離れていたが、7月に興福寺は河内まで康長にアポを取り、交渉を重ねることで計画を撤回させている。かくして、8月下旬には閉門が解かれ、開門される運びとなった(以上、『多聞院日記』)。
 と書いていくと、上記書状から読み取れる情報は全て永禄11年の状況に合致している。康長がなぜ閉門問題に関与しているのか、なぜ奈良からわざわざ康長を訪ねたのか、康長からの派遣と入魂依頼は何を意味するのか、8月16日というタイミング…全て説明できる。天文11年の「三好」すら出てこない閉門問題と比べると、雲泥の差である。というわけで、元の問題に戻ると、「史料稿本」の追記者は「春日大社文書」の三好康長書状を発見し、これは天文11年の閉門問題の関係史料だと早合点して、康長の関与を追記してしまった可能性が高い。
 よって、天文11年に閉門問題を調停した三好康長というのは完全な「虚像」である。やっぱり史料集、特にその綱文というのは、編纂者の意志が入り込んでくるわけで、ちゃんと原典を当たって検証する必要を痛感する次第であった。