「麒麟がくる」はかなり久々にちゃんと視聴している大河ドラマになっている。こんなにちゃんと観てるのはたぶん「真田丸」以来か…ってめっちゃ最近(4年前)じゃねーか。でもまあそれ以前となるとたぶん「風林火山」あたりまで遡ってしまうのでかなり久しぶりな心持ちもそこまで誤った感覚ではあるまい(一応間のものも断片的に視聴するなどはあった)。
久しぶりに大河ドラマに興味を持ったのはある程度畿内戦国史がやれる久々の土壌だったことが大きい。戦国時代ものはここ10年でいくつもあるが、地方が舞台であったり、織田信長・豊臣秀吉中心のストーリー作りだと畿内の武将らは敗者と言うか退場すべき存在以上に造形されない問題がある。そういうわけで畿内戦国史にある程度フォーカスできるストーリーと大河ドラマはあまりめぐりあってこなかったのである。特に「麒麟がくる」は放送前から「室町幕府の終焉を描く」「最新研究を取り込む」「織田信長を単なる革新として描かない」旨を明言していた。畿内戦国史研究はここ20年で飛躍的に進歩した分野であるのでそれらを取り込んだ「新しい」ドラマになることが期待されたのである。
と、ここで一つ。大河ドラマは史実再現VTRでもなければ、最新研究開陳場所でもない。45分×40回以上の時間で紡がれるドラマを楽しむものである。だから、松永久秀が主家三好氏に下剋上をするような悪人で最期が爆死であっても、そのドラマの中でのキャラクターが一貫し、視聴者に面白さを提供できれば良いのであって、史実と違うと口を挟むのは本来当たらない行為である。
ただし、だからと言って、史実を完全に無視してしまって良いわけでもない。特に大河ドラマは、これまで基本的に史実に則ってきたことが、そのブランドでもあった。過去の大河ドラマもこの点はやや危ういところもあった(主人公が不自然に歴史の重大な舞台に参画してキーキャラを演じるなど)が、概ね大きな史実を曲げていない、と思われる。だからこそ、近年の歴史研究を反映した歴史像、人物像の変化には無縁ではいられず、それを取り込むことも求められる。
製作者は、第一にドラマとしての面白さを追求しつつ、歴史再現としておかしくないものを目指すのが、「大河ドラマ」と言えよう。ただ、これがよく出来すぎると、ドラマの人物造型や展開が「史実」と見なされる向きもあるし、実際この記事での評価も双方の視点が混在してしまっているが…ご海容願いたい。
「麒麟がくる」は別に三好家を主軸とするドラマではないので、いわゆる「本筋」にはあまり関わってこない。そこで、三好家から「麒麟がくる」を見た場合の視点は人物像ということになる。そういうわけで、この記事では人物ごとにあれこれ物を言い、最後に総合評価を下すことにしたい。
伝統的な(とは言え戦後の造型であるが)三好長慶のイメージと言えば、「細川家相手に下剋上をしたはいいが、室町幕府を叩き潰すのには日和り、晩年は力を失って松永久秀の下剋上を許した人物」と言ったところであろうか。もっともこうした見方も天野忠幸氏を中心とする研究と、これを引き継ぎつつも天野説を修正する研究の成果により、だいぶ様変わりした。長慶は主家の細川京兆家を立てつつその権限を受け継いでいった。幕府との関係には未だ説が定まるには至っていないが、それでも幕府の諸権限を相対化しており、身分違いの地位を占めていたことが明らかとなった。晩年に松永久秀に実権を奪われたという説には全く根拠がなく、久秀はむしろ三好政権を支える柱石であった。言わば、三好長慶をどう描くかは研究の深化をドラマの中にどれだけ反映させるのかに直結する。
それでは実際どうであったのか。「麒麟がくる」では長慶本人の出番はさほど多くなかった。メインキャラである松永久秀がよく主人公である光秀と絡んでいたのと比べると、長慶と光秀が邂逅したのはほぼ一瞬で、光秀にとって長慶は常に間接的にしか関与しない人物だった。そういう意味では「麒麟がくる」は長慶を造形することを避けていた側面がある。「麒麟がくる」の長慶はあくまで「松永久秀にとっての三好長慶」「足利義輝にとっての三好長慶」である。
ただし、だからと言って実りがない人物像というわけではないのはもちろんである。「松永久秀にとっての三好長慶」は決して逆らうことの出来ない、守るべき主君であったし、「足利義輝にとっての三好長慶」は常に目の上のタンコブであり、和睦しても気を許せない仮想敵であり続けていた。三好長慶は間違いなく「麒麟がくる」前半22話において最大の実力者として造型されていたのである。
そしてその人物造型を支えたのが長慶を演じた山路和弘氏の好演であった。山路和弘氏は65歳(当時)で、43歳で亡くなった長慶を演じるにはかなり老けている。しかし、それだけに存在感と貫禄は抜群で、吉田鋼太郎氏演じる松永久秀相手に弱みなど匂わせない。第19話では足利義輝と和睦し、さも義輝を上に立てるような言葉をぬけぬけと言上したが、その言葉はいかにも空虚であった。山路氏が醸し出す不遜さがなければ、この場面も受ける印象はだいぶ変わっていたはずである。そして最期まで下剋上の雄としてのオーラを失うことはなかった。
第22話のラストで長慶は死去しドラマから退場するが、第22話自体が三好長慶の総決算とも言える回であった。長慶の手で畿内は掌握され平穏が現出する、その一方で幕府は権限を奪われていき、存在感を埋没させる。無論、全てが史実と言えるかは微妙なところもあるが、長慶が畿内戦国史、日本史の中で果たした役割をかなりアピールしていた。個別の場面は十全ではないとは言えようが、総体としての三好政権像を「麒麟がくる」は描き切った。厚く御礼申し上げたい。
しかし、ドラマとしては第22話で長慶がある種称揚されたことで、「麒麟」像はやや微妙にはなったとは言えようか。それまでの「麒麟がくる」でメイン級として登場した大名たち、斎藤道三、高政(義竜)、織田信秀、朝倉義景、松永久秀や足利義輝も含めて良いであろう、皆有能さが演出されながらも、乱世を終わらせる「麒麟」たりえない短所や限界も併せ持つ人物造型がなされていた。それに比べると三好長慶は先述したようにそのキャラクターをドラマの中で描くということはあまりなく、第22話まで政権像やその成果もあまり触れられなかった。と言うのは、「麒麟がくる」では京都目線を担保する人物として駒と望月東庵がいたが、第話で今川義元の駿河に下向してしまった。その間の京都不在期間がすっぽり三好長慶らが三好政権を打ち立てる過程に重なっている。こうした点から「麒麟がくる」は三好政権を正面から描くのを避けたのではないかと思うこともあった。しかし、それは理解できない話ではなく、長慶が畿内を掌握し、京都を平和に導く様子を描出してしまえば、長慶こそ「麒麟」ではないかと視聴者に思わせてしまい、主人公光秀が足利義昭や織田信長を恃む前提がぼやけてしまう。だから、三好政権が何をしたのかを具体化しないのはやむを得ないとも考えていたのだが…具体化されたことで、なぜ長慶は「麒麟」扱いされなかったのかは改めて問われるべき問題になったようにも思える。ここらへんの問題は三好大河が来るまでの課題(?)ですね。
「戦国時代最大の梟雄」とか放送前煽るもんだからどうなるんだとハラハラしていた。ただ、放送前に三好長慶と細川晴元も登場することや、久秀の素襖姿が公開されたことで、不安はだいぶ和らいだ。久秀の三好家臣としての側面、仕事人としての側面も描かれることが予感されたからである。思い直すと、吉田鋼太郎氏が演じるというのも絶妙な配役で、どう見ても梟雄をイメージされつつ、そうではない一面を見せられるのではないかと期待できた。
そして、実際その通りになったのだから驚いた。三好長慶との主従関係ははっきり出ていたし、幕府と三好の相剋は市政を見る久秀によって表現されているし、将軍暗殺には与せず「将軍ってやっぱり必要じゃない?」と語るし、義昭擁立に手を貸しているし、義昭・信長からの離反はいずれもライバル筒井順慶の重用への不満だと描かれた。最新研究が描く松永久秀そのまんまである(足りなかったのは三好義継との関係くらいだろう)。松永久秀については、近年イメージ革新甚だしいが、大河ドラマでその革新はさらに進んだのではないだろうか。
久秀のイメージ革新の影響は単に松永久秀に留まらない。それでは主君三好長慶はどのような男で、何を目指したのか、将軍がいない京都で政治を見るとはどういうことか、逆に幕府や足利義輝の存在意義とは何か、義昭・信長の上洛戦はいかに成功したのか、中世の大和の支配構造や国衆とは…様々な取っ掛かりがあり、興味を引き込めればしめたものである。こういった話題が格段にしやすくなって非常にありがたいことこの上ない。
そして、これらの試みが出来たのは、間違いなく吉田鋼太郎氏が演じたことに負うところが大きい。「麒麟がくる」でも散見されるが、どうしても視聴者は外面から入るので、「この人だと外見のイメージが違う!」は有名な武将ほど足を引っ張ってしまう。そこでさらに思ったことと違う言動をされると違和感が増大してしまう。ただ、久秀の場合、吉田鋼太郎氏がさも梟雄であるかのような外見を引っ提げてくれたので、初見による違和感はほとんど発生しなかったと思われる(まあ私のような歴史オタクは「いつもの梟雄かよ…」という別の違和感があったのだが笑)。言動も程良く胡散臭く、やっていることとしてはかなりイメージ革新なのに既存のイメージを纏っているようにも見える。20話も経つと、もう吉田久秀の世界ががっちり構築されていて、調和しきっていた。役者である。
ドラマ的には、本筋に深く関わり、第1話から第40話に渡ってメインの登場人物を張った。主人公である明智光秀もまた松永久秀と同じく「出自のわからないところから急速に取り立てられてて畿内周辺で大名になるも最後は信長から離反する」人物であり、久秀は上記の特徴を生かしつつ、最期まで光秀の先人、教師であった。特に最期にあたって平蜘蛛の茶釜を用いたドラマは見事の一言に尽きる。明智光秀が主人公のドラマで松永久秀を描いてきた意義ここにあり。まさしく集大成であった。
「麒麟がくる」に松永久秀が出たのはとてつもなく大きかった。篤く御礼申し上げたい。
- 三好義継(演:黒部弘康)
演じている黒部弘康氏は40代なので、義継が当時10代と考えるとえらく老けている。まあ山路長慶の息子と考えるとそんなもんか?永禄の変が唯一の出番で、その後の久秀と協働したり、義昭幕府に参加したり、元亀の争乱で三人衆と松永を連繋させたり、佐久間信盛に滅ぼされたりといった事績は全くのスルー。まあね、ここらへん将軍を殺した三好の当主が三人衆に担がれたと思ったら、久秀を支持した挙句、義昭を担ぐなんてドラマに織り込むには意味不明度合高いからね。麒麟時空での義継は永禄10年くらいに人知れず死去したのだろう(たぶん)。
ただ、「松永久秀が」あるいは「三好三人衆が」と言われやすい将軍殺しの主体を義継に集約したのは意識改革としては大きかった。今後の永禄の変の新しいデフォルトになる、かなあ?
- 三好長逸(演:宮原奨伍)
松永久秀と並ぶ三好重臣の双璧…なんだけど、役者さんは義継以下の年齢の上イケメンなので久秀と双璧には見えん…。27話でちゃんと名前が「ながやす」と呼ばれた。これで視聴者の皆さんも「三好長逸」を正しく読めるし、「長逸なんて読めねー」とか言ってる人には「「麒麟がくる」で言ってたろ!」が使えます。
- 三好宗渭(演:岡けんじ)
「黄金の日日」では三好政康だったのが、近年研究をわかってかわからずか、三好宗渭に名前が更新された。しかし、三人衆に参加している時は「下野入道」で出家状態なのは既知に属すると思うのだが、足利義栄に近侍しているシーンではどう見ても俗体であった。な、何で…?(ここはそんなブレるところじゃないだろ!)ちなみに第12話で丹波から反三好勢力が京都に侵入しているが、時期的に宗渭は反三好勢力の方に加わっていたはずである。
- 岩成友通(演:高野弘樹)
岩成名義で参戦。特に言うこともないが、いつの間にか消えた他の2人と違い、第37話で淀城にいるところを細川藤孝に滅ぼされたことを台詞で説明されたので、最期は描かれている。友通が淀城にいるのも意識し出すと「何で?」となるが、ここらへんややこしい話なので割愛はやむを得まい。
細川晴元がメインの人物として登場するなんてすげえな!と思ってたら、第5話と第6話で出番が終わってしまい、出た場面としても3つくらいだった。恐らく多くの視聴者は将軍の前で鼻をかんだおじさんと、長慶暗殺に失敗して「しくじりおってー!」と叫んだしくじりおじさんとしての記憶しか…いやもうすでにそれすら忘れられてしまっているかもしれない。それくらいの存在感しかなかったのは残念とは言っておきたい。朽木に避難する足利義輝に近侍しているとかそういう出番も本来作れたはずであるし。
ただ、放送前に予想した「下剋上の敗者」イメージは謹んで撤回したい。どうしても一般的なイメージで言えば、戦国時代の細川氏は室町時代以来の旧勢力の代表格で、下剋上されるべき対象といった感覚が根強いと思われる。また、畿内戦国史は将軍家・管領家の内紛に焦点が合わされることもあって、勝者不在ただただカオスな世界という見方も命脈を保っているであろう。しかし、「麒麟がくる」の晴元の将軍の前で鼻をかむという不遜な態度はこうした一般的観念から一線を画す造形であったのではないか。旧来の権威など歯牙にかけていない態度であり、細川晴元とはグダグダ権威にすがって生き延びている人物ではなく、自らの力を恃んで勝者となっている人物である。そのような演出に見えた。「麒麟がくる」に共通する描き方ではあるが、伝統的な勢力は存在価値があるからこそ、淘汰されずに存在する(していた)のである。
と、ここで史実的晴元について。個人的に細川晴元の人物像については確信がなかったのであるが、「麒麟がくる」での傲岸不遜さを見て何となく晴元像が固まり始めた。細川晴元は細川京兆家の歴史の中では伝統を受け継いだ存在とは言えない。結局管領になることもなかったし、伝統的な京兆家内衆体制とは一線を画して、有力者を次々に起用した。晴元が足利義晴に伺候した時に騎馬で引き連れた重臣が波多野秀忠、三好長慶、木沢長政であったのはまさしく象徴的場面である。伝統的には、薬師寺、安富、香川、内藤といった氏族が京兆家内衆のトップの位置を占めており、京兆家当主が将軍に伺候する際お供をするはずなのである。しかし、晴元が引き連れた3名は全員が京兆家重臣としては新興の氏族であり(木沢長政に至っては晴元に仕えて10年経っていない)、見逃せないのは相応の実力者たちであったことである。晴元のストロングポイントは強者を伝統的体制とは無縁な形で起用できることであった(もちろん完全に無関係なわけではないが)。逆に細川高国は伝統的体制の再構築に気を配っており、高国残党が蜂起を繰り返した、換言すればある程度の支持を集めたのは「伝統の保護者」が期待されたからではないか。晴元は端的に言えば「伝統の破壊者」として勝者となった人物であり、「麒麟がくる」はその片鱗を上手く示してくれたと思う。
しかし、演じられた国広富之氏は67歳…長慶と同じで劇中年齢より30歳くらい年上ですね…(江口の戦い時に37歳)。特に国広氏に文句はないが、何でこんなに年配の役者さんを起用したんだろう。
- 細川藤賢(演:島英臣)
出演どころか台詞があった男(足利義栄・三好義継・三好三人衆「ぐぬぬ…」)。「ふじたか」ではなく「ふじかた」。藤孝と違ってこっちは歴とした細川氏で細川一門ナンバーツーの典厩家当主。「麒麟がくる」では細川氏綱が登場することはなかったが、藤賢は氏綱の弟で、序盤にあったんだかなかったんだかわからない程度に触れられた細川氏綱の乱で藤賢も活躍した。マイナーだけど、かなり息が長いベテラン武将である。
「麒麟がくる」での初登場シーンは永禄11年足利義昭が元服した後の宴のシーンでモブとしていたらしい。史実的にはこの時藤賢は信貴山城に籠城して三人衆と戦ってた気がするけど、登場のために時空を捻じ曲げたんだからすごい扱いである。本圀寺の変でも登場しているのは史実通り。光秀が藤賢に「藤孝は!?」と尋ねるシーンは狙ったのかどうかはわからない(が、何となくやりたいのはわかる)。
- 足利義栄(演:一ノ瀬颯)
「俺はお前のそういうところがホンマに嫌いや…」と言われそうな人。足利義栄が大河ドラマに登場するのは初めてらしい。出たシーンとしては将軍任官、闘病、死去くらいで本当に最低限だった。義栄というキャラクターの今後に繋がるだろうか…?
※お前ら出演はしてないだろ!
- 香西元成
第12話で丹波から侵入し交戦した反三好方とは、三好政生(政勝)と香西元成のコンビだろう。政生は後の三好宗渭その人であるので、香西元成は出そびれてしまった。
- 鳥養貞長
第19話で松永久秀が手にしていた書状の宛所が「兵部丞殿 御返報」であった。名字を略してしまったのはやや気になるが、久秀が連絡を取る兵部丞と言えば長慶の側近でもある鳥養貞長に相違あるまい。
- 広橋保子
第22話で松永久秀が妻の死から、奈良における遊興を禁止する場面があったが、話題にされていた久秀の妻こそ広橋保子である。保子は公家の広橋家の出身で摂関家の一条兼冬に嫁いでいたが、兼冬が夭折した後久秀と再婚した女性である。公家出身なので伊呂波太夫と面識がある風に描かれていたのは細かいいいところ。三条西家との縁まで拾っていたのは深すぎた。
- 松永久通
親の思惑を超えて将軍殺害に加担したドラ息子。史実ではその後は久秀と行動を共にしていたはずだが、ドラマではその後の登場はなかった。麒麟時空では三人衆に与して親と袂を分かったのだろう(永禄11年の義昭上洛の際に松永を赦免するかどうか揉めていたが、その際殺害に加担したのは久通で久秀ではない!と主張されていたし。史実では一体なので分ける意味がない)。
- 三好長虎
出たのは名前だけだが大河ドラマ初登場。27話において東庵に療治を受けていた。「三好長逸様の御身内」と言われていたが、「御身内」って言うか息子じゃないか。三好三人衆で家族関係がそれなりにわかっているのは長逸の子か宗渭の弟くらいなので、消去法チョイスだろうか(革島ジョアンさんはすでに追放されているだろう)。ちなみにこの頃は長虎はすでに生長を名乗っている。長虎の方が視聴者に読みやすいから?
- 三好康長
第38話で光秀が取り逃した敵の大将として名前を挙げ登場を果たした。天正2年の秋に行われた河内での織田対三好の戦いは、未だに合戦名すらついていないマイナーな戦争なので、取り上げられたことにまず驚き。本能寺の変四国説のキーマンを演じるはずだが、そっちでは出番なし。ただ43話でも光秀が見ていた畿内地図では南河内に「三好」の文字が!最終回で突然四国説が触れられたのと併せて忘れてないですアピールだけは感じるが、「忘れてない」程度をアピールされてもなあ…。
三好家から見た「麒麟がくる」
「麒麟がくる」のドラマ作りとしては、登場人物に史実を独自解釈で再演させるというより、その人物が関わった大きな史実・伝統的なイメージ・最新研究による人物像の3つを融合させて人物造型を作りだし、その人物造型によって出来事を動かしていくというスタイルだったと思っている(公式サイトが「一人の青年の物語として楽しめるドラマです」などと言っているのは人物造型を受け入れてしまえば歴史を知らなくても良いという意味では間違ってはいない)。それゆえに歴史の再現、最新研究に取り込みに一定の評価を確保した一方、そうでありながら「お馴染みの出来事」があまりなくてつまらないという評価もあるのだと思われるが…。
そういった観点で言うと、三好長慶、松永久秀、細川晴元は公式サイトで単独の登場人物紹介があったように、人物造型は存在していたので、ドラマの中での見応えがあった。これに対すると三好義継、三人衆、足利義栄はどうにも画面に映っただけの感を免れないところではある。もちろん、彼らが実際に出たことで、新しいことは着実に描けてはいるので、登場が無意味だったわけではないのだが。
ただ前提として「麒麟がくる」はあくまで明智光秀が主人公のドラマである。光秀の出自を美濃に求めて斎藤道三の家臣から出発させた以上、畿内を中心に勢力を伸ばした三好家が十分に焦点化されなかったのは致し方ない。では、なぜそれでいて三好家を断片的ながら描くことが招来されたのか。ドラマの中での三好家の意義は奈辺にあったのか。
これはもう40話の松永久秀の「爆死」に尽きるだろう。久秀は死の前に天下一の名物である平蜘蛛を光秀に託した。そして、光秀は平蜘蛛の行方を知っているにも関わらず、信長に嘘をつき天下一の名物を信長が所持することを阻止した。光秀は無意識的に「織田信長に天下一の名物は渡せない」=「織田信長は天下人(作中的には「麒麟を連れてくる存在」)としてふさわしくない」と思ってしまったのだった。光秀は謀反した久秀の心中の方に共振してしまう。本能寺の変への導火線が機能しはじめたのである。
織田信長から離反した人物は荒木村重やあるいは別所、波多野ら他にもいるが、この役回りは松永久秀しか出来ない。「天下人とはどのような存在か」を具現化でき、織田信長は天下人としてふさわしくないと断定できるのは、(あえて言うと)織田信長の前の天下人をよく知る人物のみだからである(ここでは、天下人の定義はひとまず措いておく)。ここに松永久秀を主要人物として、その関係する範囲で三好長慶や畿内の戦いを描いてきた意義があり、22話において現出した「三好長慶の平和」が存在した意味が結実する。こう見れば、「麒麟がくる」は三好家(三好政権)を、織田信長を相対化できるものとして高く評価していたと言えるだろう。
ただ、ドラマの中で三好長慶は「麒麟」とは見なされず、具体化に際して焦点化されてたとは言えない。長慶が信長と比べてどのように優れた存在であったのかという答えは松永久秀の胸中にしか存在せず、視聴者には提示されなかった。よって、ここで述べたのも独自解釈のようなもので、ここに「麒麟がくる」における三好家の描写の限界があり、歯がゆさがある。
また、光秀が主人公で久秀が主要人物という観点で見ても、否だからこそ内藤宗勝(松永長頼)とその子・如安(貞弘)については触れてほしかった、とは思う。「麒麟がくる」では丹波攻めの影が薄く、この点に関してはペース配分をやや誤ったのではないかとも感じているが、ちょっとした台詞でも存在をアピールすることは可能だったはずである。
そして三好康長。本圀寺の変以降の「三好」を彼に代表させれば、康長が信長に許容されたこと、重用されたこと、「三好」を再興させ光秀のメンツを潰したことなどをドラマに昇華する道もあったはずだった。そう思うと準レギュラーでも出られなかったのは惜しいことである。
月並だが、「おお!ここまでやってくれるのか」という部分と「流石にここはやらないかあ」という部分が混在していたのが「麒麟がくる」での三好家だった。ただ、これまでの大河ドラマで三好家(と畿内戦国史)は部分的にもフォーカスされることはあまりなかった。これに比すと「麒麟がくる」での三好家描写は100歩前進どころか1万歩くらい前進したと言える。松永久秀の描き方も従来のコテコテ梟雄というのはやりにくくなっただろうし、今後戦国時代が舞台の大河ドラマが製作されたとしたら、さらに着実に歩みを進めてほしい思いである。