志末与志著『怪獣宇宙MONSTER SPACE』

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三好氏居所集成・三好実休編

 『織豊期主要人物居所集成』の三好氏版。Twitterで毎日連載していたが、一応記事として典拠付でまとめておく。

三好実休の生年

 信頼性の高い史料では実休は生年未詳。享年が記される『三好系図』(群書類従)では享禄元年(1528)、『堺鑑』では大永6年(1526)生まれとなる。活動時期や兄弟順的に享禄元年生まれではやや遅い気がするから、大永6年(1526)の方が妥当だろうか。大永6年生誕ならば生誕地は阿波、享禄元年生誕だと畿内で誕生した可能性もある。

三好実休の活動経歴(1)~阿波細川重臣時代

 実休の初見は父元長の死後49日目となる天文元年(1532)8月9日に千熊丸(長慶)と連署(花押は両人ともナシ)で千満丸が阿波の見性寺に元長の追善料を寄進したもの(『戦三』一〇一)。この時は両名とも阿波にいたと思われる。また三好氏が畿内本宗家と阿波家に分かれる祖型がすでにこの段階で成立していることもわかる。冬康が安宅氏を、一存が十河氏を継いだ契機や時期はよくわからないが、元長段階から二人の子に畿内と阿波で三好を代表させる構想があったのだろう。
 天文8年(1539)6月本願寺が三好千満内者である加地六郎兵衛に音信を贈る(『天文日記』)。加地は「罷上」ってきたので千満ともども阿波在国が常態だろう。六郎兵衛は天文6年11月にも音信を受けている(『天文日記』)がこの時は長慶被官と並列されるので、千満内者と特筆されるのは三好家臣団が畿内と阿波で分立してきていることを示していると考えられる。なお、後の実休重臣・加地盛時が通称を又五郎→六郎兵衛尉と推移させるため、この時の六郎兵衛は三好元長の家臣・加地又五郎の後身かつ盛時の先代(父)にあたる人物と見られる。
 天文8年(1539)10月三好之相が讃岐国白峯寺に禁制を発す(『戦三』一三一)。署名は「彦次郎之相」で仮名・実名の初見である。前段落で述べたように6月段階では本願寺は実休を「三好千満」と認識していたので、この認識が古いものでなければ、7月~9月の間に三好千満は元服したことになる。兄長慶が元服したのは天文6年頃なので2年遅れ(長慶の元服が同時代的には遅めである)。天文8年10月28日阿波守護家細川氏之の軍勢が備中に侵入し尼子軍と交戦するも敗れている(『親俊日記』)。白峯寺には細川氏之も天文8年10月付で禁制を出しており、之相も阿波勢の備中出兵に従い10月に阿波→讃岐→備中と移動したと思われる。時期的に之相の初陣だろうが得るものはなく年末にかけて帰国したと思われる。
 之相の動向は一定期間見えなくなるが、天文15年(1546)細川氏綱に苦戦する晴元を援助すべく主君細川氏之とともに四国衆2万を糾合して10月22日堺に渡海する(『細川両家記』)。11月に離宮八幡宮に出した禁制(『戦三』一八四)ではすでに受領名「豊前守」を称しており、兄長慶が未だ孫次郎なのを追い越して官途を名乗った格好である。また、天文8年の禁制では「仍依 仰下知如件」と細川氏之の「仰」を前提とする文言があったのが、以降「仍下知如件」となり自立度が上がっている。また、渡海した四国勢で禁制を発したのは之相と篠原大和守のみであり、四国勢を実質的に統括していた可能性もある。
 さてその後の之相の動向であるが、12月6日には兄長慶や宗三、欠郡守護代山中氏らとともに本願寺から音信を受けており(『天文日記』)之相も畿内の晴元軍と合流したようだ。翌天文16年(1547)に入ると四国衆・淡路衆・畠山総州家を糾合した3万の軍勢が軍事行動を開始する。2月9日から20日に原田城を落とし、25日から3月22日にかけて三宅城を落とす(『細川両家記』)。この間の3月13日に本願寺が三宅城を包囲する軍勢に音信したのは三好4兄弟、宗三、香西元成、両山中、篠原大和守、塩田左馬助であった(『天文日記』)。晴元方は5月5日には薬師寺元房が籠る芥川城を包囲し、6月25日には開城させる。これを見た池田信正は降伏し北摂方面が片付いたため、7月5日細川晴元は上洛、氏之は難波、三好之相は尼崎へ移り、三好長慶・宗三や山中氏、畠山総州家の軍勢は河内十七ヶ所へ集結する。その後四国衆は7月21日に舎利寺で細川氏綱・遊佐長教らの軍勢を破る中に加わり、24日に堺に入り、8月11日より翌天文17年(1548)4月に和睦が成立して下国するまで河内国若林に在陣した(『細川両家記』)。三好之相の個別の動向は不明だが基本的に四国衆を指揮し共に行動していたと思われる。
 さて、天文17年の和睦で落ち着くかと思いきや三好長慶細川晴元に謀反し翌年にかけて江口の戦いが起きることになる。之相は兄を支持したと思しい(『細川両家記』では阿波も長慶の「一味」とする)が、四国衆や之相本人が渡海したかは確証がない。積極的・直接的な介入をこの段階ではしなかったようである。

三好実休の活動経歴(2)~長慶の弟として

 三好之相に次の動きが見られるのは天文20年(1551)。9月に弟の安宅鴨冬とともに東寺に禁制を発給しており上洛を睨んでいた(『戦三』三一八)。軍勢がどれだけ動いたかは不明だが之相の取次に篠原大和守が見え(『戦三』三一六)、大和守が伴っていたようである。11月9日三好之相は堺に来たようで11日本願寺は堺の之相に音信を贈った(『天文日記』)。その後は17日から12月6日にかけて4回弟の安宅鴨冬や十河一存足利義維の側近畠山維広らとともに堺の商人たちと茶会に参加している(『天王寺屋会記』)。堺で越年の予定が、13日には下国の途についたようで本願寺は慌てて音信を贈っている(『天文日記』)。なお本願寺の音信は、堺に来た之相一行が若者ばかりで誰を取次として良いかわからず、勝沢軒なる人物に取次を依頼した。だが上原加賀守曰く勝沢軒は堺出身で没落して阿波に逃れていただけで披露など出来る人物ではなく、12月13日はその上原加賀守が音信を取り次いでいる。
 色々と面妖な動きだが、天文20年4月足利義維本願寺に荒川(維国?)と斎藤(基速?)を本願寺に派遣し子息(後の義栄)の元服費用を求めている(『天文日記』)。中央では京を抑える三好長慶と帰京を目指す足利義輝とで対立しており、義維は三好方に擁立されることを狙っていたと思われる。11月から12月にかけて三好3兄弟が義維の側近畠山維広も交えて堺の商人らと会合を持っているのは義維擁立の準備をしていたのかもしれない(同行していた勝沢軒が堺出身だが阿波に逼塞していた経歴なのも示唆的である)。しかし翌年1月長慶と義輝は和睦し義輝の帰京が実現してしまう。越年予定だった之相は義維擁立がないことを悟り予定を切り上げて帰ってしまったのではなかろうか。堺に来ていない長慶本人が義維擁立にどこまで積極的だったかはわからない。単に義輝との和解を促す「見せ義維」だったのかもしれない(利用された義維はお気の毒だが)。
 天文21年(1552)7月に三好之虎は長慶から離反した小河式部丞に対し長慶に意見して式部丞の心身を保障するよう約束している(『戦三』三四一)。これが実名之虎の初見。之虎がどこにいたかは不明だが長慶に意見できるのだから畿内だろうか。ちなみにこの書状はネット上で見られます。
shoryobu.kunaicho.go.jp

 天文22年(1553)6月三好之虎は主君細川氏之を討つ。『昔阿波物語』によると氏之による之虎殺害計画が漏れ、驚いた之虎が2000の兵を動員したところ、氏之は見性寺に逃れそこへ十河一存が突入し切腹を促したとのこと。『細川両家記』でも氏之の自害は一存の「わざ」とされ、一存が何らかの関与をしていたようだ。『昔阿波物語』だと氏之が之虎暗殺を計画→四宮与吉兵衛が計画を之虎に漏らす→計画が漏れたことを知らない氏之は物見遊山に龍音寺へ→之虎が兵を招集し龍音寺へ差し向ける→驚いた氏之が見性寺に逃げるが側近たちは逃げ出し供は2人だけに→一存が見性寺に突入し切腹させるという筋なので、之虎本人に積極的に氏之を殺す意志があったかは結構微妙な書きぶりである。之虎は兵を招集したが単に自衛と拘束のためで氏之の方が過剰反応したとも読める。もっとも十河一存は弟なので氏之を切腹させたのも之虎の意志を汲んでいた可能性もあるし、逆に『昔阿波』が一存に汚れ役を押し付けた可能性もあり、之虎無謬説も一概には言えないが。
 『三好記』などの軍記によるとこの後氏之殺害に反発する仁木氏や久米氏が之虎を討つべく挙兵するも、之虎は吉野川を挟んで迎え撃ち逆に挙兵した領主たちを討ち取る戦い、いわゆる鑓場の戦いが起きている。いつなのかも不明な戦いだが、天文22年12月に本願寺は在陣中の篠原大和守に音信しているので少なくとも年末まで戦争状態にはあったらしい(『天文日記』)。
 その一方、天文22年の畿内では長慶にたびたび反抗し8月ついに追放された芥川右近大夫(孫十郎)は義兄にあたる之虎を頼って阿波へ没落し、足利義輝を再び京都から追った長慶は足利義維の上洛を図るようになる(結果的に義維上洛は見送られた)。こうしたことから阿波の之虎周辺の求心力は維持されているように畿内からは見えていたようだ。
 天文23年(1554)10月12日三好長慶、之虎、安宅冬康、十河一存の4兄弟は淡路の洲本に集まり「世上の儀」について会談した。直接的には前月から長慶が有馬氏や赤松氏救援に播磨へ派兵しておりその対応のためだろうが、大きくは今後の方針決定を行ったと思われる。28日に長慶は上洛し他の兄弟は帰国した。11月2日赤松氏救援のため之虎の内衆を先陣に安宅冬康・篠原長房の軍勢が明石に陣取る。年内は合戦がなく、之虎本人が明石に来たのは翌天文24年(1555)1月10日となった(『細川両家記』)。しかしこの間の10月~12月之虎は戦場周辺の太山寺大徳寺に禁制を発している(『戦三』四〇二~四〇五)。1月13日には長慶も出陣し、明石氏は大軍の前に交戦せず和睦した。三好方は余勢を買って別所氏の三木城も攻撃するがこちらは落ちず2月27日に三好軍は撤退、之虎も自らの軍勢とともに阿波へ帰っていった(『細川両家記』)。その後之虎は弘治2年3月26日には京都の金蓮寺に禁制を発給している(『戦三』四三一)。
 弘治2年(1556)11月28日津田宗達は阿波へ到着し三好之虎に挨拶、茶屋で日が沈むまで歓談した。以後12月11日まで畠山守肱らも交えつつ茶会が催され12月下旬には宗達も堺に帰った(『天王寺屋会記』)。阿波在国とはいえ之虎の周辺には茶会を催せる設備とサロンが整備されていた。

三好実休の活動経歴(3)~周辺国への勢力拡大

 永禄元年(1558)足利義輝細川晴元と交戦中の兄長慶を支援するため、三好之虎の阿波の軍勢が渡海する。先陣として三好康長が1000の兵を率いて8月4日に兵庫に到着、10日に尼崎、18日に芥川山城に至って長慶と協議し之虎の到着を待って尼崎へ戻った(『細川両家記』)。之虎は6月の禁制では豊前守と署名している(『戦三』五一九)が8月の禁制には実休と署名する(『戦三』五三六)。三好実休の誕生であるが6~8月のどこに出家の契機があったかはよくわからない。
 実休は8月19日に兵庫、24日に西宮、30日に尼崎に到着した。三好長慶・孫次郎(後の義興)、安宅冬康、十河一存も9月3日には尼崎に到着し三好4兄弟+1で会議が持たれた。9月には阿波衆・淡路衆も堺に渡海しここを起点に和泉国で示威を行なったりしている(『細川両家記』)。10月3日には津田宗達が尼崎の長慶・実休・冬康・篠原長房に挨拶しているので彼らはその後も尼崎に逗留していた(『天王寺屋会記』)。その後10月下旬から三好実休と安宅冬康やその家臣が堺での茶会に出席するようになり(『天王寺屋会記』)、11月6日に長慶も芥川山城へ帰ったので、10月下旬頃には残っていた兄弟も解散した模様。11月下旬に長慶と義輝が和睦したため、12月22日実休や冬康は堺から尼崎に移ってそのまま領国へ帰っていった(『細川両家記』・『天王寺屋会記』)。ただし、永禄2年(1559)1月4日には実休の家臣加地盛時が新年礼に津田宗達の茶会に出席しているので一部の阿波衆は畿内で越年したのかもしれない。
 永禄2年(1559)1月9日将軍足利義輝が東国から献上された黒毛馬を実休に下賜することを長慶に諮っている(『戦三』五五〇)。四国ではあまり見ないだろうと思われる東国産の名馬は実休の威信を高めたことだろう。
 永禄2年6月26日阿波で徳政が行われるが、三好千鶴丸(後の長治)が塩屋惣左衛門尉に「実休御折紙」を根拠に徳政を免除し(6、7歳なので当然花押はない)、篠原実長・加地盛時・三好康長が連署副状を出している(『戦三』五五七・五五八)。徳政が行われたことや千鶴丸が文書を出していることから実休は家督を千鶴丸に譲ったらしい。
 ただし、家督を譲った実休は大人しく隠居…しているはずもなく9月に能島村上武吉に讃岐表での馳走を、12月には来島村上通康に天霧表での馳走を謝している(『戦三』五六五・五八〇)。実休は讃岐に進出し、村上水軍と同盟して西讃岐の香川氏を攻撃していた。ちなみに実休は『戦三』五六五を初見として花押を改めている。家督を譲り隠居となったことが花押を改めた契機であろう。
 永禄3年3月三好康長が畿内に渡海し長慶と協議を持った。長慶と実休が不仲になったため和解を図るためという(『細川両家記』)。長慶と実休で仲が拗れそうになった原因は不明だが、この直前長慶は足利義輝から相伴衆修理大夫といった高位の栄典を受けておりこれへの反発だろうか。4月8日長慶と実休はともに淡路の洲本に至って会談、月末に長慶は芥川へ、実休は阿波へ帰っていった(『細川両家記』)。洲本なので冬康(宗繁)もいたかもしれないが、一存・義長は不在のトップツー会談となった。
 5月になると前年長慶が支援した畠山高政が無断で遊佐(安見)宗房と和解したことから、実休は長慶に河内侵入を相談する。6月24日に四国勢を率いて尼崎に渡海した実休は長慶と会談し今後の作戦を練った。29日には四国勢は河内の十七ヶ所に布陣、7月3日には三好軍が河内に侵入、四国衆は7日若林に布陣して飯盛山城の遊佐(安見)宗房と高屋城の畠山高政の連絡を遮断した(『細川両家記』)。実休は7月に河内の寺社に禁制を発給する(『戦三』六三九・六四一・六四四)が、観心寺への禁制(『戦三』六四五)には「於若林給候也」と押紙があり、若林にいたことが確かめられる。9月に入ると高屋城近辺でも戦闘が行われ、10月27日に落城、城主畠山高政は堺に逃れた。代わって11月13日に三好実休が高屋城に入城する(『細川両家記』)。河内・大和は三好方に制圧され、その中で実休ら阿波衆は河内南部を治めることになった。
 三好氏の河内侵略は畠山高政と遊佐(安見)宗房の和解を契機とするとされるが、上記動向を見るに実休の出兵の手際が良すぎる。4月の洲本会談の時点で河内侵略とその後の実休の河内領有方針は決まっていたのではないだろうか。であれば、畠山高政と遊佐(安見)宗房の和解の方が、反三好として対抗すべく大同団結であった可能性もある。
 ちなみに実休が河内に出兵していたこの永禄3年段階でも香川氏攻めは継続しており、9月~11月に戦闘が起きている(「秋山家文書」)。永禄3年の出兵では篠原長房が渡海した形跡がないので、長房が讃岐戦線の指揮を執っていたのだろうか。
 さて、永禄4年(1561)3月京を立った法華宗の僧日珖は20日高屋城に至り、翌21日屋形にて実休と面会した(『己行記』)。日珖は実休の信心篤く、この年高屋城内の「畠山殿屋形」に法華宗の施設を造立している(『行功部分記』)。高屋城・南河内を三好色に染めるための営為の一環だろう。
 永禄4年(1561)閏3月将軍足利義輝三好実休相伴衆に任命する意向を示し、21日伊勢貞孝を上使として高屋城に派遣、実休は貞孝と面会した(『雑々聞検書』・『己行記』)。実休は相伴衆となることを辞退したが、三好長慶と細川藤賢が説得し、相伴衆となった。実休は基本的に城主として高屋城にいたのであろう。
 4月13日三好実休は茶会を催し、津田宗達今井宗久が参加している(『天王寺屋会記』)。場所が高屋城か堺かは不明。高屋城主となったこと、あるいは相伴衆になったことを受けてか、『天王寺屋会記』でもこれ以降実休の表記が「実休様」となる(これ以前は「豊州」「物外軒」表記が多かった)。
 4月24日前日に十河一存が死去したことを受け実休は出津した(『己行記』)が、5月4日には三好康長を連れて津田宗達の茶会に出席している(『天王寺屋会記』)。その後も7月7日に高屋城で金春能を鑑賞していて(『己行記』)この頃はまだ情勢も穏やかであったようだ。
 しかし、近江六角氏と畠山氏によって三好氏勢力への挟撃が始まると、三好方は与党勢力の引き締めを図る。実休も8月14日付で観心寺金剛寺といった南河内の有力寺院の権益を安堵し(『戦三』七七二・七七三)、26日付で和泉国日根野氏に河内国内で知行を付与した(『戦三』七八〇)。寺院宛安堵文書は書下形式で「(欠字)御書」と呼ばれている(『戦三』七七四)。
 10月26日畠山高政根来衆が挙兵し和泉国原城に迫ったため、29日に三好実休も和泉へ出陣、11月6日には久米田に陣取った。小競り合いが繰り返される中、日珖は久米田を訪れ、実休や加地盛時、三好盛政ら武将たちに受法している(『己行記』)。
 そして、永禄5年(1562)3月5日久米田を舞台に三好実休軍と畠山・根来連合軍の決戦となり、三好軍は康長や盛政が攻めまくるもののその間に手薄となった実休本陣が襲われて実休は戦死、三好軍は総崩れとなった(『細川両家記』)。実休は弓で射られたとも鉄砲で撃たれた(『長享年後畿内兵乱記』)ともいい、後者なら鉄砲で戦死した大将として日本初ということになる。

三好実休の戦歴

 おまけとして実休の戦歴を示しておくと以下のようになった。
備中出兵 ●
舎利寺の戦い 〇
細川氏之殺害 〇
鑓場の戦い 〇
播磨出兵 〇(三木城落城には至らなかったが戦争目的は達成)
永禄元年の畿内出兵 △(結局まともに戦わず)
香川氏攻め 〇(優勢推移)
河内侵略 〇
久米田の戦い ●
 初陣と最後の戦いのみ敗北で特に最後の戦いの敗北は命に関わってしまったが、9戦6勝はなかなか。ネット上で上杉謙信の勝敗が61勝2敗とか言われる(根拠不明)のを見ると、どうカウントしたらそんなに細かく数えられるのか気になるが、まあ実休も生涯2敗なので上杉謙信と同レベルと言い切って良かろう(?)。

感想

 三好実休三好長慶の弟であり、何度も畿内に渡海するなどその権勢の一翼を担った。の割に畿内に来ない限り、動静があまり記されず、四国にいる期間は何をしていたのかよくわからない。鑓場の戦いも香川氏攻めも畿内側の史料には全く現れないのだから、関心の低さが知られる。おかげで細川氏之殺害という究極の下剋上も讃岐をいかに領有したのかも動機や経緯が不明で、意外と人物造型も難しい。
 また、江口の戦いではどうやら静観していたようなのも今回の「気付き」だった。実休本人は長慶が晴元から完全離反するとはそこまで思っていなかったのではないか。後に小河式部丞の降伏を仲介したり、芥川右近大夫の亡命を受け入れていることを見るに、晴元派に親和的であった感もある。
 今回は居所集成なので事績の集積よりも「移動」を主眼に集めているが、文化や宗教面も窺えたのは実休の素養の高さとも言えよう。三好実休を考える際のヒントとなる記述があれば幸いである。