志末与志著『怪獣宇宙MONSTER SPACE』

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海を渡り実力評価を求めた真鍋氏

※本記事は真鍋淑郎さんの出自を特定あるいは推定するものではありません。誤解のないようにお願いいたします。

 先日真鍋淑郎さんがノーベル物理学賞を受賞された。実におめでとうございます。真鍋さんはすでにアメリカ国籍ということだが、出身は愛媛県四国中央市という。四国中央市四国中央なんて御大層な名前がついているが、地理的には愛媛県の右端、東は香川県、南は徳島県と連結する部分にある自治体である。平成16年(2004)にいわゆる平成の大合併で生まれた「四国中央」としては比較的若い自治体になる。
 しかし、四国中央市という土地に真鍋という名字の組み合わせで思い出されるのは中世に瀬戸内海で活動した武士・真鍋氏のことである。真鍋氏の名字の地は現在の香川県岡山県の間にある笠岡諸島の一つである真鍋島。そこまで存在感のある島ではないが、真鍋氏はこの島で生まれ、瀬戸内海沿岸に活動の場を広げていった氏族なのである。こうした真鍋氏については、すでに藤田達生氏がまとめており、その成果を紹介しつつ、単に一つの土地にこだわらない中世武士のあり方を紹介することにしたい。
 さて、真鍋島は国制上は備中国に属する。真鍋氏の初出は『平家物語』に備中住人真鍋四郎・五郎兄弟が平家方として活躍したものである。その後は室町時代中期に真鍋島およびその付近の島を支配していたという。戦国時代に入るとやがてこの領域には村上水軍の勢力が及んで、真鍋氏は娘を村上景広に嫁がせたらしい。その後の備中真鍋氏がどうなったのかはよくわからないが、村上氏に穏当に勢力を吸収されたのであろう。
 しかして、備中真鍋氏が真鍋氏の全てというわけではない。真鍋氏は備中守護を務めた細川氏の被官となり、備中守護家の細川氏のみならず他の細川一族に仕えている。
 その一つが伊予国宇摩郡・新居郡の守護代石川氏に仕えた真鍋氏である。伊予国室町時代河野氏が主に守護を務めていたが、東の宇摩郡と新居郡は東は讃岐国、南は阿波国に接しており、細川氏の影響力が強かったことから、細川氏が分郡主を務めていた。その下で守護代を務めた石川氏も元は備中国人で、細川氏宇摩郡・新居郡から見て対岸にあたる備中から部下を起用したと言えよう。石川氏の奉行人を務めている真鍋佐渡守吉重が確認できるのは永禄3年(1560)である(「金子文書」)が、このような経緯から石川氏に仕えた真鍋氏も備中の真鍋氏の一族である可能性が非常に高い。この伊予真鍋氏は主君である石川氏が豊臣秀吉に滅ぼされると帰農し、以後は現愛媛県新居浜市において庄屋として続いたようである。
 そして今回の記事のメインとなるのが和泉の真鍋氏である。和泉の真鍋氏が実際に確認できるのは永禄2年(1559)の真鍋吉満(「板原家文書」)と遅いが、後に織田信長の下で水軍力を期待されていることや、系図上は後述する真鍋貞成の6代前に和泉に渡来したという記述があり、戦国時代前期には和泉に渡っていたと見られる。和泉の守護を務めたのも細川氏であり、備中の武士である石川氏、庄氏の一族にも和泉守護の被官となった者がいたので、真鍋氏も細川氏に従って和泉に来たと考えるのが自然であろう。
 真鍋氏は織田権力下で活動が大きく見られるようになる。織田権力は天正4年(1576)頃より和泉に直接的な影響力を及ぼすようになる(恐らく松浦光の死が契機)が、天正4年に織田氏本願寺が対立した際、真鍋主馬兵衛(系図上の名は貞友)が海上封鎖を命じられている。しかし、この主馬兵衛は7月に織田と毛利で行われた木津川口の戦いで織田方が大敗するとともに戦死してしまった。主馬兵衛の子・次郎貞成は未だ幼く、有力一門・真鍋豊後守が貞成を補佐して家督を代行している。天正6年に九鬼水軍が大阪湾に入った時には、真鍋豊後守に案内が命じられている。真鍋氏は水軍としての実力を高く評価され用いられていたと言えるだろう。
 天正9年(1581)には織田権力によって和泉で検地が行われ、和泉国人らの知行は織田権力によって再分配され把握されることになる。この頃には真鍋氏も次郎貞成が成人していて、岸和田城周りに持っていた領地の替地を給付されている。しかしこの時でさえ真鍋氏は織田信長によって知行を給付されており、和泉岸和田城に入った蜂屋頼隆や佐野城主織田信張とは主従関係がなかった。
 織田信長が横死し、和泉が羽柴秀吉の勢力下に入ってもこの状態は変わらず、真鍋貞成は根来寺との戦いでも秀吉から感状を得ている。ところが、天正13年(1585)に畿内・近国が完全に羽柴秀吉によって平定され、和泉国人の寄親であった中村一氏近江国に転封されると、真鍋貞成も中村一氏に従って和泉から離れた。この時真鍋貞成は中村一氏から1500石の知行を宛行われており、とうとう「天下人」から見て陪臣となってしまったのであった。
 しかし、真鍋貞成の地位変転はこれで終わりではなかった。天正13年には蜂須賀家政に転仕しており、中村一氏に仕えたのは長く見積もっても数ヶ月にすぎない。さらにその後の天正15年には戸田勝隆に仕えた。文禄3年(1594)に戸田勝隆が死去すると、秀吉からスカウトされて馬廻となった。蜂須賀家政の下では3000石、戸田勝隆の下では3200石、豊臣秀吉馬廻としては3200石の知行を得ていたようで、当初の中村一氏から与えられた1500石から徐々に高給ヘッドハンティングを受けており、最終的に秀吉の馬廻として陪臣から直臣へランクアップもしている。
 そして関ヶ原の戦い後豊臣家が斜陽となると、真鍋貞成は福島正則に4000石で仕えている。またも陪臣とはなったものの、知行アップは果たしている。そして元和5年(1619)6月に福島氏が改易されると、貞成は一時牢人となるが、10月には幕閣の推挙によって紀州徳川頼宣に仕え、ここでも4000石を得た。最終的にここが貞成の終の棲家となり、和泉真鍋氏はその後紀伊藩士として続いていった。幕府直臣(旗本)ではないものの、御三家の一角で4000石持待遇は軽くはない。
 以上のように、真鍋貞成は特定の土地に拘らず、自分を高く買ってくれる者を求めて、(真鍋島→)和泉→阿波→伊予→畿内→広島→紀伊と瀬戸内海を渡り歩いた。こうした武士のあり方はいわゆる一所懸命とは異なる能力主義とも言えよう。今回ノーベル賞を受賞された真鍋さんがこの真鍋氏と関係があるのかは不明だが、能力評価を求めて渡米し、実力を発揮した生き様はかつての真鍋貞成に通じるもののようにも思えたので、真鍋氏を紹介した次第である。