志末与志著『怪獣宇宙MONSTER SPACE』

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内藤国貞の娘(内藤貞勝・貞弘(如安)の母)―丹波守護代家継承の中核

 本記事で取り上げるのは内藤国貞の娘にして内藤宗勝(松永長頼)の妻、内藤貞勝・貞弘(如安)兄弟の母にあたる女性である。いきなり長々しい形容ばかりだが、この女性は名前がわからない。実名がわからないのはもちろんのこと、法名も不明で、史料上に特定に足る他称もないのである。そういうところで彼女のアイデンティティを考えてみると、やはり丹波守護代内藤国貞の娘であることがその生涯を常に拘束していた趣がある。よって記事タイトルや呼称は「国貞の娘」とした。

家族関係と松永長頼との婚姻時期をめぐって

 まずは丹波守護代内藤氏の中での「国貞の娘」の家族関係を振り返っておこう。父である内藤国貞は永正2年(1505)に内藤亀満丸として在京守護代の業務を担っているのが初見である(「片山家文書」)。国貞は永正6年(1509)には彦五郎、大永3年(1523)には弾正忠を名乗るようになることから、生年は明応4年(1495)前後と見られる。
 内藤国貞の嫡男であったのが永貞で、天文6年(1537)に内藤彦五郎として現れるのが初見となる(「丹波金輪寺奉加帳」)。彼は天文21年(1552)には国貞に倣い弾正忠へと改称する(「佐藤行信氏所蔵文書」)。永貞は大永5年(1525)前後の生まれと見るのが自然だろう。「国貞の娘」は後述するように天文10年代後半に松永長頼と婚姻したと見られることから結婚適齢期的に永貞の数歳下の妹であろう。とりあえず大永7年(1527)前後の生まれと見ておきたい。享禄4年(1531)には父国貞の仕える細川高国が敗死し、以後の国貞は政敵であった晴元に従うこともありつつ、高国残党の有力者として活動した。兄妹も安定した生活は送れなかったはずで、多感な時期に成長したことであろう。
 さて「国貞の娘」が重要となるのは三好長慶重臣である松永久秀の弟・長頼と婚姻したことから始まる。この婚姻の時期を特定できる史料はないが、三好長慶と国貞が支持する細川氏綱が連携するのは江口合戦が契機であるので、長慶が氏綱を推戴する天文17年(1548)12月以降、両者の同盟を図るための婚姻と見るのが自然である。
 ところが、最近この推測に背反する史料が見出された。『兼右卿記』弘治元年(1555)12月11日条によると、「松永甚介妻」が9歳と4歳の男子について問い合わせてきたというのだ。直接言及はされていないが、この2人の男子は長頼の息子で、問い合わせている妻が産んだ子と見られる。ということは長頼の妻が長男を産んだのは天文16年(1547)となり、その前年までに婚姻が成立している必要がある。天文15年では細川氏綱と晴元、その部下の三好長慶は激しく戦闘を繰り広げており氏綱陣営と三好氏の間で婚姻が成立する余地は全くない。かと言って、内藤国貞が晴元の配下であったのは天文7年までなので、この頃に松永氏と内藤氏が婚姻していたとすると今度はタイミングが早すぎる上、守護代家と細川被官三好氏の部下の弟となると家格が釣り合わない。仮に天文7年以前に婚姻があったとしてその後国貞は一貫して反晴元なので離縁されなかった事情もわからなくなる。
 つまるところ、新史料が発見されない限り、長頼と「国貞の娘」の婚姻時期を厳密に確定はできないが、とりあえず可能性を提示していきたい。
 まず、「国貞の娘」が祈祷にあたって年齢を詐称している可能性。これは今村慶満の妻が祈祷に際して実年齢とは異なる年齢で打診している例があることから、一応考えられる。とは言え、祈祷にあたっては実年齢を記すのが基本であり、今村家の例は例外であるから書き記されたと考えると、特に言及がない以上、年齢詐称があると考えるのも少し苦しい。
 次に、9歳の男子は長頼か「国貞の娘」の連れ子である可能性。「国貞の娘」の年齢的に長頼とは初婚ではないかもしれないし、松永久秀の甥で後に丹波八上城主となる人物として松永孫六がいることから、孫六が長頼の子であれば他に庶長子がいてもおかしくはない。とは言え、「長頼の妻」としての「国貞の娘」が差配していることから、両者共通の縁者と見るのが自然ではあるし、後述するように国貞戦没後に後継者として立てられた千勝は「長頼息」であり、国貞の血を継いでいる蓋然性が高い。また、活動時期的にも千勝(貞勝)が9歳の男子の方に該当すると見るのが自然ではある。
 最後に検討しておきたいのは長頼が実は氏綱陣営に属していた可能性。松永長頼は江口合戦直後に細川氏綱より直接山城国の山科七郷を与えられ(『厳助往年記』)、以降長慶の部下として兄の久秀とともに三好家の軍事に関与するようになる。それ以前の動向は全く不明で、さらに突っ込むと氏綱の乱と同時期の松永久秀すら長慶の配下として何をしていたのかわからない。天文15年(1546)に氏綱が挙兵した際には摂津の国人は総じて氏綱方に靡いたので、高槻の国人としての松永長頼が氏綱方に属していた可能性は考えられる。仮に晴元方が敗北した場合、兄の久秀は没落することになるので、長頼が松永氏の当主になることを見込んで内藤氏と婚姻が結ばれ、その後長慶が氏綱を推戴すると、長頼は氏綱陣営にいた関係から久秀とは別に重用されたと見れば、江口合戦後にいきなり氏綱と直接的な関係を結んでいることや内藤氏との婚姻に至る事情として一応整合的とは言えよう。
 もちろんただの推測に過ぎないが、「国貞の娘」は天文15年に松永長頼に嫁ぎ、翌年に第1子を出産したと本記事では見ておきたい。

父・兄の戦死と夫による生家乗っ取り

 江口合戦によって晴元政権は崩壊したが、丹波には晴元を支持する国人も多く、氏綱方守護代としての国貞は必ずしも安定的に統治を行えたわけではない。天文20年(1551)に入ると内藤永貞の文書発給が始まるので、国貞は永貞に権限を委譲しはじめ、両頭体制を本格化させる。一方、国貞・永貞が晴元残党に苦戦すると松永久秀・長頼兄弟が主に救援として出兵している。これも長頼と内藤氏が縁戚だからであろう。
 ところが、天文22年(1553)9月、内藤国貞・永貞父子は波多野秀親が籠る数掛山城を攻撃中、救援に現れた三好宗渭・香西元成に強襲され戦死してしまう。この危機に内藤氏の本拠地である八木城に松永長頼が入り、それ以上の攻勢を阻止した。
 そして同年11月には細川家の奉行人である茨木長隆が丹波国人に対し長頼の子である千勝による内藤氏継承を周知する(『戦三』参考30)。しかし、これだけでは効果が薄かったようで、翌年3月には細川氏綱が「本来は国貞との契約により長頼が継ぐはずだったが長頼が遠慮したため千勝が継ぐ」という旨を丹波国人に伝えた(『戦三』382~384)。かくして内藤氏の家督は「国貞の娘」の子である千勝に渡った。千勝は永禄3年(1560)には内藤備前守貞勝を称する(「竜安寺文書」)ので、弘治元年(1555)に4歳だと幼すぎる。弘治元年に9歳の息子で、天文22年には6歳、備前守貞勝として活動を開始した時には14歳と見れば年齢が状況に整合する。
 いずれにせよ6歳の子が政治や軍事に際して判断を下すのは不可能で、内藤氏は実質的に松永長頼が差配することになった。事実上の乗っ取りを私欲ではないとアピールするためか、長頼は以後「蓬雲軒宗勝」を称しており、出家していたようである。もっとも弘治年間は晴元残党との戦いが続き、丹波国内は氏綱・三好方と晴元方の勢力が錯綜する状態にあった。
 このような中「国貞の娘」は天文24年(1555)9月1日、吉田兼右に祈祷を依頼し、祈祷料300疋を支払っている。12月11日には9歳と4歳の男子の「星」について吉田兼右に問い合わせており、20疋を贈っている(『兼右卿記』)。これらは「松永甚介女房」「松永甚介妻」として単独に行っているもので、「国貞の娘」が内藤氏の家中について統括していたことが窺えよう。

岐路を迎える丹波内藤氏

 永禄元年(1558)に三好長慶足利義輝が和睦すると、松永宗勝の丹波計略が進展していく。永禄2年には波多野秀親を味方につけて、波多野元秀の八上城を攻撃しており(『戦三』574・575)、その後八上城を落とすと松永孫六を入城させた。黒井城の赤井氏も丹波から逃亡し、永禄3年には敵対していた丹波国人の帰参も確認できる(『戦三』614)。晴元残党は丹後・若狭に退いたようで宗勝はそれを追って若狭武田氏とも連携、10月には逃亡する晴元残党を追って山城国炭山で一網打尽にしており、丹波一国に留まらない軍事活動を展開した。
 宗勝が事実上の丹波統一を達成したためか、丹波支配体制も軌道に乗り、内藤貞勝の活動も見られ始める。永禄3年12月には宗勝が守護代として遵行を行い、丹波国人片山氏の権益を保障している(『戦三』696~698)のもこれらを受けて安定的な支配を志向したものだろう。
 一方で、永禄4年6月に松永宗勝と若狭の逸見昌経の連合は若狭武田・朝倉連合軍に敗北し、同月を最後に内藤貞勝の所見も見られなくなる。それと入れ替わるように宗勝が「内藤備前守」を名乗るようになるため、貞勝は死去したか何らかの事情で当主から外れたと見られる。仮に永禄4年中に死去したとするなら享年15歳であった。貞勝の弟は未だ10歳で若すぎ、天文末期とは異なって三好・松永の地位が上昇していたため、宗勝は名実ともの内藤氏乗っ取りに踏み切ったと見られる。
 しかし、若狭での敗北の結果か、貞勝死去による混乱か、波多野氏や赤井氏といった旧晴元残党は推戴する京兆家当主もいない中丹波で活動を再開する。内藤宗勝もこれに対応するが、永禄8年(1565)8月荻野直正との戦いで敗死に追い込まれ、内藤氏の丹波支配は再び暗礁に乗り上げることになる。
 「国貞の娘」は宗勝が戦死する以前、永禄8年1月に吉田兼右から夫婦揃って祓を行われている。返礼として宗勝からは太刀一腰が、「国貞の娘」からは10疋が届いている(『兼右卿記』)。宗勝が内藤氏を乗っ取っても、いやそれゆえか、「国貞の娘」の位置付けは宗勝と並列されるように重要であったようだ。

晩年と内藤貞弘(如安)

 永禄8年(1565)8月の内藤宗勝戦死後の丹波内藤氏の動向は一時的に不明確となる。同年11月には松永久秀・久通父子が丹波国人小林日向守に忠節を期待しており(『戦三』1208)、内藤氏の当主が不在な中で宗勝の兄にあたる久秀が事態の収拾に当たっていたようだ。しかし、三好氏が三人衆方と松永方に分裂すると、久秀が丹波に関与する余裕もなくなったと見られる。永禄9年2月には波多野元秀が松永孫六から八上城を奪還している(『細川両家記』)が、波多野氏や孫六の動向が三好氏の内紛や内藤氏とどのように関わるのかもわからない。
 永禄8年(1565)10月には内藤貞治(河内守)の活動が見られる(『戦三』1202)が、貞治は六角承禎が内藤桐野河内氏に贈った書状において丹波への乱入する存在として記されており(「内藤文書」)、六角方として反三好方であったと見られる。晴元残党には内藤彦七がいたため、貞治は彦七の後身である可能性もあるだろう。また、永禄12年には細川信良の側近として内藤貞虎が見える(「赤井文書」)。貞虎の系譜もよくわからないものの、貞治が貞虎の意を汲んでいる例がある(「雨森善四郎氏所蔵文書」)ため、貞治よりは当主格に近いようである。貞治は永禄9年に六角氏と三好三人衆が和睦すると姿を消していくので、三好・反三好が止揚されることで貞治の存在価値も消え、当主格・信良側近として貞虎が登場するのではなかろうか。
 守護代家当主としての内藤五郎貞弘の登場は結局、足利義昭織田信長の上洛を待たねばならなかった。内藤貞弘は永禄8年(1565)にカトリックに入信した15歳程度の貴公子の1人に含まれるようである。貞勝の5歳年下の弟は永禄8年には14歳となるので、この人物が後の貞弘と見て良い。入信のきっかけは山口出身の貴婦人が内藤氏の家老と婚姻しキリシタンに改宗したことで内藤氏家中に受洗の動きが広まったことともいう(『フロイス日本史』)。一方で、松永久秀法華宗の強力な檀家であり、内藤氏も宗勝や「国貞の娘」は改宗していない。
 恐らく父の戦死時は未だ政治能力に欠けていたが、永禄11年(1568)には17歳になっておりある程度の主体性が出てきたということであろう。義昭・信長政権下における貞弘は、当初代官に任命された細川藤賢を排して丹波の姫宮岡御所領代官職を獲得し(『言継卿記』)、宇津氏の押領地域を内藤宗勝時代の文書に従って管轄する(「古文状」)など一定の勢力を獲得した。これには信長の「御助言」や「御朱印」が前提として存在し、貞弘は信長より知遇を得ていた。もっとも義昭幕府下での丹波は国衆が悉く招集され、一国の代表者は位置付けられなかった(『二条宴乗記』)。義昭・信長上洛に当たって内藤氏は直接的な協力者として見えず、逆に波多野氏や赤井氏は松永方と認識されていた(『言継卿記』)ため、諸勢力を現状維持的に置いていたのであろう。
 その後、義昭・信長政権を揺るがす元亀の争乱が元亀元年(1570)より始まるがこの際の内藤氏の動向もよくわからない。義昭によって排除された西岡国人の物集女氏は丹波に潜伏して西岡へ侵入を繰り返しているので、丹波情勢が一枚岩でなかった様子が窺える。元亀4年(1573)に入ると足利義昭織田信長の対立が激化し、決裂に至るが、丹波は「信長衆」という認識がある(『尋憲記』)一方で、内藤貞弘は宇津氏・川勝氏とともに義昭方として上洛している(『永禄以来年代記』)。この時の貞弘は「備前守」を称する一方で、まだ若いため一族の長老である内藤貞信(土佐守)が後見していた(「阿弥陀寺文書」)。貞弘は2000の兵を上洛させて義昭を警護する一方、灰方氏や中島氏を信長方に誘い(「細川家文書」)義昭の八木城下向をやんわりと拒み、義昭と信長の合戦にも関わらなかった。結局、貞弘は義昭・信長の連合政権継続を望んでおり、その中で上手く立ち回ろうとしたものだろう。しかし、7月には義昭は信長に追放されその後2人の連携が復活することはなかった。
 一方の「国貞の娘」であるが、宣教師の記述によると彼女は「仏僧の長」によって殺害され、内藤氏の家中は大徳寺での葬儀を望んだが、貞弘は代わりに母の命日に八木城で喜捨を行って評判を呼んだという。恐らく記述からして「国貞の娘」が亡くなったのは元亀年間で、享年は45歳前後と見られる。彼女が殺害された事情は全く窺えないが、大徳寺での葬儀・供養に足る重要人物と見られていたことは間違いない。
 宗勝死後の内藤氏の動向はよくわからないながら、貞弘の後見人としての内藤貞信は元亀4年にしか所見がない。そのため貞信がいつから貞弘を後見しているのかも手掛かりがないが、元亀4年になって登場したとすると、「国貞の娘」が死去した補完のため一族の人間が浮上してきた可能性もある。この可能性を認めるならば、「国貞の娘」が女家長として家中に重きをなしていたということになる。
 内藤貞弘は宇津長成とともに天正3年(1575)に織田信長より討伐対象となるが、信長が派遣した惟任光秀との交戦記録もなく、いつの間にか丹波での勢力を失った。その後は足利義昭がいる鞆に逃れ、義昭の臣として活動した。羽柴秀吉の天下が確定すると、貞弘はキリシタン人脈として小西行長に仕え、「小西飛騨守」の名を与えられて、壬辰戦争の日明交渉のため北京に赴いたこともあった。しかし、貞弘が丹波の故地に戻ることはなく、守護代家としての内藤氏は貞弘の代に滅んだと言える。

「国貞の娘」の生涯とは

 「国貞の娘」については彼女が直接的に現れる史料は現状4点しかなく、その中でも何か特別な働きが認められるわけではない。内藤氏一家の要、あるいは「女家長」としての地位をそこに見出してきたが、それも贔屓かもしれない。しかし、父国貞・兄永貞が同時に戦没するという緊急事態の中、彼女の存在によって守護代家内藤氏は「延命」を遂げ、偶然か必然か、彼女の死後程なくして守護代家内藤氏は滅亡に至った。国貞・永貞の死後、そして貞勝・宗勝が消えた後は彼女こそが守護代家内藤氏」であったと言ってもいいのではないか。
 そもそも三好氏の人脈は、いや戦国史自体がそうかもしれないが、女性の影が薄い。その一方で近年は、様々な角度から女性の存在が再評価され、女性史を紡いでいく努力がなされている。そうした中で日本史における女性が決して脇役ではなく、主体的な存在であることが明らかになっていっているものの、それでも男性に比べると圧倒的に史料は少ない。畿内戦国史において女性があまり取り上げられないのも結局のところ史料が僅少…または全くないという事情が大きい。とは言え、それで終わってしまっては、昨今の研究風潮などを鑑みるにあまりに片手落ちではなかろうか。というわけで「国貞の娘」で何とか一本記事をひねり出してみた次第である。とにかく「書ける」ということが大事なので、過大評価気味なのもお許しいただきたい。

図像

 列伝記事が久々ということもあるが、女性を描くのは初めて。当然ながら「国貞の娘」がどういう容姿だったか、史料は何もないので想像の産物である。中世武家女性の図像として、仙桃院肖像画をモデルに、「お姫様」と言うよりは程々に苦労人で、存在感のあるイメージを心がけた。