志末与志著『怪獣宇宙MONSTER SPACE』

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三好康長の息子・徳太郎の動向と三好式部少輔との関係小考

 三好徳太郎は三好康長の息子とされる人物である。『細川両家記』の元亀元年野田・福島の戦いの三好勢の記述にも「三好山城入道笑岩斎。同息徳太郎」が見える。『両家記』は元亀4年(1573)に成立したとされるため、この記述の信憑性は高い。また、康長の文書上の初見は永禄2年(1559)で*1この時から阿波三好家の重臣だった*2。よって、元亀元年(1570)に成人している息子がいることに年齢から見ても不自然さはない。元亀に至るまで康長の息子の存在は確認できないため、徳太郎は天文末~永禄初年までに生まれ、永禄末年に元服(成人)したと考えられる。なお、『己行記』にも元亀4年(1573)年初に彼岸談義が行われた際「三好徳太郎聴聞打田内膳受法」と見え、徳太郎とその配下であろう横田(「打田」は誤記か)内膳(後の村詮か)が受法しており、この時期畿内に来ていたことが確かめられる。しかし、その後の動向はよくわからなくなる。


 さて、徳太郎は三好式部少輔と同一人物とされてきた。天正7年(1579)織田信長長宗我部元親に通じた三好式部少輔は、三好越後守ら勝瑞派に通じると見せかけて、彼らを騙し討ちにかけた。この頃、織田信長と三好康長は長宗我部元親に三好式部少輔の指導を頼んでおり*3、式部少輔が康長と元親を結びつける存在として機能していたことが言える。一方で『三好記』・『三好家成立之事』では、この謀略の主体を康長の息子徳太郎とするため、徳太郎=式部少輔説はかつて事実と認められてきた。
 だが、康長は式部少輔を「同名式部少輔」としか呼んでいない。康長にとって式部少輔が息子であるのなら「息」と表現してもいいはずだが、康長にとって式部少輔は「同名」すなわち、同族という認識しかなかったのである。さらに、「式部少輔」を家の官途とする三好一族の存在が明らかになってきた。例えば、『己行記』永禄7年(1564)6月15日には三好式部少輔が父の三十三回忌を行う記事がある*4。康長・徳太郎とは別系統の式部少輔が同時期に活動していた。このため、徳太郎=式部少輔は成り立たなくなり、昨今の三好氏研究でもそのような説明はされなくなった。
 それでは、徳太郎はどこに消えたのか。あるいは、式部少輔が徳太郎の後身とされたのはなぜなのか。これを解明する記述が『昔阿波物語』に見える。

岩倉は三好山城との知行生所にて候、山城殿は川内の国に住着を被成候へ共、子息は古郷なる故に降参被成候つるか、気を御煩候て、程なくはてられ候、

 年次不明であるが、岩倉城には康長の息子が入っていたものの、「程なく」亡くなったとする。要するに徳太郎は夭折したのである(23歳前後と推定される)。『昔阿波物語』では「岩倉衆」による騙し討ちの段がこれより前にあるため、騙し討ちの首謀者が徳太郎なのか式部少輔なのかは不明だが(『昔阿波物語』は編年体ではないため、物語の年次は前後する。ただし、徳太郎の死を語るニュアンスには裏切りを気に病んだことが窺えるから、天正7年(1579)の騙し討ちの直後くらいに亡くなったのではないか)、徳太郎の死→式部少輔による岩倉城継承という流れが存在したと考えられよう。そして、これを康長も積極的に認めたために、徳太郎と式部少輔の断絶が意識されなくなって混同に繋がってしまったのだろう。
 織田信長と三好康長が長宗我部元親に三好式部少輔の指南を依頼した朱印状・書状の年次にも議論があるが、このような文書が必要だった条件として、提携が容易な徳太郎が死に式部少輔が入れ替わったことが前提としてあったとも考えられる。

結論

  • 三好康長の息子として三好徳太郎がいた
  • 三好徳太郎と三好式部少輔は別人である
  • なぜ三好徳太郎と三好式部少輔が混同されたのかと言えば二人とも岩倉城主だったから(徳太郎死去→式部少輔が城主に)

 また、仮説として次の流れを提示しておきたい。
「三好徳太郎、三好越後守らを裏切り誅殺する→過激な手段を取ったことを気に病んだ徳太郎*5が死去する→新たな岩倉城主に三好式部少輔が入る→三好康長と式部少輔が提携を再確認する→織田信長朱印状発給へ」
 なお、織田信長天正9年(1581)より三好康長による阿波・讃岐支配方針を打ち出し、天正10年(1582)には三男信孝を康長の養嗣子とすることを内定させる。康長に後継者がいればこのような措置は取りにくく、そういった意味では天正8年(1580)頃までに徳太郎が死去したことが、康長の重用による三好氏の織田一門化政策に影響を与えた可能性もある。また、横田村詮が牢人していたのは、本来の主人である徳太郎が死んだのも一因かと思われる。そう考えれば、村詮が後に仕えた中村一氏の官途が「式部少輔」であったのは何とも奇遇なことである。
 ちなみに三好式部少輔の実名を「康俊」とする記述もあるが、式部少輔の自署は現存しないため真偽は不明である。『元親記』によれば式部少輔が長宗我部氏と通じる際、実子を人質に出している。

*1:『戦三』五五八「篠原実長等連署書状」

*2:なお、この時は「三好孫七郎康長」を称していた。永正6年(1509)に死亡した三好長秀の子がこの年に至るまで仮名というのは考えにくいため、恐らく康長は通説で言われるような三好元長の弟ではない

*3:『戦三』一九一六「織田信長朱印状」・一九一七「三好康長副状」

*4:天野忠幸氏は『論集戦国大名と国衆 10 阿波三好氏』と言っておられたが、堺市史所収の『己行記』で確認したところ、同日に父の忌日を悼んだのは「三好民部少輔」だった。当該期の三好民部少輔は高屋衆でもある三好盛長のことで、三好式部少輔ではない。もっとも「民」と「式」は確かに崩し字が似通うところもあるだろうから、原本を見ないと何とも言えず実は「式部少輔」が正しいのかもしれない

*5:えげつねえ裏切りをした糞野郎という評価はやめよう