志末与志著『怪獣宇宙MONSTER SPACE』

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天野忠幸『三好一族―戦国最初の「天下人」』(中公新書)の感想

 天野忠先生と言えば、このブログで三好氏について触れだしてから何度も何度も名前を出させていただいている三好氏研究の泰斗だが、意外なことにこれまで著書の感想を記事にしたことがなかった。『戦国期三好政権の研究』や『三好長慶』、『三好一族と織田信長』はブログを始めた頃にはやや旬を過ぎていたし、『室町幕府畿内近国の胎動』は感想を書こうと思いつつも、情報量をまとめきれずに記事としてボツってしまったのだった。しかし、今回中公新書で『三好一族』ということで、テーマも狭いし、何より布教にお手軽なのでこれは是非とも書かなくては!ということで今回はちゃんと書ける運びとなった。

 ところで天野忠幸氏の研究は三好氏研究、畿内戦国史研究を大きく切り開いたものの、その後天野説への修正・反論も多く見られている。具体的には、天野氏が過小評価する足利義輝への再評価(山田康弘、木下昌規、黒嶋敏)、三好権力の前提としての細川権力再評価(馬部隆弘)、「天下人」論への新規参入(村井祐樹)、四国戦国史の解像度の高まり(森脇崇文、山下知之、中平景介)などが挙げられる。もはや数年前であっても天野氏の研究成果はそのまま成り立たない部分も多く、新しい知見・反論をどの程度取り入れるのか、あるいは再反論するのか、という点は常に注目してきた(この点、先年の『室町幕府分裂と畿内近国の胎動』のバランスは後続研究の存在にも配慮するものになっていた)。
 また、一方で新しい研究成果がなかなか学界にも共有されない歯痒さもある。未だに三好三人衆を(三好長逸三好政康岩成友通)と書いてあったりするのが極地だが、このように研究によって正確な実名が更新されつつもそれを取り入れられていない記述は学術書であっても往々にして見られる。実のところ、畿内戦国史の研究成果は新書にはほとんど降りてきていないので、そうした意味でも天野氏が三好一族を題材に新書を出されるというのは、研究成果の一般への還元という意味で大きな画期をなす…というか、なしてほしい想いである。
 一読した感想は、現在の三好氏研究がかなりのハイレベルでコンパクトにまとまっているというものである。事実関係に正確を期している一方で、本書で初出であろう情報も見られ、過去・現在だけでなく未来へも通じるような趣がある。新書の寿命には長短があるが、あと10年はライトな三好氏布教本として使っていけるのではないだろうか*1
 表題は「三好一族」となっていたため、三好長逸三好宗渭、あるいはそこまで行かなくても長慶の弟たちにも個別に多くを触れるのではないかとも予想していたが、内容的には三好氏嫡流(之長~元長~長慶~義興~義継)を中心に周辺を触れていくものになっている(ただし三好宗三が積極的に評価されているのはうれしい)。副題の「戦国最初の「天下人」」の方が内容面に合致していると見なせるが、本文中に「天下人」という言葉はほとんど出て来ない。本書では三好氏の画期性に重きが置かれ、細川氏や六角氏とはどのように違うのか(細川氏や六角氏を織田信長豊臣秀吉の先駆者と見なせないのはなぜか)がぼやけてしまった感はある。75頁にあるように、三好氏の画期性は足利氏を擁立せず首都を支配したことにあり、これが細川氏や六角氏との違いなのであろう。もっともこの点も細川氏綱を足利将軍を擁立しない戦争の先駆者と評価する(76頁)など微妙に揺らぎを見せている(氏綱をこのように評価すること自体は面白い)。「戦国最初の「天下人」」を副題にしているのだから、三好氏が足利将軍を擁立しなかった事情は、「天下人」の議論と合わせて、新書ならではの多様な側面からの説明があっても良かった。
 本書では義輝追放期の三好氏の選択肢として足利義輝との和解でも足利義維の擁立でもない第三の選択肢として、僧籍の足利義輝弟(後の義昭など)の擁立とそれを三好氏はしなかったことを指摘しているのは面白い。今後三好氏の足利氏不擁立を「できなかった」ゆえの判断と見なしても、義輝連枝の不擁立の意図は問題にされるべきではなかろうか
 「天下人」論議に天野説と言えば、前述したように足利義輝への辛口評価が特徴である*2。本書では義輝への低評価はそこまで過激ではないと思う(単に馴らされただけかもしれないが)。足利義輝の動向について、三好氏との比較もだが、それ以上に足利義晴との比較で落差が感じられるのが大きいと思われる。こうした視点は幕府研究者による義輝再評価ではなかなか触れられないところでもあるので、義晴→義輝で何が変わったのか、その影響は今後も幕府研究で検討・具体化されていくべきだろう。
 一方で、追放期の足利義輝による三好包囲網の形成(山田康弘)、摂津晴門の起用は三好氏の意向もあるのではないかという示唆(木下昌規)、永禄の変直前に三好氏と進士晴舎でトラブルがあった可能性(馬部隆弘)、特に小侍従局と三好氏の確執(木下昌規)、足利義輝による二条城の意義(黒嶋敏)などの指摘は全く汲まれておらず、この点は大きな不満が残る。これは愚見であるが、永禄の変が御所巻であるからと言って、三好氏の殺意が否定されるわけではない。きちんと指摘に向き合った反論と天下人三好氏像の再構築は可能だと思うので、近年の永禄の変に関する研究を無視しているとも見られかねないのは強行的に見えてしまう。。
 ちなみに来月足利義輝と三好一族』が発売である。以上の三好氏天下人論や足利義輝評価問題は木下昌規氏によってさらに整理されることが予想され、本書と併読してみるのがおススメになるのではないだろうか。

 どうしても三好氏を「天下人」を評価していくと、政治・軍事的動向が中心になる。そうした中本書では外交面・文化面にも紙幅が割かれている。特に日明外交における足利義輝の不在と三好長慶への好評価は興味深い。私自身は三好長慶は対外君主としての「日本国王」の権限には関与しておらず、「天下人」論ではそういった箇所が攻められるのは致し方ないとも思ってきたが、対外的に長慶が天皇の単独補佐者という認識があったのであれば話はまた変わってくる。今後の議論に期待したい。
 以下はマニアックな話。
 情報反映が早いと感じたのは、従来「持隆」とされてきた天文期の阿波守護細川家当主の名が「氏之」に訂正されたことだろう。四国中世史研究会の森脇崇文氏の発表に依っていると考えられ、件の研究会は8月に行われたもので、ほぼ1月で修正を行ったことになる。今後森脇氏が論文化して周知に至ると思われる情報だが、手早い仕事によって今後「波多野稙通」や「三好政康」のような、私のような厄介歴史オタクから無駄に論われるような誤情報を今後定着することを避けている。
 当然かつ手堅く「三好義賢」「三好政康」といった誤った実名、「岩成友通」のような表記揺れについても手短ながら説明がされている。特に「三好政康」は昨年小和田哲男氏がYouTubeで好意的に紹介されたこともあり、それを意識したであろう論拠潰しが見られる。今後用いられたことが確実な表記が本書によってさらに広まることを祈る。
 私の興味で言うと、松平直基の母である「三好越後守女」について考察がされていたのが良かった。結局これが誰なのかはよくわからないようだが、直基母の兄弟も三好氏で結城秀康に仕えていたらしく、徳川家康による三好為三や房一の重用が「天下人」意識の表れであるという論も合わせる(小川雄「三好丹後守急死事件について」は未知の論文だったので読んでみたい)と、由緒自体が興味深いと言えるだろう。
 全体的にライトにするためか、込み入った事情の記述をカットしているのではないかと思われる箇所もあるが、先述のように本書が初出であろう論が見られるのも私のような厄介歴史オタクにとっては読み応えがあってうれしい。一例を挙げると、一向一揆に襲撃された三好元長は念仏寺に逃れようとするが、念仏寺からは拒否されやむなく顕本寺に逃れ最期を遂げた。私が意識していたのはここまでだったが、本書では三好長尚(宗三の父)による念仏寺への特権付与を元長を匿わなかったことへの褒賞、足利義維の本能寺への御内書を顕本寺が元長を匿ったことへの褒賞と見ている(顕本寺の本山が本能寺)。「三好元長の死」に対する反応がこのように見られるのは大いに刺激的であった。このような読み込めるポイントが多い、読むたびに発見があるのは良書である。
 繰り返しになるが、こういった内容が新書として出た意義はとてつもなく大きい。足利義輝関係はともかく、最新研究の反映としてはかなりの高レベルであり、これが一般に膾炙していくのは率直に言って楽しみである。願わくば、畿内戦国史に関する内容はもっと新書で出てほしいので、本書が嚆矢であったと後から思えるような未来を望みたい。

補足(11月26日追記) 竹内秀勝と多羅尾氏の婚姻関係

 『三好一族』ではしれっと新たに指摘されている事実も多い。私としては、典拠史料は何でどこで読めるのかまで含めて興味深いものだが、その一方これは明らかに誤謬なのではないかという指摘もある。
 それが松永久秀重臣竹内秀勝と多羅尾氏の姻戚関係である。巻頭の「松永氏略系図」によると、久秀の下に養子を意味する二重線が引かれ「松永久三郎」が記されているが、久三郎には傍注として「多羅尾綱知と竹内秀勝女の子」とする。また、168頁には「久秀の宿老竹内秀勝の娘との間に生まれた子は、久秀の養子となり松永久三郎を名乗る」としている。これによれば、天野氏は竹内秀勝の娘が多羅尾綱知に嫁ぎ、その間の子久三郎が松永久秀の養子となった、と解釈している。
 しかし、これは史料解釈によってそう捉えることも可能というレベルではなく、明確に事実としてはあり得ないと思われるため、ここでは補足しておく。
 竹内氏と多羅尾氏の婚姻についての一次史料は以下のみである。

  • 『二条宴乗記』永禄13年(1570)2月28日条

竹下ムスメ、シカラキノ太羅尾ヘヨメリ有之

 「竹下」とは竹内下総守秀勝のことである。秀勝の娘が信楽の多羅尾氏に嫁いだとされている。記主の二条宴乗は興福寺の坊官なのでこの記述は信用できる。
 また、松永久三郎についての一次史料は、元亀2年(1571)8月2日の辰市城の戦いでの戦死者リストである。これは『多聞院日記』『二条宴乗記』『尋憲記』といった奈良在住の僧侶の日記に記されており、『多聞院日記』『尋憲記』では「松永久三郎」、『二条宴乗記』では「松永キウ三郎」として久三郎が登場している。3つの日記に共通して記されていることから、久三郎がこの戦いで戦死した可能性は高い。
 そして久三郎の素性であるが、『多聞院日記』では「山城ノタラヲ息・金吾若衆」と注を付している。すなわち、久三郎は山城の多羅尾氏の息子であり、松永久通の「若衆」(側近、男色相手というニュアンスもあるか)であった。山城の多羅尾氏というのは細川氏綱の側近として淀城に長らくあった多羅尾綱知と見て間違いない。綱知の子の久三郎が松永久通と懇意で、松永名字を授与されたのであろう。
 よって、竹内秀勝の娘が嫁いだ信楽の多羅尾氏が、100歩くらい譲って多羅尾綱知を指すとしても、婚姻が永禄13年2月である以上、即妊娠したとしても生後半年で松永久通の側近となり、戦争に駆り出されて戦死したことになってしまう。そういうわけで松永久三郎が多羅尾綱知と竹内秀勝の娘の間の子というのはあり得ない。実証的な天野氏らしくないミスとは言える。
 ちなみに、江戸時代後期の編纂史料であるが、『寛政重修諸家譜』に掲載された多羅尾氏系図には次のような記述がある。

光太
 (略)妻竹内下総守某が女。後妻は北条家の臣山角豊前守某が女。

 多羅尾光太は系図上多羅尾光俊の息子で、光俊は織田信長が上洛する際松永久秀から連絡を受けている。久秀と信楽の多羅尾氏には確かに縁があったと言える。『寛政重修諸家譜』の時代では婚姻からすでに200年以上が経過してしまっているが、竹内秀勝の娘が多羅尾光俊の息子に嫁いだことは記憶されていたのだろう。
 ちなみにこの系図によると、光太の子・光之に「母は下総守某か女」としている。2人の結婚生活はそれなりに続いたのだろう。もっとも光太は後妻を迎えているので、秀勝女は長生きしなかったか、松永氏の零落によって離縁された可能性もあろう。

*1:数年後に寿命が切れててもそれはそれで研究が進展しているということなので喜ばしい

*2:ちなみに本書では織田信長への辛口評価も健在だゾ