志末与志著『怪獣宇宙MONSTER SPACE』

怪獣monsterのコンテンツを中心に興味の赴くままに色々と綴っていくブログです。

香西元成禁制に記された弘治年号

 近頃、森脇崇文「戦国期阿波守護細川家関係者「氏之」の素性について」(徳島地方史研究会『史窓』52号、2022年3月)が発行された。かつては「細川持隆」として知られていた天文期の阿波守護細川家(讃州家)の当主が実際に使用した実名が「氏之」であることを論証した貴重な成果である。
 ところで、その論証の基礎となった文書は新出ではない。岡佳子「玉林院所蔵讃州寺関係文書について」(『京都市歴史資料館紀要』9号、1992年3月)にて翻刻、紹介がなされているので、実に30年も前に公になっている。そして、その中には三好実休松永久秀の発給文書も含まれているが、いずれも『戦国遺文 三好氏編』などには含まれておらず、これまでの研究では全くスルーされていたのであった。
cir.nii.ac.jp

 すなわち、それらの文書は先行研究において活用されておらず、今回取り上げられることで阿波守護家の人名を確定できたように、新たな事実を明らかにできる可能性を秘めていると言える。
 本記事では新たな事実の確定、とはいかないが、既存の研究に一石を投じられるかもしれない文書を一つ取り上げたい。
 その前に典拠である「玉林院所蔵讃州寺関係文書」について説明しておくと、京都の西洞院に所在していた阿波守護家の屋敷内に祀られていた蔵珠院が、やがて讃州寺に発展、ところが阿波守護家の衰微とともに讃州寺も力を失い、大徳寺玉林院の末寺になることで近世を生き延びた。そうした経緯によって、讃州寺に宛てられた中世文書を現在玉林院が伝来しているという状況にある。
 取り上げるのは以下の文書である。

  • 香西元成禁制 玉林院文書

西洞院蔵珠院当手軍勢乱妨狼藉・寄宿堅可令停止者也、
  弘治四年五月日    越後守(花押)

 箇条書で禁止事項が並び、「如件」を書止とする一般的な禁制とは形式が違うが、蔵珠院(讃州寺)における自らの軍勢の乱暴狼藉と寄宿を禁じる内容は禁制そのものである。実は花押の確認などはしていないが、発給者「越後守」はこの頃細川晴元の与党として京都に進出していた香西越後守元成と見て間違いあるまい*1
 問題としたいのは、元成が年次を「弘治四年」と記していることである。これの何が問題かというと、この年(西暦1558年)の2月には弘治から永禄への改元が行われており、元成はそれをスルーして旧年号を記したことになるからだ。
 これは元成個人の問題ではない。この時元成の主君細川晴元は将軍足利義輝と協働していたが、義輝もまた弘治年号を使用し続けている。これは義輝が三好氏によって行われた改元を拒否したとする評価もあるが、直接的には武家伝奏広橋国光が義輝に改元を通知しなかったことが理由である(もちろんなぜ国光が改元を通知しなかったのか、国光のサボタージュは朝廷・公家社会をどれだけ代表していたのかは別問題だが)。
 木下昌規氏は、いつ義輝に改元の通知があったかは不明としながらも、義輝は閏6月20日には弘治年号を用い、9月24日に初めて永禄年号を使用しはじめることから、この間に正式な通知があったことを示唆している。あくまでも正式な通知があるかどうかが、元号を使用できるメルクマールであるとされている。他の時代・地域でもこの指標は使われているようで、鎌倉公方の中央への反抗心の表れとも評価されてきた旧年号の使用も、足利持氏による正長の継続使用以外は、改元受諾儀式の遅れや京都側の不通知によるものと、近年では再評価されているようである。
 すなわち、上記の香西元成禁制も彼が大きく見れば足利義輝の与党である以上、弘治年号を使用し続けていて当然と言える。完。
 …とはいかないのが今回の問題の核心なのである。なぜなら、これまで知られていた細川晴元およびその与党の発給文書には次のようなものがあるからだ。

   禁制    東寺境内
一、軍勢甲乙人等乱妨狼籍事、
一、伐採竹木事、
一、相懸矢銭・兵粮米事、
 右条々堅令停止訖、若有違犯之輩者速可処厳科者也、仍下知如件、
  永禄元年六月四日    右京大夫源(花押)

hyakugo.pref.kyoto.lg.jp

    禁制   大山崎
一、当手軍勢甲乙人等乱妨狼籍事、
一、剪採山林竹木事并放火之事、
一、相懸矢銭・兵粮米事、
 右堅令停止訖、若有違犯輩者速可処厳科者也、仍如件、
  永禄元年六月九日    下野守(花押)
              越後守(花押)

 いずれも細川晴元とその部下である三好政生・香西元成が6月に発給した禁制である。ここには「永禄元年」と記されている。晴元方は永禄改元に従っていたのである。
 これまでは義輝とは違い、晴元は永禄改元を受容していた、だけで済んでいた話だったが、新たに見出された(まあ既出なんですけれども)「玉林院文書」の香西元成禁制を勘案すると微妙に話が変わってくる。晴元方は5月までは弘治年号を用いていたが、6月に入ると永禄改元に従ったということになるからだ。先述したように義輝は閏6月下旬まで確実に弘治年号を用い、永禄を使い始めるのは9月からなので、晴元は義輝とは違い、当初は受け入れていなかった改元を義輝より最低でも2ヶ月以上早く受容していたことになる。あるいは、新元号の使用を通知によるものとするならば、当時京都を防衛していた三好方は義輝には改元を通知しない一方で、晴元には改元を通知していたということになる。
 これは一体どういうことなのか、何を意味しているのか。ぶっちゃけ全然わかりません!ただ、新元号を使用するかどうかという問題は単純化できるものなのか、新しく問題提起していると言えるのではないだろうか。

*1:付言しておくと、5月6日付で「三好下野守政生」が金蓮寺に軍勢の乱暴狼藉・寄宿を禁じた文書(『戦三』一四五六)も同年の可能性が高い