発売されるとわかった時から話題騒然だった本です。何せ、六角氏は室町時代・戦国時代に侮れない勢力を誇りながら、この手の比較的一般向けの評伝を欠いていたからですね。タイトルは六角定頼ですが、実際には章を割いて、前2代の高頼・氏綱、後2代の義賢・義弼までフォローしています。言わば「戦国六角氏五代」が読めるわけで豪華な一冊と言えましょう。
六角定頼:武門の棟梁、天下を平定す (ミネルヴァ日本評伝選)
- 作者:村井祐樹
- 発売日: 2019/05/22
- メディア: 単行本
さて、私にとってはこの本が出たことで得るものは単に戦国六角氏の伝記が読めるということに留まりません。これまでこのブログを読んできた方にはおわかりかと思いますが、私は三好氏を贔屓にしておりまして、特に近年の三好長慶再評価とその徐々な定着ぶりには感激するところ大なわけです。ただ、一方で三好長慶、あるいはその家臣として有名な松永久秀のみ称揚されればいいのか?と言うとそれは違うと考えています。その人物が生きた時代がいかなるものだったのか、その上で何を成したと言え、何が評価できるのか。これを抜きにして再評価はあり得ません。近年の三好氏研究においても、長慶が将軍を超克しようとしたのかについては、戦国期室町幕府の研究者からは疑義が呈されており、活発な論争の中で事績や意向がこれからはっきりしていくでしょう。
三好氏をはじめ、畿内戦国史研究は近年活発なところではありますが、各大名家で研究がセレクション化しているきらいも見え、戦国時代の畿内、あるいは日本全国においてどういう存在だったのかにまで及んでいないところもあります。上記のような三好氏研究が結論を急ぎすぎたら、幕府研究からストップが入る…こういった形で研究が深化していくのが理想です。その点、今回の『六角定頼』は六角定頼が「天下人」であったと主張していて、幕府研究、三好氏研究、あるいは織田氏研究へまで啓発的な内容を含んでいます。ここまでされたらスルーは出来ないでしょうから、六角氏を通してまた論争や研究の深化が見られるな、という予測があります。その結果、やっぱり三好長慶は偉大ですね!となれば言うことナシです。
もう一つ、著者の村井祐樹氏ですが、先年そろそろ六角氏も情報を仕入れねばと『戦国大名佐々木六角氏の基礎研究』(思文閣出版、平成24年)を読んでみたら、節々に呪詛的論調が見えるのにとても敬服したのですよね。
以上のように、本書において、六角氏および家臣団の基礎的事実を確定し、その動向についても多面的に明らかにすることができた。確かに六角氏は「検地によって」「土地や人民を把握した」「強大な」戦国大名ではなかったかもしれないが(しかし、これらを果たしたとされる「典型的な戦国大名」今川氏・武田氏・後北条氏が、六角氏と同様に、織田・豊臣との戦いで呆気なく滅び去った事実を認識するならば、そもそも「強力な戦国大名」とはいかなるものだったのだろうか。)、畿内及び近国において、それなりの存在意義を持ち、様々な面で権力として認識され、各所に影響力を及ぼした大名権力であったことは証明できたといえよう。(276頁)
ここらへん、研究者としてさんざん「六角?あの守護大名から戦国大名に脱皮できなかったやつね」「六角?織田信長に瞬殺された雑魚じゃん」と言われ続けてきて、いつか見返してやるからな!とずっと思ってきたのが窺えて、やはり研究者にとって大事なのはこういう強い情念であると実感しました。もちろん情念が強すぎると結論を急ぎすぎていると思ってしまうこともありますが、そこは学会のやること、おかしいと思えば他者が突っ込めばいいわけですね。そういうわけで、そんな村井氏が「六角定頼は天下人なんだぞ!」という本を出すのはまさしく面目躍如であります。
- 作者:村井 祐樹
- メディア: 単行本
どうせ人物評伝ですので、六角氏当主について感想をつらつら述べてまいります。
いきなり高頼ですが、これがまた読み応えがあります。六角高頼と言えば有名人ですよね。何せ、足利義尚・義材2代の将軍から連続的に征伐されている相手で、幕府の権勢が失墜したという文脈の中では必ず出てきます。ただ、その割に「何で高頼は親征を受けてるの?そんな悪い奴なの?」とか「結局この親征って成功したの?六角はこれで何か変わったの?」といった部分はスルーされており、今回六角高頼という目線を得たことで、より輪郭がはっきりしてきました。
それにしても、あまり存じませんでしたが、高頼の人生も大河ドラマにしていいくらい波乱万丈ですね。まず、生後1年で父久頼が亡くなってしまいます。その後は同族の六角政堯とずっと家督争いです。折しも時の将軍はあの無定見で著名な足利義政。六角氏の家督も安定しません。応仁の乱において、今回の戦いは畠山・斯波・六角の家督争いだ(『大乗院寺社雑事記』)と言われるのもむべなるかな。幼少の高頼に代わり実際に指揮をとっていたのは一族の山内政綱でしたが、高頼は生まれてから約20年政堯、さらに京極氏や延暦寺とも戦い、勝利を収めてようやく家督となれたのです。この時点ですさまじく濃い。高頼あと40年も生きるぞ!この段階からバイプレーヤーとして美濃の土岐氏や斎藤氏の名前が見えるのが後々の伏線(激怒する承禎)としてもいい感じであります。
多感な時期に抗争続きだったせいか、家督を安定させた後の高頼は老獪です。被官が寺社や奉公衆の所領を押領し、京都では大きな問題になっているのに、「善処します」と言ってみたり、伊勢氏にプレゼント攻勢を仕掛けたり、のらりくらりです。いよいよ将軍の親征を受ける段になっても、あっさり本拠地の観音寺城を放棄してしまい、決定的な勝利を得させぬままゲリラ戦に終始して疲弊を狙います。明応の政変後は、足利将軍家が義稙と義澄に分裂しますが、どっちとも距離を取りつつ関係を持っています。それでも戦う時は戦い、気付けば幼少の時に補佐役であった山内氏や伊庭氏を排除し屈服させています。
飛躍する当主の裏には優秀な先代ありと言いますが、六角高頼もその例に漏れません。上との付き合いではリスクヘッジを行いつつ、下はきっちり締め付け六角氏の権益を拡張する。実にしたたかな戦国大名ではないでしょうか。
- 六角氏綱
六角定頼の先代は高頼と言った直後ですが、真の先代は兄氏綱です。ただ、氏綱は高頼後継者として着々と経歴を積んでいったものの、27歳で夭折してしまいます。そのため事績らしい事績は残すことができませんでした。氏綱が死んだ時にはまだ先代の高頼が生きており、僧籍にあった弟定頼が当主となるのに混乱がなかったのが救いですかね。
なお、氏綱には遺児があり、形式的にはその系統が六角氏の家督であったというのは、『江源武鑑』なる書物の説ですが、単なる偽書なので一顧だにする価値はありません。氏綱に子がいなかったのは、氏綱の供養を行う主体が一貫して弟定頼であったことから明らかとのことです。沢田源内、どんだけ後世の六角氏研究に迷惑かけてるんだ…。
- 六角定頼
いよいよ本丸にやってきました。天下人・六角定頼です。高頼の子は4人おりまして、長男氏綱は後継者、三男高保は大原氏、四男高実は梅戸氏を継いでいます。若くして出家していたのは次男定頼だけなのですが、その定頼が最終的に六角氏の家督になるのですから運命というのはわからないものです。
さて、六角高頼はそこまで国外の軍事行動に熱心な感じではありませんでしたが、定頼はかなり積極的となります。この時期の幕府は細川高国が主宰していたのですが、高国と結んでいた大内義興が分国の周防に帰ってしまうと、畿内の高国の軍事力は低下することになります。その埋め合わせとして定頼は頼られ、高国軍の勝利に貢献します。一方で高国は定頼の近江平定のために大船を淀川経由で琵琶湖に派遣し役立てています。細川・六角双方のスケールを感じさせますね。以後の畿内の戦争でも六角軍が参戦するかどうかという点が勝利を左右するのが如実に描かれます。
かくして定頼は将軍足利義晴と娘婿でもある細川晴元から頼りにされるに至り、幕政の実質的な運営者となります。今回の本は「六角定頼こそ天下人!」という論調なので「武門の棟梁、天下を平定す」が副題ですが、「少弼に任せ置かるべし」という副題が本来ふさわしいのではないかと思えるほど「定頼の意向は?」という文言ばかりで、将軍すら定頼の判断をひっくり返せない事例もあります。こうした威勢はまさしく「天下人」に通じるのかもしれません。
とにかく六角定頼は「天下人」であるということが、実際の事例を数多く並べて主張されるので、インパクト抜群です。こんなにされて黙っていられるんですか?という囁きも聞こえてきます。是非とも、他の研究者にも反応してほしいところです。
なぜ六角定頼はここまでの権勢を持ちながら、六角政権を作らなかったのか?という疑問に対し、定頼はずっと将軍足利義晴と仲が良かったからと答えるのが、ユニークでコペルニクス的展開を感じて面白かったです(織田信長は足利義昭との関係悪化で単独政権を作らざるを得なかった論)。
- 六角義賢・義弼
六角義賢は六角承禎としても知られる人物です。今回、例の譴責状の現代語訳が全部掲載されていますが、何とのべ5ページもあり、激怒ぶりが伝わります。義賢は定頼の後継者として人並み以上の人物に見えますが、父が偉大すぎたためか生真面目にすぎるようにも思えます。
六角義弼は義治・義堯と改名していくのがややこしく、本によって名前も統一されていないのですが、この本では義弼です。今回は基本的に六角氏贔屓の本なのですが、義弼はかなりけちょんけちょんに言われます。若年にして指針が見えず、その後六角氏は没落して巻き返しの機会がなかったので仕方ないですが酷ではあります。
六角氏はなぜ没落してしまったのか、今回の本では触れられていません(基本的に六角氏が負けたり退潮したことへの記述はあっさりとしている)が、印象としては父子対立でまとまりが乱れたことや、いつも通り将軍が帰れば復帰できるはずと思っていた近江が織田信長によって領国化されてしまったという部分でしょうか。
六角氏はその後どうなったのかについて、新出史料から嫡流は加賀藩士になったことがわかったのも新鮮でしたね。
次に事項について気になった部分をつらつらと(三好氏関連多めです)。
読む上で一瞬「えっ?」とノイズになった部分です。
何が?と思われそうですが、「波多野稙通」も「三好勝長」もそんな人物はいないからです。波多野稙通は波多野元清と秀忠の2代を合体させた人物で、香西元盛・柳本賢治の兄にあたるのは元清の方です。三好勝長も三好政長(宗三)の兄ですが、発給文書から実名は「長家」が正しいことがわかっています。三好遠江兄弟も弟の名前はわかりませんが、兄の実名は「家長」です。安見直政も古典的ですねえ。正しくは「宗房」ですよ*1。
これらは通説知識を最新研究によって更新していない事例ということになります。冒頭で各大名家の研究は深化しているのに交わっていない旨を書きましたが、その弊害がこういうところで出ているようにも思います。せっかくの研究成果が以後の前提として昇華されていないのです。やはり新しい人名辞典が望まれますね。
※ここからは完全に余談になりますが、最新研究を反映していないなというのは、三好三人衆をどう表記しているかが意外とマークとして役に立ちます。三人衆は彼らが何者であるかが意識されない割に、足利義輝を殺害しただの、織田信長の上洛で追われただの名前だけはやたら頻出するからです。「三好長逸・三好政康・岩成友通」と書いてあればアウトで、この時点でもうだいぶ読む気が削がれます。三好政康にあたる人物は政康などと名乗ったことは一度もなく、実名は政勝→政生、法名は宗渭が正しいことが明らかになっています。岩成友通についても同時代は「石成」と書かれることが圧倒的に多いので石成友通と書くのが穏当です。
それでは「三好長逸・三好政生・石成友通」あるいは「三好長逸・三好宗渭・石成友通」と書いてあれば、合格なのでしょうか。実はもう一つ問題が残っています。三好長逸の「長逸」にどうルビが振ってあるかです。長逸は通説だと「ながゆき」と読まれていますが、現在では同時代史料に「ながやす」と振ってあることが指摘されています。つまり長逸に「ながやす」とルビが振っていないとこれまた落第ということになります。皆さんも気を付けてくださいね。
- 「堺幕府」
堺幕府はかつて今谷明氏が発見した権力体です。今谷氏本人は「これは幕府だ!」と自信をもって命名し、鞆幕府などこの権力体は幕府と呼んでもいいのではないかといった議論に先鞭をつけたものです。しかし、今回村井氏は「堺幕府」は烏合の衆だし、奉行人奉書ももらう側の都合で出たもので、あたかももう一つ幕府が出来たかのような過大評価は慎むべきとしれっと述べています。
私の考えとしては堺幕府は堺幕府でいいと思います。たまに堺政権や堺公方府と呼ばれる人もいますが、政権と言ってみたり、公方府と言ってみたりしてもその意味するところが幕府とは異なるとはあまり思えません。堺に将軍に擬される存在と幕府を模した下部組織があったのは無視できない事実で、これを呼称するなら堺幕府が穏当なのではないかな。そもそも文書の発給を求められるというのは地域社会から認知されていたということですし、それを評価しないのなら火の粉は六角氏にもかかってきませんか?
ただ、もちろん堺幕府は強固な権力体ではありません。内紛が絶えなかったのも事実ですし、堺公方・足利義維を将軍に!という意志すら統一していませんでした。全国的に義維を支持する大名は細川晴元一派である阿波の細川持隆と河内の畠山義堯くらいでした。奉行人奉書も常に発給されていたわけではなく、政局によって発給が制限されていたこともわかっています。だから、足利義晴の幕府に並び立つもう一つの幕府が出来たように言ってしまうのは明らかに過大評価でしょうね。
しかし、幕府が即全国政権を意味するわけではないし、それこそ政局によっては足利義維が真の将軍となる可能性もあっただろうと考えます。「幕府っぽい何か」、「幕府になれなかった何か」として、その政権を幕府と呼ぶのはそこまで的外れでもないのではないでしょうか。
- 江口の戦い
江口の戦いと言えば、三好長慶が細川晴元に謀反する中、三好宗三を撃破し、晴元を摂津から追放する契機となった戦いです。長慶が細川氏に下剋上を果たし、畿内の有力者となる記念碑的戦いとされてきました。しかし、本当にそのような位置づけでいいのかという点は近年改めて検証されています。通説では細川氏綱の存在が捨象され気味ですが、江口の戦い後に成立したのは細川氏綱を盟主とした政権であることが指摘されているからです。現在では細川氏綱からいかに三好長慶に主体が入れ替わったのかという点も詳細な分析があります。すなわち、江口の戦いは細川京兆家の家督が晴元から氏綱に入れ替わった戦いという評価になります。
ところで、これは三好氏研究においても見られますが、戦国時代では織田信長の存在感がやたら大きいこともあり、誰かを上げるために信長を貶める方法というのはあります。今回貶められるのは信長ではないですが、天下人として俎上に載せる都合上三好長慶への描写が少し辛いようにも思われます。まあそれ自体はだからと言って嘘を書いているわけではなく筆致の問題なのでとやかく言いませんが、江口の戦いの位置づけはそれでいいのかと思う部分はあります。
この江口の戦いについては、(略)一次史料で実態が明らかにされたわけではない。にもかかわらず、三好氏の圧倒的勝利であって、長慶が天下人への階段を駆け上がる大きな一歩だったとされることが多いが、はっきり言って過大評価であろう。(略)この後の推移を見ても、六角氏および晴元勢が決定的な打撃を受けたとも思われず、大決戦ではなく、単なる局地戦と見た方がよかろう。この戦いの前あと後では、晴元方で三好政長が戦死した程度で、政治状況はそれほど劇的に変化していないのである。この戦いのみを特別扱いするべきではないだろう。(181~182頁)
過大評価するべきではない、は一理あるとしてもこれはこれで過小評価しすぎじゃないでしょうか。本当に三好宗三が戦死した程度の話なのなら、六角軍が引き上げたり晴元が慌てて将軍とともに近江に逃亡する理由もありません。そもそも三好宗三自体が晴元の腹心中の腹心であるし、江口の戦いの戦死者には晴元の奉行人である高畠長直、波々伯部元家、平井長信らも含まれています。彼らは晴元権力の中枢を形成する者たちでその死が打撃にならないはずがないです(六角は無傷と言われればそうかもしれませんが)。
一次史料によって描かれていないという突っ込み自体は面白く、今回初めて紹介された『兼右卿記』にも宗三軍内部で喧嘩があり、自滅したという記述があるのは大変興味深いですね。喧嘩自体は『天文間日次記』にも記述がありましたが、複数の一次史料によって裏付けられたことで信憑性が増しました。ちなみに『天文間日次記』には「武綱御勝手」という記述があり、ここでの「武綱」は氏綱の誤記と考えられるので、江口の戦いの主体が氏綱であることがここからもわかりますね。
そういうわけで江口の戦いは畿内戦国史の契機として評価されるべきだと思います。しかし、確かにこの戦いで長慶がすぐさま力を得たわけではないので、晴元対氏綱の争いの一環として叙述するのが、公正ではないかと考えますが、どうでしょうか?
- 天文21年の和睦
三好長慶と足利義輝の和睦に六角義賢が仲介したという話。この時、晴元の子・聡明丸(後の細川昭元・信良)が三好氏に人質として渡されたことが知られています。しかし、今回『兼右卿記』が引かれ、三好・六角間でも三好千熊(後の義興)、松永久秀の子(後の久通?)、斎藤基速の子、三好長逸の娘が六角氏への人質として、六角氏の重臣である蒲生・後藤・三雲の各息子が三好氏への人質になっていたことが知れました(恒常的な人質と言うより、和睦のための一時的な人質交換でしょうね)。これは貴重ですよ。この時の三好氏重臣メンツがはっきりしますし、長逸に娘!初聞きですよ、それ!(後に加地久勝に嫁いで三好若狭守の母親になる女性か?)『兼右卿記』は現状永禄3年からしか翻刻されてないのですが、早く永禄3年以前も翻刻されるといいなあ!
- 永禄4~5年の三好・六角戦争と細川晴之
六角氏と三好氏は仲がいいのか悪いのか。これは簡単な問題ではないです。印象としては、六角氏は足利義輝・細川晴元に味方はするが、だからと言って三好氏と交戦するのは避けたいといった感じでして、三好氏も義輝や晴元を弾劾はしますが、六角氏を名指しで非難することはしていません。要するに三好氏の敵と六角氏は懇意ですが、だからと言って三好氏も六角氏もお互いを敵視してはいないといったところでしょうか。しかし、この関係も永禄4年に崩れ去り、戦争状態に至ることになります。
なぜ、六角氏と三好氏の関係は破綻したのか、これは結局よくわかりません。『戦国三好一族』や『三好長慶』では三好氏の勢力伸長(三好氏は永禄2年から3年にかけて河内・大和を新たに領国化しました)を六角氏が警戒したからとなっています。では、本書ではどうなっているかと言いますと、細川晴元と三好氏が和解したのを契機に挙げています。このままでは京兆家が三好氏が養育する昭元に一本化され、六角氏が京都政局から締め出されてしまうという危惧です。
今回の説明もあまり納得はできません。そもそも六角氏ってそんなに細川晴元を推すのに熱心だったんですかね。永禄元年の三好と将軍の和睦では、最終的に和睦に反対する晴元は出奔してしまっています。六角義賢は少なくとも晴元を切ってでも、足利義輝と三好長慶を和解させたわけです。細川晴元が江口の戦い以降も積極的に活動していたのは事実ですが、六角氏が強く後押ししたのかというと微妙なところがあります。
そして焦点となるのは細川晴之なる人物です。晴之は晴元の次男で、六角氏が養育したとされます。本書でも天文21年の和睦で聡明丸は長慶が引き取ったが、次男は義賢が育てた、という記述が出てきます。ただ、それって一次史料で証明できるんでしょうか。本書に挙げられた史料では言及されておらず、不審が残ります。義賢が永禄4年の挙兵の際に、晴元次男を擁立したということは『細川両家記』にも見えるため、一概に排除はできませんが、晴元次男は存在したという証拠が少なすぎます。本当に六角氏が晴元次男を養育していた可能性はありますが、その存在を押し立てて挙兵した、まで言えるのかどうか大いに疑問です。
なお、「三好筑州に対し意趣」があったの「三好筑州」は長慶ではなく、息子の義興を指しています。
- なぜ六角氏は三好三人衆と結んだのか
六角氏は定頼以来、義晴・義輝と2代の将軍の最大の後援者でした。義輝が殺害された後も、三好氏と対立した弟義昭を当初は近江に保護しています。ところが永禄9年8月六角氏は三好三人衆と同盟を結び、義昭は近江からの退避に追い込まれます。斎藤氏と同盟を結ぶのかどうかを超える外交上の大転換ですが、結局本書にもなぜ六角氏が将軍家を切り捨てたのか説明らしい説明はありませんでした。
ただ、これってヒントかな?と思うことはありました。永禄10年2月六角氏は自身が保護していた能登畠山義綱の再入国について、本願寺に加賀の一向一揆に援助を頼んでいます。本願寺と六角氏の関係性はここで発生したものではありませんが、本願寺と三好三人衆に何らかの繫がりがあり、それを利用すべく三人衆と結んだのかという線もあるのかもしれません。
まとめらしきもの
総じて読みますと、はしがきでも述べておられますが、史料を直接引用し、それに現代語訳をつけるというスタイルがわかりやすく是非をすぐ判断できるのでとてもいいですね。新出史料が多いのも新味があっていいですが、『兼右卿記』などは未だ翻刻が流布していない箇所だったりするので、原文が活字化するのが待ち遠しく感じられます。
本書でも十二分に満足ですが、政治史多めで文化や宗教面が弱かった印象もあります。六角氏の弓の話やらもありますが、掘ればもっとあるんじゃないか。また、一門や代表的な家臣団もさらっといいですから個別の解説があれば人間がわかりやすかったと思います。
なお、表紙にも使われている六角定頼像は画家の木下千春氏が今回のために書き下ろしたもののようです。豪華と言いますか、定頼には肖像画がないのでこれから定頼がフィーチャーされる中この肖像画がスタンダードになる時代が来るのかもしれませんね。
あれやこれや言いましたが、今後の畿内戦国史や室町幕府機構、織田信長の研究において、六角氏は外せない一族だと(と言うかこれまでスルー気味だったのがおかしいのだ)強く納得できるものにはなっています。一方でやはり今後詰めていくべき課題もあるわけで、本書は始発点でもあり通過点でもあり、今後の一層の尽力に大いに期待しています!
補足
で、結局六角定頼って天下人でいいの?というところですが、これは何とも言えないと思います。天下人は明確に定義のある語ではないからです。ただ、三好長慶を「戦国最初の天下人」などと言う場合、やはり「天下」と呼ばれる領域(五畿内)を支配したことや、足利将軍抜きの畿内支配を行ったことなどが含まれていると思います。その点で言いますと、六角定頼は「天下」に強い権勢を示したものの「天下人」ではないように思います。
しかし、それは長慶基準の話であり、例えば細川政元や高国も天下人と呼ぶのなら、天下人は戦国時代畿内でトップクラスの有力者だった大名になり、定頼もじゅうぶん天下人に値するでしょう。また、さらに白河院や足利尊氏などまで天下人を呼ぶのであれば、天下人は中央政権の主宰者という意味になり、定頼どころか長慶も該当するのか怪しくなってきます。
結局、天下人という言葉はそれが何を意味するのか非常に曖昧でして、極論を申せば「〇〇は天下人!」という議論にどれだけの意味があるのかということにもなります。「天下人」論議にはプレ織田信長といった側面もありますが、裏を返せば信長のイメージを剥ぎ取ろうとしつつそれに引っ張られているわけです。織田信長から枠組みを延長するよりも、新しい枠組みを提案してその延長上に織田信長や豊臣秀吉を位置づけるように出来るのが理想ではありますよね(まあそれで新しい呼称を提案してもそれが馴染むかどうかまで考え出すと、ネームバリューのある「天下人」の方が圧倒的に使いやすいのですけど)。
本書では「天下人権力を語るのに六角定頼は避けては通れないよね」として結んでいますが、一方で定頼の京都政界への積極的な登場が、大内義興の下国の後で細川高国からポスト大内氏として軍事力を期待されたという経緯は重要なものにも見えます。もちろんこれこそ一概には言えませんが、本来管領家ではない大名が軍事力を背景に幕政に積極的関与するという点では大内義興は定頼の先輩であるわけで、定頼はポスト義興とも言えるでしょう。幕府を軍事力で支持する部外者のこうした大名たちを縦の糸で繋げれば…なんてことも考えるわけです(奇しくも義興・定頼は「管領代」とされ、織田信長は「准管領」待遇を受けていました。あー、何か見えそうなんだけどなー)。
そのためにもやっぱり最新研究の共有が…ってここに戻ってくるんですよね。
*1:村井先生が編者となった『戦国遺文 佐々木六角氏編』ではちゃんと安見宗房って言ってるのになあ。なぜ…?