志末与志著『怪獣宇宙MONSTER SPACE』

怪獣monsterのコンテンツを中心に興味の赴くままに色々と綴っていくブログです。

三好にまつわる小話集①

 戦国時代や戦国武将は歴史コンテンツの中でも根強い人気がある。例えば、NHK大河ドラマは2026年放送予定の『豊臣兄弟!』までで65作品あるが、うち24作品が戦国時代を扱うか人物の生涯が戦国時代に被っている。当然のように扱われる時代としては最多だ。そうした人気を下支えするのは小説・ドラマ・漫画・ゲームなどのコンテンツの多彩さということになるが、それらも無から多彩さを生み出しているというわけではなく、近世以来続く「イメージ」というものがある。歴史上の人物や合戦などの事件には逸話がつきもので、事実の当否はさておいて「こういう人物・事件であってほしい」という投影が人口に膾炙していったのである。
 しかるに三好家は…どうにもこの方面で弱いのが現代における妙な影の薄さにも繋がっている気がする。一例を挙げると、戦国武将エピソードのバイブル的位置付けな『名将言行録』でも三好長慶は二話しか採録されていない。これでは強烈な印象など残しようがない。しかも数少ないエピソードもぶっちゃけると事実ではないか、事実かどうか確かめようもない怪しい話が多い。もちろん近世以降そういう目で見られていたという点では貴重な話ではあるが、実像に迫れるかどうかという点では不満が残ると言える。
 しかしながら、三好家は畿内で覇を唱えただけあって、依拠史料の素性の明らかさという点ではそんじょそこらの地方武将よりも実は多い。その中にはあまり知られていなくとも、そういう人間だったのかと思えるようなエピソードが実は結構ある。なら、典拠付きで紹介していこうじゃないか!というのが新シリーズ「三好にまつわる小話集」である。
 とりあえずサッと読めることを意識して4話ごとの更新になります。
 また、エピソードというほどのこともなく断片的なものもあります。既存の三好家武将記事で紹介した話も重複して取り上げる予定です。
 なお、史料引用にあたっては私に句読点を付けたり、旧字を新字に置き換えた部分があります。

ビビる十河一存
  • 『良尊一筆書写大般若経奥書』天文22年2月14日条

昨日未刻時分ニ東大寺湯屋ノ内ニテ乞食一両人、火ヲタキテアタリテアリケルカ、何トカシケン湯屋ヱ火付免ヤケ畢ル間、ハヤカネハヤ大鼓ヲ打振動シケル間、各走集ケシトメ畢云々、其時刻ニ彼四国ノ十河、山城ヱ帰宅シケルカ、手搔ノ宿ヲ出テ、ハヤ般若寺坂マテユキケル時分二、ハヤカ子以下ツキ物忩ノ間「サレハコソ、我ヲ打当ケルヲ覚悟ノ前也」トテ事外キモヲツフシケル処ニ「如此々々」ト云、子細ヲ聞、令安堵帰了云々、ヲカシキ仕合也ト令風聞了

 「昨日」ということなので天文22年(1553)2月13日、東大寺湯屋の中で乞食が暖を取っていたところ、火が湯屋に燃え移り、このままでは全焼してしまうので早鐘や太鼓を打ちまくって人を集めて消火したという。折しもその頃十河一存山城国に帰ろうと、宿を出て般若寺坂まで至っていたが、早鐘などが打たれ物騒になったので「これは俺を討ち取るための準備ではないか」と肝をつぶしたが、ちゃんと事情を聞くとほっとして帰っていったということである。全く笑える成り行きだ。…という内容。
 中世における消火活動の一端が知られる点でも興味深いが、この頃に一存が奈良まで赴いていたことと帰宅対象が山城国にあったというのはあまり知られていない情報ではなかろうか。一存といえば武勇キャラとして知られるが、緊急時の東大寺の動員力に肝をつぶしたというのは、やはり奈良の住人からすると胸のすく話であったのだろう。ていうか一存さん、奈良サイドに襲撃される覚えがあったんですか?
 直接関係ないがこの14年後に東大寺に布陣した三好・松永軍によって東大寺は本当に炎上してしまったので、この事件を知っていた奈良の人は「どうせならあの時一存を殺していれば…」と思っていたかもしれない。

捕えてみれば松永
  • 『兼右卿記』天文21年5月5日条

賀茂競馬有御成、予令見物了、依有狼藉人於当座被誅了、松永弾正被官人云々、

 日本の競馬のルーツとも言われる賀茂競馬は戦国時代でも開催されていた。天文21年(1552)5月5日にも行われ、将軍足利義輝も観覧した(ひょっとしたら義輝の馬も出走していたのかもしれない)。ところがその場で狼藉人がありすぐにひっ捕らえて罰したところ、松永久秀の被官であったとか。具体的に狼藉人が誰で何をしたのかはわからないが、将軍が観覧する晴れ舞台での不祥事であることには変わりない。やっぱりあれですかね?推し馬が負けて全財産すったとか…(当時の賀茂競馬にギャンブル要素はありません!)
 当時は義輝が帰京して数ヶ月しか経っておらず、松永久秀は江口合戦後に急に有名になった有力者。お互いの関係性が図り切れずギスギスしていたのが、同席するような場でトラブルとして出てしまったのかもしれない。

足利義輝と偽国綱
  • 『三好下野入道聞書』

一、国綱見様大秘事なり、口伝鎺元二、三寸の間に地へうすき刃の様なる物、青雲の様なる物一ツも二ツも地へ入べし、一ツなりともある物なり、似せものには中々有るまじきなり 此焼刃地にあるなり、似せもの多し、公方様御一代国綱を御賞玩にて其時の進物に大略国綱の銘を打たる由、本の国綱は篠作の御太刀なり、長慶舎弟今安宅にあり、実休にありたる「せんほうし」切は正真に有るまじき由、三下入申されしなり、

 三好宗渭(三好下野入道、三下入)が「国綱」の太刀の特徴について述べた一節だが、「国綱」には偽物が多かった。「公方様」(足利義輝)も「国綱」をお気に入りだった(足利将軍家所有の「国綱」と言えば鬼丸国綱が有名)ので、その頃の献上品にはだいたい「国綱」の銘が打ってあったという。文脈からすると、献上品の刀は義輝の歓心を買うための偽物だったということだろう。ちなみに今は安宅冬康が持っていて以前は三好実休が持っていた「「せんほうし」切」も「正真」ではないだろうというので偽物らしい*1
 足利義輝と言えば「剣豪将軍」という異名もあるが、近年の研究では、むしろ義輝は馬好きで、刀剣への嗜好は歴代足利将軍の中でも普通の範疇にあったと言われる。本エピソードは、そうした義輝について確かに刀剣へもこだわりがあったことを示す逸話であろう。もっとも、義輝はそれを偽物だと見抜いていたのだろうか。見抜いていなかったのだとしたら結局刀剣への興味もその程度であったということになるし、逆に見抜いていたとしても献上相手も有力大名であれば突き返して面目を失わせるわけにもいかない。義輝が馬に傾倒したのも、馬はそういうペテンが効きにくいからという実利もあったのかもしれない。
 ちなみに義輝へ献上された刀に本当に「国綱」が多いのかは、刀剣名をわざわざ文書に書かない例も多いため確かめられない。

三好義興哀悼歌

三好義興為吊経文独吟   元理
一 いそくとて親に先たつこの葉哉
  つまつきはしるみちそ時雨る
切 さゆるよの月毛の駒をおとらせん
  いさむとみれははねつくるひつ
有 うしろよりおしこさせてやうきぬらん
為 いさり〳〵もとなりまてこそ
法 ほかならぬあひたなれ共きて造左
  とりもごしやうをねかひこそすれ
このうちの中にもゑけを立おきて

 元理が三好義興の死後に「一切有為法」を冠字として九句読んでいる。元理は滝山千句や飯盛千句にも参加している人物で、当時の連歌界でも著名な法師である。義興の文化素養はあまりよくわからないが父長慶とともに連歌に参加したこともあり、こうして元理に悼まれているのでそれなりに文化交流もしていたのだろう。全体的に親である長慶より先に亡くなったことを痛恨とし、前途を悲観している。義興の死がもたらした三好家への衝撃を余すことなく歌い上げていると言えるだろう。

*1:この下りから、宗渭がこれを語ったのが冬康が誅殺される永禄7年4月以前だとわかる