志末与志著『怪獣宇宙MONSTER SPACE』

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三好にまつわる小話集②

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篠原長房毒殺未遂
  • 『半井古仙法印療治日記』

一、篠原右京進、中冬中比至尼崎、俄吐逆一両日不止、全身力抜、手足一向如無骨、食之近辺ニ有ヲ見テモ嘔吐ス、腹痛時有、草臥無正体、
 其刻拙者田舎ニ候テ脈不見、歴々医者替々療治スルフ、卅日計無少験、連々無正気、眩暈有頃ハ無嘔吐、面黒舌黒手足爪ノ間肉黒ク、此証ヲ見テ諸医腎虚ト云、
 猶病重シ、気乱、物云事不定、短気也、既十日五十余日無薬験、半井芦庵呼下脈証、悉皆腎虚ト云、一七日治スレトモ■相観、食ハ木皿一ツ弐ツ宛、ヲモ湯一日ニ飲之耳、
 五六十日後田舎ヨリ上津、診脈ス、先大便ノ色ヲ問ニ、一段黒シ、亦自就ニ赤時モ有ト云、脈沈而数、亦遅成時モ有、一向大小不定、大事ノ見所無残有間、此観蠱毒也ト云、傍人以下無同心、然トモ病人少思当事有、
 尤一薬所望ノ間、件黒薬両眼・嘉禾散一与候処ニ、気色替、眩暈去、正気正脈ニ成、ヲモ湯四ツ目ニ弐ツ三ツ食ス、尚同薬切々与ル三両日ニ過末、得験、上下仰天スル事無極、廿日計ノ間に本復シテ阿州下向候也、薬ハ終同薬也、後毒与タル人明白也、
 如此血ヲ不吐、蠱毒見知事、第一習在之也、亦俄中風ニ紛毒有、相伝之奥儀也、

 『半井古仙法印療治日記』は堺半井家の医者である半井慶友(1522~1617)の治験例を集めたもの。著者も慶友(ただし、実際に診療した本人ではなく2代目慶友の可能性もある)とされる。堺の医師だけあって戦国期畿内の有力者の傷病と予後の経過が具体的に記録されている。その割にほとんど使われていないので、この小話集でもぼちぼち取り上げていく予定である。
 さて、症例のトップバッターを飾るのは篠原右京進。篠原氏は右京進世襲していたが、慶友の活動時期的に篠原長房と断定していいだろう。彼はどのような病気であったのだろうか。早速内容を見てみよう。
 篠原長房。冬の中頃(ということは11月か)、尼崎にやってきたが急に吐きはじめそれが一両日止まらなかった。全身の力が抜け、手足は骨がないようで、食べ物が近くにあるだけで嘔吐し、腹痛も時々あり、横になったまま正気ではなかった。
 その頃、私(半井慶友)は田舎にいて脈も見ていないが、様々な医者が代わる代わる治療するも30日ばかり何の成果もなかった。ずっと正気ではなく、眩暈のある時は嘔吐せず、顔も舌も手足の爪の肉も黒く、これらを見て医者たちは腎虚であると言った。
 なお病は重く、言うことも定まらず息切れしていた。すでに50日も経ったが薬も効かない。半井驢庵が呼ばれて脈を診たがやはり腎虚と言った。7日治療に当たったが、食事は木皿に1、2杯の重湯を飲めるだけだった。
 私は50~60日後に田舎から上津して診療した。まず大便の色を聞くと黒いが赤い時もあるという。脈は沈にて数、遅になる時もあって大小が定まらない。見るべきところは全て見たが、「これは毒をもられたのだ」と言った。そばにいた人たちは同心しなかったが、病人本人(長房)は少し思い当たることがあった。
 薬を所望されたので件の黒薬を2つと嘉禾散を1つ与えたところ、顔色も変わり眩暈もなくなり正気正脈となって、重湯も2~3杯飲めるようになった。さらに薬を与えたらすっかり良くなった。これには皆仰天すること極まりなかった。20日も経つとすっかりよくなって阿波に帰っていった。薬はずっと同じものを処方した。後には毒をもった人も明らかになった。
 このように吐血しない毒を見破るには第一に経験だ。また、にわか中風に間違われる毒もある。毒を見破るのも相伝の奥儀なのだ。
 そういうわけで篠原長房は毒殺されかけていたようである…ってえええええ!!!??篠原長房は永禄11年11月に「淡路のへき」なる弟に殺されかけたことが確かめられる(『多聞院日記』)が…何と毒殺されかけていたこともあったのである。11月頃に尼崎に来て発病、そこから50~60日後に半井慶友が診察して毒をもられたと看破し、そこから20日かけて本復して阿波に帰ったということなので、畿内で越年しているようだ。時期としては永禄8年以前だろうか。下手人は誰だったのかまで書き残してくれていたら長房周りの政治抗争も復元できそうだったが、半井慶友的に興味がなかったのでそれ以上はよくわからない。
 通常は吐血が毒殺の証と見られていたことも興味深い。また、毒殺後の経過が明らかになるのも貴重と言える。

石成友通と白楽天

一、永禄〈於尼崎石成主税助旅宿長恨歌講尺二ヶ度、予本依不随身、三好釣閑斎本亭主不借寄〉
一、永禄〈於泉堺石成宅琵琶行発起〉

 清原宣賢が記した『長恨歌・琵琶行』の写本はその子である枝賢および孫の国賢によって活用され、教科書としてメモや講義記録が書き入れられることとなった。上記はその一部で永禄年間に清原枝賢が尼崎の石成友通の宿所で長恨歌の、堺における邸宅で琵琶行の講義を行ったことがわかる。フロイスの『日本史』では三好三人衆は皆堺に家を持っていたとされていたが、日本側の史料でそれが確かめられるのは珍しい。また、尼崎での講義では清原家の本ではなく三好宗渭の所持本を用いたらしく、宗渭の文化素養の一端としても注目できる。それにしても2回も講義を受けているのだから、友通は白楽天の詩に興味があったと見ていいだろう。

松永長頼は将棋がお好き?
  • 『兼右卿記』天文20年4月23日条

至山崎下向了、伊勢守へ為音信也、然処ニ三好筑前守可指将碁之旨出来之間、為礼罷出了、

  • 同天文20年4月24日条

今日松長甚介所ニテ将碁在之、

  • 同天文21年10月15日条

松永甚介将碁馬令所望之間、被遣之了、

 天文20年(1551)4月23日に吉田兼右が伊勢貞孝まで音信のため山崎まで行ったところ、三好長慶より将棋(史料では「将碁」と出てくるが将棋のこと)をやりたいと要望があったので退出した。そして翌日実際に松永長頼の所で将棋を打っている。さらに翌年には長頼から将棋の駒(「馬」というのは駒のこと)を所望されたので与えている。わざわざ長慶と兼右が長頼の所で将棋を打っていることや長頼が将棋の駒を入手していることから推すと、将棋をするための碁盤や駒は長頼が管理していたか、上級品を持っていたのだろう。将棋をおざなりに思っている人間が管理を任せられたり、いい道具を求めたりはしないだろうので、やはり長頼本人が将棋好きだったと考えたいところ。長頼といえば軍事的才覚の評価が高い印象もあるが、将棋による知的研鑽のおかげなのかもしれない。

贈答品がぐーるぐる
  • 『天文日記』天文20年1月13日条

三好筑前へ就年始儀三種五荷遣之、又折十合□荷遣之、塩田へ年始樽三種三荷遣之、又取居二膳二荷遣之、

  • 同天文20年1月24日条

従氏綱為当年之祝儀、以書状十合〈此内五合ハ先日三好へ遣たる也、呵々〉十荷来、為使長塩民部丞来、以一献対面〈盃礼二度彼盃飲之〉

 よく贈答品として三種五荷とか五種十荷とかの文字列を見るが、その実態は要するにお酒とおつまみセットである。〇種が肴の種類、荷は酒樽を天秤棒の前後にかけて運ぶ単位である。そういうわけでお祝い事にこれらを贈るのは「まあこれで宴会でもしてくれよな!」ということだと思われるのだが…。天文20年(1551)に本願寺門主である証如が三好長慶に贈った十合はうち五合が細川氏綱からの音信として11日後に戻ってきてしまった。おそらく長慶は本願寺からの音信の一部を細川氏綱への音信として使い回し、氏綱もまた本願寺への音信として使い回したためにこのような事態になってしまったのだろう。当の証如は「呵々」と大爆笑しているのでまあいい…のか?似たような話として足利尊氏が自身への贈答品を残らず他人に配ってしまったため、尊氏本人の手元には何も残らなかったという逸話もあるが、実際問題としてあれやこれやもらっても全部を全部管理も消化もできるものでもないのでこのようなことは起こってしまうものなのかもしれない。