以前、摂津伊丹氏は永禄末期に親興(貞親)から忠親に代替わりしており、両者が別人であること、よって永禄末期以降の伊丹氏当主を親興とする記述は誤りであると書いた。
詳しくは記事を読んでもらいたいが、その中では永禄9年(1566)9月の「伊丹大和守」を親興の終見とし、永禄11年4月に現れる「伊兵」=伊丹兵庫助を忠親の初見としていた。ところが、その後もう少しここらへんの事情に迫れそうな史料を見つけたので紹介しておく。
- 長洲荘年貢算用帳 東大寺文書
永禄八年〈丑乙〉五月廿三日 段銭参拾弐貫到来
此内使足
十文 巻数箱 十文 牛玉箱 三百文図師 伊丹八郎殿へ曽〔贈〕物
(略)
七百廿九文 伊丹八郎薪上之時、宿以下雑用
(略)
永禄九年丙寅十二月十三日 年貢到来四十貫文
(略)
九百七十文 油煙〈伊丹殿へ十丁、同子息へ五丁、寺門衆へ十二丁、安大夫二丁、政所二丁〉
(略)
永禄十年〈丁卯〉十二月廿一日 四十貫文運上
(略)
壱貫弐十四文 油煙〈此内十丁和州 五丁同八郎殿 三丁ツツ奉行衆三人(以下略)〉
(略)
五貫九百廿文 伊丹八郎殿大仏在陣之間入目
(略)が多すぎると思われるかもしれないが、この算用状は都合50年以上分あって全部引用するわけにはいかないので、ピンポイントで扱う場所だけ取り出しておいた。現在は兵庫県尼崎市になる長洲荘は東大寺の荘園だが、東大寺はこの荘園の経営を維持するべく周辺の有力勢力と関係を結んでいた。その中には伊丹甚十郎や伊丹源内といった伊丹一族も見え、伊丹氏の当主へも適宜贈答をしていたのである。
その中で、永禄8年(1565)より見えだすのが伊丹八郎という人物。この人物には敬称として「殿」が付けられ、永禄10年の大仏陣在陣の折にはこの人物が代表として音信している。また、永禄9年の「伊丹殿」と「同子息」への音信の額は、永禄10年に「和州」と「同八郎殿」へ贈られた音信と全く同じである。よって、「伊丹殿」=「和州」=大和守親興、「同子息」=「同八郎殿」と見て良い。伊丹親興には息子として八郎がおり、永禄8年頃に現れ、永禄10年を境に八郎が当主格となったと言えよう。
後は永禄11年4月に現れる「伊兵」=伊丹忠親と八郎がどのような関係にあるかだが、『兼右卿記』永禄12年1月6日条には三好三人衆に襲撃された足利義昭の救援に駆け付けた軍勢として「三好左京大夫義継、池田筑後守勝正、伊丹八郎」が登場する。記主の吉田兼右は伊丹忠親のことを「伊丹八郎」と認識していたのである。また、三好義継・池田勝正には実名まで記す一方で、「伊丹八郎」に実名がないのは兼右が八郎の実名を知らなかったか、実名を未だ持っていないと認識していたことを意味する。永禄11年12月時点で伊丹忠親は「親」の一文字で署名しているのでこの条件も満たすことができる。よって、伊丹八郎と忠親は同一人物で永禄10年12月から永禄11年4月までの間に「兵庫助」に官途成したため、永禄12年初頭にはまだ官途成が周知されていなかったと見るべきだろう。
そういうわけで伊丹忠親の仮名は「八郎」で親興の息子にあたり、永禄10年末を境に伊丹氏当主となることがわかった。算用状にお悔やみの音信などがないのが少し不審ではあるが、この頃に親興が亡くなった可能性も高い(一般書では混乱した記述も見られるが永禄10年以前に単に「伊丹」とだけ記す場合は親興と見るべきだろう)。仮名から伊丹氏代々の「兵庫助」となっているのも当主交代のアピールだろう。
もっとも、伊丹親興の仮名は「次郎」なので忠親は親の仮名を襲わなかったことになる。永禄3年には親興の次男が亡くなっていることが算用状から確かめられるので、忠親は三男以下だった可能性もある。いずれにせよ当主となった忠親が若年であったことには間違いなく、元亀年間も微妙に動向がさえないのもこれが原因だろうか。天正年間になると忠親は荒木村重に伊丹を追われ、領域権力としての伊丹氏は姿を消すことになる。