志末与志著『怪獣宇宙MONSTER SPACE』

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足利義輝側近・一色藤長と三好氏

 去年『戦国遺文 三好氏編』の補遺ページをざっと見ていたら、ある書状が目に入ってきた。固より古文書など読めるわけがないが、「石力」「入魂」「(一色藤長)」などの文字が見え、どうやら石成友通と一色藤長が親しい関係にあるらしいことは何とか読み取れた。石成友通は(三好三人衆の一人として)まあ知っているとして、一色藤長も一応聞いたことがある名前ではあった。ただ、その時は友通と幕臣の繋がりを意識の片隅に置きつつもそれだけで終わった。
 そして、今年図書館に相互貸借で貸してもらった資料を返しがてら、歴史コーナーですっと『戦国期政治史論集 西国編』を採ると、目次に木下昌規先生の論文で足利義輝・義昭期における将軍御供衆一色藤長」があるではないか!これはもしや運命か?石成友通との「入魂」の記述から三好政権における友通の役割がわかるかもしれん…と食い入るように読んでみたものの…

高梨氏は、藤長は天文二十年の一件から三好氏との協調派であったとする。当時十代と思しき藤長と三好氏の関係については、ほかに関連史料がないため具体的には判然としないが、親密であったことを示す史料は管見上、見当たらない(224頁)

 結局、藤長と三好氏の関係性についての記述はほとんどなく(義輝期の動向はほぼ全て義輝や幕府との関係のもの)、若干肩すかしを食らうことになった。木下先生は戦国期室町幕府研究の大家でいらっしゃるが、どうやら友通との「入魂」を示す文書の存在を見落としておられるようである。
 まあそれはそれとして、当該時期、具体的には天文末年から永禄にかけての室町幕府と三好氏(三好政権)の関係性は近年議論が尽きないところである。戦国時代の室町幕府は俗に言われるような傀儡政権では決してなく、中央政権としての機能を曲りなりにも果たしていた。一方の三好氏は主家である細川京兆家相手に「下剋上」を成し遂げる中、畿内を支配して行くが、その支配秩序は室町幕府と一体化するものではなく、足利将軍(に相当する人物)を必ずしも擁立しない態度を持っていた。このあたりが三好長慶をして「戦国最初の天下人」と呼ばしめ、「三好政権」という呼称の由縁でもあるわけだが…実際室町幕府三好政権なるものがどのように併存し、宥和あるいは対立していたのかという点は現在でも明らかになっているとは言えない。今後の研究に期待したいところである。
 ただ、その中で一色藤長と三好氏の関係性はやはり一つの鍵となり得るものなのではないだろうか、というのがこの記事である。

1 一色藤長の登場~三好氏に知行回復を頼む藤長

 一色藤長は室町幕府奉公衆「一色式部少輔」家の流れに位置する。一色氏と言えば、学生時代に「侍所所司に就任できる四職の~」と覚えた人もいるのではないかと思うが、若狭や丹後の守護職を務めた一色氏が四職の一色氏で、藤長の奉公衆一色氏はこの守護一色氏の庶流にあたる。藤長の先祖は将軍の「申次」・「御部屋衆」を務め、将軍に近侍できる身分にあった。藤長の父・一色晴具は娘を将軍足利義晴の側室に進めるなど、さらなる将軍への接近を図ったが、天文18年(1549)3月9日、御所近辺の喧嘩に巻き込まれて死去した。没年齢は不明だが、大永元年(1521)に「一色鶴寿」という幼名、大永6年(1526)には「一色七郎晴具」として見え、この間に元服したと考えると40歳前後が妥当である。
 藤長の生年もまた不明であるが、父の生年や活動時期から推し量ると、天文18年(1549)父の死で一色式部少輔家を継いだ時は未だ10代であったと思われる。上記木下論文によると、藤長の一次史料による初出は『言継卿記』天文20年2月1日条、伊勢貞孝が将軍足利義輝を京都に戻そうとして失敗し、貞孝の与党のみで上洛を果たした記事に「一色七郎」が見えるものである(「七郎」は一色式部少輔家の当主が代々用いた仮名)。当時京都を支配していたのは三好長慶(と細川氏綱)で、将軍足利義輝は近江に追放されていた。一方で幕府政所執事であった伊勢貞孝は、主君義輝の逃避行には従わず、長慶の京都支配にむしろ協力しようとしていた。しかし、やはり主君を無視するのは気が引けたのか、貞孝は他の奉行衆・奉公衆とともに義輝を京都に移すことを画策し、失敗したのである。
 伊勢貞孝は将軍を京都に復帰させようとして失敗し、仕方なく将軍抜きで三好氏と協力することになった。貞孝に従った他の幕臣たちも同様であり、そのために高梨真行氏は一色藤長を含む彼らを親三好派と述べた。これに対して木下氏が反論したのが、最初に引用した文章になる。確かに貞孝に従った一行には、この後長慶を暗殺しようとした「進士九郎」(進士賢光)の名前も見え、「親三好派」の一枚岩があったとするのは早計に思える。
 しかし、三好長慶の書状に藤長である「一色七郎」は登場していた。『戦国遺文 三好氏編』「三〇六 三好長慶書状写」がそれである。

一色七郎殿天文十八年迄当知行之地子銭、速可令其沙汰彼代候、恐々謹言、
  天文廿年        三好
    三月八日       長慶判
   洛中当地百姓中

 「一色七郎」表記、「天文十八年迄当知行」という語、天文20年3月8日という日付も上記事件とドンピシャで思わず目を疑ってしまったが、長慶は藤長の知行地から地子銭を藤長に代わって徴収していたのである。「天文十八年迄当知行」から推察するに、藤長は父晴具の死去とその後の断続的な争乱において、洛中の知行地を失っていたと思われる。伊勢貞孝とともに上洛した藤長は知行の回復を長慶に訴え、その結果長慶は上記書状を発給して、藤長への地子銭を回収しようとしたのであろう。こう考えると、藤長は当初は三好氏に期待を寄せており、長慶は藤長の主君でもないにも関わらず直接的に便宜を図っていたことになる。
 伊勢貞孝に従った幕臣の知行を長慶が回復しようとしていた事例が窺えるのはこの藤長対象のもののみである(ざっと『戦国遺文 三好氏編』を見ただけだが)。もちろん長慶が他の幕臣にもこのような動きを見せていた可能性はあるので、藤長が特別扱いされていたのかどうかは確かなことは言えないが、少なくとも藤長と三好氏の最初の関係において利害の面で一致点が見られたとは言えるだろう。
(3月14日に伊勢貞孝に従っていたはずの進士賢光が長慶を襲撃したのも、知行回復への利害の不一致や、長慶が幕臣藤長の知行を代行せんとした越権行為(?)への反発などが背景としてあったのかもしれない)

※(年不明)足利義藤御内書の年代比定について
 『足利義輝 (シリーズ・室町幕府の研究4)』によれば、天文末年推定として、足利義輝が一色藤長に「在陣奉公」を賞したものがあるという。当該御内書の実際を確認できていないため、『足利義輝』による情報しかないが、この御内書の宛名は「一色七郎とのへ」であり、年不明だが5月11日に発給されている。この情報からこの御内書が何年に出たのか、試みに推定してみたい。
 まず、『歴名土代』を信じるなら、一色藤長は天文21年(1552)4月13日に式部少輔に任官し、これ以降「一色式部少輔」となるため、「七郎」宛である当該御内書の「5月11日」は天文20年(1551)以前なのは確実である。また、一色七郎が一色式部少輔家の当主となったのは、父晴具の死によるものと見られ、天文18年(1549)以降となる。すなわち、御内書の発給時期は天文18年(1549)~天文20年(1551)の3年のうちのどれかである。
 しかし、天文20年(1551)2月以降藤長が義輝から離れ三好氏陣営にいたのは見た通りである。三好氏は藤長の知行の回復に動いているので、藤長が三好氏から離反する理由もない。よって、天文20年(1551)も外れる。
 ここで「在陣奉公」に目を向けよう。「在陣奉公」とは常識的に考えて軍事奉公を指す。天文18年(1549)5月直前に奉公衆が参加する戦闘があったとは認められず、むしろそのような戦闘は天文19年(1550)中尾城の戦いの前哨戦に位置するのではないかと考えられる。
 よって、足利義輝が「一色七郎」を名乗る藤長に「在陣奉公」を賞した御内書の発給時期として最も自然なのは、天文19年(1550)5月11日である。

2 義輝側近・一色藤長~石成友通との「入魂」関係

 こうして一色藤長は天文20年(1551)より三好氏と前向きな関係を有していることが窺えた。これはある意味本来の主君である将軍足利義輝からの離反とも言えるが、『言継卿記』天文21年3月28日条によれば、藤長が足利義輝の「申次」を務めていることが見える。天文20年(1551)の三好氏との関係は特に問題とはならず、義輝側近としての立場を堅持できていたようである。『歴名土代』によれば天文21年(1552)4月13日に家職である式部少輔に任官しており、幕府奉公衆としては順当なキャリアを積んでいった。ただし、天文22年(1553)から永禄元年(1558)の間、再び足利義輝三好長慶と対立し、京都から追放された際、義輝に従った幕臣にも長慶に従った幕臣にも藤長の名前は見えず、旗幟は不明である。
 このような中、いつの時期なのかはわからないが、冒頭でも触れた書状が発給されたと思しい。『戦国遺文 三好氏編』「二一二八 三好長慶書状」である。

此間石力御しゆこん(入魂)のよし(由)、ほんまう(本望)に存候、さいせん(最前)より御ちそう(馳走)、いまもつてあひかハらす御たのもしき御かくこ(覚悟)せひ(是非)なく候、いよ〳〵へつして(別而)申あハすへき心中に候、しよし(諸事)御とうかん(等閑)なく御とりあハせのたん(段)、たのミ〳〵申候、われ〳〵事もいさゝかそりやく(粗略)あるましく候、いさい(委細)石力可申候、恐々謹言、
    二月十三日      長慶(花押)
   一式 御宿所

※平仮名の後の()内漢字表記は『戦国遺文』に付されていたもの

 「石力」とは「石成力介(主税助)」すなわち石成友通のことで、「一式」とは「一色式部少輔」の略、すなわち藤長を指す。素朴に読むと、三好長慶は家臣の石成友通と幕臣一色藤長が「入魂」となったことを喜び、親密な付き合いとそれによる藤長の行動に大いに期待を寄せている。また、「御」を多用する慇懃さからは、藤長への敬意が看取される。この書状がいつのものなのかはわからないが、義輝追放期に三好派として京都に留まった幕臣に対するものとしては大仰に過ぎるのではないだろうか(個人の感想です)。永禄元年(1558)義輝が帰京し、長慶が義輝を推戴し、自身の家臣と幕臣との関係を強めようとする中で発給されたと見たい。もっとも藤長が実際に「御とりあハせのたん」においてどのような役目を担ったのかはわからない。
 そして、藤長は永禄2年(1558)までは「御部屋衆」であったのが、永禄3年(1560)以降「御供衆」になっており、幕臣としての地位を上昇させた。また、永禄5年(1562)に伊勢貞孝が没落すると、御料所となった貞孝旧領を細川藤孝と折半して獲得している。一方で藤長の将軍への近侍以外の活動は三宝院との取次を務めているのが見えるのみで、残存史料による活動の憶測は難しい。義輝側近としての藤長の具体的活動が不明確な中、藤長への権益付与は三好氏との関係ゆえの後押しがあったとも考えられよう。藤長と「入魂」になった石成友通は教興寺の戦いの際、義輝を護衛しており、この行動も藤長との繋がりが一つの要因になっているとも考えられる。
(なお、細川藤孝が三好氏と政治的にどのような繋がりがあったのかは明確ではない。一方で『戴恩記』によれば、藤孝は三好長慶連歌会での態度を理想とし、自身も長慶を真似たことを語っている。また、刀剣の目利きとして著名な三好宗渭(後に三好三人衆の一人)の弟子とされ、天正18年(1590)に『三好下野入道聞書』としてその教えをまとめている。すなわち、藤孝は長慶とともに連歌会に出席したことがあり、三好宗渭と一定の頻度で会っていたことになろう。藤孝本人の政治的意志はともかくとして、傍目からは「親三好」と見られた可能性はある)

3 その後の一色藤長~三好氏との決別

 しかし、一色藤長と三好氏の関係は突如崩壊する。永禄8年(1565)5月19日三好氏の軍勢が御所を襲撃し、将軍足利義輝と多くの幕臣を討ち取ったのである。皮肉にも事件の発端に義輝に訴状を提出しようとしたのは石成友通であった。この時一色藤長が何をしていたのかはわからないが、どうやら非番で御所にはいなかったらしい。藤長不在という状況に作為があったのかどうかは不明だが、藤長は落命することはなかった。藤長は三好氏との浅からぬコネはあったと思われるが、これを利用せず、細川藤孝とともに足利義昭を将軍に擁立していく道を選ぶことになる。
 以降、一色藤長は足利義昭の側近として役割を果たしていく。幕府が再興されると、藤長の役割はさらに明確化されることになり、各地の大名との取次を務めた。一方で藤長の地位は義昭側近の中で突出したものでもなかった。
 そのような中、三好三人衆の一人として、反幕府活動の中心となっていた石成友通が元亀3年(1572)幕府方に寝返り、幕臣となった。かつて「入魂」関係を結んだ友通の幕府への寝返りに藤長が関係したのかはわからない。一方でこの時幕臣の中では、織田信長との提携を主張する細川藤孝織田信長との関係断絶を主張する上野秀政らの対立が起こっており、政争に敗れた藤孝は失脚する羽目に陥っていた。藤長の旗幟はまたも不明だが、親織田派ではなかったことは確かであろう。だが、元亀4年(1573)4月に織田家が義昭に提出した起請文では、藤長は側近衆の筆頭に位置付けられており、何らかの情勢の変化があったと見られる。あるいは、友通の存在や、3月に三好氏を赦免して幕府方に組み込んだことが影響したとも考えられようか。
 雲をつかむような話しかしてないじゃないかと我ながら思ってしまうが、一色藤長の動向や地位を探る際に、三好氏の存在というファクターは決して無視できないということを、『戦国遺文』の二文書が示しているのは確かである。木下論文が文書を見落としてしまったのは単純な手落ちであるし、石成友通との「入魂」関係を組み込んだ新しい一色藤長像(それは引いては義輝期室町幕府三好政権の解明に大いに繋がるものであろう)を期待する。

参考文献

戦国期政治史論集 西国編

戦国期政治史論集 西国編

足利義輝 (シリーズ・室町幕府の研究4)

足利義輝 (シリーズ・室町幕府の研究4)