志末与志著『怪獣宇宙MONSTER SPACE』

怪獣monsterのコンテンツを中心に興味の赴くままに色々と綴っていくブログです。

三好にまつわる小話集④

monsterspace.hateblo.jp
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篠原長房と十河一存の因縁
  • 『昔阿波物語』

一、上方より名人の兵法人式部と申人罷下、孫四郎師匠として兵法の稽古被成候、又阿波の国ハ内藤太郎兵衛と申人、新当流を教へ申候ニ付て、実休様も十河殿も惣家中衆も新当流を稽古被成候時、式部か申ハ「新当流ハ役ニ立間敷」と申ニ付、実休様の被仰候ハ「さらハ孫四郎と仕相を仕り候へ」と被仰候て、互にほくとうを取あけ、さうさもなく孫四郎仕勝候、其後十河殿ハ妙永寺と申法花寺御番にて御座候に、式部御見廻申上候所、十河殿御内に十河新左衛門と申侍在、其人に「なるまいか」と被仰出候へハ、無法の事とハ合点なく「たゝきれ」と被仰けると心得て、妙永寺の仏たんの前に式部か居申候を、新右衛門は寺のえんのかけより刀をぬきもちて、うしろから袈裟かけに式部を打ハなし候時、孫四郎殿腹を被立、十河殿を討果さんと被申候付て、二日之間に孫四郎方へ人数五拾騎集り候て、十河殿へ取かけ被申候時、実休様の御耳にたち候二付、孫四郎殿へ被仰候ハ、如何様よりも孫四郎腹のいかやうに可被仰付候間、堪忍仕候へと被仰出候、殊ニ十河殿ハ実休様の舎弟なるによつて、孫四郎かんにんなされ候、孫四郎ハ惣侍頭に被定候故に、御家中ハ不残人数あつまり候、十河殿へハ一人も不寄候ニ付て、実休様の御分別被成、其後司を弐ツに分て、三好山城殿へ半分被仰付候、

 『昔阿波物語』に語られる篠原長房と十河一存のいざこざ。「孫四郎」が篠原長房のことだが、実は長房の仮名が「孫四郎」とわかるのはここだけだったりする(長房の先祖や息子(長重)の仮名が「孫四郎」なので長房も「孫四郎」である蓋然性は高い)。『昔阿波物語』は三好実休のことを一貫して出家後の「実休様」と呼称するため、上記逸話もいつ頃なのかはわからないが、十河一存が阿波に在国していることや、長房が仮名であることから推すと、天文期後半頃と思われる。
 さて、上方から式部という名人の兵法人が長房の師匠となっていたが、阿波では内藤太郎兵衛が指導する新当流が主流で、三好実休十河一存以下家中の人間は皆新当流を学んでいた。これを式部は「新当流は役に立たないだろう」などと言うものだから、三好実休は「それでは長房と試合をしてみよう」と、互いに木刀で挑んだが、何事もなく長房が勝ってしまった。その後、十河一存は妙永寺という法華宗寺院(移転はしたが今でも徳島県に存在する)に御番としていたが、式部が見回りに来たところ、十河一族の新左衛門(新右衛門とも書かれておりどっちの表記が正しいのか不明)に「なるまいか」と語りかけ、新左衛門は「叩き切れ」と命じられたと解釈したので、仏壇の前に式部がいたのを縁側から刀を抜いて後ろから袈裟掛けに斬殺したのであった。
 当然のように長房は立腹し、こうなっては一存を討つ!と号令をかけたところ、2日で50騎もの味方が集まり、いよいよ一存を討ち取りに行くかという時、実休も騒動を聞きつけ「今後は長房の意向に沿うから何とか堪えてくれまいか」と宥めたので、一存が実休の弟であることもあって長房も手を引いた。実休は長房を侍頭に任じたが、御家中の侍たちは皆長房の旗下に集まり、一存には誰一人として近寄らなかった。これを見た実休は分別を以て侍たちを二手に分け、一方は三好康長に委ねた。
 この逸話が事実かどうかは何とも言えないが、阿波三好家の重臣トップツーが篠原長房と三好康長であったことや、十河一存が出身地のはずの四国にあまり寄り付かず、畿内でばかり活動しているのは史実として確かめられる。そういうわけで事実性を否定する材料もないので、少なくとも天正年間にはこのような長房あげ逸話が流布していたとは言えそうだ。
 ところで若松和三郎氏の著作でもこの逸話は紹介され、氏は篠原長房と十河一存の試合と解釈されているが、よく読むと「十河殿」が登場人物として登場するのは妙永寺の場面からで、実休が「試合をしてみよう」と言ったのだから試合をしたのは実休本人と読めなくもない。その場合、一存は兄の不名誉を雪ごうとしたとも言える。しかし、式部も「新当流は役に立たない」なんて公言するものではないし、一存の言葉を拡大解釈した十河新左衛門といい、全体的に「口は禍の元」の方が教訓として引き出せそうである。

篠原一族の受法
  • 『己行記』永禄4年12月26日条

一、同廿六日、篠原伊賀・同越前・篠原孫一郎受法、伊賀実子東村養子也、

 永禄4年(1561)後半から三好実休率いる阿波三好家と復権を期す畠山高政根来寺の戦いが始まるが、同年中はにらみ合いに終始していた。そんな中、実休より帰依を受けた日洸は足しげく阿波三好家の陣中に現れ、三好家臣たちに受法を行っていた。是非は別として、戦場という極限状況にて、未だ三好家を主君視していないだろう阿波・淡路国人らの紐帯を強めることと、日洸の布教活動の狙いが一致していたと言える。
 そしてその中には篠原一族もいた。12月26日には篠原伊賀守、越前守、孫一郎*1が受法している。篠原伊賀守は日洸に充てた書状が『己行記』の紙背文書として残っており、それによれば実名は「家政」という。「伊賀実子東村養子」は孫一郎を指す。それにしては東村名字で記されないのがよくわからないが、養子の約束をしていただけで養子入りはまだだったのかもしれない。後に三好義堅の重臣に見える東村備後守政定と孫一郎を同一視する見解もあるが、否定も肯定もできない。
 ちなみに篠原伊賀守の名は『昔阿波物語』にて篠原長房の遺児・松満の内衆にも見えるが、文書発給には姿を現さない。次項で触れる越前守政秀は松満を支える篠原一族として文書発給しており、上記記事でも伊賀守・孫一郎父子に越前守が挟まることから、越前守と伊賀守は近しい親族(兄弟か親子か)の可能性が高い。越前守を『昔阿波物語』は伊賀守家と認識していたのかもしれない。
 

篠原政秀の気悪
  • 『半井古仙法印療治日記』

一、篠原越前守卅余歳、観替リ無ク、常ニ気悪、時々眩暈・腰痛少時有、食ハ如形有、酒少宛呑、腎虚ト云医アリ、亦労療ト云医アリ、亦脾之虚ト云モ有、如此方々スル間ニ、早七八十日相観、今半足面少浮腫ス、眩暈前ヨリ繁シ、咽折々ツマリタル様之疾モ少有、此病只脾腎之虚也、嘉禾散ヲ用ニ一両日ニ少有験、脈虚弱心動半也、尚同前与ル及十日手足面之腫引、眩暈ナシ、廿日計ニ悉皆平癒也、如此観ニ嘉禾散使変、是亦当流之粉骨也、

 篠原越前守は長房戦没後にその遺児・松満を支える篠原一族に見える人物で実名を「政秀」という。上記記事の年代はわからないが、永禄年間から元亀年間のいずれかだろう。その頃に30代というから、世代としては長房より少し下にあたる。その篠原政秀だが、見た目は変わりないながら、常に気分を悪くしており、眩暈や腰痛もたまにあるという。ただし食べ物は普通に食べているし、酒だって少しは飲めた。医者たちの診断も腎虚、労療、脾之虚と様々で、そうこうするうちに70~80日も経つと、足が腫れて、眩暈も激しくなり、吐き戻す症状も少し見られた。この病気は脾・腎にパワーがないことによる。嘉禾散を処方したところ、一両日中に効き目があったものの脈は弱く、心の働きも半分くらいだった。なお同様に与えたところ、10日後には手足の腫れが引き眩暈もなくなった。20日後には平復した。
 ちなみに脾とか腎とか言っているのは漢方でいう五臓のことで、西洋医学脾臓や腎臓に対応するわけではない。政秀の病気は広くとると内臓疾患ということだろう。終わってみると嘉禾散を早く処方してやれよと思うが、医者の友達に聞いてみたら最初の症状だと経過観察になるのはおかしくないらしい(現代的な考えだが)。

篠原政安の諫言
  • 『昔阿波物語』

(略)庄野和泉か曖候時、篠原久兵衛ハ煩候て、殿の様子御存知なくニ付而、煩よくなり候て以後、被聞付候て被仰候ハ、「三好正安公ハ主君にて候ニ、弓を御引候てハ、天道いかゝニ候」と被仰、篠原右京進を讃州へつれ越、正安公へ御わひと申、讃岐ニ詰て御奉公被成候て、天正九年ニ早々正安公、阿波へ御帰被成候て、(略)

 篠原右京進(松満)は篠原長房の遺児にあたる。上桜合戦にて父と兄・長重が戦死した後、松満は母や弟たちとともに雑賀に亡命し、本願寺の庇護を受けつつ阿波へ復帰する機会を窺っていた。天正4年(1576)の三好長治の横死とその後の混乱を経て、天正6年に三好義堅(十河存保、上記では「三好正安」)が阿波三好家の当主となると、松満の復帰も実現し、元服して父の官途である右京進を称した。しかし、義堅と右京進には懸隔が未だあったようで、天正7年末に矢野房村・三好越後守ら阿波三好家の重臣が戦死すると、翌年正月に庄和泉守*2の調略によって右京進は反三好方の一宮成相に内通し、義堅は讃岐へ逃亡した。
 上記はその後の顛末で、庄和泉守が策動している間、篠原久兵衛は病気であったが、本復して右京進の動向を聞きつけると「義堅は主君なのに敵対するとなっては天道はどうであろうか(天罰が下るに違いない)」と言い、右京進を讃岐まで連れて行って義堅に詫びを入れ、主従関係を回復させた。これによって天正9年に義堅は阿波へ復帰した。
 実際にはここまで単純な話ではなく、近年の研究では天正8年に織田信長本願寺を屈服させたことで、本願寺の残党が四国に渡って勝瑞城を占拠、これによって長宗我部氏ら反三好方の阿波計略は行き詰まり、右京進の義堅への帰順も反三好方の退潮によるものと指摘されている。また、「篠原久兵衛」とは篠原久兵衛尉政安のことで、阿波三好家の奈良出兵の際は長房とともに活動し*3、長房戦没後は篠原遺臣の連署で日下に署名しているなど、松満を支える中心メンバーであった。政安が右京進へ強い影響力を持ち、義堅への帰順を主導したということ自体は十分にあり得る話と言える。
 ちなみに篠原久兵衛は上記の事件の約50年前にも確認できる。

篠原久兵衛、其外数輩 大永十〔七〕・七・六 三善〔好〕筑前令生涯

 大永7年(1527)7月6日に篠原久兵衛とその他数人が三好元長に殺害されている。通称の一致からこの久兵衛は政安の父か祖父にあたる人物であろう。久兵衛が殺害された直後の7月13日には足利義維の実名「義維」付与と「左馬頭」任官が実現している。義維の渡海・上洛は義維を推す元長と阿波守護家(細川讃州家)の宿老・海部氏の対立によって遅れており、義維任官直前の粛清であることから、この久兵衛は義維擁立に反対した、あるいは反元長派に通じたため殺害された可能性が高い。そうであれば、政安が説いた「主君と敵対しては天罰が下る」というのは父祖の横死から得た実感の籠った諫言であったのかもしれない。

*1:「猪一郎」という翻刻もある

*2:『昔阿波物語』以下、庄野氏と書かれるが、「庄野右近」が一次史料では「庄右近丞村継」と署名することから、細川被官を出自とする庄氏と見た方が良い。名前を「しょう・の~」と読んだため、後世に「庄野」と誤解されたのだろう

*3:『戦国遺文 三好氏編』には未収だが「春日大社文書」に「篠久兵政安」の発給文書が数点確認できる