いきなり個人的な昔話を語って申し訳ないが、私が「三好三人衆」を知ったのは小学4年生の頃であった。学研だったかの教材に三英傑が主人公の歴史漫画が掲載されており、織田信長の上洛戦の時に「松永久秀と三好三人衆が将軍を暗殺した」という下りがあったのが、最初の出会いとも言い得るものである(ちなみに久秀は髭面の悪人顔で三好三人衆は全員シルエット登場だった)。まあそれはともかくとして名前が出てる松永久秀はともかく三好三人衆って誰だよと思うと、コマの外に(三好三人衆…三好長逸、三好政康、岩成友通)とあった。ちなみに三好長逸というのは「ながゆき」とされることもあるが「ながやす」と読むのが正しいし、三好政康とされる人物の実名は政勝→政生で政康というのは間違い、岩成も石成と書くのが穏当である(←早口で言えれば君も三好マスターだ!)。それはともかく、この名前の並びを見て私は、と言うか誰でも初見時には感じると思うが「そうか、三好三人衆は三好名字の三人が…って岩成って何だよ!?」と思ったのである。そもそも岩成ってそんな名字聞いたことがない…*1。石成友通を「謎の人物」と見なしてしまうには足りる情報量だった。
そして、実際の石成友通も意外とヴェールに包まれた人物であった。本記事がそのような石成友通の実像に近づければ幸いである。
- 姓名と謎の出自
- 石成友通の登場
- 三好政権の中の石成友通
- 三好三人衆の一人・石成友通
- 三好三人衆の没落と反攻
- 最後の山城守護・石成長信
- 石成友通とは何だったのか
- 付録 元亀3年(1572)石成長信関係史料
- 参考文献・論文
姓名と謎の出自
石成友通の名字は「岩成」と書かれることも多いが、同時代における呼称は、自称はもちろん他称も「石成」が多い*2ため「石成」と書くのが妥当と考えられる。官途名は一貫して「主税助」である。仮名は不明だが「力介」と称されることがあり、これは官途名「主税助」の誤記か通用と見られるが、あるいは仮名と官途名の読みが同じであったのかもしれない。実名「友通」は「左通」「古通」と書くものもあるが、いずれも「友通」の誤記であろう。なお、元亀元年(1570)には「石成主税助長信」の署名が見られる。花押も異なっているため、この石成長信は友通の後継者(息子)である可能性も考えられる。しかし、事情は後述するが本記事では元亀元年(1570)以降の石成主税助長信も友通と見なすことにする。
石成氏の出自は謎である。「石成」という地名は大和国や筑前国などに確認されるが、多くは「いしなり」と訓じる。「石成」と書きつつ「いわなり」と読む地名は備後国石成庄(岩成庄)のみであり、友通あるいはその祖先の出身地に比定される。しかし、出身地が備後国だったとして現地でも有力国人ではない石成氏がいかに京都近郊に進出し三好氏に仕えたのかは全く不明である。あえて考えれば応仁の乱の折に守護山名氏の動員を受けたのであろうか。
石成友通を巡る人脈でさらに奇妙なのは、石成名字を共通させる親族がほとんどいないことである。石成友通と同じように三好政権下で出世を遂げた来歴不明の家臣には松永久秀や松山重治がいる。松永久秀は久秀以前には零細国人だったと見られるが、弟長頼(後の内藤宗勝)や甥に松永孫六が確認され、他にも松永秀長など松永名字を共通させる親族が多くいた。出自不明である松山重治も松山守勝、松山広勝などが三好氏・松永氏に仕えており、彼らは重治の親族と考えられる。こうした松永久秀、松山重治と比べると友通には親族の影があまり窺えない。唯一「石弥盛友」が「岩成弥介」(『信長公記』)である可能性がある。「石弥盛友」は友通の意志を代弁する上「友」を実名に共通させる。彼が石成一族である可能性は高く、本記事では石成弥介盛友と認定する。また、永禄11年(1568)9月11日には「石成兵部少輔」という人物が友通とともに見える(『言継卿記』)が、兵部少輔の素性は全くの不明である*3。
なお、友通は『細川家記』によると享年43歳だったという。これを信じれば享禄4年(1531)生まれということになる。
※『戦国遺文 三好氏編』における石成友通の呼称リスト
『戦三』番号 | 文書名 | 年次 | 呼称(比定) | |
参考28 | 小畠正隆書状写 | (天文22年)6月23日 | 岩成殿 | |
二一〇四 | 石成友通書状案 | 天文19年12月5日 | 石成主税助友通在判 | |
四八七 | 松梅院書状写 | (弘治3年10月16日) | 石成主税助 | |
七九八 | 社務執行宝寿院常泉書状案 | (永禄5年)1月13日 | 石成主税助殿 | |
参考80 | 大館晴光書状案 | (永禄5年)5月26日 | 石成 | |
八六六 | 松永久秀書状 | (永禄5年)12月20日 | 石主 | |
八六九 | 松永久秀書状 | (永禄6年)1月29日 | 石主 | |
八七二 | 松永久秀書状 | (永禄6年)2月4日 | 石主 | |
八九四 | 松永久秀書状 | (永禄6年)6月23日 | 石主 | |
九一〇 | 石成友通書状 | (永禄6年)7月28日 | 友通(花押) | |
九一七 | 松永久秀書状 | (永禄6年)8月8日 | 石主 | |
一〇〇一 | 安宅冬康書状写 | (年未詳、永禄7年まで)2月13日 | 岩成主税介殿 | |
一〇一七 | 三好長慶書状 | (年未詳)2月1日 | 石成御代官 | |
一一二二 | 大用庵宗睦等連署申状案 | 12月15日 | 石成方 | 三好筑前守殿 |
一一五五 | 石成友通書状 | (永禄8年)6月3日 | 友通(花押)石成主税助友通 | |
一一七五 | 石成友通書状写 | (永禄8年)7月20日 | 石主友通 | |
一二〇四 | 石成友通書状 | (永禄8年)10月16日 | 友通(花押) | |
一二一四 | 三好長逸等連署禁制 | 永禄8年11月 | 主税助(花押) | |
一二二八 | 三好三人衆禁制 | 永禄8年12月 | 主税助(花押) | |
一二二九 | 三好三人衆禁制 | 永禄8年12月 | 主税助(花押) | |
一二三三 | 石成友通書状 | (永禄9年)2月2日 | 友通(花押) | |
一二三六 | 石成友通書状写 | (永禄9年)2月30日 | 友通判 | |
一二三七 | 石成友通書写 | (永禄9年)2月30日 | 石主友通在判 | |
一二四六 | 石成友通書状案 | (永禄9年)3月15日 | 石主友通在判 | |
一二六一 | 三好宗渭・石成友通禁制 | 永禄9年4月 | 主税助(花押) | |
一二六五 | 石成友通書状 | (永禄9年)5月12日 | 友通(花押) | |
一二七〇 | 三好義継書状 | (永禄9年)5月23日 | 石成主税助 | 宝寿院 |
一二七二 | 三好義継書状 | (永禄9年)6月19日 | 石成主税助 | 本能寺 |
一二七九 | 三好三人衆起請文 | 永禄9年7月9日 | 友通(花押) | |
一二八三 | 林勘介書状写 | (永禄9年)7月26日 | 石主 | |
一二九八 | 石成友通書状 | (永禄9年)9月21日 | 友通(花押) | |
一三〇六 | 三好三人衆連署奉書写 | 永禄9年11月7日 | 石成主税助友通判 | |
一三一〇 | 諸寺代妙満寺・要法寺連署状案 | (永禄9年)11月27日 | 石成主税助殿 | |
参考105 | 某書状案 | ナシ | 石倉部 | |
一三二二 | 三好義継書状 | (永禄10年)2月28日 | 石成 | |
一三二三 | 三好義継書状 | (永禄10年)2月28日 | 石成 | |
一三二六 | 三好康長等連署状案 | (永禄10年)3月3日 | 石主 | |
参考107 | 宝輪院宗秀・宝厳院亮祐連署状写 | (永禄10年)3月5日 | 石成 | |
一三二七 | 和久宗是書状 | (永禄10年)3月6日 | 石主 | |
一三四〇 | 石成友通書状 | (永禄10年)3月28日 | 友通(花押) | |
一三六一 | 三好三人衆書状 | (永禄10年?)8月18日 | 石主友通(花押) | |
一三六六 | 山科言継書状写 | (永禄10年)10月1日 | 石成主税助殿 | |
一三七〇 | 三好盛政書状案 | (永禄10年)10月17日 | 石主 | |
一三七一 | 三好康長等連署状案 | (永禄10年)10月21日 | 友通・石主 | |
一三七二 | 三好康長等連署状案 | (永禄10年)10月23日 | 石主 | |
一三七三 | 三好康長等連署状案 | (永禄10年)10月28日 | 石主 | |
一三九三 | 山科言継書状写 | (永禄11年)3月23日 | 石成主税助殿 | |
一三九五 | 三好三人衆連署禁制 | 永禄11年3月 | 主税助 | |
一三九六 | 三好三人衆連署禁制 | 永禄11年3月 | 主税助(花押) | |
一四〇六 | 石成友通書状案 | 永禄11年5月11日 | 石成主税助友通判 | |
一四一三 | 山科言継 | 永禄11年6月22日 | 石主 | |
一四八四 | 石成友通書状写 | (永禄13年)4月22日 | 石城主税助友山在判 | |
一四八九 | 石成長信書状 | (元亀元年)6月28日 | 長信(花押) | |
一四九一 | 三好長逸等連署状 | (元亀元年)8月2日 | 石成主税助長信(花押) | |
一六一七 | 織田信長朱印状 | (元亀3年)1月26日 | 石成主税助殿 | |
参考124 | 織田信長黒印状 | (元亀4年)2月23日 | 石成 | |
一六六六 | 石成友通書状 | (年未詳)2月5日 | 石成主税力介友通(花押) | |
一六六七 | 石成友通書状写 | (年未詳)4月5日 | 石成主税助友通(花押影) | |
一六六八 | 石成友通書状 | (年未詳)5月29日 | 石成主税助友通(花押) | |
一六六九 | 石成友通書状 | (年未詳)6月1日 | 友通(花押) | |
一六七〇 | 石成友通書状 | (年未詳)6月3日 | 友通(花押) | |
一六七一 | 寺町通以等連署状 | (年未詳)6月13日 | 石成友通(花押) | |
一六七二 | 石成友通書状 | (年未詳)6月26日 | 友通(花押) | |
一六七三 | 石成友通書状 | (年未詳)7月28日 | 友通(花押) | |
一六七四 | 石成友通書状 | (年未詳)11月27日 | 石成主税助友通(花押) | |
一六七五 | 石成友通書状 | (年未詳)12月25日 | 友通(花押) | |
一六七六 | 石成友通書状 | (年未詳)12月27日 | 石成主税助友通(花押) | |
一六七七 | 山科言継書状案 | (年月日未詳) | 石成主税助殿 | |
一八一一 | 松永久秀書状 | (年未詳)11月25日 | 石主 | |
二〇六三 | 鳥養宗慶書状 | (年未詳)5月12日 | 石成主税助殿 | |
二一二八 | 三好長慶書状 | (年未詳)2月13日 | 石力 |
石成友通の登場
石成氏の出自は謎に包まれているが、友通以前の経歴が全く確認されないわけではない。『東寺百合文書』所収の永正13年(1516)室町幕府奉行人奉書によれば、下司の「岩成」が東寺領の西九条を押領している。この「岩成」は荘園代官であったようである。さらに、享禄元年(1528)には三好元長旗下で葛野郡代を務めた塩田胤光が、山城国における正覚院分を「岩成」に与えることを東寺に通知している(『戦三』一〇〇)。「岩成」は三好氏の従属勢力となったと思しい。これらの「岩成」が石成友通その人かは不明だが、本人でなくてもその直接的前身にあたる人物ではあろう。
しかし、三好元長が享禄5年(1532)に戦死したせいか、石成氏の動向もまた見えなくなってしまう。石成氏は三好氏と被官関係を結んだが、そのせいで京都でも振るわなくなってしまったのだろうか。
また、三好氏は京都進出を図って、之長の時代から西岡国人の竹内氏や鶏冠井氏と関係を結んでいた。三好方の西岡国人は元長時代にいくつかの氏族が確認できる(『戦三』参考8、七三)が、その中に石成氏は見えない。この段階の石成氏は三好方の京都在住者ではあったが、西岡とは縁がなかったか、領主以下の存在であったようである。
京都とその周辺の勢力をめぐる領主・国人の争いは両細川の乱や細川氏内部の争いとも連動していた。洛外の勢力が洛中進出を狙って復権を狙う細川澄元・晴元と結ぶと、洛中の勢力は細川高国やその残党を支持することで対抗を図る。西岡国人を始めとする洛外の勢力も晴元と結んで一致団結するのではなく、その旗下である三好元長や柳本賢治と個別に関係を結び対立を深めていた。細川高国が滅び、元長や柳本氏が没落に追い込まれると一旦はこの争いが止揚され、洛中洛外の勢力は晴元の下に一元化されたかに見えた。
ところが、高国に親しい勢力は残党となって未だ潜伏状態にあった。高国派残党の部将である細川国慶は京都周辺の流通を握る領主である今村慶満や津田経長、小泉秀清らを独自に編成し、細川氏綱の乱の最中の天文15年(1546)京都から晴元方を追うと、独自の京都支配を志向する。国慶の目的は軍事に傾いてはいたが、京都の都市共同体と直接に交渉を持ち、西岡地域の勝竜寺城を占拠することで、在地を基盤とする新たな支配体制の原型を作った。国慶は天文16年(1547)に戦死するが、腹心であった今村慶満が中心になることで、洛中と洛外を結びつける支配体制は細川氏綱政権、三好政権へと継承され、統治論理として定着していく。
こうした状況が現出しかけていた時代に石成友通は初登場を果たす。その初見は天文19年(1550)12月北野社の大工職の相論において大工職の照会を行っているものである(『戦三』二一〇四)。天文20年(1551)11月には津田宗達の茶会に松山重治とともに出席している(『天王寺屋会記』)。天文末年から三好長慶の側近・家臣としての活動が見られるようになるが、友通の立場は当初より側近であり、史料に現れる最初から一定の立場を得ていた。恐らく天文年間から友通は側近として存在していたが、長慶の立場が上昇することで史料に残る範囲に名が残るようになったのであろう。長慶の側近にいかにしてなったのかは今一つわからず、今後の史料発見に期したい。なお、『細川家記』の年齢を信じるなら天文19年(1550)の友通は20歳でかなり若い。
三好政権の中の石成友通
石成友通は史料上における初見からすでに三好長慶の側近であった。その具体的な役割とは何だったのか。友通は長慶への取次を務めており、松永久秀らとともに芥川山城にも居住していた(「北野社家日記」)。しかし、その一方で長慶の文書に友通が取次者として登場するものは1通しかなく、久秀や三好長逸のように裁許を広く管掌していたわけではない。天文末~弘治にかけての友通の立場は側近という言葉以上の具体性は帯びるものではない。軍事的には天文23年(1554)9月18日丹波守護代内藤国貞が敗死した際「岩成」戦死の報も流れており(『言継卿記』)、この「岩成」は友通だとしたら虚報で、あるいは友通の親族か。石成氏が三好方の特筆すべき大将であったことがわかる。
そうした友通の立場は永禄元年(1558)頃から輪郭がはっきりするようになる。長慶によって追放されていた足利義輝が永禄改元の不通知に怒って挙兵すると、長慶は対抗のため京都に派兵する。こうした中長慶は独自の編成を取るようになる。石成友通、寺町通昭、松山重治を「三人衆」として京都の庶政を担っていた伊勢貞孝に付属させ戦わせたのである(『厳助往年記』)。伊勢貞孝とこの「三人衆」は6月2日から7日にかけて将軍山城を占拠したり自焼したりしている。結果的に6月9日の合戦やその後の小競り合いでは松山重治や寺町通昭の部下が戦果を挙げたようで、友通は目立たなかったが、長慶から期待を寄せられたのは事実であろう。なお、後の話ではあるが、永禄5年(1562)5月の教興寺の戦いでも三好方の主だった大将として「松山・寺町・石成」が連続して挙げられているものがある(『戦三』参考80)。この3人で組ませることには何らかの意味があったのであろうか。和平の機運が高まると、9月13日に友通は敵方の大将の一人である三好政生と吉田兼右邸で会合を持っている(『兼右卿記』)。三好方の和睦交渉担当者であったのかもしれない。結果的に三好政生は主君である細川晴元から離反して三好方の部将となるので、この経緯に友通と政生の友情を見出すのも不可能ではない。
将軍足利義輝との和睦が成立し、幕府が京都に戻って来ると、三好方と幕府との間の中で友通の名が散見されるようになる。永禄3年(1560)2月6日に義輝が参内すると三好義興と松永久秀も義輝に伺候しているが、この参内の警固役を務めたのは友通に寺町通昭、狩野宣政、篠原左近大夫の4人であった(「伊勢貞助記」)。永禄4年(1561)3月の足利義輝の三好邸御成の際にも友通は篠原、塩田、牟岐、野間、加地、鳥養、寺町、奈良らとともに太刀を献上している(『三好筑前守義長朝臣亭江御成之記』)。永禄5年(1562)3月6日三好氏に保護された足利義輝が六角氏の攻勢から逃れ石清水八幡まで退くが、この時の警護も友通が勤めている(『長享年後畿内兵乱記』)。
友通は三好氏の幕府への正式な取次ではなかったが、一定の存在感を有していた。どのタイミングかは不明だが、三好長慶は義輝の側近である一色藤長と友通が「入魂」であることに期待を寄せている(『戦三』二一二八)。友通には独自の幕府へのコネクションがあり、それは恐らく幕府からも三好からも利用価値があるものであったのだろう。
内政面においては年次は不明だが、三島や柱本で洪水が起きた際は鳥養宗慶が取次となりつつ、友通と寺町通昭、北瓦長盛、米村治清の4人が連署状を発給して対処にあたっている(『戦三』一六七一)。鳥養宗慶の書状の宛先となっているのは友通と寺町通昭である(『戦三』二〇六三)ため、この2人が中心であったらしい。具体的にはよくわからないが、文書には「みよし殿三奉行衆」と付箋があるため、在地には奉行人としての認識があったようだ。北白川の戦いの際の「三人衆」と2名(石成友通・寺町通昭)が共通するため、内政と軍事共同の何らかの固定組織があった可能性もある。後考に俟ちたい。
次に政権内部の中で重要なのは松永久秀との関係であった。久秀はもともと三好政権の宿老として芥川山城に居住することもあったが、永禄3年(1560)以降三好家が大和を領有すると、大和国の統治者として三好政権の中枢から物理的に離れることになる。久秀としては芥川山城との連絡手段が新たに必要となったのである。久秀は永禄6年(1563)には三好長逸、石成友通、寺町通昭を宛先として書状を出している(『戦三』八六九)。この3名は芥川山城に出仕していた三好家臣であった。久秀はこの3人で三好義興の居城である芥川山城を代表できると考えていたのだろう。しかし、その後久秀は芥川山城の様子を探るための文書は全て石成友通1人に宛てるようになる(八九三・八九四・九一七)。これは友通が久秀への取次として一本化されたことを示唆している。友通は大和国人柳生氏の進退にも関わり、丹波国内の権門領について内藤宗勝と連絡を取るなど、三好政権の中枢にあってその内部関係を調整していたが、久秀との取次になったことはその極致とも言い得る*4。
石成友通の存在は三好政権内部において必ずしも突出しているわけではなかったが、永禄以降幕府や松永久秀との関係の中で徐々に重臣としての格が備わって行ったと言えよう。
その他の友通の特筆される事象としては、教興寺の戦い後信貴山に逃げ込んだ根来寺岩室坊を追尾し討ち取った(『長享年後畿内兵乱記』)ことや、「保昌五郎」の刀剣を所持していた(『三好下野入道口聞書』)ことがある。軍事や文化面においても疎いということはなかったのである。
三好三人衆の一人・石成友通
三好政権の中順調にキャリアを積んでいくかに見えた石成友通であったが、政権自体に暗雲が漂い始める。永禄6年(1563)に三好義興が若くして死を遂げると、翌永禄7年(1564)には長慶が亡くなってしまう。他にも政権重鎮がこの時期までに死亡か引退しており、三好政権は長慶の養嗣子・義継を立てて世代交代を穏便に行う必要性に迫られたのである。
しかし、この過程も一筋縄には行かなかった。永禄8年(1565)5月義継は将軍足利義輝に出仕し、三好氏の当主にふさわしい栄典を受けた。ところが、この時三好氏と幕府との間でトラブルが発生したようで、19日早朝三好方は義輝へ重要な幕臣の排除を求めた。訴状を提出したのは鉄砲隊を引き連れた「イワナリ」だったという(『フロイス日本史』)。石成友通は幕府との関係において一定の地位があったから、これが重視された起用だったのだろうか。だが、足利義輝は三好方の要求を拒否したため、三好方は軍事行使に及び義輝や数多の幕臣が討ち取られた(永禄の変)。結果的に幕府は一時的に消滅した。変の翌20日に友通は三好宗渭や長松軒淳世とともに義輝の妹である宝鏡寺理源を訪問している(『言継卿記』)。なお、理源の叔父であり、友通と「入魂」であった幕臣一色藤長は偶然かあるいは友通による配慮か存命した。ただし、藤長はその後足利義昭擁立派となったため、友通との「入魂」関係は清算されたことだろう。
さらに政権の課題となったのは松永氏との関係であった。永禄の変には久秀の子である松永久通が参加していたが、久秀本人は大和にいた義輝の弟・一乗院覚慶(後の足利義昭)を保護し微妙なスタンスの違いを見せる。しかし、8月には久秀の弟で丹波を抑えていた内藤宗勝が戦死すると、三好氏による丹波支配は強く動揺する。さらには久秀が保護していた覚慶が近江に脱出し、旧幕臣たちに擁立されるに至る。
こうした危機に対応すべく、三好政権内部では松永久秀を排除する形での再編が目指されることになる。『細川両家記』によると、永禄8年(1565)秋頃(7~9月)から三好長逸、三好宗渭、石成友通の3人が「三人衆」を名乗りだしたという。三好三人衆である。このうち、三好長逸は松永久秀と並ぶ三好政権の宿老であり、三好宗渭も有力な三好一門であった。それでは、重臣であったとは言え、三好一族でもなく突出した重臣でもない友通はなぜ三人衆の一角たり得たのか。
基本的には松永氏との関係が大きいと考えられる。友通は久秀との取次であると同時に大和国人や丹波情勢に関与することがあった。本来的には友通は松永与党として活動が期待されていたとも言えよう。しかし、芥川山城の有力者である友通が久秀に味方してしまえば、三好長逸にとってはのど元に刃物を突き付けられたような状態となる。長逸はこれを防ぐべく友通を先に取り込んだのだろう。友通にとっては斜陽の松永氏に入れ込むよりは、三人衆の一角となり松永氏の権益を自分に認められることがさらなる飛躍となると考えたに違いない。実際、三人衆と久秀の決裂直前の10月26日付で友通は丹波情勢や久秀との不通を報告し、久秀旗下の柳生氏、井戸氏、楠木氏に調略を試みている(『戦三』一二〇四)。久秀との絶交やその旗下の国人へ調略を行い得たのは友通だったのである。なお、この頃から友通と活動を共にすることが多かった寺町通昭は姿が見えなくなるので、友通が単身三人衆にのし上がったのは通昭の不在とも関係するのかもしれない。
11月16日友通ら三人衆は1000ほどの軍勢で飯盛山城を占拠し、長松軒淳世と金山長信を殺害することで、主君義継へ久秀排除を迫る(『多聞院日記』)。義継にノーの選択肢はなく、ここに義継を戴く三人衆と松永久秀は戦争状態に突入した。政権から排斥された久秀には久秀と関係の深い細川氏綱旧臣や越水城の三好家臣が味方し、久秀は足利義昭与党や畠山氏と連繋することで事態を打開しようとした。しかし、永禄9年(1566)2月17日に畠山氏が上芝で大敗を喫し、5月30日にはその残党をまとめようとせんとする久秀も失踪する(『細川両家記』)。三人衆の勝利はほぼ確定し、夏頃には畿内和平が実現していく。
石成友通の軍勢は上芝の戦いで首14を取っている(『細川両家記』)。この数は三好本宗家側の軍勢の中では義継の軍勢が首を44、中村新兵衛の軍勢が首を17取ったのに次いで多い。友通の軍勢が他の諸将と比べて多かったとは思われないので友通の戦意が高かったのだろう。また、5月や6月には三好義継の寺社への文書に友通が取次として見える(『戦三』一二七〇・一二七二)。友通は長慶段階より着実に地位を上げていた。
ところで、西岡から洛中まで睨む支配拠点であった勝竜寺城は松永久秀に味方していた。かつて細川国慶に仕え、三好政権時代にかけて勝竜寺城からの支配を支えた今村慶満は永禄5年(1562)に死去しており、久秀と関係の深い竹内季治が西岡国人を糾合して挙兵したようだ。勝竜寺城は摂津と山城の境目に位置する拠点城郭であり、三人衆が京都を確保するためには攻略しなければならない城であった。ただ、物集女久勝や鶏冠井氏ら一部の西岡国人は三人衆に味方しており、西岡国人は一枚岩ではなかった。
三人衆方は4月に勝竜寺城に付城を築くなど長期戦の構えだったようである(『戦三』一二五九)。これを受けてか5月には松永方であった志水氏らが三人衆に投降する。圧力の結果と他の松永方の屈服を見て、7月17日に勝竜寺城は落城、翌18日に淀城とともに三人衆に引き渡された(『永禄九年記』)。足利義昭は7月18日付で伊賀の仁木長頼から勝竜寺城への加勢について同意を得た(『戦三』参考101)が、奇しくも同日に意味がなくなってしまった。
そして、淀城を受け取ったのは三好長逸の家臣・金子氏であったが、勝竜寺城を受け取ったのが友通であった。淀城はかつて細川氏綱の居城であり、城に籠った多羅尾綱知が「守護代」(『細川両家記』)と称されるなど、守護所としての地位を得ていた。勝竜寺城を淀川に挟んで対岸に位置し、淀川流通を掌握せんとしていた。しかし、長逸は淀城を利用せず、廃城となったようである。
一方、勝竜寺城は友通によって活用されることになる。友通は勝竜寺城を居城とし(『戦三』一二九八)、没落した松永方の所領を収公、今後は友通が西岡の所領を申し付けると宣言した(『戦三』一三二七)。これまでの西岡地域支配は細川国慶を主君と仰いだり、今村慶満が中心人物となることはあったが、基本的に連署状で勝竜寺城を中心とする意志が示されていた。国人衆の一揆的結合により地域支配がなされていたわけだが、友通は横の繋がりによる支配を縦の繋がりによる支配に変換しようとしたのである。そして、その体制はその後西岡国人が友通に従っているように一定の奏を功したと評価できる。勝竜寺城という空間と細川国慶の後継者である玄蕃頭を名目上担いだ効果もあるが、友通の実力も無視されてはならない。
三人衆によって平定されつつあった畿内だったが、永禄10年(1567)2月三人衆の主君であるはずの三好義継が松永久秀を支持すると、義継・久秀との戦いと言う形で戦乱は再燃に至る。友通は河内・大和方面に転戦し、活動を続けることになる。ところが、この時友通は事件を起こしている。友通の部下で弓削庄を知行していた郡兵大夫が領主である法隆寺へ年貢を滞納しており、法隆寺は三人衆に抗議したのである。事態を重く見た三人衆は三好長逸、三好康長、篠原長房、川人雅長ら要人が総出で、長慶の先例を元に友通へ法隆寺への寺納を迫った(『戦三』一三七一・一三七二・一三七三)。しかし、友通は捕まらず、石成盛友は郡兵大夫と連絡が取れない、友通は不在、日照りで年貢が足りないなどと言い訳を繰り返した(「法隆寺文書」)。
この事件の直前の10月10日奈良に布陣していた三人衆は松永久秀の奇襲を受け一時的に撤退を余儀なくされた(東大寺大仏殿の戦い)。三人衆としては大和の有力寺社である法隆寺に配慮することで大和での劣勢を挽回しようとしたのであろう。一方の友通の立場とは…。郡兵大夫は松山重治に仕えてたともされ(『太閤記』)、同族の郡次郎左衛門尉は細川藤賢に従っていた(「高徳院文書」)。こうして見ると、郡氏は本来松永陣営に近い。友通に従っているのは、従うことでの利益が大きかったからであろう。そして、有力な一門や部下に事欠く友通にとって兵大夫は必要な人材であったのだろう。兵大夫に反発され、部下から去られることに大きな危惧を覚えたのだろう。
三好三人衆の一人に加えられたことで、友通は畿内政局の第一人者となった。松永方に勝利することで勝竜寺城主となり、西岡地域の領主となった。友通はそれ以前にまとまった所領も居城も確認できないので、これは明らかな勢力伸長である。友通はようやく「大名」たり得る存在になったと言えるだろう。その一方で友通の力には限界もあり、部下を繋ぎとめるために他の有力な同僚と対立する局面もあったのである。
三好三人衆の没落と反攻
三好三人衆は永禄11年(1568)夏頃までは種々の不確定分子を抱えながらも、反三人衆勢力に対しては優位に立ち、京都・畿内支配の第一人者として公認・支持されていた。しかし、その優位もやがて崩れる時がやって来る。
反三人衆として権威の面で大きな力があった足利義昭は強力な与党勢力を募ることが出来ないでいた。そうしたところ、早くから義昭を支持していた尾張の大名・織田信長が美濃の大名で三人衆と親しかった一色義紀を下す。義昭と信長が結びつくことにより、義昭の上洛戦の可能性は大きく開けたのである。
友通ら三好三人衆は8月17日近江を訪れて、六角承禎と「天下之儀」を談合し、六角氏を味方につけることに成功した(『言継卿記』)。織田信長を中心とする幕府軍は9月に西上を開始し、六角氏の観音寺城と対峙する。友通は9月10日六角氏への援軍のためか坂本まで軍を率いて出向いたが、11日には引き返している(『言継卿記』)。9月13日までに幕府軍は観音寺城の支城を落としたため、六角承禎・義弼父子は観音寺城を放棄し甲賀へ退いた。もはや幕府軍が上洛する障害はなかった。こうして9月末には足利義昭・織田信長が入京する。
しかし、それは幕府軍がすんなりと摂津や河内に侵入できる環境が整ったことを意味しない。山城・摂津の境目に位置する勝竜寺城はかつて永禄5年(1562)京都を占拠した六角氏のそれ以上の南・西への攻勢を防いでいた。幕府軍が畿内を平定できるのかどうかはまさに勝竜寺城の攻略如何に依っていたと言える。
勝竜寺城を守る石成友通は細川玄蕃頭とともに城に籠り(「足利義昭入洛記」)、幕府軍を迎え撃つことになった。ところが、幕府軍が西岡を放火すると、勝竜寺城は妥協に転じ和睦が結ばれて城は明け渡され、友通は没落した。結果的に勝竜寺城はあっさりと幕府軍の手に落ち、ドミノ倒しのように三人衆・阿波三好方は拠点城郭を捨てていった。幕府軍はすぐに畿内を形式上平定し、10月18日には足利義昭が将軍となる。幕府は義昭幕府として再興されるのである。
勝竜寺城があっさりと陥落したことが、幕府軍が短気に畿内を平定できた最大の要因であったことは間違いない。一体何があったのか。鍵となるのは幕府軍による西岡への放火の結果「和議」が結ばれたということである。勝竜寺城は一方的に落城したわけではなく、徹底抗戦より和平に傾いた結果明け渡されたのである。つまり、西岡が蹂躙されたことが、城衆が和平に傾いた理由であった。城を保っても領地や居館が破壊され尽くしては意味がない。逆に尾張や美濃の軍勢を中心とする幕府軍には西岡との直接的利害関係がなく、放火へのハードルが低かったと思われる*5。友通からすれば西岡国人を掌握することに成功していたことが裏目に出た格好であった。
ただし、三人衆がそのまま引っ込んでいるわけではなかった。織田信長が美濃へ帰国し、松永久秀が信長に会うため畿内を留守にすると、12月下旬三人衆や三好康長は畿内へ再び渡海し、家原城を攻略すると翌永禄12年(1568)1月初頭に京都まで一直線に駆け上り足利義昭を襲撃した(本圀寺の変)。この襲撃は義昭幕府によって承認された畿内の守護層が三人衆に呼応しなかったことから失敗し、三人衆は再び阿波へ引き上げたが、義昭幕府は京都防衛策が喫緊の課題であると実感することになった。
なお、この時『御湯殿上日記』は三人衆の軍勢を「いはなり」と呼称している。幕府軍に三好義継がいるので混同を避けた表記かもしれないが、友通が中心人物という認識で見ても興味深い。また、本圀寺の変で石成盛友は戦死している(『信長公記』)。
話を戻すと、義昭幕府の防衛策とは畿内における拠点城郭の山城から平城への移転を促したことであった。芥川山城には幕臣和田惟政が入り、三好義継は長慶以来の飯盛山城を維持していた。また、友通が去った勝竜寺城は活用されておらず空になっていたと思しい。ところが、永禄12年(1569)頃を境に和田惟政は高槻城、三好義継は若江城に移り、勝竜寺城にも幕臣細川藤孝が配される。いずれも流通に深く関与する平野部の城であり、三人衆が京都まで攻め上る障害として機能するのである。かくして三人衆は一気に反攻するのではなく、地道な戦略を迫られることになった。
元亀元年(1570)義昭幕府から浅井氏が離反すると、三人衆は摂津池田氏家中を分裂させて摂津への足掛かりを再び掴む。大阪湾沿いの野田城・福島城を要塞化して、阿波の軍勢とともに反攻に乗り出すのである。こうした中、石成友通は石成長信として再登場を果たす。長信も「石成主税助」であるが、花押は友通とは異なっている。これだけを見ると、長信は友通の後継者である可能性もある。しかし、石成長信は「知斎」も称しており、「知斎」は永禄12年(1569)にも出現しているのである。三人衆が盟主としていた細川六郎が永禄12年(1569)*6閏5月7日付で丹波国人の荻野直正に助力を依頼した書状の取次者として「知斎」が見えるのである(「赤井龍男氏所蔵文書」)。元亀2年(1571)の話になるが、物集女氏(久勝?)ら三人衆方の西岡国人は丹波に籠って反攻の機会を狙っていた(「松井家文書」)。荻野直正への取次として「知斎」が現れるのは友通に従い丹波に逼塞していた西岡国人を直正に連繋させようとする試みに他ならない。よって、石成友通=「知斎」=石成長信である。
長信という実名の由来はよくわからない。「長」は三好氏の通字であるので、三好一門並に認められたのかもしれない。「信長」を引っくり返す格好の名前になっていることに意味があるのかどうか、示唆的とは言っておく。
野田・福島の戦いは三好為三が離反し、幕府軍に包囲されるなど三人衆には苦境であった。そこへ9月13日に本願寺が一揆を扇動して蜂起し、篠原長房が阿波から大軍を率いて駆け付けると一気に形勢は逆転する。本願寺が三人衆に味方した理由は今一つ定説を見ないが、かつて長信(友通)は永禄11年(1568)奈良に本願寺の道場を作ろうと企図したことがあった(『二条宴乗記』)。本願寺の長信への評価は高かったのかもしれない。結局、織田信長は12月三人衆との間に妥協し、和睦を結ぶ(『尋憲記』)。三人衆としては畿内奪回へ着実に一歩前進といったところである。
ところが、将軍足利義昭は変わらず三人衆を敵視しており、和睦に功があった松永久秀を疎んじるようになる。同時に織田信長と三人衆との和睦は、三好義継・松永久秀と三好三人衆の和睦でもあり、久秀と三人衆は義継を主君とすることで急速に接近する。元亀2年(1571)3月に松永久通が若江城を訪れた際、若江城には三好宗功(長逸)、石成長信、三好康長、加地久勝ら三人衆の要人もいた(『二条宴乗記』)。6月に入ると義継と久秀は挙兵し、河内南部の畠山氏と戦い始めた。畿内は幕府方の和田惟政と畠山秋高、反幕府の三好義継、松永久秀、三好三人衆、池田氏と陣営が二分されたのだった。
最初に功を上げたのは摂津方面だった。8月28日池田知正や荒木村重が上郡まで進出すると、後詰に駆け付けた和田惟政と合戦になり、惟政は戦死してしまうのである(郡山合戦)。すかさず、篠原長房と松永久秀の軍勢が惟政の居城である高槻城を包囲する(『多聞院日記』)。三人衆は三好義継を高槻城主に据えようとしていたという(『二条宴乗記』)。これが成功すれば、摂津は幕府の手を離れ、三好家の本国として戻ってくることになる。
ところが、ここで織田信長が調停に乗り出した。9月上旬には信長は佐久間信盛を派遣して、松永久秀・篠原長房に撤兵を促すと、下旬には明智光秀に1000の軍勢を付けてさらに圧力をかけた。この段階では三好方も信長と直接やり合うのは避けられたようで、三好方は茨木城を確保しつつ高槻城攻めを中断せざるを得なかった。
最後の山城守護・石成長信
元亀2年(1571)12月石成長信は細川六郎を伴って上洛を果たした*7。しかし、この上洛は三人衆の上洛戦が成功した、ということではない。六郎は足利義昭の偏諱を受けて昭元を名乗り、右京大夫に任官した(『兼見卿記』)。昭元と長信は揃って、織田信長に拝謁している(『信長公記』)。何とあろうことか、三人衆の盟主であった細川六郎と三人衆の一角、宗渭が死に為三が離反していた当時としては三人衆の二人に一人であった石成長信は三好方を裏切り、幕府陣営に身を投じたのである。なぜ、2人は裏切ったのだろうか。
細川六郎に関して言えば、三人衆が三好義継を再び戴く中、盟主としての役割が低下していた事情が大きいと思われる。また、和田惟政が戦死して幕府による摂津支配の要は崩壊していた。足利義昭・織田信長にとっては、摂津支配を再編せねばならなかった。六郎に京兆家の家督を認め、摂津守護として振舞わせることがその処方箋であり、永禄12年(1569)以来の六郎の望むところでもあった。
では、石成長信の場合はどうか。長信と六郎には強い紐帯は見られないので、六郎の重臣として裏切ったわけではあるまい。六郎は幕府に帰順することで右京大夫の官職と将軍の偏諱を得た。長信についても何を得たのかという点が大きなヒントになるだろう。元亀3年(1572)1月織田信長は石成友通に所領と職を付与した(『戦三』一六一七)。以下がその内容である。
まず、注目すべきは山城郡司である。「山城郡」などという郡は存在しないので、これは山城一国単位の郡司と見て良い。「郡司」と言うとよくわからないが、この時点では義昭幕府は山城国に守護も守護代も設置していなかったので、実質的には山城国一国単位での行政のトップである。かなり大きな権限に見える。
また、一職支配を認められた普賢寺と山田郷は地理的に重要な場所であった。両所ともに山城国南部に位置するが、普賢寺は大和との国境、山田郷は河内との国境に位置し、三好・松永勢が進出していた。長信としては両所の一職支配権を認められたは良いが、これを貫徹するには三好・松永を打倒しなければならない。
すなわち、織田信長が示した石成長信への権益とは、実質的に山城守護に任命する一方で再度の三好方(反幕府陣営)への離反を防ぐものであった。長信を抱き込みたい思惑が看取できる。和田惟政戦死に伴う畿内の緊張感の強さが義昭・信長をして下手に出させたのであろう。
当の石成長信は和田惟政を敗死に追いやったまでは良かったが、織田信長の援軍によって高槻城の攻略は失敗し、三好義継を城主に据える作戦も実を結ばなかった。当面の間は山城に直接進出してかつての権益を取り戻す機会はないと考えたのではないか。そんな折、切羽詰まった幕府は長信にかつての権益を上回る地位を示してきた。長信としては渡りに船であっただろう。いざとなれば、山城の権益を手土産に三好方に帰参すれば良いという下心もあったのではないだろうか。
それでは、長信の山城支配の実態はどのようなものだったのか。元亀3年(1572)2月10日には長信の配下が義昭の命令によって淀城を普請している(『兼見卿記』)。淀城はかつて細川氏綱の居城であったあの淀城である。守護所としての機能を再興しようというのだろう。この点からも長信の地位が「守護」にあたることが読み取れる。4月にはかつての政敵であった三淵藤英や細川藤孝と共に幕府に出仕している(『兼見卿記』)。しかし、典拠とすべき『兼見卿記』がこの頃から一時期現存しないため、長信の直接的な動向は見えなくなる。長信を「案内者」として、幕府・織田軍が三好勢へ反転攻勢に出る噂は1月から流れており(『誓願寺文書』)、5月には織田軍が三好軍に包囲された河内の交野城を救援する(『信長公記』)が、この軍事行動に長信が関与したかも定かではない。
また、幕府は元亀3年(1572)5月8日足利義昭の腹心でもある光浄院暹慶(後の山岡景友)を山城国上守護に任命した(『兼見卿記』)。すでに「山城郡司」であった長信との地位関係は明瞭ではない。長信へのお目付け役なのか、支援なのか、暹慶には統治文書が残っていないので関係性は不明である。
元亀3年(1572)6月には賀茂社領の検地について、織田方の木下祐久、蜂須賀正勝らとともに坂東信秀が連署し*8、信秀は蜂須賀正勝に対し行政連絡をしている(「大徳寺文書」)。9月付の織田方の奉行人である木下秀吉と武井夕庵の連署奉書(「妙智院文書」)によると、妙智院領の安堵について石成方にも伝えるとしている。安堵された妙智院領は西院にあったようだが、長信が西院に権益を有していたと言うよりは、守護への連絡事項と捉えるべきではないだろうか。坂東信秀は三好長逸の重臣・坂東季秀のことで、どうやら彼は長信とともに幕府に帰順していたらしい。季秀から信秀への改名も長信からの偏諱かもしれない*9。このように石成長信も「山城守護」として山城国行政に関与していたと思しい。しかしながら、この時点でも平行して幕府奉行人奉書や織田方の奉行人書状が統治文書として効力を有しており、連署状でも織田方4に対し石成方1と明らかに織田氏に偏重している。長信に付与された権限や在地からの認識はそれほど大きくはなかったのである。
一職支配権を与えられた普賢寺や山田郷も結局は三好・松永勢の進出を排除することは出来なかった。長信の地位は名前としては大きかったが、内実を伴わなかったのである。長信が困窮していったのは想像に難くない。そして、11月には長信は賀茂領を与えられた(「大徳寺文書」)。これは将軍義昭の判断だったようだが、長信は賀茂の所領を押領しこれが織田信長の足利義昭弾劾に使われることになった(『信長公記』)。義昭にとっては長信を自陣営に繋ぎ止めるための苦渋の判断だったと言うべきだろう。
そもそもの話として味方の所領を狙う敵の大幹部を寝返らせた戦略自体に矛盾があった。大きな餌で釣らなければ大幹部は誘いに乗ってこないが、その餌を骨抜きにしなければこちらの「損失」も大きい。足利義昭はこのジレンマに当事者として苦しんだと言うべきだし、この戦略に乗った長信は義昭幕府の能力を買い被りすぎていたのであった。
元亀3年(1572)年末から石成長信の一件も一因となる形で足利義昭と織田信長の関係は急速に悪化した。義昭幕府内部でも織田信長を見限ることを主張する上野秀政と信長を支持する細川藤孝とで意見対立が発生していた。結局、足利義昭は東の武田信玄が織田・徳川を牽制することを期待し、また畿内の戦局が不利なままであったことから、反織田信長陣営に与することを選択する。この方針転換に伴って親織田派の細川藤孝は幕府内での立場が危うくなり、信長を頼んで復権の道を探ることになる。
この情勢に石成長信はいかに動いたのだろうか。織田信長は長信を「表裏」がない男と信用していたようだ(『細川家文書』)が、長信の腹積もりは当初より決まっていたようである。元亀4年(1573)3月7日に足利義昭は三好義継と松永久秀を赦免し、自身の与党に組み込んだ(『尋憲記』)が、同時期の3月上旬には阿波兵500人が長信の淀城へ入っている(「1573年4月20日フロイス書簡」)。長信は早くから三好方と連絡を取り、復帰していたのであった。織田信長は長信の動静を見極めていたようだが、3月下旬上洛した信長を出迎えたのは細川藤孝と荒木村重の2人だった。思いが裏切られる格好となった信長の長信への心象は明らかではない。
こうして石成長信は足利義昭と三好義継が結ぶのに伴い、「山城守護」のまま三好方に復帰したようだ。長信は早くから態度を鮮明にしていたとも言えよう。ところが、長信はこの後まともに動くことはなかった。4月から7月まで和睦を挟みつつ断続的に義昭と信長は交戦するが、長信が自発的に動いた形跡はなく、義昭方の幕臣にも名前が見えない。三好氏自体の動きが低調であるが、赦免されたと言っても義昭は三好氏の畿内支配に向けて障害であり、また織田の大軍とまともにやり合うのを避けたのかもしれない。長信の寝返りに伴って現れた歪な現象が、三好氏という巨大な権力の陣営変更についても現れたとも言えようか。
しかし、結果論からするとこの段階で時間を浪費したのは致命傷であった。織田信長が足利義昭を追放してしまうと、山城国で残る非織田方の拠点は長信の淀城のみとなった。すなわち、淀城は織田勢力の中に孤立して攻略を待つほかない状況に置かれた。天正元年(1573)8月2日木下秀吉の調略によって城内の坂東信秀と諏訪飛騨守(行成かその後継者か)が寝返ると、長信は城内から打って出ざるを得なくなり、三淵藤英・細川藤孝の軍勢と戦って藤孝の配下である下津権内に討ち取られた。権内は長信の首級を高島の織田信長に持参し、大いに面目を施したという(『信長公記』)。
『細川家記』ではもう少し描写が詳しい。早朝から藤孝の軍が淀城を攻め立てたが、「勇猛無双の士」である長信はよく防戦した。ところが、兼ねてより内通していた坂東信秀(下津権内とは知人であったという)と諏訪飛騨守が合図を受けて中から織田方とで長信を挟み撃ちにした。憤激した長信はさらに敵を斬り殺したが、橋の上で下津権内と組み合っているうちに2人で川中に落下してしまった。権内は水練の達者であったが、長信は水に慣れていなかったのもあって、権内は水中で長信を何度も突き刺し、弱ったところで首を取った(泳げなかったのが命取りということだろうか)。この戦いの織田方の戦死者は340人ほどで、石成方は500人ほど全員が玉砕したともいう。
長信は逃亡せず戦う道を選んだ。固より大軍相手に勝つ術が大きくあったようには思われない。しかし、長信にとってようやく辿り着いた「山城守護」の地位をおめおめ自分から捨て去るのはもはや出来なかったのではないだろうか。一戦交え、優勢であれば、あるいは持ち応えられれば可能性が開けるのでは…という思いもあったことだろう。ところが、現実として味方から内通者が出てしまい、防戦も1日で潰えてしまった。坂東信秀と諏訪飛騨守は元来三好氏の家臣であったが、長信に従うことに限界を感じていたのかもしれない(あるいは坂東信秀は今更三好方に復帰できないと思っていたのかもしれない)。その間隙を突かれ、長信は敗死に至ったと言えよう。
(最後の「山城守護」ってこの後の塙直政じゃないの?いんだよ、細けえこたあ!)
石成友通とは何だったのか
石成長信が死んだその日である8月2日を初見として細川藤孝は長岡名字を称し始めた。藤孝はすでに7月には織田信長から西岡の一職支配権を付与されていた。と言っても、実際には西岡国人たちは藤孝の与力とされ、藤孝が一円的に西岡の領主となったわけではなかったが、それでも西岡に馴染み深い「長岡」を称することには西岡をある種「名字の地」として再出発しようとする意気込みが感じられる。その後、守護所として再興されたかに見えた淀城は再び廃城となり、11月には三好義継も佐久間信盛に攻められ自害する。三好氏の家臣たちは織田信長に従属して権益を維持するか、抵抗して没落するかして、徐々に三好氏の臭いを消していく。長信に従っていたと思われる物集女疎入(久勝と同一人物か)も天正3年(1575)に藤孝に抹殺されている。
このような移り変わる時代において、石成友通という存在とは何だったのだろうか。友通は三好長慶の側近として軍事・行政に働き、徐々に地位を高めた。友通は三好氏の譜代でもなく、国人としての基盤も大したものではなかった。にも拘わらず、立身できたことから、その能力は純粋に評価されるべきであろう。三好氏の当主に近侍する能臣という地位が三好三人衆の一角という政権担当者にまで導いたのである。
しかし、そのポジションが諸刃の刃でもあった。友通は自身の強力な基盤を持っていなかった。これは三好氏の側近である限りは弱点ではなかったが、自立して動くようになるとどうしても無理に動かざるを得なかった。しかもそれらの庶政が実を結びかけたところで、現れた強力な敵対勢力を前に全てを失ってしまうこともあった。
ただし、これは不運というばかりではない。友通は飛躍を求めて陣営移動、悪く言えば裏切りを行った。三人衆となった時には、取次として関係が深かった松永久秀を見捨てた。山城守護となった時には三人衆から離反した。これは「裏切り」にそれだけの旨味があり、友通が一本釣りに足る人材であったことを物語ってもいるが、軽薄さは否めない。そして、最後の「裏切り」には失敗したと言うべきなのだろう。このような友通を織田信長が「無表裏仁」(信頼できる)と評したのは本当に不思議である。永禄元年(1558)の三好政生の三好家への帰順や一色藤長との「入魂」などを思うに、友通の人柄が表面上良かった可能性も否定できないが…。ある意味「泳ぎ」の下手が致命傷となったのは象徴的なのかもしれない。
友通が何を遺したのかと言うとこれも評価は難しい。友通の勝竜寺城による西岡支配は後続の藤孝が引き継ぐものの、拠点城郭による西岡一円支配は近世に至る中でむしろ否定され、西岡は特定の藩とはならなかった。ただし、友通の存在は常に無視しえない場所にいたとは言えるかもしれない。どうしても織田信長や細川藤孝という名前に埋もれがちな支配体制の整備の中で友通も確かにいたのであり、見過ごされてはならない。あまり信が置ける情報源(『細川家記』)でもないが、友通は生前常々「敵と戦む時、たとひ討取らるゝとも、相手に手負せぬ事ハ有まし、運尽て太刀・刀及ハさる時ハ、喰つひてなりとも疵を付へし」(敵と戦う時はたとえ戦死したとしても、相手に戦傷を負わせるべきである。運が尽きて太刀や刀がなくても、喰いついて傷をつけるべきである)と語っていたという。
さすれば、友通は日本の国制が中世から近世へ移ろうとする中での巨大な「手負せ」だったのかもしれない。これくらいの詩的な評価は許されよう。
付録 元亀3年(1572)石成長信関係史料
尚々御寺分之儀者、所々散在迄此通候、以上、
今度賀茂領御指出之分、上使銭被相済候、自然下々何かと申分御座候共、被成御承引間敷候、為其如此候、恐惶謹言、
木助左
六月廿日 祐久(花押)
千少
信定(花押)
丹伝次
玄政(花押)
坂大
信秀(花押)
蜂彦右
正勝(花押)
大徳寺
御納所
- 坂東信秀書状 『大徳寺文書』3328号
「 より
(墨引) 蜂彦右サマ参 坂大
人々御中 」
尚々折紙・判物調進之候、以上、
御捻令拝見候、仍先刻者申承本望之至存候、随而従紫野指出銭之儀、京次と承候、彼寺之儀者、不混自余寺中之儀候、殊朱印両通迄有之由承候、少もと御用捨候て可然候哉、いま〳〵我等儀者給間敷候、此一つゝミ拙者一分御引候て、寺へ御かやし候て可給候、相残儀神坂方へ被遣て可給候、委者明□(朝?)参可申入候、恐々謹言、
六月廿日 信秀(花押)
- 武井尓云・木下秀吉連署状 『妙智院文書』
西院之内、妙智院策彦東堂御寺領分安弘名之事、 殿様より被仰付、御寺へ可為御寺納之旨被成御印判上ハ、年貢諸公事物等、無不法懈怠可致其沙汰候、石成方へも右之分被仰出候間、聊以不可有別条候、指出之儀相調候て、妙智院納所へ可渡進候、或者隠田、或者上田を薄地ニ替、恣之族於有之者、可被処厳科候、此旨従両人可申之由候、恐々謹言、
夕庵
九月廿日 尓云(花押)
木下藤吉郎
秀吉(花押)
西院之内妙智院領
百姓中
就御寺領之儀、信長朱印両度被遣之由、委曲令存知候、向後於両人不可存疎意候、賀茂之儀、石主へ申届候、尚以蜂須賀ニ申含候間、不具候、恐惶謹言、
塙九郎左衛門尉
霜月二日 直政(花押)
木下藤吉郎
秀吉
大徳寺
各御中
参考文献・論文
三好長慶:諸人之を仰ぐこと北斗泰山 (ミネルヴァ日本評伝選)
- 作者:天野忠幸
- 発売日: 2014/04/10
- メディア: 単行本
三好一族と織田信長 「天下」をめぐる覇権戦争 (中世武士選書シリーズ第31巻)
- 作者:天野忠幸
- 発売日: 2016/01/20
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
- 作者:隆弘, 馬部
- 発売日: 2018/10/02
- メディア: 単行本
仁木宏「戦国期京郊における地域社会と支配―西岡勝竜寺城と「一職」支配をめぐって―」
空間・公・共同体―中世都市から近世都市へ (AOKI LIBRARY―日本の歴史)
- 作者:仁木 宏
- 発売日: 1997/06/01
- メディア: 単行本
*1:令和2年現在岩成姓の人は1200人ほどいるらしい
*2:ただしよく知られていない人物や組織は「岩成」と書くことが多々ある
*4:また、『戦三』一〇〇一では安宅冬康が友通に長慶か義興への書状の披露を依頼しているので、これが事実なら友通は安宅氏との取次であった可能性がある。ただし、この文書は文面がやや不審である。
*5:永禄5年の六角氏には西岡国人の志水氏が従っており、六角氏は一方的に西岡を蹂躙するわけにはいかなかった
*6:実際には書状なので年号はついていないが、閏5月があるのは永禄12年のみである
*7:元亀2年比定11月19日付木下秀吉書状写(『細川家文書』)には「石曳今日至茨木表可罷越候、召連可罷上候」という文言が見える。しかし、「石曳」に該当する人物は不明で、原本を確認したところ、写という性格も鑑み「石成」と翻刻するのが正しいと考えられる。であれば、11月時点で長信は三人衆から離反したことになるだろう
*8:「坂大信秀」と署名するが、坂東季秀と花押の形状が一致する
*9:ただし、季秀は永禄3年(1560)にも信秀を名乗っているため単に旧名に復した可能性もある