志末与志著『怪獣宇宙MONSTER SPACE』

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「1565年6月19日付フロイス書簡」に見る永禄の変

 さて、先ごろ『フロイス日本史』に見る永禄の変への道 - 志末与志著『怪獣宇宙MONSTER SPACE』という記事を製作し、永禄の変への経過について何があったのか、考察を加えた(この記事の前提ともなるので、是非ともお読みいただきたい)。その時は『フロイス日本史』を用いたが、『フロイス日本史』は編纂史料であり、フロイスが後付けで編集した側面もある(だからこそ、変後の情報操作が含まれているのではないかという推測も行った)。ところが、その後になって『十六・七世紀イエズス会日本報告集〈第3期‐第2巻〉』に「1565年6月19日付フロイス書簡」という文献があるのに気付いた。明治6年以前の和暦と西暦では日付がずれるのでわかりにくいが、永禄の変が発生した永禄8年5月19日は西暦では1565年6月17日にあたる。つまり、この書簡は変の2日後に書かれたもので(実際には3日後以降の動静も記されている)、その情報の一次性は極めて高い。固より、だから変についての省察が正しいかと言えば、そうでもあるまいが、「起きたこと」に対する真実性は高いと考えられよう(この書簡が変の2日後に書かれたという事実からは、将軍横死という非常事態を至急かつ正確に報じなければならない事情が看取される)。
 それではこの「フロイス書簡」は永禄の変をどのように報じており、『フロイス日本史』とどのように筆致が異なっているのか、これを確認していこう。

およそ一カ月半前、公方様三好殿の名誉を高めた。すなわち、大いなる威厳を表す称号により名誉を加えるのが慣例である。三好殿はこの栄誉を賜ったことを感謝するため、己れの城から(彼のもとに)出向くことを欲し、彼の息子と執政官の弾正殿、および他の甚だ有力な大身一人を同伴した。およそ二十日前、彼は一万二千人を率いて当地に着いたが、その人々は甚だ立派で武器を十分に装備しており、武器(の扱い)がいとも巧みであった。市を圧迫しないよう彼らは市外半里の所に留まり、司祭はさっそく、土地の習慣なるが故に彼らを訪問するため赴き、諸人が彼を歓迎し良い素振りを見せた。公方様はすぐさま市に、何びとも来訪した兵士らと争わぬよう名を下した。彼は常に平和を好み、十八年来この市を甚だ賢明に治めているからであり、また彼は我らが当地に滞在するための許可状を与えた。異教徒ではあるが、かくも善良なる君主の絶えざる庇護のもと、我らは成果を得ることへの期待を抱きつつ過ごしている。

 永禄8年(1565)5月1日将軍足利義昭は上洛してきた三好義継(この時は重存だが義継で統一)と面会し、義継に「義」字偏諱と官位「左京大夫」を授けた。これが「大いなる威厳を表す称号により名誉を加える」ことであろう。ところで、ここで気になるのは「三好殿」が「息子」を同伴しているという記述である。つまり、ここでいう「三好殿」とは長慶を指しているのである(ただし、実際の「三好殿」の動静は義継のものである)。永禄7年(1564)に亡くなった長慶の死は秘匿されていたが、実際に世間では長慶は死んでおらず、この時の上洛の主導者と思われていたことがわかる。「息子」は義継のことで、「弾正殿」は松永久秀のことだが、久秀もこの上洛には加わっておらず、松永軍を率いていたのは息子の松永久通だった。実際にはいない久秀も加わっていると認識されていたわけである。なお、「他の甚だ有力な大身一人」とは三好長逸のことだろう。
 ちなみにフロイス足利義輝が18年間京都を統治してきたと認識しているが、これは将軍在職年数のことで、実際に義輝が安定的に在京できていたのは永禄以降の7年くらいである。

三好殿は幾度か彼を訪問し、その都度大いに歓待された。三好殿は市外にある仏僧の僧院において彼を饗応することに決めたが、その経費は少なくとも五、六千クルザードに上り、しかもこれは料理にではなく、習慣に従って彼らの各人が公方様に贈る甚だ高価な品々に要するものであった。

 『フロイス日本史』でも記述があった、将軍に御成を請う下りである。『フロイス日本史』では開催場所は「郊外」としかなかったが、書簡では「市外にある仏僧の僧院」と洛外の寺院のどこかが指定されていることがわかる。永禄4年(1561)の三好邸御成では洛中の三好邸(上杉本洛中洛外図でも三好筑前邸として描かれている。名義としては三好義興邸)が用いられていたが、この提案ではスルーされている。
 ちなみに5000~6000クルザードとはだいたい1億円に相当する金額であるようだ。

公方様は三好殿が伴って来た多数の兵を見てその饗応を怪しみ、辞退することに努めた。三人の大身はいずれもそれを受けること再度懇請し、彼が恐れているのを悟ったので、三人とも己れの偶像に対して誓いを立て、各自が彼に書付を送り、饗応する以外に何もなく、(終われば)直ちに各城に帰るのであり、いっそうの安全のため、彼の宮殿の敷地内にある彼の母の邸で饗応したい旨を伝えた。

 だが、足利義輝は御成を拒否しようとした。三人の大身、つまり三好義継、松永久通、三好長逸は起請文を提出し、「彼の母」すなわち慶寿院の屋敷での開催に譲歩している。『フロイス日本史』では誰が起請文を出したのかまで突っ込んでいなかったが、起請文の内容としては変わらない。だが、長慶が公的には生きている以上、「三好殿」本人ではなく「三人の大身」が起請文を提出したことは、やはり「三好殿」の真意に疑念を抱かせたとも考えられる。

公方様は彼らにそれを受ける素振りを見せたが、彼らが何らかの謀反を企んでることを大いに恐れ、その懸念がますます強まったことから、また、もし謀反が起きた場合、対抗する力がないことを認めたが故に、三位一体の日曜日の前の土曜日、他国に逃れようとして、己れの最も親しく、かつ寵している大身数人を伴い、大いに人目を忍びつつ宮殿を出た。内外およそ一里の所まで来た時、彼は同行者に己れの意図を明かしたが、彼らは皆彼に反対し、謀反の企みが明白に認められないにもかかわらず、家臣から逃れることは彼のいとも高き権威を損なうものであり、彼は特によき君主にして家臣の何びとも苦しめたことはなく、もし謀反が起きたならば、彼ら全員、死を共にするので戻るべきであると言った。かくして同行者らに説得され、彼は帰還した。

 変前日の逃亡未遂もきっちり記述されている。「人目を忍びつつ」と言うが、変の数日後にはフロイスレベルでも知っているのはどうなのか。側近たちの言い分の方が正論ではあるのだが…。
 また、三好氏の謀反を疑っているのは義輝その人であり、側近たちにはあまり危惧はないようである。「他国に逃れよう」とした先がどこなのか言及もないが、おそらく前もっての根回しもなかったのではないだろうか。

翌朝、すなわち一昨日の聖三位一体の日曜日、(謀反の企みを)いっそう隠すため、三好殿は休息のため市外一里の所にある某僧院へ行くと言って、騎馬兵七十人とともに馬で出かけたが、少し市外に出たところで急遽引き返し、公方様の宮殿に向かった。まだ朝であったことから、公方様の傍には約二百名がいるに過ぎず、しかも彼らのほとんどは都の大身であった。公方様の邸はたちまち一万二千人に包囲され、三好殿は一つの門に陣取ったが、そこには宮殿の堀にかけられた橋が通じている。他の二人の大身は他の門に位置した。宮殿内ではこのような尋常ならざる謀反に備えていなかったので、敷地内の門はすべて開け放たれていた。多数の鉄砲隊が侵入し、公方様に箇条書を渡したいので取りに来るようにと言った。前述のように、公方様に甚だ寵されていることから、我らを導いて彼に紹介してくれた老人が進み出で、、箇条書を受け取るやすぐにそれを読んだ。その第一箇条は、公方様が奥方と同老人の娘、その他多数の大身を殺すこと、そうすれば彼らは(平穏に)引き返すであろうというものであった。老人は欺瞞を見て取ったので、書付を地面に投げつけ、彼らが己れの国主かつ君主に対して、かくも忌まわしき謀反を起こすことにほとんど畏れも恥も感じていないことを大いに責め、今やかかる状況になった以上は、自ら切腹すると(言った)。(切腹の説明略)老人は邸内に入ると、公方様の面前で自害した。

 変が起きた当日、「三好殿」が当初清水寺参詣に赴こうとしていたのは、他にも記録類があり、事実と見て良いだろう。ただ、それが謀反を隠すことに繋がるのか、それはよくわからない。率いているのも騎馬兵70人にすぎない。素直に何か危急の事態が発生したために、予定を取りやめ軍に召集をかけたと考えるのが自然である。そしてその危急の事態とは、義輝の逃亡未遂以外考えられない。三好氏としては何かしら落とし前を付ける必要があり、それが「奥方と同老人の娘、その他多数の大身を殺す」要求に繋がる。なお、「老人」とは進士晴舎、その娘の「奥方」とは小侍従のことである。進士晴舎は幕府内における三好氏への取次であり、要求は過激だが、要求した経路自体は公的なものである。よって、進士晴舎の自害は義輝と三好氏を結ぶ公的ルートの喪失であり、義輝側からの三好氏への「手切れ」を意味する。
 なお、箇条書を提出したのは『フロイス日本史』では「イワナリ」すなわち石成友通だと記しているが、書簡段階では名前が出ない。

我らと甚だ親しい彼の息子が出てしばらく戦ったが、彼らは直に彼を殺し、外から邸に向けて激しく銃撃した。公方様の四名の貴人が門に到着し、門を開くよう叩いたが、内からもそれが叶わぬと答えると、彼らは剣を取り腹を切って死んだ。かの暴君たちの悪事はますます増長し、その心はいとも邪悪な望みをこれ以上延期することに堪えられなかったので、彼らは宮殿に火を掛けるよう命じた。公方様が自ら出ようとしたが、その母堂は彼に抱きつき(引き留め)た。彼女は我らを大いに歓迎した尊敬すべき老婦人であった。しかし、彼は火と必要に迫られ、家臣とともに出て戦い始めたが、腹に一槍と額に一矢、顔に二つの刀傷を受け、その場で果てた。

 ついに永禄の変が勃発した。ほとんど固有名詞が出て来ないので、義輝に殉じたのが誰であったのかよくわからない。実際に戦いに向かおうとする義輝を制止しようとする実母・慶寿院の心中は察するに余りある。
 しかし!ここで重大なのは、何と足利義輝の死因が記されていることである!後述箇所に義輝の遺骸が回収されたことが見えるので、これは恐らく実際に死体を見た上での情報である可能性が高い。足利義輝の死に様と言えば、剣豪将軍というキャラ付け通り、実際に剣を振るって兵士を寄せ付けず、障子で抑え込んで刺殺した…のような逸話が知られる。『フロイス日本史』では義輝は薙刀を持って奮戦したと書かれるが、この書簡段階ではそうした記述もない。実にあっさりとした筆致で義輝は討たれた。さらに気になるのは「額に一矢」である。死んだ人間にさらに矢を射かけるともたまたま当たったというのもあまり考えられない。よって義輝の致命傷は額に矢が命中したことで、さらに確実に殺すため腹に槍を刺したのではないだろうか。考えてみれば当然の話で、剣の腕が立つと思われている相手に同じく剣で挑もうとするのも、また剣で挑んでくると予想するのも賢明ではない。剣の腕が立つからこそ、殺すには遠距離武器を使うのが手っ取り早い。どれだけ近距離武器に長けていようが、遠距離武器には敵わない。剣豪将軍の死因はそんなロマンとは無縁なリアルを教えてくれるのである。

邸内には母堂とともに公方様の兄弟なる二十歳の青年がおり、彼らは同人もたちまち殺害し、公方様の母堂を捕らえた。或る者は命を助けてやれと言い、また或る者は殺せと言った。甚だ有力な大身の娘である(宮中の)婦人が、炎上する宮殿から逃れ始めると、兵士は彼女らを斬り始めた。十五、乃至二十名が武器を恐れて一軒の家の下に入り込み、その後、火から逃れようと欲したが叶わず、その場で全員が焼死した。さらに兵士らは逃れ出た数人の婦人から衣服と着物を奪い、人の言によればその中に奥方がいたとのことだが、未だに現れない。今、彼らは奥方を死刑に処するため探しており、彼女のいる家を見つけた者に多額の金銭を、また彼女の髪をつかんで彼らの前に引きずって来る者にはさらに多額の金銭を(与えると)約束した。公方様の二人の娘は兵士らの足元に投げ出されていた。某キリシタンが彼女らのことを知って、或る人に彼女らを救って家に収容することを請うた。いとも親愛なる者たちよ、当国の人々が生命をいかに尊重せぬかを尊師らが知るため(申し上げるならば)、十三、四歳の年少の貴人が公方様の前に現れ、大いに奮闘し始めたので、謀反人側の人々は口々に、彼を生け捕りにせよ、殺してはならぬと叫んだ。少年は公方様がすでに亡くなったことを知り、己れが生きれば大きな不名誉になると考えたので、手にしていた刀を捨て、短剣を抜いて喉の一部を切り、続いて腹に突き立て、その上に(被さるように)倒れた。同所では公方様とともに、当国中で最も著名にして身分高き貴人約九十、乃至百名が死んだ。(敵兵らは)宮殿が焼ける前に、宮殿および殺害した全大身の邸をことごとく略奪した。以上は一時間半か二時間で行なわれたことであった。仏僧らが訪れ、公方様の遺体を埋葬するために運び去った。三好殿はその他あらゆるものを燃やすことを命じ、同宮殿の一物すら残さぬようにした。

 書くも無残な戦場の光景がありありと描写されているが、こうした無秩序の中でも殺害する基準が存在していることがわかる。「奥方」というのは、正室である近衛稙家女ではなく(『細川両家記』によれば、近衛稙家女は三好長逸に護送されて戦場から離脱している)、すでに出た進士晴舎の娘・小侍従のことである。兵士が婦人から衣類を強奪しているのも、略奪という側面も大きいが、小侍従を死刑にすべく探しているという側面もあろう。また、義輝の生母・慶寿院については殺すべきなのかどうか、一致していない(慶寿院は結局死んでいるが、自分から火に飛び込んだという説もあり、他殺ではない可能性もある)。義輝の弟・鹿苑院周暠はたまたま居合わせたために殺されている。また、「十三、四歳の年少の貴人」は明らかに殺さないように指令が飛んでいる。13歳前後であることを勘案するならば、この少年は政所執事摂津晴門の子・糸千代丸(13歳)ではないだろうか(候補としては他に畠山九郎(14歳)、大館岩千代(15歳)がいる)。三好氏の判断として、糸千代丸(?)を殺してはならないという基準が存在したことは意識されても良い。
 御所が燃え尽くされたのは『お湯殿の上日記』にも「くろつち」になった旨がある。ただ、『言継卿記』では慶寿院の御所は全焼を免れたとする。あるいは、御成の開催場所であったため、三好氏も加減したのかもしれない。

※三好氏の殺害判断基準

必ず殺す!!! 小侍従
いたので殺した 鹿苑院周暠
殺す…? 慶寿院
殺すな! 摂津糸千代丸?

 ところで、この後には宣教師たちにも変が伝わり、キリスト教の擁護者と目していた足利義輝の死に不安を覚えていることが書かれる。この中で「弾正殿の重臣である某キリシタンの貴人」(結城忠正?)が現れ、「己れの主君の心を知っていると思っていたが、この度の一件では判ら」ないと述べ、大きく当惑している。逆に言えば、三好長慶松永久秀はこんなことをするはずがないという信頼を語っており、実際変の当事者は三好義継と松永久通なので実は当たっているのだが…。これからどうなるのか全くわからないという筆致はまさしくこの書簡が変直後に書かれたものであることを如実に感じられるものである。

今、人々の言によれば、三好殿は、阿波の国の生まれで同国に住んでいる、亡き人(殺された公方様)の一従兄弟を公方様として立て、彼にいっさい権力を与えず己れの掌中に置くことを欲している。これからいかになるのか我らには判らぬが、この一件は僅か三日を経過したに過ぎず、我らは日本の多数の国主が彼らの主君が甚だ不当に殺されたことに対して復讐を望むことを予期している。とりわけ今は(日本の)頭が不在であり、謀反人たちは国々を奪い、絶えずいとも残虐な圧制を行なって数多の敵を抱えているので、当国はますます破壊されることであろう。

 三好氏は阿波公方(足利義栄)を将軍として擁立するのではないかという噂が記されている(実際にこの時から三好氏に足利義栄を擁立する構想があったのかはわからない)。また、フロイスは義輝への弔いのために各地の諸侯が挙兵するに違いないと予測している。確かに、6月4日には畠山氏の家臣・安見宗房も上杉輝虎上杉謙信)に弔い合戦を呼びかけた。ただ、阿波公方擁立にせよ、幕府再興にせよ、形になって行くのはまだまだ先の話である。


 ちなみにここまでが6月19日に書かれたもので、次の章段からは翌日以降の追記と見られる。

聖三位一体の日曜日のすぐ後の水曜日、公方様の奥方が発見された。年の頃は二十七歳で、二人の娘があった。彼女はこの市から半里ほど外にある某僧院に隠れていた。弾正殿と三好殿が彼女を殺すよう命じたことを伝え聞いたので、彼女は紙と墨汁を請い、自らの手で娘の一人に書状をしたためたが、それは読む者の心を大いに動かすものであり、後に書状を読んだ人は誰もが多くの涙を流した。結局、その書状は、彼らが彼女を殺すよう命じることは、主君たる国主を殺したのと同様、いとも不当なことであるが、彼女は死によって少しも悲しみや嘆きを感じず、むしろこれは阿弥陀の計らいにして限りなき慈悲であり、阿弥陀が彼女を速やかに極楽、すなわち阿弥陀の栄光に導こうと欲して、かくも多大な恩恵を垂れたのだと信じており、その極楽において彼女は必ず君なる公方様に見え、彼と語り合って楽しむであろうと伝えるものであった。書状を封じた後、彼女は甚だ明るく同僧院の仏僧らに別れを告げ、二、三日の滞在中に受けたもてなしを感謝した。続いて、阿弥陀の祭壇の前に行き、両手を挙げ、その名を十度称えて祈った。僧院の長老は、彼女が阿弥陀の名を称えたことにより、彼女のあらゆる罪が完全に免じられた印として、彼女の頭に両手を置いた。それから、甚だ明るい様子で別の部屋に行き、聞くところによれば、両手を挙げて阿弥陀の名を称えながら首を斬られ、こうして果てたとのことである。彼女の首を斬った兵士は他の者を伴っており、他になす術もなかったので彼女を殺したが、その後、彼はかくも大なる不正と非道に立ち会うことのないよう、もう二度と軍務を行なうことを望まず、武器を棄て、剃髪して僧院に入るだろうと言った。

 小侍従が発見され、即日処刑されたことは他の記録類にも見える。なぜ、小侍従がかくまでも三好氏から憎悪されているのかはわからない。ただ、義輝正室である近衛稙家女が慶寿院の姪であるにも関わらず、政治活動らしきものがほぼない。小侍従本人は「必ず君なる公方様に見え、彼と語り合って楽しむであろう」と自身こそが義輝のパートナーだと認識しており、この書簡でも一貫して小侍従が「奥方」扱いされている。小侍従が幕府の中で重い立場にあったことは間違いない。
 また、『フロイス日本史』では処刑された小侍従は妊娠中としているが、『言継卿記』によれば、変の前月に3人目の娘を出産しているため、『フロイス日本史』の記述は誤りである。ところが、この書簡では『フロイス日本史』とは違い、小侍従が妊娠しているなどといった記述はない。3人目の娘のことを感知していないのも不審であるが、『フロイス日本史』を書く際に、フロイスが思い違いかあるいは脚色したのかもしれない。書簡では事実を認識できていることが知られる。
 小侍従の死に様についての筆致は、当時の浄土信仰の様子が垣間見える。ちなみに『言継卿記』によれば、小侍従を処刑したのは松山重治の配下であったようだ。

当市の騒乱と非常な残虐行為を見るのは実に嘆かわしいことであり、かの二人の暴君はあたかも初期の教会の信徒に対する皇帝たちの迫害をそのまま演じて見せているかのようである。公方様の家臣や友人は何処であれ発見されると、直ちにその財産は没収され、本人は殺されるか捕らえられ、或いは逃亡する。公方様には二、三人の姉妹があり。禅宗の或る大きな尼僧院に入っており、甚だ尊敬されていた。兵士らは姉妹であるという理由で、同僧院に行って彼女らを嘲り侮辱し、彼女らは自害せぬよう絶えず他の尼僧から見張られている。三好殿は都の外およそ一里にあって公方様の家臣に属する二つの集落を破壊させた。

 小侍従処刑に続いて、幕臣たちへの迫害の記述が見える。ただ、永禄の変でも生き延びた幕臣細川藤孝、一色藤長、三淵藤英、上野秀政、摂津晴門、伊勢貞助ら、多数おり、財産没収についてはわからないが、捕縛も殺害もされていないことは確かである。松永久秀に至っては、一乗院覚慶(後の足利義昭)の生命を保障する起請文すら出している。『言継卿記』によると、変翌日には近衛家や久我家が襲撃される噂が立っている(実際には襲撃されることはなかった)ので、そうした疑心暗鬼な世相を反映した記述と見るべきだろう。
 足利義輝の姉妹が入寺した禅寺についても記述があるが、『言継卿記』によると、変翌日に三好宗渭、石成友通、長松軒淳世といった三好氏の要人が実際に宝鏡寺に伺候し、義輝の妹である宝鏡寺理源に会っている。何らかの報告を行ったか、あるいは反三好氏の拠点になるのを警戒したのだろうか。本来的には兵士の略奪を制止するためには禁制の発給を請うのが筋だが、禁制の発給はその勢力に与同することも意味するため、理源は禁制を得ることが出来ず、兵士に侮辱を受けたのだろう。

また、当地から半里の所にいるジェンキオンドノ(Ienquihondono)と称する貴人を欺いて殺害するため招かせたが、同貴人は仕掛けられた罠に気付いたので、八百名の兵士を彼の家に入れ、(敵が)彼を求めて来たならば兵士らとともに抵抗することに決した。公方様の一貴人は謀反が起こる少し前に、偶像の寺院を幾つか参拝するために出かけ、すでに当地から離れていたが、途中で報に接し、三日間で都に戻った。宮殿といっさいの物が破壊されて灰になり、国の重立った大身らが死んだのを認めると、過ぐる火曜日、公方様が己れの葬儀のために甚だ豪華に造った僧院に行き、墓前で腹を切り、息絶えた。当地の民衆は非常におびえ、動揺しているので、少年や青年が街路を走ると、別の残虐行為か新たな事件かと確かめるため門に出て来るほどである。

 「ジェンキオンドノ」って誰や…?ただ、後に「内藤土佐守」を「Iosa」と書いている例があるため、これも「T」を「I」と間違えたのではないだろうか。そうすると「Tenquihondono」→「典厩殿」、すなわちこの人物は細川藤賢であろう。ただ、藤賢だとしても、だからと言って書かれていることが理解できるかはまた別の話である。三好氏が藤賢をわざわざ殺害しようとする理由が不明である。もっとも、この時藤賢は挙兵したわけでも、三好軍と交戦するわけでもないので、藤賢は将軍殺害の事情を理解できず、過剰に反応してしまっただけなのかもしれない。ただ、藤賢は後に三好氏の内紛において、他の細川氏綱旧臣とともに松永久秀に与して行く。結果的には何も起こらなかった一件だが、後々の伏線として生きていくものとも考えられようか。細川晴元も氏綱も亡きこの時に藤賢が細川京兆家に連なる人物として存在感を有していたことが窺える。
 この後、三好氏の家臣に150人のキリシタンがいなければ、宣教師も被害を蒙っていたに違いないとして書簡は閉じられる。なかなか濃密であった。


 結局、この書簡の内容は大筋では『フロイス日本史』と同じである。このような経過が変の数日後には認識されていたというのはとても興味深い。ただし、編纂された『フロイス日本史』との筆致の違いは微妙に見てとれる。

  • 「三好殿」は三好長慶であるという暗黙の了解がある
  • 阿波公方の指令や松永久秀の謀略といった陰謀論記述がない
  • 松永久秀=悪」という認識はあるが、実際に指令を下していることが見えるのは「三好殿」
  • 足利義輝の死が脚色されず、むしろ幕臣の死に様に主眼がある

 この書簡の記述から永禄の変について、新しく何がわかるのか。まず、御成の請願や譲歩、拒否した義輝の逃亡未遂、三好氏が当初政治要求を行なっていたことなどは、後々の宣伝でも脚色でもなく、事実であった可能性が高くなった。また、松永久秀を変の首謀者としたり、阿波公方の擁立が最初からの目的というのは「後付」であったこともわかる。変の実際の主導者は「三好殿」である。
 特に逃亡未遂の事実性が高まり、一定レベル周知されていたことは重要である。例えば、巷間では長慶の死を掴んだ義輝が反三好の策謀を始めたとか、教興寺の戦いで六角・畠山を支援していたとか、側近が反三好であったとか、色々なことが永禄の変への伏線として指摘されている。しかし、それらの真偽に関わらず、三好氏にとっては自身が奉戴していた将軍が逃亡を図ったという事実は重たい。永禄以来の足利・三好体制の完全な決裂であり、特に今回の上洛の目的が長慶→義継の代替わりのための権威付けであることを思えば、義継の面目は丸つぶれになってしまう。三好氏としては、足利・三好体制を維持すべく、義輝の逃亡を唆した「誰か」を設定し、罰しなければならなくなる。そうしたことが小侍従らの殺害要求となるのだろう。
 だが、なぜ義輝は御成要求を信用できなかったのか。これは三好氏の態度が原因であろう。変の前の月に三好長逸を作事奉行として、後に大徳寺聚光院となる建物の建築が開始された。実質的には前年に死去した三好長慶墓所を建立するものだったが、長慶の死は秘せられてたため、名目上は何か別の建物になっていたはずである。義継はこの建立にあたり、「父の旧邸」を喜捨したという。ここでさらに注目されるのは、御成の開催場所として、洛中三好邸が全く俎上に上っていないことである。つまり、喜捨された「父の旧邸」とは洛中三好邸だった可能性がある。御成を請いながら、御成の場所として適当で、かつ義輝と親しく幕政を運営した三好義興の屋敷が、名義も定かでない中解体されることに義輝は大きな不安を覚えたに違いない。
 さらに、義輝の安全を保障すべく提出された起請文も提出者は義継、松永久通、三好長逸の三人で、最高権力者「三好殿」である長慶のものはなかった。長慶は死んでいるのだから、起請文など出せるはずもないが、義輝が長慶の死を認識できていなかった場合、起請文も真が置けないと見なすのは充分あり得る。むしろ、なぜ長慶だけ提出しないのかを考えると、謀反への疑いが強くなっていくのではないだろうか。
 こうした三好氏と足利義輝の思惑のすれ違いが最大限悪く出たのが、永禄の変の本質ではなかったかと推察できる。

参考文献もとい依拠史料

十六・七世紀イエズス会日本報告集〈第3期‐第2巻〉

十六・七世紀イエズス会日本報告集〈第3期‐第2巻〉