志末与志著『怪獣宇宙MONSTER SPACE』

怪獣monsterのコンテンツを中心に興味の赴くままに色々と綴っていくブログです。

三好にまつわる小話集⑤

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三好長慶の師匠
  • 『天文日記』天文8年6月8日条

先日従三好方申来坂東兵法人、此間孫次郎そはに置候キ。只今下国之条、門下づたいに送候てと申候シ。

 天文8年(1539)三好長慶の傍に仕えていた坂東の兵法人が帰国するということで、道中の安全保障を本願寺に依頼してきた。彼の素性が気になるところではあるが、これ以上の情報はないのでよくわからない(ちなみに有名な山本勘助は『甲陽軍鑑』によると、若き日に西日本まで流浪しており、大内義隆毛利元就に会っていたことになっている。その真偽はともかく東日本の人間が仕官先を求めて放浪することはあったのだろう)。ただ、おそらく長慶が兵法を学ぶに当たって、遠く関東から師匠を招聘していた、あるいは亡命者を受け入れていたとは言えそうだ。最近、旧足利義稙派のネットワークが天文年間にも生きており、小田原に寄寓する伊勢貞運が長慶のもとに斎藤基速がいることを連絡されていたことも明らかになったが、「坂東兵法人」もあるいはそのネットワークと関わるのかもしれない。長慶の軍事的教養についてはあまり触れられることはないが、興味が広がる記事ではある。

三好長慶気鬱
  • 『天文日記』天文20年9月25日条

三好筑前守へ三種五荷遣之。近日為鬱之間此分也。

 三好長慶といえば晩年に精神病に罹っていたという話もあるが、特段根拠のある話ではない。それに対して、天文20年9月には「鬱」に陥っていたことは上記記事から明らかである。ただし何が原因で「鬱」だったのかはわからない。とは言え、この年は伊勢貞孝らと手を組んだと思ったら長慶への暗殺未遂もあり、岳父にして盟友の遊佐長教は暗殺され、9月には大寧寺の変も起きているなど情勢が目まぐるしく移り変わった。そのため精神的に大いに疲労していた可能性は高いだろう。もっともこの「鬱」は一時的なもので、その後は見られないので長慶は回復したようではある。

三好長慶の妾と次男
  • 『兼右卿記』弘治元年12月1日条

自尼崎筑州妾方、筑州次男至金神方罷向、鎮札所望之間、調遣了、為礼壱貫二百文到来、民部申次、

 三好長慶の家族といえば、妻が波多野秀忠の娘と遊佐長教の娘、子としては嫡男の義興のみが知られていた。ところが、上記記事によって弘治元年には尼崎に妾がおり、その間に次男がいることが明らかになった。もっとも、妾の素性もこの後次男がどうなったのかも不明である。『言継卿記』永禄7年6月22日条では三好義継が「修理大夫次男」と説明されているので、この時までに夭折してしまったのかもしれない。ちなみにそこまで信を置ける情報源でもないが、江戸時代に「三好日向守長康」の裁許状を偽作した蘆屋庄が元和2年(1617)に述べたところによると、長慶は西宮兵庫屋の「佳娘」に「寵愛不浅」というので、商人の娘を妾にしていたのかもしれない。長慶の家族への想いというのはあまり見えてこないが、妾と庶子がいたことからは色好み方面でも彩りを与えるものではある。

三好長慶の肉声
  • 1564年10月9日付フェルナンデス書簡

…そこで司祭は山城殿の恩恵により、三好殿を訪問したところ彼は大いに歓待した。デウスのことを聴くと彼は「甚だ神聖なものに思われる」と言い、また「教会とキリシタン宗団を庇護する用意がある」と述べたので、飯盛のキリシタンたちは大いに慰められ、(信仰を)堅固にして平静に帰した。

 ここで現れる「山城殿」というのは結城山城守忠正のことで、畿内における大物キリシタンの先駆けとして知られる。畿内にもキリシタンがある程度広まると、既存の仏教との摩擦が発生し、実力行使寸前となった。これを見かねた結城忠正は宣教師に長慶からお墨付きをもらうようアドバイスしたので、宣教師たちは飯盛城を訪れて長慶と話したのが上記記事である。書き手のフェルナンデスは平戸でこれを書いているため、時期はよくわからないが永禄7年7月4日に長慶は死去しているので、それ以前の、しかも病に陥ってはいない時期の話だろう。もちろん長慶が少し話を聞いたくらいでカトリックを理解できたとは思われないが、確かに好感を持っていたことがわかると同時に、「言い」や「述べた」のように肉声からの情報を記している点でも貴重な一コマである。