先日発売された『三好一族』は著者天野忠幸氏本人の研究の集大成という側面だけではなく、三好氏にまつわる最新の研究動向をふんだんに取り入れたものとなっている。その一つとして、村井祐樹氏による松永久秀書状の再評価も取り上げられている。問題になっているのは「柳生文書」に入っている松永久秀から石成友通に宛てた書状2通(日付は6月22日と23日で連続している)。その中で久秀は「殿」の病態に触れ、それを深く憂い、生き延びてほしいと述べつつ、亡くなった時の覚悟について友通に相談している。天野忠幸氏はこの書状で話題になっている「殿」を三好義興とし、久秀が義興の病状を深く心配していることから、久秀による義興の毒殺説を否定された。ところが、村井氏は「殿」は三好長慶であり、一次史料ではほとんど窺えない長慶の死の直前の状態を語った文書とする。どちらにせよ、久秀が病状を憂慮しているのは三好氏の当主なので、久秀の下剋上を否定する文書なのは間違いない。
私としては長年(と言っても5年くらいか?)天野氏の説明に馴染んできたこともあって、村井氏の新説には「なるほど!」と「そうか?」が入り混じる気持ちである。そこでこのもやもやに一定の結論を出すべく村井氏の論文を取り寄せてみた。村井祐樹「三好にまつわる諸々事―『戦国遺文 三好氏編』より―」(『東京大学史料編纂所紀要』31、2021年3月)がそれである。ちなみにこの『紀要』はそのうち大学図書館に入ると思ってたので静観していたのだが、11月現在未だ入っていない。何でだろうか。
村井氏の説を最初にまとめておくと以下の通り。
- 書状からは、久秀・友通の共通する「殿」への思いが前提である。また、「殿」は長患いしており周囲はもはや死を覚悟している。その上で死を秘匿する手立てを考えている。
- 書状の日付は6月22日と23日であり、「殿」は6月下旬には重態であった。
- 「醍醐寺文書」において永禄6年(1563)大和晴完や小笠原長時が醍醐寺門跡に宛てた書状によると、6月20日に三好義興は発病したが、26日には回復したようで、7月7日には「本復」したことがわかる。8月に義興は死去するのでこの病気が病死に無関係とは言い切れないが、義興は6月下旬の発病後回復しており、周囲が死を覚悟する状況ではなかった。何より、幕臣が醍醐寺門跡に病状を報じているように、情報が全く秘匿されていない。
- 永禄7年6月22日に三好義継(当時は重存)は上洛して足利義輝に謁見しており、長慶が危篤であったゆえに家督交代アピールを急いでいたと考えられる。
- よって、6月下旬段階で病状が重く回復の見込みが予想されなかったのは義興ではなく長慶がふさわしい。
このように説明されると、確かにこれらの文書は義興の死と言うよりは、長慶の死に対しての言葉と考えるほうが整合的にも見える。しかし、「そうか?」と思えるところもあるので、まずは書状の内容について確認しておきたい。以降、6月22日付の書状を(A)、6月23日付の書状を(B)と呼ぶ(『戦国遺文 三好氏編』では(A)が八九三号、(B)が八九四号にあたる)。また、箇条書になっているので箇条書部分は1条、2条のように数えていくことにする。
なお、村井氏は単に『戦国遺文』を引用するのではなく、影写本や写真版で『戦国遺文』の翻刻を訂正している。その内容は文意が変わってくるほどの訂正である。私は「柳生文書」の原本や影写本を見られていないので、村井氏の訂正が正しいのかどうか判断できない。とりあえず、この記事では村井氏が訂正した部分を「」で示し、その後に『遺文』での翻刻を()で示しておく(「」の後に()がないのは『遺文』では翻刻されていない文字。()のみで示したのは『遺文』にのみ翻刻されている文字。なお「ハ」「ミ」に関しては、村井氏は「は」「み」で統一されているようなので指摘しない)。
(A)
御状令「拝」(披)見候、
(私訳)お手紙を拝見しました。
翻刻が「披」から「拝」に変わったが、文意としては同じである。
(A)1条
一、今暁加減之御「薬」(気)参、今朝おもゆもまいり、御気色も能、孫右ニこ「や」(た)はせられ候由、目出存候、
(私訳)今朝加減のお薬が入り、今朝は重湯も入り、御容態も良く、「孫右」(孫右衛門?)に応答されていること、めでたいことです。
翻刻が「気」から「薬」になり、「こやはせられ」が「こたはせられ」になることで、応答の文意となった。「こたふ」(答ふ)が「こたはせられ」という形になるのかはやや不審だが…。「孫右」は人名だろうが該当する人物は思い当たらなかった。
(A)2条
一、驢庵も「被」(懇)罷下、御脈之様体被申由、さやう「ニ」候はんと存候、
(私訳)半井驢庵も罷り下られて、御脈の様子を申されているということ、そうであろうと存じております。
半井驢庵という当代の名医がわざわざ診察に来るのは当然だと久秀は思っている。今更だが、久秀が三好氏の誰かを毒殺しようとするのなら、こうした名医の目をすり抜けるだけの医療技術が必須であろう。久秀が驢庵顔負けの医療技術を持っているわけがないので、そうした点からも毒殺は否定できる。
(A)3条
一、各無「油」(由)断様ニ御才覚専一候、御精可被入候、惣なみニ御心得候ては不可然候、
(私訳)各自が油断のないように計らうのが大事です。御精を入れられるべきで、総じて通常のお心掛けではいけません。
久秀は三好家中の引き締めを図っている。実は、ここまで誰が病気に伏しているのか、書状中では全く触れられていないのだが、病気であることが非常事態を意味する人物なのは間違いない。
(A)4条
一、大西之儀ニ明日高屋へ御越之由、可然存候、御急肝要候、
(私訳)大西のことについて明日高屋城へお越しになるということ、当然だと思います。お急ぎになることが大事です。
「大西」は阿波西部の国人大西氏であろう。何が懸案なのかは不明だが、高屋城には阿波三好家の重臣たちがおり、大西氏に関する問題で協議を持つにはふさわしい。「御越」と主語なし敬語表現を久秀が用いているので、出向くのは友通なのだろう。
(A)5条
一、可為御取乱候ニ、(被)入御心御懇に示給候、喜悦之至候、恐々謹言、
(私訳)取り乱すのが必至なところ、お心遣いなされ、ねんごろに連絡くださったこと、喜ばしいことです。
村井氏の翻刻では「被」がなくなっているが、入っている方が友通主体の意味は取りやすい。要人の病気で慌ただしかっただろう中でも友通から詳細な連絡があったことに久秀は感謝している。
六月廿二日 久秀(花押)
石主
進之候
(B)
御状令披見候、
(私訳)お手紙を開いて見ました。
どうでもいいことだが、(A)では「披」を「拝」に訂正した村井氏はこちらの「披」はそのままである。文意としてはほぼ同じだが。
(B)1条
一、「道三」(石主)被罷下、御脈之様体被申旨承候、此方へも同前ニ被申越候、「しやくそん・」(先)八幡も生を「御」(ハ)うけ候へは、御死ニ候へ共、御いたはしく、さて〳〵「お」(ほ)しき御事候哉と、気も心もきへいり申様ニ候へとも、さやうニ取乱候ては無念と存、御跡之儀、「然々」(馳走)申候へは、其御いたはしきと存候、覚悟と「を」(成)り申と存、心をもち「定申」(是分)事候、貴所も其御分別専一候、
(私訳)曲直瀬道三が罷り下られ、御脈の様子を申されている内容を承知しました。こちらにも同じように申されております。釈尊も八幡も生まれたからには、必ず死にますが、心が痛くどうにも惜しいことだなあと、気力も胆力も消え入りそうなほどですが、そのように取り乱すのも無念と思い、また後継者のこともあれこれ申しましたが、それも不憫と思っております。覚悟の通りと思い、心を保つことです。あなたもこの分別が大事です。
「石主」(石成友通)が「道三」にダイナミック訂正された。原本を確認していないため、なぜこんなに翻刻に差が出たのかもわからないが、治療にあたっているので「道三」(曲直瀬道三)の方が文意には自然なので、私訳では道三とした。久秀は友通から道三の診察内容について連絡を受ける一方で、「こちらにも同じように言ってきた」と応対している。道三は病状について私的に久秀に連絡したのだろうが、久秀はそれを隠すことなく、むしろ情報共有・深化を図っている。ここからは病状が友通の関与しない形で久秀には漏れていることと、久秀はそれを秘匿する意図は毛頭ないことが窺える。
その次に久秀は人が死ぬのは当然だが、話題の人物の死に対して鎮痛の思いを述べる。それでも心を保つことが大事という趣旨は(A)と同じだが、「御跡」すなわち後継者についての話題も出ている。
(B)2条
一、御「お」(ほ)んみつの段、肝要候、其刻迄い「られ」(かし)候く「す」(も)し衆ニも無御失念きしやうを御かゝせあるへく候、
(私訳)秘密にするということが大事です。その時までいるだろう薬師たちにも抜かりなく起請文を書かせておくべきです。
「くもし」が「くすし」に訂正され文意が通りやすくなった。病状は機密であり、機密保持のために薬師たちに起請文を書かせておけという一節。
(B)3条
一、御「こしやう」(こうや)衆、自然御とも申候はんなとゝの覚悟もあるへく候、御「お」(ほ)んみつと候も、殿之御跡まてのためにて候ニ、只今さやうの事候てハ、可為不忠候、敵出申候時、御用ニ立、打死つかまつるへく候、敵も出不申、世上しつかニ候て、御さうれいなとも候時、「お」(ほ)もひきりたる覚悟見せられ候へは、殿之御為、其身之こゝろさし不可有比類候、能々其心得肝要之由、「お」(ほ)んみつを以「可」(不)被仰候、何と御かくし候ても、さやうの事としめき申候て「□」(ハ)、不可然候、目出可為御長久候へ共、かやうの事申候も、御祈祷にて「候、万ニ御せい」(一力ニ候由以)可被入候、
(私訳)小姓衆にはおのずからお供申しあげたいという覚悟もあることでしょう。秘密にすると言っても、「殿」の後継者のためであるのに、今そのようなことをされては不忠になってしまいます。敵が出てきた時に役に立ち討死するべきです。敵が出てこず、世の中が静かになって、葬儀を行う時に、思い切った覚悟を見せられることで、「殿」のための一身の志は尊いものとなります。よくよくそうした心得が大事であることを、秘密裡に仰せられるべきでしょう。どうやって隠したとしても、そのようなことにしなければ全く良くないことです。めでたくご長寿であったとしても、このようなことを申すのも御祈祷です。何事もきちんとやるべきです。
「こうや」(高野?)が「こしやう」(小姓)に訂正され文意が通りやすくなった。久秀は殉死は不忠であると述べ、戦死してこそ忠誠であるとする。また、ここで病気の人物に「殿」という代名詞が初めて与えられた。しかし「殿」だけでは特定材料に欠く(なお(A)では「殿」すら出てこないが、(A)での病中の人物も便宜的に「殿」と呼ぶ)。ちなみに久秀は世の中が平和になったら葬儀をとするが、「殿」が三好長慶であった場合、三好義継・三人衆は永禄9年の畿内広域和平をもって長慶の葬儀を行うので、久秀のプラン通りということになる。もっともその久秀は直前に三人衆に敗れて没落し、主君の葬儀には出られなかった。
(B)4条
一、高屋へは「細々」(帰候)不及書状、能々可被仰候、真江ニも被申候へと、被仰候て可然候、
(私訳)高屋城では書状ではなく、よくよく仰られるべきです。「真江」にも申されるようにと仰られて当然です。
村井氏は連絡相手の「高屋」を「高屋にいる畠山には書状ではなく、直接話して伝えるように」としているが、永禄3年以来高屋城から畠山高政は没落しているので、連絡相手は高屋城にいる阿波三好家の武将たち(三好康長ら)が正しい。
この箇所はそれぞれの行動を誰が行うのか解釈が難しい。「被申」「仰」は敬意表現なので、久秀から見て主君か、手紙を宛てられている友通が主体として想定できる。もっとも久秀から見て同僚の友通が「仰」の主体になることはないので、「仰」は主君格の人物だろう。病気の人物が義興なら「仰」の主体は長慶、長慶なら義継が主体なのだろうか。「不及書状」→「仰」という文脈もよくわからない。誰かが直接出向いて話すということか。そもそも(A)では友通が高屋城へ行くことになっていたはずだが…。
ちなみに「真江」も該当する人物が思い当たらない。次の条でも活動しており、三好家の中枢にいるのは間違いないのだが…。
(B)5条
一、池・伊事、是又真江被越候て、「以後之」(心得候)様体如何候哉、急度相調候様ニ、御馳走・御「機」(誠)遣専一候、書中も如何申候哉、心中可有御「推量」(披見)候、恐々謹言、
(私訳)池田と伊丹のことはこれもまた「真江」が行った後の様子はどうなっているでしょうか。急いで調停するようにお働きになり、またお心遣いをすることが大事です。書状ではどのように申したら良いか(わかりませんでした)。心中を推し量ってください。
摂津国人の池田氏と伊丹氏は犬猿の仲でこの時も何やら揉めていたらしい。最後の「書中も如何申候哉、心中可有御「推量」(披見)候」はこの揉め事に対する評価かもしれないが、全体的に見て「殿」の病状への心配・覚悟と懸案への心労が重なり「文章では思いを伝えきれているのかわからない」という一種の弱音だろう。
六月廿三日 久秀(花押)
「 (墨引) 松少
石主 進之候 久秀」
以上、ざっと目を通してみた。結局三好氏の当主格で「殿」と呼ばれる人物が病に伏していることが読み取れるが、それ以上は意外とわからない。阿波大西氏の問題や池田氏と伊丹氏の紛争がいつなのかが特定できれば年次比定の大きな材料になるのだが…。
ちなみに『戦国遺文 三好氏編』九九九号「内藤宗勝書状」には「池・伊之儀、大略相済候、互ニ欲徳之事候条、□□を惜、一日々々と相延候へも、中をとり令異見究寄候」(池田と伊丹のことは大方片付きました。お互いに欲張りであったので、(?)を惜しんで一日一日と(判断を下すが?)延びていたのですが、中間を取って意見が定まりました)と見える。この書状は宛所がなく、3月27日の発給である。『戦国遺文』では年次を永禄7年ヵとしているが、一連の経過から(B)の次の年の発給である可能性が高い。宗勝は永禄8年8月に戦死するので、この書状は永禄8年発給の可能性もあり、(B)の年次比定には残念ながら使えない。
(A)と(B)の内容面のギャップ
(A)と(B)は天野氏、村井氏ともに同年の発給とするが、まずはここから考えてみる必要もある。(A)と(B)で同一案件について微妙な異なりが見られるからである。例えば、(A)では実は病中の人物が重篤であるような様子は窺えない。(A)1条では病中の人物が回復傾向にあることをめでたいとしていて、(B)1~3条に見えるような死んだ後の相談、機密保持を徹底するような大事である認識が見えない。(A)では半井驢庵が登場するが、(B)では曲直瀬道三が診察にあたっているのもやや気になる。(A)4条では石成友通が高屋城へ急いで赴くことを述べているのに、(B)4条では書状ではなく「仰」で高屋城へ伝えるようにと趣旨が変わっている。こう見ていくと、(A)と(B)の内容は同じ事を言っているようでそうではない。村井説が指摘する三好義興が6月20日に発病しつつも7月上旬には本復したという事実を踏まえるのであれば、(A)1条はむしろそれに合致する記述であるとも言える。この場合、(A)の年次は永禄6年で義興の病気について、(B)の年次は永禄7年で長慶の病気と死後の相談をしているという解釈も可能になってくる。
ただし、(A)(B)が別の年の発給である決め手もないので、ここからは(A)(B)が同年である仮定を前提として、ギャップについて考えてみたい。(A)(B)ともに久秀が「お手紙を拝見しました」という記述から始まる。ということはどちらも先に石成友通から久秀に連絡があったということになる。(A)→(B)のギャップは、久秀が(A)を出したのと入れ違い、または1日中に友通から返信が到来し、そこで事態の変転を久秀が知ったゆえというところが自然ではないか。
つまり、(A)→(B)の間に友通は「①「殿」の容態は快方に向かうのではなく死を覚悟するものであること、②複数の名医に診察してもらっていること、③友通の高屋城派遣も中止になり書状で代えようとしていること」を久秀に報じたのだろう。これに対して久秀は「①「殿」の死後の心配と機密保持、②道三から連絡があり友通の報告と一致すること、③書状ではなく「仰」で連絡すること」を返した。つまり、「殿」の病気は快方に向かっているという表向きの情報は虚偽であり、実際には死を覚悟する重篤であったこと、そのギャップを久秀本人が味わったことが(A)1条と(B)1~3条から明らかになるのではないだろうか。村井氏が指摘されるように、長慶は永禄7年7月4日に死去するが、その直前の6月22日に嫡子義継は急ぎ上洛、義輝に家督継承を認められるとすぐに飯盛城に帰っており、長慶が重篤という意識は三好氏上層部には共有されていたと考えられる。であれば、こうしたギャップが存在するのは義興の病気に伴うものである蓋然性の方が高い。大和晴完や小笠原長時の報じた義興本復という情報も、情報統制が成功し、虚偽が流されていた可能性もあるだろう(晴完は将軍足利義輝の使者として義興に面会したと思しいので、晴完にも機密保持を飲ませたか、影武者を立てたのかもしれない)。
松永久秀→石成友通の連絡回路とは?
やや先走って(A)(B)ともに義興の死に関する文書と評価しようとしたが、別の目線でも考えたい。村井説では石成友通は飯盛城の三好長慶に近侍しており、そのため病状について個人的に久秀と連絡しているとする。しかし、友通と久秀の連絡は飯盛城の友通と大和の久秀のプライベート会話なのだろうか。これを考えるにはまず、久秀と三好氏当主の連絡・意思疎通ルートを確認する必要がある。
松永久秀は永禄初年までは自身の居城として滝山城を持ち、摂津国下郡一職支配の拠点として越水城に入り、主君長慶とともに芥川城にも居住するという多忙な生活を送った。しかし、主君と芥川城に同居するということもあってか、久秀から長慶へ、あるいは長慶から久秀へ間接的に連絡するような内容の文書は少ない。たまたま史料が残っていないだけという可能性もあるが、そもそも絶対数が少なかったので残らなかったとも言える。
しかし、永禄4年以降河内に飯盛城に長慶が入り、久秀は大和の支配者として多聞城を築き始める。長慶と久秀が去った芥川城は三好義興が城主となった。三好権力の重鎮たちの拠点は分散したため、芥川(義興)、飯盛(長慶)、多聞(久秀)で新たな連絡回路が必要となった。
こうした中、松永久秀は石成友通・寺町通昭、三好長逸・石成友通・寺町通昭連名に文書を発給しはじめる。三好長逸は久秀に並ぶ三好権力の宿老で、義興の大名間取次に用いられる一方、長慶が義興に連絡した際には長逸と義興の側近・奈良長高が宛所となっている。ここでの長逸は義興の宿老と考えて良い。石成友通も長慶とともに芥川城に居住していた側近で、寺町通昭とともに地元の洪水に対処している。要するに宛所の3人は全員芥川城勤めの重臣たちである。
家臣は主君に直接的に手紙を出せない。連絡する時は取次を通すことが必要である。久秀が芥川城勤めの人間に連名で手紙を出しているのは、実質的には主君の義興へ宛てていると解せる(ただし、こういった主君に手紙を出せないので本来同輩の側近に出すことで代える書状には披露を頼む文言が入るのが普通だが、久秀→長逸らの文書に披露文言は見られない)。
ところが、連名の宛所が見られるのは初期のみで、宛所は石成友通のみになってしまう。こうした変化が何に由来するのかはわからない。後述するように久秀→友通の書状は「柳生文書」に多く入っているので、友通個人が柳生氏と何らかの関係があり、それによるものである可能性もある。しかし、基本的には芥川城の側で久秀への取次が友通に一本化されたということではないだろうか。そうであれば、久秀→友通の連絡は個人的なものではなく、松永氏から三好氏の本拠地の一つ・芥川城への公的な連絡ということになる。
それでは、久秀→長慶の連絡回路はどうなっていたのだろうか。久秀から飯盛城へ連絡した史料は管見に触れない。しかし、久秀の子・久通は鳥養貞長と塩田高景、または長松軒淳世単独へ文書を発給したことがある(これらの文書には「取成肝要候」のように直接の宛所の上位者への連絡を頼む一種の披露文言が見える)。鳥養貞長は長慶の年来の奉行人で、塩田高景は譜代の宿老、長松軒淳世も素性ははっきりしないが長慶の動向を把握しその意向を代弁できる側近であった。「飯盛」からの「仰」として貞長・高景が連署奉書を発給していることから、この2人は飯盛城在城であると見て間違いない。三好義継が家督を継ぐと、久通は長松軒淳世に加え、義継の側近である金山長信も宛所の連名に加える。これとは逆に長松軒と金山が連署して久通に宛てた文書もある。以上より、久通から飯盛城への連絡は当初は長慶側近の鳥養貞長と塩田高景に宛てていたものが、やがて長松軒が管轄するようになり、義継が家督を継ぐことで、義継側近の金山長信が加わるというものになっていることがわかる。通常家相手の取次は固定されるので、久秀が飯盛城に連絡する際もこのルートが利用されていたはずである(ちなみに長松軒と金山長信は永禄8年11月の三好三人衆のクーデタにより殺害されるが、取次殺害による松永氏との手切れと見ると得心できる)。
以上、推論を重ねたところもあるが、松永氏が芥川城(義興)へ連絡する時には石成友通が、飯盛城(長慶→義継)に連絡する時には鳥養貞長・塩田高景→長松軒淳世(+金山長信)が取次をしていると言える。つまり、友通は飯盛城の長慶には近侍しておらず、その病状を久秀に報じる立場にはなかった。もちろん友通も長慶のたたき上げの重臣なので、長慶の病状や実際の死亡については知っていたかもしれないが、それを久秀に連絡できる役割にあったのは長松軒や鳥養・塩田であって友通ではなかった。
なぜ文書(A)(B)が「柳生文書」に入っているのか?
文書(A)(B)に関する問題としてはなぜこの文書が「柳生文書」に入っているのかというものもある。「柳生文書」とは読んで字のごとく、柳生氏に伝来した文書群であり、松永氏関係で言うと、柳生氏が松永久秀・久通の部下として受給した感状・知行宛行状なども含まれている。こういった文書は柳生氏が受給者であり、「柳生文書」に含まれていることを理解するのはたやすい。また、中世文書は発給者、受給者によらず、受益者が文書を伝来するという特徴もある。例えば、守護から守護被官へ「〇〇は△△寺の領地であるので押領を停止せよ」という命令が出た場合、受給者は守護被官であっても、この命令文書は守護が確かに〇〇を△△寺の領地を認めた証拠文書として、△△寺に伝来され「△△寺文書」となるのである。
ところが、(A)(B)は柳生氏が受給者ではないのみならず、特に柳生氏が受益するような文言も見えない。婚姻や主家の没落などによって別の家の文書が入り込むこともあるが、石成友通の子孫が柳生氏に仕えたなどといった経緯もない。どのようにして(A)(B)は「柳生文書」に紛れ込んだのか。
この事情については、受給者の石成友通本人が「柳生文書」にて語ってくれている。
- 石成友通書状(部分) 『戦国遺文 三好氏編』九一〇号
今日者度々御懇之儀、令祝着候、御下由承候つる間、重而申入候、仍御存分之儀、具ニ霜台へ申入候処、如此之御返事候間、為御披見則下進候、弥此刻御才覚御馳走肝要候、(以下略)
七月廿八日 友通(花押)
柳新 友通
御宿所
石成友通は柳生宗厳が三好氏に従っていることを喜び、柳生の存分については松永久秀に申し入れており、このような返事があるので見てくださいとしている。つまり、友通はここで久秀→友通の書状を柳生氏へ転送したのであった。実際、「柳生文書」に入っている他の久秀→友通の書状では「柳生が比類ない働きをした」という記述が入っている。友通は柳生氏に対し、柳生氏の活躍を久秀が把握し、三好氏上層部でもその事実が共有されていることをアピールした。この時の転送に(A)と(B)も入ってしまったのだろう。
しかし、こうもあっさりと(A)と(B)が転送されてしまったことからは、「殿」の病状についてもはや伏せる意味がなくなっている状況が看取される。柳生氏は永禄8年10月三好三人衆と松永久秀が決裂寸前という状況下で友通から調略を受けているが、結局松永氏の与党の立場を維持し、友通も属する三人衆とは敵対関係となる。長慶は永禄7年7月に没したが、その死の公表と葬式の実施は永禄9年6月であり、その間の死の秘匿は成功していた(もっとも流石に三人衆と松永が対立し始めた頃からは薄々気付かれていたのではないかと思うが…)。「殿」が長慶であるのなら、その死に関する機密を柳生氏に流出させる意味は薄い(意図的に伝えるとしてもそれならば、友通→柳生氏の文書に何らかの情報統制文言が入るのではないかと思われる)。
ちなみに上記の友通書状は『戦国遺文 三好氏編』では永禄6年に比定されているので、この年次比定が正しければ、友通は義興の死の前に病状を流出させていることになるが、8月8日付の久秀→友通書状(『戦三』九一七)も「柳生文書」に入っており、こちらも永禄6年に比定されている。久秀→友通の書状転送が何度もあったとも考えにくいので、上記の友通書状は永禄7年以降の可能性もあるだろう(具体的には7年か8年しかない)。
まとめ
以上の論旨を改めてまとめておくと、以下の三点。
- (A)(B)はお互いに相反するような内容も含んでおり、同時期のものとは限らない。同時期のものであった場合、(A)→(B)で急遽「殿」の病態の情報が変わり機密保持に転換している
- 松永久秀⇔石成友通の連絡回路は松永氏と芥川城の公的取次ルートである可能性が高く、飯盛城に友通がいるわけではない
- (A)(B)が「柳生文書」に入っているのは石成友通が一部の久秀→友通文書を柳生氏に転送した際に紛れたと推測できる。長慶の病状・死は秘匿されており、長慶の死の公表以前に友通がその内容を柳生氏に流出されるのは考えにくい
つまり、(A)(B)で話題にされる「殿」とは芥川城主であり死後すぐに葬式が行われて死が公表された三好義興を指す、従来の天野説通りの解釈で良いのではなかろうか。
そして、私見によれば村井説は首肯できないということに残念ながらなってしまったが、村井氏が再考されたことによって、文意が改めて通る箇所もあり、諸問題点について改めて考えることが出来た。特に村井氏も述べているように三好長慶の死については一次史料が全く存在しないという状況であり、その実態は謎に包まれている。今後大西氏や池田氏・伊丹氏の対立、「真江」の素性の特定によって、(A)(B)の年次が特定され、長慶の死についての文言である可能性が強くなるかもしれない。三好氏については未だ研究者が多いということもないので、史料の発掘・読み直しは絶えずなされるべきで、そういう意味では非常に啓発的であった。
PS ちなみに村井論文の後半は和泉松浦氏論文になっていてこちらも色々「なるほど!」「そうか?」ポイントがあるのだが、疲れたのでまた今度ね。