志末与志著『怪獣宇宙MONSTER SPACE』

怪獣monsterのコンテンツを中心に興味の赴くままに色々と綴っていくブログです。

三好にまつわる小話集③

monsterspace.hateblo.jp
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三好宗渭の夜中の激痛
  • 『半井古仙法印療治日記』

一、三好下野入道釣閑斎、腎積常ニ有、一両月発テ大痛ヲナス、灸・針・薬種々治スルニ近日験ナリ、然トモ日中ハ不痛、夜半次後必痛ヲ成、諸医治スレトモ終無其験、
 予、診脈スルニ平和之脈也、只昼ハ薬力臓腑ニ有テ、積不動、夜半返昼之薬精ナキ故、暁痛ト心得、日ノ間薬少ススメ、夜ニ入鶏鳴之時分、必両度薬進ム、一両日ニ夜中ノ痛皆無之、病人・傍人奇特之由申候也、
 薬ハ異香散加参木伏、亦散聚湯交用テ本復スル也、
 私ニ云、積ニ不可限、諸病ニ此分別可有、殊痢疾其外夜中ニ観病可為此類也、

 今度は三好宗渭の病気である。「腎積」を患っており、一月前に激痛をが起こった。灸や針、薬などで最近は収まってきたが、日中は痛まなくとも夜中になると必ず痛みがあった。医者たちは治療に当たったが治すことができない。
 私(半井慶友)が脈を診ると、脈は平和であった。ただ昼は薬がよく効いて積は動かないが、夜中を過ぎると昼の薬が効かなくなり、明け方にかけて痛むのだと見た。昼間の薬は少なくして、夕方と明け方の二回にも必ず薬を飲むようにした。すると一両日中に夜中の痛みは全くなくなった。病人(三好宗渭)もそばにいた人もすばらしいと言った。薬は異香散と散聚湯を交互に用いて本復に至った。
 私(半井慶友)が思うに、積に限らず、諸病にはこの分別(いつ薬を投与するのか)があるべきだ。特に痢病や他にも夜中の病気はこの類である。
 ここでいう「積」というのは人体の中で動くことで痛みをもたらす虫のことである(丹羽長秀が最期に痛みに耐えかねて切腹し腹の中から「積虫」を取り出したという話があるが、ここに出てくる「積虫」と同様の存在)。当たり前だがそんな虫は実在しないので、激痛を伴う「腎積」は尿路結石あたりの病気と見られる。灸・針・薬を駆使して何とか痛みを抑えたが、夜中の痛みだけはどうにもならず、半井慶友が薬の投与間隔を調整することで本復させたという。現代だと、薬局で薬をもらう際に細々といつどのようにどれだけ服用するかは説明を受けるものだが、慶友がいちいち武勇伝にしてわざわざ説いているように、戦国時代では薬の服用方法には気を配られていなかったらしいことが窺える。
 それにしても結石を患った宗渭の痛みには同情してしまうが、一方で高い教養を身にしつついい暮らししてたんだなあとも思ってしまう(もちろん結石の原因が不摂生とも限らないが)。 

「輝久」はやめておけ
  • 『言継卿記』永禄6年6月13日条

自清蔵人国賢松永彦六名字切之事、輝久切巧之間、不宜之由返答了、

 松永久秀の嫡子は仮名を彦六、実名は久通として知られる。久通が本格的に活動を開始するのは永禄6年後半からで閏12月には久秀から家督を譲られ、「右衛門佐」に任官することになる。今回取り上げるのは久通が表舞台に立つ直前、清原国賢が山科言継に久通の実名について問い合わせたところ、言継は「輝久というのは良くない」と回答した一件*1。言うまでもなく「輝」の字は将軍足利義輝からの偏諱であろう。久通は後に永禄8年5月の一時期のみ義輝から偏諱を受け「義久」であったことが知られるが、それ以前にも偏諱を受ける構想は存在したことがわかる。だが、言継は「輝久」という実名を退けた。本当に何かしら不吉な実名であったのか、政治的な判断を糊塗した回答だったのかは不明。ちなみに歴史上実在した輝久としては醍醐輝久や小松輝久がいる。

三好長慶と輪島素麵
  • 『天文日記』天文20年12月27日条

三好筑前へ綿〈拾把〉・輪島索麺〈ニ箱〉、塩田へ綿〈三把〉遣之了、

 天文20年末、本願寺の証如は三好長慶に音信として綿とともに輪島素麺2箱を贈っている。同年の10月25日には能登畠山家中からの音信が大量に本願寺に届いているがその中に「輪島索麺二箱」があるので、証如はこれをそっくりそのまま長慶への音信に流用したのだと思われる。戦国時代から輪島素麺は価値のある贈答品だったのだ。長慶がさらに他の勢力への音信として使い回した可能性も否定できないが、とりあえずは三好家中の腹に収まったと考えたいところ。

武士になった川辺
  • 『多聞院日記』永禄10年12月16日条

一、従庄村殿道具可取之由申状来了、中間ノ源八当年数度高名了、二迄首ヲ取了、依之侍ニ成シ名字ヲ川辺新介ト云々、

 戦国時代の日本でも身分制はあったが、身分の変転は意外と流動的で、例えば畿内武将では安見宗房がもともと中間身分だったことが確かめられる。今回紹介する源八も木津の庄村氏の中間だったが、永禄10年に戦功を挙げ首級を二つも取ったため、侍になり川辺新介と名乗っている。この事例からは源八にはもともと名字がなかったであろうこと、中間であっても戦闘には参加していたことなどが窺える。他の地域に残存する首注文を見ると、一戦闘で取れる首級は各人一つが圧倒的に多く、首級を二つも取った源八は武士以上に頑張っていたことは間違いない。
 なお「川辺」と言えば、松永久秀重臣にも河那部秀安がいる(河那部秀安の名字は「川辺」と記されることもあった)。しかしこの河那部、松永重臣クラスにも関わらず出自がよくわからない。あるいは非武士身分からの登用の可能性もあり、そうであれば、松永家中では武士身分への登用に伴って「河那部」=「川辺」名字を付与していたのかもしれない。

*1:ちなみに刊本では「秋永彦六」と翻刻されているが原史料を見たところ「松永彦六」が正しい。そもそも秋永なんて奴いないし…