志末与志著『怪獣宇宙MONSTER SPACE』

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徳川氏の実名に見る「秀吉」の有無

 豊臣政権下において元服した徳川家康の息子は四人いる。次男秀康、三男秀忠、四男忠吉、五男信吉である。家康の長男信康は天正7年(1579)に切腹に追い込まれ、六男忠輝が元服したのは慶長7年(1602)、家康が将軍となる前年である。さて、これら豊臣政権下で元服した四人の実名とそうではない信康、忠輝を比べて見ると、何か気が付くことはないだろうか。それはずばり「秀吉」の有無である。秀康、秀忠には「秀」、忠吉、信吉には「吉」が入っている。この四人の実名が「秀吉」を意識したものであることは間違いないだろう。
 しかし、公式に記録のある秀康、秀忠と違い、忠吉、信吉には秀吉から偏諱を与えられた記録はない。そもそもこの時代の偏諱は実名の上に持っていくのが基本である。織田家の通字は「信」であり、上へもっていく(信秀や信長など)のが基本であるが、秀吉から偏諱を与えられた三法師は織田秀信と名乗り、偏諱である「秀」を上に持ってきている。そういう中、忠吉、信吉は「吉」を下へ持ってきており、偏諱であるとすると法則性からは外れている(ただし、同じく秀吉から偏諱を受けたであろう織田信長の子に織田信秀がいる。これは「秀信」では名前が被ってしまうためであろう*1)。
 だが、忠吉の初名は忠康、信吉の初名は信義であった。下の「吉」は明らかに後付けである。二人の改名時期を見ると、忠吉は文禄元年武蔵国忍10万石を与えられたとき、信吉は天正18年下総国小金3万石を与えられたときに近い。つまり二人が大名に取り立てられたタイミングであった。そこで二人は秀吉におもねるために改名したのではないだろうか(もちろん実父家康の意向が働いてこそであろうが)。秀吉からの偏諱ではなく、自発的な改名であるからこそ偏諱の法則も適用されなかったのではあるまいか(浅野長吉、青木重吉などが類例に挙げられるであろう)。
 さて秀吉と名前のゆかりが深い兄弟四人のその後であるが、二代将軍となった秀忠以外は若死にしてしまう。秀康は慶長12年(1607)34歳で、忠吉は慶長12年(1607)28歳で、信吉は慶長8年(1603)21歳でそれぞれ世を去ったのであった。いずれも江戸幕府成立から大坂の陣の間である。三人の死には個別な理由があり、さほど豊臣家と親しかったわけでもないが、秀吉と由緒のある徳川子息が秀忠以外若死にしたことは徳川・豊臣関係に一抹の影響を与えたとも言えるかもしれない。
 さて、そのような忠吉、信吉の名前であるが、彼らが「吉」の入った実名を名乗ったことは後代に影響をもたらした。江戸幕府を開いた家康は自身の先祖を新田氏とした。江戸幕府成立後に元服した息子に義知(後に義直)、頼将(後に頼宣)、頼房とさも源氏っぽい「義」「頼」が入った名前を付けているのはその意識の表れと言えよう。江戸時代前期の将軍やその弟の実名も先祖の新田氏や家康の子の名前が参考にされることもあったのであろう*2。例えば四代将軍家綱の弟は綱重と名乗ったが、下のは新田氏の祖である新田義からもらったものであろうし、三代将軍家光、四代将軍家綱の「光」「綱」は源氏の大将軍・八幡太郎義家の二人の弟、が意識されていると見たい。そこで注目したいのは五代将軍綱吉である。綱吉の「綱」は兄である四代将軍家綱からの偏諱であろうが、それでは「吉」は…?おそらく、二代将軍秀忠の実弟がまさに忠吉、信吉であったがゆえにそれにあやかった実名なのであろう。結果、綱吉から偏諱「吉」を受けた大名が元禄時代には大量に出現することになった(後に八代将軍となる徳川吉宗もその一人である)。元々は秀吉におもねった改名が将軍の実名にまで入り込み、諸大名に「吉」が偏諱として再生産されたのだ(秀吉は大谷吉継や毛利吉成などに「吉」偏諱として与えた)。江戸幕府は豊臣政権を滅亡させたが、このようなところで「秀吉」が顔を出してしまったのであった。

*1:もっともそのために今度は祖父の信秀と名前が被ってしまった

*2:将軍の実名は適当に決めているのではなく、学者によって縁起の良い字が選ばれていたが、どのような意図があったのか記した記録は残念ながらないため、状況証拠から推察するしかない。将軍の実名を選ぶ際の問題と言えば、次のような事件があった。①室町幕府6代将軍足利義教は当初「義宣」を名乗っていたが「義宣」は「世忍ぶ」に通じるために義教に改名した。②室町幕府12代将軍足利義晴は「義晴」は不吉な名前であるとして反対されたが、細川高国がごり押しして「義晴」に決まった(「義晴」の何が不吉なのかは不明)。③室町幕府15代将軍足利義昭は当初「義秋」を名乗っていたが「秋」の字が不吉として「義昭」に改名した(例によって「秋」の何が不吉なのか不明)。④江戸幕府3代将軍徳川家光は当初「家忠」が名前の候補として提案されたが、平安時代後期の高名な公卿花山院家忠と名前が被るために「家忠」は見送られた。