志末与志著『怪獣宇宙MONSTER SPACE』

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三好長慶の動員兵数はどれくらいなのか?

 昨年三好長逸の記事を完成させた後、Twitterで「三好長逸」の話題を探っていたら、偶然あるやり取りに出くわした。どうも最近ある本が出版されたところ、その著書には三好長慶の動員兵数は数千人程度であるという記述があり、読者と筆者がその件について話し合っていたようだ(と言うほど穏やかでもなかったが…)。その頃は正直「三好氏の動員数が数千レベルなわけないだろ」と漠然と思いつつ、たぶんその著書には三好氏が太閤検地的な動員を成し得なかったことが論証されているのではないかなと予測するに留まった。

 その時はそれで終わり、自分の興味は他に移って行ったが、年が明けて偶然その本を読む機会があった。さてどのようなことが書かれているのか…

三好長慶の本拠地は阿波と讃岐です。今の徳島、香川を戦略的な本拠地として、京都まで船でやって来ます。京都へ来て将軍を支援し京都周辺で大きな力をふるった。だから、岐阜を本拠地として将軍を担いだ信長と三好長慶は、外形的には変わらないと言っている。しかしこれは、軍勢の数を見ると明らかに違います。三好長慶が命をかけて戦っているとき、その軍勢は何千単位なんですね、中核となる兵力はせいぜい約三千でしょう。(略)それに対して信長は、あっという間に「何万」という軍勢を持ってきた。(略)このように編制できる軍隊の数字を採り上げるだけでも、信長と長慶はレベルの異なる存在だということは火を見るより明らかです。(158頁)

えっ(絶句)
 三好クラスタのみならず畿内戦国史を少しでも知っているなら、この論旨には「???」となるのではないだろうか。そもそもこれ論拠が何もないような…*1と言うのも釈迦に説法だが(以前どこかで論証されていたのかもしれない)(政治体制の比較から始まったのに軍事動員力を挙げてレベルが違うとする噛み合わなさも気になる)(長慶の本拠地を阿波と讃岐としてるのも微妙に間違ってると言うか、よく知らない感を醸し出してるな)。
 ただ、これが場末の意見なら「HAHAHA!ナイスジョーク!」と済ませることも可能だが、学者の新書だけに一般的影響力は少なくない。そもそも私の思いも絶対的なものではないし、間違ってる可能性も大いにある。これはちょっとちゃんとした史料に基づいて三好氏の動員兵数を計算せねばなるまい…。

論の前提

 最初から言うのも何であるが、三好氏の正確な動員兵数を知ることは不可能である。三好氏の動員体制を数字として語る同時代文書は管見の限り現存していない。つまり、どのように兵力を募っていたのかはわからず、よって近世の軍制から敷衍して動員を語るのは適正ではない(言うまでもないが、関係史料が現存していないからと言って、システマティックな軍事動員をしていなかったということにはならない。これはちゃんと注意しておきたい)。
 また、軍記類の記述は見栄えするように水増しされていることが多い(もちろんモノにもよるが)。そこで本記事では同時代の日記に見える記述を「信用」することにする。リアルタイムの記録類にはまさにリアルであるゆえにデマなどがそのまま掲載されている場合もあり、伝聞には宣伝要素も含むわけで全てが信頼できるわけではない*2が、それでもわざわざ水増しや過小評価が行われることは考えづらい。軍勢の実際を見て、どれくらいがいるのか把握した可能性もあり、少なくとも同時代にこれだけの軍勢が動いていると思えた証拠にはなるだろう。

『言継卿記』天文14年5月24日条に見る細川晴元の動員兵力

 まずは、三好長慶畿内の権力者となる以前の細川京兆家の動員兵数を見てみよう。細川晴元は敵対する細川氏綱与党を攻撃すべく、宇治に出陣したが、その際の軍構成が『言継卿記』天文14年5月24日条に見える。『言継卿記』による情報をまとめると以下の通りである。

三好長慶 1500 香西元成 500 柳本又二郎 300 池田信正 1500
三宅氏 500 三好宗三 300 伊丹氏 300 多田氏・塩川氏 100
山城国 4000 明石氏・櫛橋氏(播磨) 700 野尻氏(河内) 500 大和国 500
下笠氏・馬淵氏・瀬田氏・山岡氏(近江) 約1万

 単純計算で細川晴元がこの戦いに動員できた兵数は2万700人となる。この数字はどの程度信用できるのか。まず注目すべきは軍勢数の基本単位が100であることだ。100人いるかどうかは視認でも確認可能であり、人数を数えるのも容易である。要するに軍勢数を盛るのも少なくするのもあまり考えられない。さらに見逃してはならないのが、表2段目までの人員は皆摂津に勢力を持っている者たちであり、その動員兵数の合計はちょうど5000になるということだ。すなわち、細川晴元は摂津の動員兵数を5000と決めて、これを摂津の諸勢力に100単位で割り振ったのである。これ自体は晴元の皮算用だが、それが可能であると信じていたことは重要で、実際になされた可能性も高い。山城国人4000も配分が不明であるため、摂津での動員ほど確証はないが、同様に信用しても良いだろう。
 逆に近江国人は「一万計」とあるように、概数なので信用が置けるとは限らない。彼らは広い意味で六角氏の傘下に属する者たちで、この時の六角氏当主・六角定頼は晴元の岳父であった。よって彼らは定頼から晴元への援兵と言い得る存在で、晴元が直接動員したのではない。おそらく、晴元が摂津・山城を中心に1万を動員したので、定頼も同程度を出してほしいというメンツの問題があり、それが「一万計」のような微妙な表現になったのではないか(もっとも近江は富裕な国であるので、本当に1万動員できた可能性も否定されない)。
 ちなみに上記において在地の国人ではなく、細川京兆家の内衆と言えるのは三好氏、香西氏、柳本氏で彼らの兵数を総合すると2600人、摂津国人中では過半をやや超える割合を示す。おそらく山城国人の中における京兆家内衆もこれと同程度存在するのではないか。
 これらを総合すると、この戦いにおける細川晴元の単体での動員兵数は1万を少し超えるくらいで、直轄兵数は4000強であろうと想像できる。細川京兆家は摂津、山城、大和、播磨以外にも丹波や和泉に勢力を持っており、六角氏のような同盟者から援軍を募ることも出来る。よって(本当はもっと色々史料を見た方が正確で良いのだが、当座の前提としては)細川京兆家の動員兵数は形而上では最大で2万程度には達し、京兆家直属の兵数も7000前後になると考えられるのではないだろうか(これには阿波守護である細川讃州家の動員兵数を含まないので澄元流全体で本気を出せばさらに増加するのではあるまいか)。もうこの時点で三好氏の動員兵数が数千レベルというのはあり得ないのではないかと思うが…。

『言継卿記』による三好氏および他勢力の動員兵数

 ということで、まずは『言継卿記』が記す三好氏および他勢力の兵数を確認して行こう。期間は三好長慶細川晴元から追放する天文18年(1549)から足利義昭織田信長が上洛する永禄12年(1568)までの約20年間とする。もちろん、『言継卿記』の年次には抜けもあるし、何より京都近郊の戦いにおける軍勢数しかわからない。ただ、それでも同時代人の「認識」を測るものにはなろう。いちいち書くのも面倒なので、表にしてしまおう。

年次 兵数の記述
天文18年(1549)10月20日 近江の軍勢が大津・坂本に1万ほど渡海した
天文19年(1550)4月4日 大原辻に小泉が関所門番と立てていた2人が細川晴元の部下30人に殺害され、馬が一匹奪われた。香西氏や三好政勝の軍勢が山中に潜んでいるとのことだ
天文19年(1550)4月17日 細川晴元の軍勢が西院小泉城を攻めたが、30人が負傷し、馬廻1名が戦死した
天文19年(1550)閏5月8日 伏見殿が声聞師村を成敗するらしく、伏見・仁和寺方には2000人ほど集まった
天文19年(1550)7月14日 三好軍を見物した。長慶は山崎に残っており、三好長縁(後の長逸)、長虎(後の生長)、十河一存ら、合計1万8000であった。一条から五条に進出し、細川晴元足軽100人と交戦した。長虎の与力1人が鉄砲に撃たれて死んだ
天文19年(1550)8月18日 東山の細川軍が竹田を襲って放火した。細川軍の戦死者は6人で竹田の死者は1人である
天文19年(1550)10月20日 昨日から摂津の軍勢が上洛してきた。禁裏の東から五条まで、十河一存、芥川孫十郎、三好長縁の軍勢200人が打ち回りを行なった。近江の軍勢は2万ほどいたが、六角氏の家臣・永原氏とその他の細川軍計2000が河原に進出し交戦した。両軍ともに負傷者多数で、死者は双方1人であった。
天文19年(1550)11月19日 三好軍、摂津、丹波、河内の軍勢計4万が各所に放火し、交戦した。細川軍は30人ほどが河原に進出した
天文19年(1550)11月20日 三好軍が山科に進出し、大津や松本に放火した。三好軍からは5人の死者が出た
天文20年(1551)2月27日 獅子谷で三好長虎と六角軍が交戦し、4人が戦死した
天文20年(1551)3月2日 三好軍が岩倉、長谷を襲い、放火した。この時は長慶は出陣せず、三好軍は合計2万ほどであった
天文20年(1551)3月4日 三好長慶が伊勢貞孝邸に行った際、従った人数は1000人ほどであった
天文20年(1551)3月16日 長慶襲撃後、今日も北から軍勢が迫ってきたので、南から三好長虎2万ほどの軍勢が駆け付けて撃退した
天文21年(1552)1月28日 将軍足利義輝が上洛なされたので、様子を見物した。最初は伊勢貞孝の内者、蜷川弥三郎の兵50~60、堤三郎兵衛の兵50~60。次に三宝院殿の兵約200、使節が400~500。次に奉公衆・同朋衆10人ちょっと、鷹や馬、御走衆が12人。残りは御供衆大館晴光の兵100人ほど、上野信孝の兵100人ほど、大館治部大輔の兵50人ほど、朽木民部少輔の兵200人余り、細川中務大輔の兵50人ほど、伊勢貞孝の兵500人ほど、縁阿弥の兵50人ほど、高倉永相の兵200人余り。次に御台(慶寿員)の御輿が11丁、次に遊佐勘解由左衛門尉の兵600~700、次に近衛稙家の兵200ほど、次に大覚寺義俊の兵200ほど、などなど。辻堅には丹波の内藤彦七郎、波多野元秀、三好の内衆・野間氏、大和の秋篠氏、柳本氏、和泉の片山氏、摂津の三宅氏が5町ほど控え、人数は数千に及んだ
天文21年(1552)10月20日 伊勢貞孝以下の奉公衆が西辺を打ち回った人数は2000ほどであった
天文21年(1552)10月25日 丹波の争乱が収まらないので、三好長慶が西岡までやって来た。伊勢貞孝も出陣するというので見物した。京都から出た人数は500ほどで、他の軍勢は嵯峨で待機しているということだ
天文21年(1552)11月29日 牢人衆500ほどが今日蓮台野に進出してきたので、奉公衆1000ほどが舟岡山に進出し交戦があった
天文21年(1552)11月28日 細川晴元残党の牢人衆が京都各所を放火し、交戦があった。戦死者は出ず、双方6、7人が負傷した。兵数は3000ほどという
天文22年(1553)閏1月16日 三好方から将軍の警護のために500人ほど上洛してきた
天文22年(1553)2月26日 細川晴元の軍勢が高尾五台山に築城し、鳴滝で三好軍と交戦した。三好軍が大勝し、大将首を4、5人、計20人を討ち取った
天文22年(1553)2月27日 三好軍が1万ほどの軍勢で高尾を攻めた
天文22年(1553)3月27日 嵯峨に三好長慶が参詣した。連れていたのは馬上の者が50~60で、人数は700~800ほどである
天文22年(1553)7月14日 細川晴元の軍勢1000人余りが長坂、舟岡に進出してきたので、奉公衆と河内の安見宗房の軍勢計3000ほどが出陣した
天文22年(1553)7月30日 細川晴元の家臣、内藤彦七らの軍勢3000~4000が西院小泉城を包囲する
天文22年(1553)8月1日 三好長慶、河内、和泉、大和、摂津、紀伊の軍勢2万5000を率いて上洛する。今村慶満が将軍・晴元方に攻めかかり、今村軍は今村源七ら5、6人が戦死し、15、6人が負傷した。軍勢を見物したところ、十河一存と河内・紀伊の軍勢は1万ほどで、大和の軍勢は5000足らずである
永禄元年(1558)5月3日 将軍と細川晴元の軍勢が坂本に移り、堅田へ打払を行なった。坂本へ見物に行った者の伝聞によれば、香西元成の兵が625人、三好政生の兵が315人、粟津の西坊が200人、晴元の兵が200人、使節衆と奉公衆を合わせて2000人余りである
永禄元年(1558)5月19日 三好長慶の軍勢が洛中で打回を行ない、その兵数は1万余りである
永禄元年(1558)6月4日 将軍と細川晴元の軍勢が坂本から如意寺に出張し、その兵数は5000人ほどである。
永禄元年(1558)6月5日 東山に見物に行ったところ、昨日交戦があり、真如堂・吉田・岡崎が放火され、鉄砲での戦死者が3人出たようだ
永禄元年(1558)6月6日 東山に見物に行ったところ、昨日と同様交戦があった。三好長逸と松永宗勝の兵が700人ほどで将軍地蔵山に出向いた
永禄元年(1558)6月7日 今日も見物に行った。三好長逸・池田長正・伊丹親興・松永久秀・松永宗勝ら1万5000の兵が河原に進出した。将軍地蔵山の衆伊勢貞孝・寺町左衛門大夫・松山重治・石成友通ら2000ほどの兵が将軍地蔵山を放火し、東寺に引き揚げた
永禄元年(1558)6月8日 今日も見物に行った。1万7000~8000ほどの軍勢が河原に進出していた。「東衆」(義輝・晴元方)は白川古城と将軍地蔵山に陣取った。三好の軍勢は5000人ほどが吉田山におり、如意寺に残っていた「東衆」の陣屋を放火し、3人を討ち取った
永禄元年(1558)6月9日 如意寺の軍勢は全て引き上がり、将軍は300ほどの軍勢で将軍地蔵山の山上に出張した。「東衆」は河原に進出したところ、白川口まで追い払われ、名のある奉公衆を含め60~70人が戦死した。三好軍は20人ほどが戦死し、50~60人が戦傷を負った。「東衆」の戦傷者は100人あまりである
永禄元年(1558)6月12日 今日も足軽は出なかった。三好軍の足軽100~200が神楽岡まで出た
永禄元年(1558)6月15日 東河原に兵が打ち出、松下ら5000~6000が出て交戦があった
永禄元年(1558)6月17日 河原に足軽が100ほど出たが、城からは一向に出ない
永禄元年(1558)閏6月6日 将軍の足軽の栗生と法華宗徒の少将が河原まで進出したが、4人戦死した
永禄元年(1558)7月16日 東より敵が出たが、三好軍1000~2000が出て撃退した
永禄元年(1558)7月17日 東から敵が出たのを禁中から見物した。三好軍が1000人余り出たため、双方撤退した
永禄元年(1558)7月20日 東から足軽200ほどが河原に出たので、三好軍300ほどが出ると、双方撤退した
永禄元年(1558)7月21日 東から足軽300ほどが河原に出たので、三好軍200~300が出ると、双方撤退した
永禄元年(1558)7月24日 将軍地蔵山に籠っていた軍が山科花山郷・四手野井城周辺を邦かしたため、三好軍5000~6000が粟田口から如意ヶ岳、将軍地蔵山の麓にまで進出した。池田長正の部下が首を2つ取ったという
永禄6年(1563)3月22日 細川藤賢を大将として、三好軍2000が打ち回りを行ない、すい坂に放火した
永禄7年(1564)6月23日 三好重存(後の義継)、三好長逸、松永久通、斎藤右衛門大夫が(足利義輝に)出仕するのを見物した。細川藤賢も出仕していたというが、それは見物しなかった。合計4000人ほどであった
永禄8年(1565)5月19日 松永久通など三好軍計1万ほどが将軍御所を襲撃した、将軍を始め多くの奉公衆が戦死した。三好・松永軍にも死傷者が数十人出た
永禄9年(1566)2月18日 昨日河内で戦争があり、安見父子が戦死し(これは後日誤報とわかった)、敗北したという。三好軍が勝利し、牢人衆は500ほど、三好方は200ほど戦死した
永禄9年(1566)8月4日 昨夜、近江衆が矢島にいるとして、三好方3000人が夜襲をかけに坂本に出向いたが、計略によって30人ほどが討ち取られた
永禄10年(1567)2月17日 三好方の池田勝正が昨日破られ、三好義継、康長、安見らが小野へ進出した。三好長逸三好宗渭、石成友通は堺にいるが、松永久秀方が蜂起したようだ。池田の内衆75人が打ち破られた
永禄10年(1567)5月15日 池田勝正、篠原長房らが大和に陣立てし、その数は8000ほどである。三好宗渭以下は東大寺大仏殿、高畠らに陣取り、その数は1万2000ほどである。三好義継、松永久秀、久通は多聞山城、興福寺東大寺戒壇を確保し、その数は5000ほどである
永禄10年(1567)7月27日 松永久秀方の柳本氏、波多野氏、赤井氏の軍勢4000ほどが西岡に進出し、西岡衆と合戦となって、双方4、5人が戦死した
永禄10年(1567)8月5日 根来寺の衆が松永久秀方だとして、和泉に8000人進出した
永禄10年(1567)10月7日 安芸から奉公衆、女房衆、人形武者らが上洛し、武家の跡地の真如堂で風流を行なった。その数は600人ほどである
永禄10年(1567)10月11日 昨夜東大寺大仏殿が炎上し、鑓中村ら数十人が戦死した
永禄10年(1567)10月20日 奉公衆三淵晴英が炭山に進出してきたので、三好生長を大将として、播磨衆、西岡衆、小泉氏、山本氏らが迎え撃ち、三淵は敗北、戦死し、首を36取られたという
永禄11年(1568)6月26日 山中蔵人が大和に陣立てすべく、河内国三屋に350人ほどで陣取ったところ、松永久通が自身で300、搦め手からは700の計1000ほどで戦い、山中以下悉くを討ち取ったが、50人ほど取り逃したということだ

 疲れたもうこれで終わりで良くない?
 以上から、各勢力の動員兵数をざっと測ってみよう。まず、幕府の動員兵力から確認しよう。
 幕府の動員兵力を語る際に大きな手掛かりを示すのは天文21年1月28日条である。ざっくりと御供衆クラスの奉公衆や昵懇の大身公家は50~200人ほどを率いている。彼らの動員可能兵数のレベルが知られる。また、政所執事伊勢氏の兵数は単体でも500人に達し、御供衆や公家単体よりも多い。蜷川氏など、伊勢氏の被官が別に50~60を率いているので、伊勢氏全体の動員数は1000人弱くらいではないか。こうした幕臣・公家たちを将軍が束ねることで、その総兵数は3000~4000に達すると思われる。だが、伊勢氏は将軍の軍勢に必ずしも参加するわけでもないし、奉公衆や公家にも将軍から離反する者もいたから、三好氏と戦う際に足利義輝が動員できたのは2000~3000となるのであろう(もちろん将軍が他勢力と提携したり、朽木氏などの在地武士を動員することで増加することはあり得る)。
 次に没落した細川晴元の兵数であるが、永禄元年(1558)5月3日条によると、香西氏が600人強、三好政生が300人強に対し、彼らの主君晴元は200人といかにも心もとない。晴元軍は総数合わせても1000人強しか動員できなかった。無論こちらも丹波の反三好勢力を糾合すれば、動員力は増大するだろうが、それでも復権を目指すには厳しすぎる数字と言えよう。
 対して、三好氏は天文19年7月14日条では1万8000、11月19日条では4万、天文20年3月16日条では2万、天文22年8月1日条では2万5000、永禄元年6月8日条では計2万2000と、万を超える大軍を動員している。天文19年の4万は「河内」が含まれ、天文22年の2万5000は河内・紀伊衆が1万、大和衆が5000とされるので、畠山氏からの援軍込みの人数であることに留意する必要がある(畠山氏の動員力が万クラスであることもわかる)が、それでも三好氏単独での動員兵数は万を超える。こうした点から見ると、足利義輝細川晴元が他勢力の介入なしに三好長慶を軍事的に打倒するのはかなり難しいものであったと言える。こうした動員実態は長慶死後も維持されたと見られ、永禄10年5月15日条の三好三人衆松永久秀の兵力合計が2万強であることからも認められるだろう。
 一方で三好氏当主の直轄軍らしいものの規模は不明確である。天文20年3月4日条や天文22年3月27日条によれば、遊興に赴く長慶に1000人弱がしたがっているので、彼らがいわゆる馬廻にあたるのかもしれない。
 よって、三好長慶の動員力が数千レベルとは言えない。三好氏の動員力は万クラスであったため、他の動員力が劣る勢力を圧倒し、畿内を制覇したのである。ただし、『言継卿記』によれば…であるので、他の史料も確認していこう。

『多聞院日記』による三好氏および他勢力の動員兵数

 『言継卿記』同様に軍勢数の記述がある箇所を表示する。

年次 兵数の記述
天文19年(1550)6月11日 筒井が「河州衆」と共謀し、計2万5000ほどで万歳郷を悉く放火した
永禄8年(1565)10月19日 竹内秀勝が京都を窺っていた白川の牢人衆を追い、牢人衆300ほどは戦死した
永禄8年(1565)10月24日 竹内秀勝が釜口に出陣し、合戦して安見右近の配下5人が戦死した
永禄8年(1565)11月16日 昨夜、三好長逸、宗渭、石成友通ら三人衆が1000人ほどで飯盛山城へ入り、長松軒淳世と金山駿河守を殺害した上で三好義継に松永久秀との断交を迫った
永禄8年(1565)12月19日 筒井から中坊駿河守を大将として2000ほど、河内・山城から2000ほどが相楽に陣取った
永禄8年(1565)12月21日 河内から三好三人衆の兵3000余りが乾脇まで進出してきた
永禄9年(1566)2月4日 多聞山城から兵が出て筒井氏の兵20余りを討ち取った
永禄9年(1566)2月17日 河内にて三人衆と畠山高政が合戦し、三人衆が勝利して、数百人が戦死した。18日に高屋城で行われた首実検が行われた首級は463あり、全部で1000人ほど討ち取った
永禄9年(1566)4月4日 河内から三人衆が5000ほどの兵で鳥見庄まで進出した
永禄9年(1566)4月10日 三人衆の兵4000人ほどが来たということで、奈良中は大きな騒ぎになっている
永禄9年(1566)4月11日 三人衆と筒井の兵が五本松まで来ている。その兵数は6000~7000に達するともいう
永禄9年(1566)6月1日 大安寺南大門前で郡山衆と多聞山衆が戦闘し、郡山方は河嶋・西堀・多聞孫太郎ら4、5人が、多聞山方も4、5人が戦死した
永禄9年(1566)9月25日 筒井藤政(順慶)が計5000ほどで上洛した
永禄10年(1567)4月18日 三人衆の兵1万余りが奈良近辺に陣取った
永禄10年(1567)5月2日 石成友通と池田勝正らの兵1万ほどが東大寺に陣取った
永禄10年(1567)5月10日 池田勝正と三好康長が番替として4000~5000の兵で来た
永禄10年(1567)5月17日 池田勝正は今日西方寺に陣取り、三好宗渭は天満山から西の坂に陣取り、以上の7000~8000が西へ移った
永禄10年(1567)8月16日 松浦孫五郎と松山彦十郎が計200人ほどで松永久秀から三好三人衆に寝返る
永禄10年(1567)8月26日 石成友通、三好為三、中村新兵衛が2000人ほどを率いて河内へ移動
永禄10年(1567)8月30日 根来寺が2000人ほどで挙兵したという
永禄10年(1567)9月3日 別所安治の兵1000人ほどが番替のため大坂に来た
永禄10年(1567)9月10日 今朝多聞寺内衆が城戸まで進出し、安見右近が負傷した。井戸衆が出向き、5、6人が負傷した
永禄10年(1567)9月22日 多聞山城から飯盛山城に500人ほどが派遣された
永禄10年(1567)10月10日 大仏殿に陣取っていた軍は敗北し、ヤリ中村(中村新兵衛)が戦死、200~300人が斬死、焼死した
永禄10年(1567)10月20日 山城国黒山まで三淵藤英、香西氏ら宇治田原衆が進出したので、三好生長が迎え撃ち、100余りが戦死して、公方衆は多くが果てたという
永禄11年(1568)4月1日 昨日超昇寺氏が西陣に人数250ほどで礼に出、筒井には出なかったという
永禄11年(1568)5月19日 山城で篠原長房と三好宗渭の兵1万5000ほどが打廻を行なった
永禄11年(1568)6月23日 摂津国の三人衆方に甲賀衆300ほどが進出したが戦死したという
永禄11年(1568)9月2日 三好康長の兵3000余りが西京あたりに進出した
永禄11年(1568)9月13日 三好宗渭と香西氏が3000ほどで木津城に入城した
永禄11年(1568)9月23日 今日細川藤孝和田惟政が近江で寝返った国人らを引き連れ、1万余りで上洛する
永禄11年(1568)9月27日 西岡勝竜寺城に石成友通を大将として500余りが立て篭もったが、悉く戦死したという。いや知らんけど(デマでした)
永禄11年(1568)10月10日 細川藤孝和田惟政佐久間信盛2万ほどの兵が唐招提寺まで進出した

 『多聞院日記』は奈良の僧の日記で基本的に奈良本意目線な上、三好長慶の時期の軍勢規模については記述がなかった。よって、得られる情報としては松永久秀三好三人衆の闘争の中で、奈良に派兵してきた三人衆の軍勢の規模のものが多い。三人衆軍の規模と言うが、三人衆の部将毎の兵数記述が多いため、三人衆の総力なのか、その武将が率いることが可能な兵力なのかはわからない。ただ、基本的に三人衆方の率いる兵力は2000、4000~5000、7000など千単位が基本で、合計すれば1万は優に超えるものだろうと思われる。
 直接関係ないが、1万弱規模で奈良にちょっかいをかけてくる三人衆に対し、その後奈良を制圧すべく侵入した細川・和田・佐久間の幕府軍は2万とされ、明らかに三人衆の動員力を上回るという有意を感じないでもない。ただ、相手の規模を上回る派兵を行うのは当然の軍事判断である。松永久秀の軍事規模は『多聞院日記』にはあまり記述がないが、『言継卿記』が言うように5000であるのなら、三人衆は1万程度の派遣で充分であり、「限界」を見るかには考える余地がある。

『細川両家記』による三好氏および他勢力の動員兵数

 『細川両家記』は元亀4年(1573)に三好氏家臣・生島宗竹が回顧的に畿内戦国史を語ったとされるもの。本当にそうなのかはわからないが、とりあえず後代の軍記よりは信憑性が高い記述が多いとされる。以下、兵数記述表示。

年次 兵数の記述
天文18年(1549)3月1日 三好軍が中島城を攻めたところ、柴島城から細川晴賢、三好宗三が出て合戦となった。宗三方が敗北し、三好加介、河原林又兵衛ら16人が戦死、長慶方は河合孫七郎一人が戦死した
天文18年(1549)5月2日 総持寺西河原に香西元成が進出し、芥川孫十郎・三好長縁と合戦となった。香西方が負けて21人が戦死した
天文18年(1549)6月24日 三好長慶と三好宗三が合戦し、天竺弥六、宗三、高畠甚九郎、平井新左衛門、田井源介、波々伯部、豊田弾正その他800人が戦死した
天文21年(1552)10月20日 丹波桑田郡で晴元牢人衆と内藤国貞が合戦し、国貞が敗北して10人が討ち取られた
天文22年(1553)3月16日 晴元衆が山城国畑に進出し、三好軍が迎撃して、首13を討ち取った
永禄元年(1558)6月9日 三好軍と足利義輝との間に合戦があり、三好軍が勝って首53を取った
永禄元年(1558)7月25日 三好康長が阿波勢の先陣として1000を率いて渡海した
永禄2年(1559)5月29日 十河一存根来寺が戦い、十河方が負けて10人戦死した
永禄2年(1559)6月26日 三好長慶が摂津上下の国人、松永宗勝率いる丹波衆、播磨の別所氏、明石氏、衣笠氏、真島氏、有馬氏を糾合した2万の軍勢で河内を攻めた
永禄2年(1559)7月22日 安見方の遊佐三郎左衛門と池田長正が合戦したが、池田が勝ち、三郎左衛門を始め21を討ち取った
永禄3年(1560)7月3日 三好軍が河内に侵入し、玉櫛に畠山氏が立て篭もったが、これを破って首を30ほど取った
永禄3年(1560)7月24日 松永久秀大和国井上城を攻めたところ、筒井順慶が援軍を出してきたが、筒井は敗れ22人が三好軍に首を取られた
永禄3年(1560)8月6日 三好軍が石川郡に進出したところ、一揆と遭遇したので、これを破って首を80ほど取った。この時木沢大和守が三好軍に協力した
永禄3年(1560)8月14日 飯盛山城より安見宗房の軍勢が出て来て、堀溝で合戦があったが、安見方は敗北し50人ほどが戦死した
永禄3年(1560)10月8日 畠山氏と共謀して、香西氏、山中氏、木沢新太郎が山城国杉山口に進出してきたが、三好軍はこれを破り、木沢新太郎を始め首53を取った
永禄3年(1560)10月15日 根来寺が畠山氏に協力して三好軍と戦ったが、敗北して89人が戦死した
永禄4年(1561)7月20日 六角承禎が晴元の次男を立て、牢人衆を糾合した2万の軍勢で将軍地蔵山に陣取った
永禄5年(1562)3月5日 久米田で三好実休畠山高政の軍勢が激突し、実休以下200人が戦死した
永禄5年(1562)5月20日 教興寺で三好軍と畠山軍が戦い、三好軍が勝って600人余りが討ち取られた
永禄9年(1566)2月11日 畠山高政和泉国衆、根来寺松永久秀と結び、7000人余りで堺の南に進出した
永禄9年(1566)2月12日 松永方の滝山城を安宅神太郎が攻略し、首11を討ち取った
永禄9年(1566)2月17日 三好義継が1万3000ほどを率いて畠山軍と上芝で合戦、勝利し306の首を取った。306の内訳は三好義継44、長逸7、石成友通14、斎藤右衛門大夫1、加地久勝7、牟岐動右衛門4、奈良弥六7、三木半大夫2、金山駿河守3、吉成信長6、中村新兵衛17、十河存保4、三好宗渭23、三好康長(阿波衆)167
永禄9年(1566)5月19日 松永久秀が滝山衆、越水衆、伊丹氏、松山彦十郎を糾合した6000余りの兵で堺に渡海した
永禄9年(1566)5月30日 松永久秀を攻めるべく、三好義継が長逸、康長、宗渭、石成友通、盛政、生長、帯刀左衛門、加地久勝、塩田氏、篠原長秀、加地盛時、矢野虎村、吉成信長、松山守勝、中村新兵衛、淡路衆、摂津衆、特に池田勝正を糾合した1万5000ほどで堺を包囲した
永禄9年(1566)6月11日 四国勢の先陣として篠原長房が2万5000を率いて兵庫に渡海した
永禄9年(1566)6月23日 篠原長房が越水城を包囲し、その軍勢は2万5000ほどという
永禄11年(1568)9月30日 織田信長の軍勢5万ほどが池田城を包囲し、14人が戦死して数百人が負傷した
永禄11年(1568)11月 織田信長松永久秀への援軍として2万ほどを大和に派遣した

 永禄2年(1559)に三好長慶が河内・大和を攻めた際の軍勢が2万とされるので、畠山氏抜き・畿内勢でそれくらいの人数を集められることはこれまで見てきた数字から大きく外れることはない。他にも色々と気になる数字があるが、後の『永禄九年記』の数字と合わせて考察する。
 『細川両家記』の数字で注目したいのは永禄9年2月17日の三好氏と畠山氏の戦いで三好氏が取った首の実数が軍勢毎に表記されている点である。首を取った数が軍勢数に比例するとは限らないが、半分強を阿波衆が取っていることから、この戦いにおける阿波三好家の比重と戦意の高さが知られる。なお、この時篠原長房は渡海していないので、ここでいう阿波衆は高屋城に詰めていた畿内の軍勢のことである。それはともかくとして、義継直属の兵が44と阿波衆を除いた中では最も首を取っている。こうしたことから、義継の直轄兵数がこの三好軍の中では多かったことが推測される。
 なお、あまり触れていないが『細川両家記』における織田信長の兵数というのは3万、5万、10万と明らかに三好氏(および他勢力)を数で上回っている。『両家記』の作者がどこでこの数字を見聞したのかは明らかではないが、織田信長が数字を宣伝戦略に使用していたことが窺える。一方で信長は伊勢攻略に10万を動員しつつも北畠氏に敗北し、野田・福島に6万を動員しつつも敗北したと記されている。想像であるが、信長の動員数というのは喧伝されつつもそこまで信じられていなかったのではないだろうか。大きな数字を記しつつもその結果を敗北とする筆致からはある種茶化している部分があるのかもしれない。

『永禄九年記』による三好氏および他勢力の動員兵数

 『永禄九年記』はどこかの坊さんが永禄9年(1566)につけていた記録。以下表示。

年次 兵数の記述
2月4日 大和で合戦があった。両陣営ともに死者多数で多聞山城には首が20、飯盛山城には首が6届けられた
二月十七日 根来寺2000人と畠山高政、遊佐、丹下、安見ら6000人、計8000人で堺を攻めようとしている。堺を守る三人衆の兵数は4000人である
二月十八日 三好三人衆と根来・畠山で合戦があり、三好が勝った。根来・畠山の死者は800人ほどである
二月二十二日 南方で合戦があり、根来・畠山方には800、三好三人衆方には100の死者が出た
五月二十五日 松永久秀が河内牢人5000~6000を糾合し、高屋城を攻めた。城内には同志がいたが、金山をはじめ30人が死んだ。調略とは違っていたので、久秀方はさんざんであった
5月30日 松永久秀の軍勢は河内牢人を含めて6000ほど、三好三人衆の軍勢は1万4000~5000、堺で戦いになろうかというところ、松永方は退去した
六月九日 伊丹氏、塩川氏、「中島」(細川藤賢?中島氏?)計3000の軍勢が池田を攻め、池田からは300人ほどが打って出て、伊丹氏家臣を2人、塩川氏家臣を12人討ち取った
六月十三日 篠原長房、1万5000を率いて兵庫に上陸

 『永禄九年記』はその題名通り、永禄9年の一時期しか記録がないが、兵数などは『細川両家記』が記すものとあまり変わらないことがわかる。ただし、篠原長房が率いて渡海した四国勢が『両家記』では2万5000だったのに、『永禄九年記』では1万5000となっている。どちらかが字を誤った可能性はあるが、『永禄九年記』の1万5000の方が実数に近そうである。
 永禄9年(1566)の戦いの流れを見ると、2月に畠山高政が自身の内衆や根来寺を動員し集めた兵数が7000(『両家記』)か8000(『永禄九年記』)。これに対し三好氏が動員したのは1万3000(『両家記』)で、17日の戦いでの戦死者は畠山氏が500人、三好氏が200人とするのが『言継卿記』、首実検されたのが463、総死者数が1000人なのが『多聞院日記』、306の首を記すのが『両家記』、畠山氏の死者800人とするのが『永禄九年記』ということになる。何と言うかだいたいの数字はわかるが、微妙なズレが見える。
 5月の松永久秀三好三人衆となると、久秀の兵数は6000(『両家記』)、5000~6000(『永禄九年記』)、三人衆の兵数は1万5000(『両家記』)、1万4000~5000(『永禄九年記』)となる。だいたい同数と言えよう。
 こうしたことから、各勢力の動員数を語る数字にも真実性は高くなっていく。

宣教師による三好氏および他勢力の動員兵数

 永禄年間より、キリスト教の宣教師が畿内にも訪れ、畿内情勢を発信するようになった。彼らの報告は三好政権末期にあたるもので、あまり史料としては豊富ではないが、一応見ておくことにする。

依拠史料 概要
1562年ヴィレラ書簡 都は4万人の軍勢で包囲された。都の執政官(三好義興)は都を放棄した後、2万人を集め、飯盛山城を包囲していた3万人の軍を打ち破った。都の包囲軍に加わった仏僧は高野山の僧院の者で、その数は2万人である
1565年フロイス書簡 三好殿は1万2000人を率いて上洛した。細川藤賢(?)は警戒のため800人の兵士を集めた

 1562年書簡は教興寺の戦いを端的に触れている。都を包囲した六角軍が4万というのは多すぎる感がある(『両家記』では2万)が、あるいは同盟していた畠山氏の軍勢を足しているのだろうか(「高野山の僧院の者」(根来寺?)が都の包囲軍に参加していることになっているし)。何にせよ、三好・六角・畠山の勢力がデフォで万単位を動かしていることがわかる。
 1565年書簡は永禄の変を知らせる。1万2000という数は『言継卿記』の1万と近いもので、足利義輝が大軍動員にビビっていることからも、1万という認識の共通性がわかる。

阿波三好家の動員兵力

 なお、阿波三好家の動員兵数については、若松和三郎氏が『戦国三好氏と篠原長房 (中世武士選書)』第12章において、検討されている。以下に若松氏の論旨を述べる。『阿府志』巻18後奈良院によれば、阿波細川氏の動員数は2000とする(ただし、若松氏はこの数には兵糧運送部隊や兵長の家臣が含まれていないことを指摘されている)。また、『阿州三好記大分前書』・『三好大状記』によって、阿波三好家に仕える大名・小名の家臣数を概ね7000人とする(若松氏はこの7000人の下にさらに陪臣がいることも想定している)。
 阿波三好家の畿内への動員兵数はばらつきがあり、記録類や時と場合によって5000~2万5000と幅がある。しかし、阿波三好家が阿波以外にも讃岐・伊予東部・淡路南部にも勢力があること、危急の時にはさらなる動員をするであろうこと、全兵力を畿内に差し向けるのではなく四国にも治安維持の兵を保つことなどを考え合わせると、最低でも1万を畿内に送り込めたと考えるのは不自然ではないと思われる。
 なお、阿波三好家の動員兵力の一端が見える史料としては、天正5年(1577)讃岐進出を図る毛利氏と讃岐国人が戦った(元吉城の戦い)際、毛利氏の部将である乃美宗勝が敵勢を「国衆長尾・羽床・安富・香西・田村・三好安芸守三千程」と記したものがある。讃岐勢の兵力を測る一つの目安となるだろう。

当座の結論:三好長慶の動員兵力とは

 以上色々と見て来たが、とりあえず三好氏の動員力が数千レベルということは否定できたのではないかと思われる。柄にもなくムキになってしまった気がするが、これまで見た史料から各勢力の動員数の概数をまとめると次のようになるだろうか。

  • 三好本宗家(長慶・義継初期)…畠山氏の協力込みだと2万を超える軍勢を動員していたが、畠山氏抜きでも2万弱くらいは動員できる。河内・大和領有後は単体でも2万を超える勢力を動員可能となったと思われる。永禄の変での動員を見ると、当主の意向で動かせる軍勢は1万ほどは優にあったようだ。前提とした細川京兆家の動員力からは支配領域が増加した以上には動員体制に変化はなさそうである。
  • 阿波三好家…実休時代の援軍数はよくわからないが、若松氏の計算や篠原長房の渡海兵数が最低でも1万5000と記されることからすると、1万くらいは持って来れたと考えられる。三人衆対松永久秀の内紛期には河内南部を支配していたため、その兵数を含めるとさらに多くなる。
  • 三好三人衆松永久秀…三人衆の兵数はだいたい数千~1万台で、久秀の軍勢数は5000~6000。両者ともに三好本宗家に属する勢力と考えると、足すと2万強になるので整合性はある。
  • 畠山氏…実数は不明だが、畠山氏込みの三好氏の軍勢が4万に達していたり、教興寺の戦い直前の押せ押せムード兵数が3万だったりするので、1~3万くらいの動員数はあったのではないか。畠山氏の軍事基盤は紀伊にあるが、紀伊の勢力を糾合できるのかどうかは様々な条件に左右されるため、万単位で幅が出るのだろう。もっとも河内・大和を失陥した後は根来寺の援軍込みでも7000~8000しか動員できていない。領国を失陥しても1万弱は動かせる点を誉めるべきかどうかはわからない。全盛期から引いた数である1万~2万は三好氏に属するようになったと思われる。
  • 六角氏…今回の調査では実数はよくわからなかった。ただ、細川晴元援軍に1万を出していたり、六角氏から幕府に寝返った近江国人たちが1万とされていたり、都の包囲に4万を出していたりと、その勢力はかなり大きいものと見られていたことがわかる。流石近江を押さえているだけのことはある。
  • 室町幕府…ほぼほぼ『言継卿記』の項で述べたことから再考が入っていないが、動員数は数千レベルである。与党勢力を募らなければ敵対勢力を軍事的に打倒するのは厳しいと言わざるを得ない。
  • 国衆たち…単独での動員数は数百レベル。ただ、別所氏や池田氏、安見氏といった大身となると数千レベルとなる。たいていは連合を組んで動員数の桁を上げている。彼らを糾合することで三好氏、畠山氏、六角氏の動員数は万単位となっていく。

 よって、三好長慶の動員兵数とは、細川京兆家支配地域2万弱+新たに征服した畠山氏支配地域1万強+阿波三好家の援軍1万強=4万くらいだろう。他勢力の動員兵数と比べると、阿波三好家1万が効いてくる数字である。これは前代の細川京兆家も同じで四国勢が来るかどうかで兵数としてはかなり有意な差が出るのであり、四国勢が「切り札」であることが窺えよう*3
 また、三好氏の動員は基本的に前代の細川京兆家を踏襲するもので、隣国の畠山氏、六角氏とも基本的に差はなかったと考えられる。こうした動員システムが、織田信長豊臣秀吉の下でいかに改変され、その軍事動員が増減したかどうかは調査していないので確たることは言えない(ただし、太閤検地石高による軍事動員システムで既存の軍事動員よりも動員数が有意に増大したということはなかっただろうと今のところは考えている)。ただ、織田信長あるいは戦国大名権力による「革新性」を重視し、それ以前の勢力を「守旧的」と貶める見方は成り立たないと、ささやかながら言えるのではないだろうか。
 小文を認めてしまったが、織田信長ですらその軍事システムは未だ謎に包まれており*4、本記事で述べた三好氏、畠山氏、六角氏などは尚更である。既存史料の読み直しや新出史料によって、その軍事体制の解明が進むことによって、画期が存在したのかどうかもより明らかになっていくことであろう。
 現在は軍事の日本史を総括するのではなく、考え直す時期にあると言え、再評価が進むことを期待したい。

*1:これはただの難癖だが、織田信長が命をかけて戦った場面と言うと稲生の戦いで率いた数百、本圀寺の変に駆け付けた10騎、天王寺の戦いの3000、本能寺の変の100足らずなどが思い出され、当たり前だが命を賭けるような局面での兵数は少ないものである

*2:『厳助往年記』によれば桂川原の戦いでは細川高国軍6万対波多野・柳本・三好連合軍4000という兵数を伝えるが、勝利したのが後者であることを踏まえると、高国軍の兵数は明らかに過大である

*3:本記事では特に触れなかったが、四国勢が畿内に来るには渡海する必要がある。船の手筈や武具・兵糧の調達などが必須であり、その動員はシステム化されていたと考えるのが自然ではないか

*4:近年は織田信長による「軍事革新」は否定的に見られることが多いが、なぜかと言えば結局依拠史料に欠けるからである